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八月の原民喜

   八月なので原民喜、という本屋の戦略に易々と乗せられて買ってしまった梯久美子著「原民喜 死と愛と孤独の肖像」(岩波新書)。

 「八月葉月の虫の音は いとしゅうてならぬと泣きまする」と佐藤公彦が「通りゃんせ」で歌ったように、少年の頃蝉の声に包まれて炎天に佇んでいた八月は、原爆の湧き上がるキノコ雲の音のない白黒映像と切れ切れの玉音放送の何度も繰り返される再現のせいだろう、時間の止まった死のような季節の気がする。

 幼少から死のイメージに取り憑かれ悩まされてきた原は、原爆による無残な大量死を目の当たりにしてそれを人に伝えるためだけに生きようとする。「死んだ人たちの嘆きのためだけに生きよ」と。そして「夏の花」を書き、かつての自分のぎりぎりの生存を支えてくれた亡き妻に語りかける美しい小説を書いて、端正で誠実な遺書を自分に関係した少数の人々のすべてに残して、鉄道自殺を遂げる。

 その程度のことだけはこの詩人・小説家について知っていたが、改めて、妻に支えられて守られ、彼女だけを信用して生きていたその人生を追い、妻の死の放心の中で原爆に遭い「夏の花」を書き上げて精魂尽き果てたその最期を読むと、不覚にもこの人には自死しかありえなかったように思える。

 知らなかったが、原の幼少からの歩き方まで不器用な所作、ほとんど誰ともしゃべれず唖かと周囲に思われていたこと、社交や俗事がまったくできなかったことなど、今なら間違いなくASDと診断されるだろう。そのあり方が、妻への全的な信頼のもとに静かにほどけていく様、そして原爆の悲惨を眼前にして激しく内面を露呈させそれを外の世界に対して文学として定着させる晩年は、もしかしたらASDの人たちが辿るかもしれない「幻の花」の開花を想像させる。

 梯の著作は島尾敏雄とミホの関係を追った「狂う人」がバツグンに面白く、ミホという希有な女人に肉薄していく執念に魅せられたので、同じ著者というだけでこの本を読んだ。

 だがこれは原の著作と遠藤周作も含むその周囲の人々の追憶を集めて静かに読み解いていった評論であり、新たな伝記を掘り起こしたものではなかった。

 それでも、遠藤の著作にたびたびあらわれるS嬢と原の三人の交友について、80歳をすぎたS嬢、祖田祐子を直に取材している。彼女の記憶を確かめながら若い遠藤、原との交友を構成し、他人同士である三人の聖家族のように晩年の原の幸福な日々を蘇らせていて、読んでいて幸福な気持ちにしてくれる。

 著者は祖田に原の自死をどう思うか、と聞く。彼女はしばらく考えて「肯定します」と答えている。彼女宛の遺書に添えられた美しい詩を読むと、そういう自死もあり得ると思わされざるを得ない。

 文学の、勝利であろうか。

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