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書評・紹介:ジグムント・バウマン著(澤田眞治他訳)「グローバリゼーション ‐人間への影響」法政大学出版局、2010

 原著は1998年、現代グローバリゼーションが本格化したのは、国際間の資本移動が完全に自由になった時(水野和夫による)とすれば1995年であるから、その直後の包括的な論評であり、その慧眼に驚かされる。著者は現代社会の流動性と新たな貧困に対する研究で有名な社会学者。本書はグローバリゼーションが現代社会を生きる人間にどのような影響を与えるのかを政治・社会・文化の面から考察した報告書の体裁をとっており、あくまで分析であり、対処や提言はいっさいない。それだけに乾いた文体で淡々とグローバリゼーションが人間生活に及ぼすであろう影響を考察して迫力があり、何よりも原著の発刊から15年以上経った現在を的確に予言している。

 著者は現代のグローバリゼーションを時間/空間の極限までの圧縮が本質とみており、それはいわば「歴史の終わり・地理の終わり」を意味する。その圧縮の結果、時間と空間の利用が差別化され、世界が二極化する。それはその圧縮された時空を自由に行き来するグローバルな階層と、特定の空間に閉じ込められ空虚な時間をもてあますローカルな階層に分極していく。グローバル化のあるところローカル化が必ず存在することになる。現在流行語になっている「ノマド」は、このグローバル階層のあり方を安易に一般化してしまい、ローカルに閉じ込められた地球上の大部分の人間のことを忘れさせる。(グローカリゼーションという言葉があたかも両者を和解させる魅力的な言葉のように流布されているが、本来この言葉の意味は、グローバル化とローカル化の二極化が常に表裏となって世界を二極化していくことに注目した批判的用語であった。) グローバル化する世界にといってローカルであることは社会的な剥奪と退行のしるしであり、ローカルに閉じ込められた大多数にとって、グローバル階層がルールを決める公共空間は彼らの地域生活の手の届かないところに行ってしまい、ローカルな地域は意味を創出して折衝するという社会の能力を失う。

 グローバル階層は新たな不在地主制となり、非身体的な金融権力によって世界を支配する。その力によって、従来の地域に根づいた政治的文化的権力からその権力を剥奪し、その結果、各国政府の政策決定能力が無力化する。 グローバル化された新しい資本階級は、従来の権力に課せられていた地域への義務・責任をすべて放棄する。従業員、地域住民、将来の人間、地域つまり共同体の基礎と未来に貢献する義務から解放され、資本に抵抗するものがあれば資本はさっさとその土地を捨てて、抵抗のない安価な労働力のあるところに移動してしまう。 こうして加速度的に分極化する世界の中で、人間の経験もまた二分化、分極化していく。その間で揺れる「新中間層」は、対立の矢面に立たされて、激しい存在の不確実性・不安感・恐怖に苦しむようになる。その不安をおさめるために、さらに自らもグローバル化しようとして可動性を高め分極化を推し進めていくことになる。 

 情報の瞬時の移動が可能となり、シニフィアン(記号・情報)はシニフィエ(現実)の支配から解放される。<安価なコミュニケーション>は、ニュースが迅速に届くことを意味するが、同時に獲得した情報をすぐに氾濫させ、窒息させ、放逐することになり、情報はすぐに陳腐化し消費され忘れられるようになる。 従来の普通の社会(伝統社会)は、主として普通の人間の身体の、媒介物を要しない直接的な能力を中心に組織されていた。そのため、共同体内部を漂っているメッセージが互いに補強し合い選択的な記憶に刻まれ身体化することができた。グローバル化する社会は、そのような倫理の基盤を失う。 国民国家がますます弱体化していく。あらゆる経済思想において、かつては不可欠な前提とみなされていた国民経済の収支決算は、ますます統計数理的な虚構になる。資金の移動が各国政府の管理を超えたグローバル世界では、各国政府による経済政策の多くはもはや機能しない。 国家は細分化し断片化していく。このような細分化された「弱い国家」は、移動の自由や目的を追求するための無制約の自由を得ようとするグローバルな金融、貿易、情報産業にとって利用しやすく都合がよい。そのため、IMFや世界銀行は国家に自立的な経済政策の観念を放棄することを経済的に脆弱な国々に対して強要する。 グローバル化とは「新世界無秩序」である。ものごとが手に負えないものになっていくという、これまでにない落ち着かない感覚が人類を襲う。 

 グローバルな資本の移動の自由が、資本にとって不必要となったローカルな地域に残す足跡、つまり失業や貧困の蔓延による地域の崩壊は痛々しいほど明確で現実的である。 新しい富裕層はもはや貧困層を必要としない。貧困や欠乏の問題はたんなる飢えの問題に還元される 「貧困=飢餓」の等式は、貧困のほかの多くの複合的な側面、つまり劣悪な生活条件と居住条件、病気、非識字、暴力、家族の崩壊、社会的紐帯の弱体化、将来の不在、非生産性といった、プロテイン入りのビスケットや粉ミルクでは治癒することのできない苦悩を隠蔽する。 豊かさはグローバルであり、惨めさはローカルである。 以上のような分析で後半は貧困の問題や重罰化の問題がこの視点からとりあげられ、貧困が犯罪と同一視され、不必要となった人口を隔離しておくための厳罰化の進行など先進国が直面している問題が分析されている。 要約してしまうと抽象的すぎる議論に聞こえるかもしれないが、今の日本社会で起こっていること、政治家の劣化、だれがみても情けない人物が政治支配層に増えていること、エリートの無責任とローカルに閉じ込められた人々の不満の噴出としてのヘイト・スピーチ、崩壊していく中間層の不安、情報の移ろいやすさとジャーナリズムの不在、精神的問題の医学化と周辺化などなどが統一的に明確に把握できる観点を得ることができるのではないか。 またアメリカのヘゲモニーの低下、米民主党の言動の急激なブレ、途上国の分裂と弱体化、イスラム諸国の過激化などの世界情勢もまたグローバル化がもたらすローカルな社会の崩壊とそれに対する激情的な抵抗というような視点から理解できそうである。 

 一方で、このような議論は資本論の中でマルクスがすでに論じ尽くしていたことの再現であるようにも思う。たとえばハーヴェイの「資本論入門」を読むと、現在の新自由主義をマルクスが描いた資本の原始的蓄積段階の再現として解釈している。近代のグローバリゼーションで起こったことが、現代の技術革新によって大規模に再現されているのである。 そう考えれば、たとえば精神医療の世界で起こってる若者のうつ病や発達障害の激増現象も、マルクスが考察した時代に資本が大量の産業予備軍(相対的過剰人口)を創出したのと同じ事が、医学的レッテルに隠されて進行しているのではないかと考えてみたりするのである。 

 (このテーマに興味をもっていただけるようなら下記の記事も覗いてみてもらえるとありがたいです)

グローバリゼーションvsインターナショナリズム (1)https://www.facebook.com/notes/%E9%AB%98%E6%9C%A8-%E4%BF%8A%E4%BB%8B/%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3vs%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB/515183701948663

(2)https://www.facebook.com/shunsuke.takagi.79/posts/519454338188266  

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