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コトバの悦楽

タイ・バンコクに駐在していた時に、現地のフリーペーパー『web』の巻頭に書いていたエッセイを収容しています(2008〜2010年ごろ)。社会情勢や経済状況は当時のままです。

 タイに暮らしていると、タイ語でも英語でも毎日のように、理解できない単語にぶつかる。

 言いたいことがあるのに、単語や表現が頭に浮かんでこなくて会話にまごつく。

 母国語以外を話している時に、相手とのコミュニケーションが滞るあの一瞬は、何度味わっても消えないストレスだ。「あーすいませんねー頭が悪くてねー」と脳内が自棄ヤケになりはじめ、いたたまれなさが汗腺から灰汁あくとなって出てくる感覚に襲われる。

 特に英語を話すとき、このマイナス思考が強まる気がする。「これまで長く勉強してきたのに…」と忸怩じくじたる思いが強いせいだろう。

 そんなストレスを乗り越えてでも、外国語を習得して海外にいたいなんて「マゾ以外の何者でもない」と思うが、来る日も来る日も懲りずに学び続けてしまうのである。なぜだろう、やはり話が通じたときの達成感に伴う高揚とか快感とかが脳内麻薬となるからだろうか。

 新しい言語が使えるようになりつつある時の方が、脳内麻薬の分泌量は多そうだ。タイに来て1年半になる筆者は今、タイ語を話すのがとても楽しい黄金期を迎えている。

 この先にまたハードルがあるのだろうが、英語ほど「話せなければ恥ずかしい」的な強迫観念がないので気楽なもんである。

 この「言葉が通じる快感」を最初に味わったのは小学6年生の頃だったと思う。青森県八戸市の片田舎に住む鼻たれ小僧だった筆者は、ある日の下校途中、背の高い赤ら顔の男3人に囲まれた。

 おそらくロシア人だ。日本に木材を輸出するため、筆者の実家に近い八戸の港に船でやって来たロシア人が多くいたのである。石油資源の輸出で潤うバブリーな今のロシア人と違って、当時まだ「ソ連」にいた人々だ。どことなく暗く貧しい雰囲気があり、港近くに古タイヤを積み上げておくと翌日にはきれいに片づける(全量を船に積んで持ち帰る)人たちだったのである。

 そんな3人に急に囲まれて一瞬、恐怖に固まった。だがロシアン3人は、どうも鼻たれ少年が持っていた雑誌に興味を持ったようである。

 たしか月刊誌『へらぶな』のような釣り雑誌を持って歩いていた。その頃の筆者は毎日のように釣りに行き、「大きくなったら絶対に『釣りキチ三平』になってやる。ムッヒョ〜!」との固い信念を抱き、釣りの雑誌や釣り具を肌身離さず持ち歩くオバカ盛りな子供だった。

 ロシアンズは「なにそれ?」と聞いたのだと思う。神童こたえて曰く「フィッシング・ブック!」。すると、「オー!」とか何とか言って奴らは筆者の頭をなでて去っていった。

 たったこれだけ、これだけなのだが、むくつけき大男らから解放されてホッとした安堵感とともに、初めて英語が通じた、「オラも英語を話せっぺ!」のような錯覚がして舞い上がり、なぜだか三平三平みひらさんぺい(釣りキチ三平の主人公名、なんと3月3日生まれ)のように飛んで走って家に帰った。

 英会話というのもおこがましい「タダの単語」なのだが、とにかく単純なので釣りキチ三平になるのは取りあえずやめて英語を使う仕事がしたいと考えるようになった(ホントか)。

 実際にはそこからがいばらの道だった。英語圏に留学したこともないので、今も人並みにヘタくそである。アメリカ人の英語に慣れたと思ったら、イギリス人のは聞き取れないし、タイをはじめアジア各国人の自己流発音な英語はもっと分からない。インドなまりの英語に至っては理解度のハードルを初回から50%程度に下げねばならない。

 いつの頃からかバイリンガルの皆様方のように話すのは諦めた。

 んで、今は「タイ語の園」に遊ぶ日々だ。本格的に勉強したい気もあって某学校にも一応は籍を登録してあるのだが、いかんせん時間が取れない。ゆえに自然と仕事の後に飲み屋でタイ語の“勉強”にいそしむのである。

 習った先生も学校の数もだいぶ増え、これはこれで授業料が高くついて大変なのだが、日本から離れて生活しているかぎり仕方がないことだと自分に都合よく割り切っている。

いろんな国の人と、このように笑って話したいものですね(画像はX.comのGrokで生成)

(了)

(※初出:2008年9月、バンコクのフリーペーパー『web』=休刊中=より)


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