「人と、話がしたい」
「人と話をする」というのは、生きる上でとても大切なこと、というより、それ自体が、人が生きている目的なんじゃないかと思う。
この文章は『腹を割って話した』(イースト・プレス)の最後に記された、「水曜どうでしょう」の藤村忠寿ディレクター(以下「藤やん」と表記)のあとがきの書き出しである(P218)。このあと、藤やんはこんな文章を続けていく。
出口が見えないとキツイ。でも、出口が見えないことを人に話して「それわかるよ」と言われただけで、割とスッキリしたりする。別に何も解決していないのに。そう、解決しなくても、人と話ができればスッキリして、生きていける。人間、うまくできているもんだと思う。お互い「今日はいい話ができたな」と思えれば、気持ちが晴れ晴れとして、きっと何かを始められる。
僕はこの文章が好きだ。本当に好きだ。
3月に前職場を退職して、今月から新しい職場に着任したが、こういう状況なので1日出勤したあと次の出勤日は未定になった。NPOスタッフの仕事もほぼオンラインに切り替わり、おまけに週末の予定もオールキャンセルになって、この先しばらく「家を出なくても良い」ようになってしまった。とくに週末の予定が全部なくなったのが何気に痛い。「人と話をする」機会が大幅に奪われたからだ。
こんな家にいる時間がたくさんあるのなら、たとえば「ゴリパラ見聞録」のDVDを見返したり、こうしてたくさんの文章を書いたり、めちゃくちゃ部屋掃除に精を出したり、といろんなことができるチャンスではあるのだが、どうにも気が向かない。なんでだろう、と考えたとき、ふと思い出したのがこの藤やんのあとがきだった。
「人と話ができない」、って、めちゃくちゃツラい。
高校最初の夏、ひとり部屋で病んでいた。単位制高校から通信制高校へ転入してわずか2ヶ月ぐらい、友達もまだいなかったので本当にやることがなかった。一応部活動には所属してたけどそれも不定期だったので毎日毎日外へ出るわけでもなく、そして話し相手もいない。そんな日々が秋学期の授業が始まる9月の終わりまで続くと思うとゾッとした。ついに耐えきれず家族にSOSを発し、車で近所のブックオフに連れ出してもらったこともあった。
いまのようにSNSが発達しているわけでもなく、YouTubeとかも黎明期。インターネットにはのめり込んでいたのでブログやチャットが貴重なコミュニケーションツールだった。でも文字を介してのやり取りでしかなかったので、声を出して、顔を合わせて会話するわけでもない。
これって、実はものすごくキツいことなのだ。
そして、今、15年も前のあのころをふと思い出している。
島崎藤村は『破戒』という小説で
用が無くて生きているほど世の中に辛いことは無い
と書いている。このご時世、仕事がなくなっていろいろと自粛した挙げ句こんなことになっている人も多いと思う。僕も近いことになっている。正直キツい。
だからこそ、「人と話をする」べきだと思うのだ。『腹を割って話した』の藤やんのあとがきに戻ると、
解決しなくても、人と話ができればスッキリして、生きていける。
という部分が、いまの生活には明らかに欠けている。だから、何をするにも気が向かない。ゴリパラは面白いしなんとかこの文章も1200文字は書いているのだけど、なんとなく気は晴れない。掃除は結局手を付けていない。人と話ができてスッキリできれば、ゴリさんの噛み様降臨ももっと笑えるだろうし、思っていること考えていることをもっとすばやく文章化できるだろうし、断捨離もすいすいできると思う。たぶん。
結局、人と話をしたいんだと思った。別に難しい話をする必要はなくて、本当にどうでもいい、不要不急にもほどがある話をしたいんだと思った。ここのところ土曜日にZoomで日本や世界各地をつないで話をしているが、何を話してるかと言えばたいてい「昔話」なのだ。それもその話何度目?というレベルの昔話。「あのとき行った名駅のあの焼鳥屋、うまかったですよねー」みたいな話だ。こういう話でいいのだ。思えば前の職場でも、勤務時間の半分は生徒と話をすることに使った日もあった。
この間読んでいた『世界のニュースなんてテレビだけでわかるか!ボケ!!』(いろは出版)に書いてあったのだが、電気もないような田舎では「他人と関わる」ことが最大の娯楽であり、中東の国であれば毎日のように同じおじさんたちがチャイ片手にだべっていることも珍しくないそうだ。これは、「人と話す」ことが全世界でなくてはならないものだという何よりの証左であると思う。
それゆえに、藤やんの言う「人と話すことは、生きている目的」というのは大いにうなずける。そしていまの僕は、明らかに「生きている目的」を失いかけている。
だから、僕は人と話がしたい。
これができれば、いつまで続くか誰も何もわからないこの自粛と「家にいろ」のムードを、いくばくかでも払拭できるだろう、と信じている。