「友達」と「仲間」をめぐる冒険
こんにちは!
心理カウンセラーの俊(しゅん)です。
別の記事でも触れましたが、僕はいま心理カウンセラー根本裕幸さんの弟子として修行中です。師匠のブログはこちら!👇
最近、その師匠に「しゅんしゅん」と呼ばれるようになりました。
最初に浮かんだのは「パンダみたいだな…」という思い。
そして次に浮かんだのは「しゅんしゅんクリニックP」という芸人さん。
現役のお医者さんでもあり、ドクターあるあるネタが代表作です。
掲載動画の2:11からの怒涛の畳みかけは癖になります。
ヘイヘイ師匠(マスター)ヘイ師匠(マスター)!
弟子の呼び名を気軽に変えがち!
いやそんなことを言ってる場合ではなくてですね(早口)
先日、そのお弟子講座の3回目が開催されまして、お弟子同期たちへの親密感がさらに増し増しとなりました。ジロリアンもびっくりのマシマシです。
そしてその講座の休憩中、僕が同期との会話の流れでポロっと
「みんな友達ですよ」
と言ったことに自分自身で感動してしまい。
(おめでたい奴め案件ですが、そこに感動した理由も後述します)
このメンバーと一緒に心理学を学べるのは最高だなぁとしみじみ思いました。
今日は、それをきっかけに「友達」と「仲間」について、僕自身の話も踏まえて記事を書いてみたいと思います。
友達と仲間の違い
まずは、言葉の定義から見てみましょう。
いでよ!goo国語辞書!
「友達」
互いに心を許し合って、対等交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人
「仲間」
1 一緒に物事をする間柄。また、その人。
2 地位・職業などの同じ人々。
3 同じ種類のもの。同類。
4 近世、商工業者の同業組合。
以上、引用終わり!ありがとうgoo!
なるほど、似ているような、違うような、ですね。
ひとつ言えるとすれば、仲の良い関係が「友達」ならば、「仲間」というのは仕事なり勉強なり、共通の目的の下に集っている関係性と言えそうですね。
だとすれば、根本さんのお弟子の同期は心理学の修行を一緒にしている
訳ですから、「仲間」とするのが良さそうにも思います。
でも講座中の自分は、「友達」って思っちゃったんだよなぁ。不思議。
ただ、友達って、実は結構人によって定義が分かれますよね。
何かの機会で知り合った人は全て友達と呼ぶこともできるし、
かなり深い身の上話まで出来る「ソウルメイト」になって初めて友達と
思う人も居るでしょう。
ここは、有名な漫画作品を例に出しながら、友達と仲間の定義について探っていきたいと思います。
ひとつなぎの大秘宝を目指す麦わらの一味
漫画『ワンピース』では、主人公ルフィを船長とする海賊団「麦わらの一味」の構成メンバーが沢山登場します。
ルフィは「海賊王になる」ことを目標に「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」を探す冒険へ出かけます。
その道中で出会ったメンバーたちは様々な目的を持っており、ルフィと違い海賊王を目指している訳ではありませんが、冒険を共にする「仲間」として旅に加わります。
実際、ルフィは彼ら彼女らを誘うとき、
「おれの仲間になれよ!!」
と言います。
胸熱な展開目白押しでこの言葉を聞くと、読者の涙腺は崩壊します。
うぇーん。
ただ、結構シビアな面も持ち合わせています。
彼らは、「友達」ではないので、一味としての意思統一が図れない時は、脱退する可能性も常に秘めています。
実際、一味のメンバーであるウソップというキャラクターが、船長ルフィの意向とぶつかって船を降りる選択をするシーンが過去に描かれました。
(結果、ウソップは戻ってきましたが)
信頼しあう一味とは言え、必ず「意思」や「目的」のすり合わせは必要で、それがなければ集まる理由がないのです。
ルフィが
「海賊王になるのダルくなったから冒険やめて村で一生暮らそう」
と言ったら、一緒に側にいるメンバーは居ないかもしれません。
そういう意味で、彼らはあくまで一味という組織の「仲間」なのでしょう。
ずっと一緒に居るドラえもんとのび太
一方、漫画『ドラえもん』では、主人公のび太を助けつつ、喧嘩したり反目してもずっと一緒に居る「友達」としてドラえもんは描かれています。
彼らの友情はとても強固で、のび太がどんなに失敗してもドラえもんは決して見捨てません。
のび太が悩みを打ち明けたり、助けを求めるのはいつもドラえもんです。
そして時にはその逆もあり、のび太がドラえもんを助けるシーンも数多く描かれています。
アニメの劇場版などでは壮大な冒険に出ることも多いふたりですが、冒険のゴールが目的なのではなく、「一緒に冒険すること」が目的なのです。
その友情は涙なしには語れません。
うぇーん。
ただ、本編では基本的に
(1)のび太が問題に遭遇する(いじめられたり)
(2)ドラえもんが秘密道具を出して解決の助けをする
(3)のび太が調子に乗って失敗する
を繰り返すパターンが非常に多く、確かに何度失敗してもずっと一緒に居るのですが、彼らにはお互いを高め合おうとか学び合おうという姿勢はあまり見受けられません(笑)
本来ドラえもんは、のび太をまともな大人にするために未来からやってきたはずなのですが、そんな目的も忘れたのか部屋でずっとどら焼きを食べている始末。
とても心地よい雰囲気ですが、やっぱり「仲間」とはちょっと違う雰囲気がありますよね。
親密感の怖れと向き合う
ここで少し、僕の話をしたいと思います。
僕はありがたいことに、学生時代の同級生をはじめ、近しい先輩や後輩など、仲の良い人たちに恵まれました。
特に、一緒に演劇を創っていたメンバーとは、今も時々集まります。
しばらく連絡を取っていなくても、何の違和感もなく再会できる関係性に有り難さを感じます。
そういう意味では、僕は友達が多い、と言えるかもしれません。
でも一方で、どこかでずっと孤独感を抱えていました。
何か個人的に困ったことや悩んでいることがあったとき、
僕は友達に相談したことはほとんどありません。
また逆に、友達から相談を受けることも、無かったと思います。
年賀状が一通も届かなかった年も、一回だけではありません。
(ああ…この告白は自分の胸にくる…)
心理学を学んでいる今は、その原因は自分自身にあったことが分かります。
僕は胸の内を自己開示することを無意識に避けてきたし、それが鏡となって、相手の自己開示も促されなかったのでしょう。
そもそも年賀状も、自分からちゃんと出せば返ってくる筈で、「年末は忙しい」「住所を知らない」とか言い訳して、行動を起こさなかったのは自分自身でした。
僕にとっての感情の開示先は、ひたすらに日記でした。
クラスメートの空気感に馴染めず、日記帳に延々と辛い思いを書き殴っていたのは高校1年生の頃だったと思います。
他にも大学時代の恋愛の苦しみ、新社会人になった時の弱音、父が他界したことへの欠落感、人生がつまらなくなってきた退屈な気持ち、パートナーとの葛藤。
時代と共に紙からアプリに媒体を変えて、ひたすらに書いてきました。
日記自体は、全然悪いことではないと思います。
でも、本当は僕は誰かに自分の思いを話して、受容され、共感してもらいたかったんだと思います。
長い間、気付いていませんでしたが。
表面上は人付き合いに困るようなタイプに見えないだろうなと思います。
それほどに、僕は擬態のプロになっていました。
恐ろしく人見知りなのに、その人見知り状態が苦痛すぎるからこそ自分から話しかけることを覚え、結果的に「人見知り」とはバレないようになりました。
まさしく器用貧乏。
コミュニケーションで困ることはありませんでした。
気さくに話せる関係性をすぐに構築して、スタート時は順調です。
でも、それ以上になってくると、どこかでブレーキがかかる。
初対面の人とはうまくやっていけるけど、仲が深くなってくると距離を保ちたくなるという振る舞いは、心理学では親密感の怖れと呼びます。
我ながら分かりやすい事例!ぎゃー!
「友達」と「仲間」の違いについては、ここ数年ずっと考えていました。
かつて演劇を創っていた時は、同じ目的を共有する「仲間」として、
メンバーたちと常に良好な関係でした。
一生の付き合いをしたい人たちも沢山居ます。
でも、演劇を創らなくなってからは、以前ほど交流しない面々も増えていきました。それが寂しかったんです。
だから、皆で集まれるように色々な企画の幹事をやりました。
夏のBBQ、年末の忘年会、旅行したり、小さい飲み会も色々。
でも、そうしたイベントを企画して集まってみても、回数を重ねるうちに、なんだかしっくりこない気がしてきました。
僕は「仲間」づくりには苦労しないタイプだけど、「友達」づくりは下手かもしれない。そんな風に思い始めました。
でも、それは自分自身が原因だったと、今は分かります。
そこで、ある時から勇気を出して、父親の他界についての悲しみや、
パートナーとの関係性の悩みなどを、打ち明けるようになりました。
まだまだ、「共有」するだけで、彼らのリアクションを受け取れていなかったかもしれないけれど。
それでも、僕にとっては大きな一歩でした。
これは、とても最近の話です。
お弟子同期という存在
信じられないことに、お弟子の同期たちとは出会ってから3ヶ月程度しか
経っていません。
その短い間に、こんなにも心理的安全性のある空気を感じられるなんて、
予想していませんでした。
僕らはカウンセリングの実習で、お互いの悩みや黒歴史を打ち明けました。
講座ではお互いの価値や魅力を伝え合いました。
そんな中で、本当に自然に、前述の
>「みんな友達ですよ」
という言葉が自分の口からついて出たんです。
動揺しながら、感動しました。
あぁ、友達、作れたんだなぁって。
ただ正直、親密感の怖れの足音を、どこかで感じています。
急速に距離を詰めることに対して、見えない抵抗力が働き始めそうです。
でも、それもきっと僕のなかの防衛反応なのだろうから、今まで
守ってくれた自動回路に感謝をしつつ、手放していければと思います。
仮にお互いに比較したり嫉妬してモヤモヤしたとしても、
「仲間」であり「友達」である同期たちと、切磋琢磨していきたい。
海賊王も猫型ロボットも居ないけれど、
僕らはいつでも冒険の途上。
修行は始まったばかりです。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
それでは、また別の記事で。
心理カウンセラー 俊(しゅん)