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相模原障害者殺傷事件と裁判の形骸化

森達也「U   相模原に現れた世界の憂鬱な断面」(講談社現代新書;2020)

 森達也の新刊は、相模原障害者殺傷事件。この人の本や作品は、本人も自分は何事にも反応が鈍いとさんざん言っているように、いつも〝流行〟に二三歩遅れて出てきて、しかも最後に決定打を出すんだというようなさっそうさはなく、出尽くしたかの意見をほじくりかえしてはああでもないこうかもしれない、いやちがう・・・と、なんともまだるっこしいのだが、そのしつこさがそれまでにこぼれ落ちていた小さいかも知れないが重大なものを捉えているという感じがするのであって、今回もその例に漏れない。

 この事件については、植松聖の言動もその差別性も、特に後者については多くの当事者から多角的に検討されている。植松が働いていた障害者施設の環境という問題についても、現場の力関係によって究明が困難とはいえ、多くの指摘がある。
 もちろん本書もそれらに多く触れているが、少なくとも僕がこれまでそれをテーマにした文章に触れていない、森がこだわっているテーマが「日本の裁判の形骸化」である。その形骸化に、鑑定という作業を通して精神医学が深くかかわっている。

 現代日本では、こと重大事件と呼ばれるものに関しては、その結論(判決)は世論によって最初から決まっている。そこに向けて、裁判官も検察も、そして何より精神鑑定までもが、最初から決まったレールの上を走るだけだというのだ。このことは、特に陪審員制度ができてからさらに強まっているという。そしてやりきれないことに、その最初から決まっている目的地は「死刑」なのだ。
 その中で、精神鑑定については特に興味をひく。(私はかつて西山詮という司法精神科医の考えにずいぶん傾倒していたのだが、その彼が麻原の鑑定で彼を詐病としたことに失望したことがある。それについては本書でも森が鑑定を批判している)
 森がインタビューする精神科医は松本俊彦で、森は彼から精神鑑定という仕事に対する迷い、躊躇、韜晦を引き出していて、部外者が読めば専門家のくせに優柔不断だとみるかもしれないが、僕はすごく共感しながら松本の言を聞いた。もちろん僕は、鑑定に従事することはこれまでもほとんどないし、これからもその意志も余裕もないのだが、精神医療・医学がもつ不確実性が浮かび上がってくる。

 その精神鑑定について、3つのまったく違う鑑定書が出たことで話題になった宮崎勤の丹念なルポを書いた吉岡忍は、森の問いにこう答えている。「要するに裁判所は、鑑定医に死刑判決の論拠のひとつを求めている、人を処刑することへの助力を求めている。ならば司法において、精神医学が本来のあり方でなくねじ曲げられていることになる。その意味では措置入院も同じです。自傷他害の怖れが強いから緊急避難的に拘束して治療することが目的なのに、明らかに予防拘禁になってしまっている。結果としてあの措置入院が、植松の背中を押してしまった可能性は高い」

 この吉岡の言葉を聞いて、僕は宅間守が児童殺傷にいたる経緯を連想した。措置入院だけではなく精神科救急がその同じ役割をになっている現在、精神医療に対してとても重要な問いかけだというべきだろう。

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