【ネタバレ超有】『ディミトリ~曙光に散る、紫の花~』2回目観劇と読解の記録
まだ発表していなかったんですが、2023年のテーマに「習慣を変えて自分を変える」というのを設定しました。そのうちの1つが観劇記です。
元々即日脳直の観劇記を書くのも読むのも好きではなくて、昨年は19 回の観劇の中で観劇記を書いたのは3本?だったかな。
インプットのちローディングしきらぬままにアウトプットする無意味さを、本業で痛いほど感じているからです。セミナー受けてすぐ「こんなことが勉強になりました!気づきをありがとうございました!」みたいなこと言ってる人って、大体同じこと毎回‟気づいて”おられるなと……
熱々のうちに議論のテーブルに乗せているといえば聞こえはいいが、熟考を伴わない意見交換はディスカッションではなくブレストだと思うのですが、創作物の読解という正解のない思考に対してブレストという手段はふさわしくありません。
その信念は変わらないんですが、熟考のスピードアップは図りたいと考えるようになりました。そこで、2回目観劇でどこまで読めるかという己のチャレンジのために、観劇記を書かないという習慣をやめてみることにしました。
その1本目は、宝塚歌劇星組公演『ディミトリ ~曙光に散る、紫の花』です。
生田演出の描くものを読み解く
原作は並木陽さんの小説で、2017年にNHKでオーディオドラマ化された作品。実在の女王の半生を描く同作を、その王配ディミトリの方を主役にすえかえて上演されました。
初見時は、国政の重圧にもがくルスダンを支えるディミトリの姿と二人の愛と葛藤は、なるほど宝塚ファンが好きそうな物語だなと感じたにすぎませんでした。
まず、テーマがダイレクトでわかりやすい。少々構成上は唐突に感じる、冒頭の二重唱(ルスダンとバテシバ)によりテーマの提示も早々に行われます。ギオルギとバテシバの愛の道行きをなぞる形で、ルスダンとディミトリが「たとえ離れていても」愛を貫く話なのだなと即座にわかる。こういう人物の重層構造は、過去と現代で行き来する二重構造のものや、伏線を回収していって後半で判明するものなどがありますが、当作は最初にすべて種明かししてしまいます。よくいえば誤読の余地がないのでトップコンビの愛の物語に集中できるし、悪く言えば余韻がないと感じました。
しかし2回目、主に会話に集中して聞き進めていくと、生田さんらしい緻密な仕掛けが随所に施されていることに気づきました。以降はそのメモです。
足跡もう一つの意味
シーン2 ルスダンが王宮の庭園でディミトリを見つけるところ。これがシーン13の回廊~寝室のシーンの伏線になっているのは、あまりにも明らかです。
が、ここはもう少し深く味わう余韻があります。生田さんだけがどうこうというよりも、これは原作の良さでもあるのかもしれないが。
初見時は、右の足跡だけが深いと指摘するルスダンを眺めながら、江戸川👓みたいなこと言ってんなと思いながら何気なく見ていました。だが、よくよく考えるとそんな浅はかな思い付きは思いのほか芯をついていて、ルスダンは幼いながらにも人一倍聡明であることを説明するためのシーンであることにも気づきます。
ルスダン女王は、史実を俯瞰して語られるとき、その敗戦の歴史を「国政の経験がなかったために」と紹介されることが多い人です。
このシーンは、そんな彼女だけれども、ただ運命に翻弄された悲劇の王女ではなく、賢く施政者の器のある可能性に満ちた女性だったことを暗に示しているように思いました。
さらに、その賢さゆえの自信が、同じくシーン13で夫の裏切りを確信する原因ともなっていると思います。
シーン13はかなり展開が早く、人によっては絶望から自分の裏切り(ミヘイルに身をゆだねる)までが唐突に感じる人もいるかもしれません。正直、私自身も初見時はここが上滑りに感じてしまったのですが、2回目に、冒頭のルスダンが自信満々に「あなたのことはお見通し」という姿から人物像の奥深くに触れたとき、その激しい思い込みと絶望の意味が分かりました。
答え合わせに「ル・サンク」の脚本を読むと、ルスダンの発言中に(得意気に)とわざわざ添えられています。自信満々の表情は稽古場でつくりあげられたものではなく、執筆時からの確定演出だったのです。
さらにここからバテシバを罵る二重唱につながっていくことで、ルスダンのパーソナリティーが、賢く正義感が強いゆえに、それだけでなく少々自信家で思い込みが激しい少女であるということを確実に表現しています。
起承転結の起部における人物の精細さは、間違いなく当作の魅力だと思いました。
バテシバのその後
バテシバの話を出したので、彼女の話に移ります。
彼女はギオルギの妻だが、王宮には居場所がなく城を追われることになります。冒頭でそのようすが描かれたのち、歌唱シーンでディミトリの心象風景の中に二度登場するのみです。
前項で述べたように、彼女の存在はディミトリとルスダンの運命の行く末を暗示しつつ、ルスダンの人物像を強調する存在です。物語中の役割としてはそれにすぎません。
が、彼女は城を去ったのちどうなったのかを考察する材料が、本筋から逆算すると見えてきます。
結論から言うと、彼女はギオルギと別れたのち自害したのではないかと私は読んでいます。彼女が言う「遠く離れても」というのは、彼岸を意味していたのではないかと。
そう考えた根拠は、二度登場する心象風景のうちの後の場、シーン15。トビリシを陥落され嘆くディミトリに、ギオルギが「貴公にはまだ命がある」と語りかけるシーンです。ここでギオルギの傍らにバテシバがいるんですよね。舞台演出上、逝去したギオルギと同じスポットに照らされて傍らに控えているとなると、もしかしたら彼女もこの世のものではないのかもしれないと気づきました。その前の登場シーンでは、二人は銀橋の両端にいたので、寄り添っていることがかなり示唆的で目につきました。
ではなぜここに彼女が現れたのか。生田さんのこれまでの作品から考えるに、ここに彼女がいることを「ただ相手役だから並べとけ」なんて理由で登場させるとは考えづらい。
そのシーンで語られるセリフが「その命を使って/愛する人のために」というもの。
ディミトリが自分の命と引き換えに、トビリシ奪還のための戦略をルスダンに授ける決心をするシーンです。
ギオルギ王は戦場で「生きて帰るぞ」と言っていたので、「愛する人のために命を使った」のは誰か。それはバテシバしかいません。
本来ここはディミトリの心象風景なので、仮にバテシバが自死していたとして、彼がそれを知っていたかどうかは正直訝しいです。(元人妻で王宮から離縁して出ていく時点で、彼女が生きるべき場所がないということを予感していた可能性はある)
ただ、このシーンから、物語上の主題「主人公が愛する人のために命を賭す決心をする」を描きつつ、傍らで重層構造上のもう1つのカップルも「命を賭した」ということを、逆向きの矢印で表現しているのではないかと考えています。
宰相が見つめる王冠
今回2回目で最も印象に残ったシーンがこちら。シーン13の後半、寝室での刃傷沙汰のシーンです。
ルスダンの命で捕らえられるディミトリに全員が注目している中、一人だけ違うところを見ている人がいました。
イヴァネ宰相です。彼は床に転がったルスダンの王冠をじっと見つめていました。
そこで、彼は何を思っているのだろう…と考え始めてはいたんですが、すぐに「ただ王冠を見つめている」のは間違いだと気づきました。
あれは、血の海に転がり血まみれになった王冠を見つめているんですよ、多分。
ちょうど、ディミトリがミヘイルを刺した剣を引き抜いた場所なので、あそこ。剣は腹部から抜かれていますから、相当量の血が噴き出しているはずです。その血の海の上に、ルスダンの頭上から落ちた王冠が転がっている。
これはイヴァネの心情を読解する材料というよりも、そのショッキングな光景を想像させるおそろしい仕掛けだと思いました。
実際、それ以降の急報に対し、イヴァネがそれまでのシーンに比較して歯切れが悪く言葉少ななのもうなずけます。単にはかりごとが成功したアヴァクが勢いづいているだけでなく、先帝、その前から王室を支えてきた彼がその光景にショックを受けたからではないか?と。
王冠が血まみれになるほどのおそろしいはかりごとをしたのが自分の息子だということに気づいているかは、考察の余地がありますね。
そういう想像や考察を掻き立てる、見事な視線の誘導トリックです。
ルスダンとタマラ、アンとアヴァク 対比される人物
冒頭に述べたカップルの二重構造のみならず、いくつかの人物の対比に気づきます。これ以外にもいろいろあるかもしれない。
1つは、タマラ王女。彼女を通して、ルスダンが何を聞かされて大きくなってきたかに思いをはせることができます。
シーン11 厩舎の場面。奴隷ミヘイルと対峙したタマラが彼に声をかけるものの、女官や侍女たちに制されるシーンです。
ミヘイルがとがめられた理由がわからないタマラは女官に彼は誰かと問い、女官は「奴隷だから関わり合いになってはいけない」と答えます。
それに対し「はーい」と素直に応じるタマラ。
このシーンの素直な返事に、冒頭シーン2で、ルスダンがバテシバを罵りながら「みんなそう言ってるわ!」という姿が説得力をもってよみがえってきます。
時代の宿命とはいえ、偏った正義、偏った考え方の中に閉じ込められていること。どんなに利発で聡明な少女だったとしても、結局は籠の中で育てられ、狭い世界の正義や偏見を素直に聞き分けて成長してきた、そうするしかなかったわけです。
夫を信じられずに悲劇の一途をたどるヒロインですが、その目はこんなにも小さいころから曇らされてきたのだということがわかる悲しいシーンだと思いました。
もう1組は、ジャラルッディーンの側近・アンの描写に見る、アヴァクとの対比です。
シーン17 伝書鳩の場面、ホラズム軍の情報をルスダンに伝える手紙を出そうと謀るディミトリにアンが話しかけるシーン。
ここで部屋から立ち去るとき、アンは一度ディミトリを振り返ります。そのうえで少し微笑みをたたえ、安心しきった様子で部屋から出て行きます。
この、ディミトリの背中に振り返る仕草は、ここまでディミトリと接するたびにアヴァクが取ってきた行動です。戦場、王宮、回廊…… 何度も憎しみたっぷりに振り返り、睨みつけて立ち去るので、もはやどのシーンでやってたか細かく覚えていない。
この二人の仕草がまったく同じで、感情は正反対ながら、そのどちらもが強い思い込みによるものであることがおもしろいと思いました。
こういった人物の仕草と感情、何気ない習慣などの描写に気づくとき、単なる愛と天命に命を賭したトップコンビ超中心主義の物語にしかすぎないと思っていた世界の奥に、私たち自身の目の曇り、人間は自分が思い込んだとおりにしか世界が見られないのだというような普遍的なテーマを感じさせられました。
最後に~ リラの花は何を表象しているのか
こうやって見ていくと、いかにも宝塚っぽさを強調するためだけの演出だと思っていたリラの精たちも、すこしではありますが意味に奥行きを感じます。
元々、シーン7 婚礼後の寝室でのラブシーンにリラの花が登場しますが、大変失礼ながらじゃまだなぁと思っていたんですね。いくらなんでも少女趣味すぎない?と。この物語中唯一、ルスダンとディミトリが心を通い合わせる数少ないシーンなので、舞台上2人だけにしてほしいなと思っていました。
が、それは半分正解で、半分間違っていることに2回目で気づきました。
先述のシーン13、刃傷沙汰の場面。ルスダンが「誰かありませんか!」と叫ぶと、すぐさまにとんでもない人数が部屋に入ってくるのを見て気づきます。
「あ、この二人が本当に二人だけになれる世界はこの世にはないんだ」と。
古今東西物語の中でしか知りませんが、王族なんてのは本来そんなものだった。当たり前のことをすっかり忘れていました。
なので、あのシーンにリラの精たちがいて、それを私が「じゃまだなぁ」と感じることはある意味正しいのだと。二人がどんなに心を通い合わせても、二人きりになんかなれることはないんだなと、そう思いました。
一応、その読みの根拠としては、ルスダンがディミトリの死を知り、その死を嘆きながらリラの木に向かって歩いていくシーンの演出にあります。
リラの花々をかき分けながら中庭に向かって歩いていくルスダン。ディミトリの名前を叫んだとき、ぽつんと舞台上にあるリラの木に目線が誘導されます。
それを背後から見守るディミトリの魂。このとき初めて、舞台上で二人きりになる主人公たち。この静寂は、あまりに強烈です。
実際に幕開きで「リラの花は見てきた」と言っていますが、リラの花たちが向ける視線は、俯瞰した位置から歴史を見下ろす傍観者ではなく、施政者としてのルスダンに向けられる忠誠や尊敬、好奇の目、蔑み、意思決定を鈍らせるノイズ、いろんなものが含まれているのだと理解しました。
人間の愚かさみたいなものを根底に流すための演出を、いかにも夢夢しい手法で行う。
初見に感じた、甘いだけでない後味、ちょっとやりきれないビターな香りの原因はここにあったんだなと理解しています。
トビリシ奪還にスカッとしたように感じる人もいるかもしれないけど、結局両者、やってることは戦争だからね。彼女たちのいう「美しいトビリシ」だって、先に述べた「自分が思い込んだとおりの世界」にすぎない。絶対的な正義なんかではないわけです。
礼さんが今“思慮深く控えめな男”を演じる意味
物語の読解とは別に、礼真琴さんが今この時期にディミトリを演ることの絶妙さも感じました。
原作を拝読していないのでディミトリが本来どういう男かを詳しく述べることはできませんが、当作の中での彼は、思慮深く包容力のある男。おそらく人質として育った引け目から、ルスダンに欠いて描かれている謙虚さや俯瞰した視点も持ち合わせています。
男役スターを形容する上で包容力があるとか大人の落ち着きがあるとかいう表現をしますが、そういう持ち味の人はほかにもいるわけで、礼さんは近年それが増しているにしても、彼女でなければならなかった理由は何だろうと考えるわけです。
劇中の礼さんに感じたのは、円熟味が増して加わった包容力や落ち着き以上に、本来持つ野性味がディミトリをやる上でのスパイスになっているということでした。
戦場で見せる高い身体能力を活かした戦闘の剣舞、ギオルギ王を案じながらも、鋭い目つきで戦うさま……。そういう随所に、ただ穏やかで物言わぬ人質にとどまらない二面性や、男としての危うさみたいなものを感じさせるところが効いているなと。
ここの鋭い野性味が光るからこそ、アヴァクは彼を疑うのだし、私室でミヘイルを斬り殺す激情と矛盾しづらいわけです。
彼女のうまいのは、その野性味・男くささを歌やセリフなどの声色では極限まで消しているところです。
元々ハスキーで、肩の力が抜けていながら野性味のある“いかにもモテる男”っぽい歌唱が武器の彼女でありながら、優しさだけでなく怒りや悲しみを歌うときも、少しも声の質感がブレないのはさすがだと思いました。
(続くショー『JAGUAR BEAT』ではそれを全開放していて、そこも前後の相性がいい)
元々ふくふくしたほっぺと大きい目が印象的なアイドル風のビジュアルで、少しでも男らしく見えたいと努力してきた彼女が、鋭く濃い男臭さを極めた今だからこそできる抑えの美学。
男らしさを秘めているからこそ、穏やかさや思慮深さが単調に見えない、奥行きのある主人公像に仕上がっていました。
ホラズムみたいな美容室ってあるよなぁ
最後はみなさんにとっては蛇足になりますが、一番考えさせられたところです。
まず、ジャラルッディーンが圧倒的すぎていないと守りが手薄、特に幹部が育っていない……みたいなの、経営誌編集として既視感しかありませんでした。
他にも感じた既視感があって。それは、あの作品世界の中でのホラズムの兵士ってなんて情に厚いんだろうと。優しくていいやつ。これはすごく社会観察されてるなと思っていて、組織って、スタートアップの段階はまずはそれだけでどうにかなるところが多いなと思うんです。
シーン18 でトビリシが陥落し、ディミトリの裏切りが発覚したシーン。あのとき周りにいる側近たちの反応が本当にハートフルで。ちょっと面白いくらい良い奴ばっかだなwと笑ってしまうほどでした。
「国を失う痛みがわかるはずだ」とジャラルッディーンに問う瀕死のディミトリの言葉に、一斉にシュンとうなだれる家臣たち。かわいすぎる。
かわいいだけでなくここはポイントでもあり、国と信仰を失っているという共通の原始的なな感情を理由につながっている組織だったんだなと思います。
「寛大なところがあると聞く」という噂のもとはそういうことだろうと思っていて、ジャラルッディーンがスゴイ人格者であるというよりは、そういう心のやわいところを理念としてリーダーシップを取れる人物として描かれたように理解しています。
美容室って全国に20万軒以上もありまして、信号機より多いなんて言われてるんですが、そのほとんどが中小零細企業なんですね。で、10年以上事業を継続できるのはほんの数%なんて言われている。オープンしては廃業してるんです、全国いたるところで。
そのうち何百軒も取材していて思うのが、美容師さんは基本的に素直でハートフルで、本当に優しい方が圧倒的に多いんですよ。元々「人をきれいにする仕事がしたい」と思ってる時点で、そりゃそうだなと思うんですが。
だから人数も多いし、開業軒数も多い。同じ志の人たちが寄り集まりやすい業種なんだと思います。
それでも、一定の人数を超えたり期間が経つと、それだけでもたなくなり離散していく。率いる側が、従業員の根本の心優しさや志に頼りすぎてるからです。だから続かないし、大きくならないよなぁというジレンマ。志で寄り集まってるホラズムは作中では強いですが、こうやってちょっとした隙に寝首をかかれもするし、史実でもモンゴルに屈することになってしまいます。
ディミトリの死にうなだれている優しいホラズム兵の姿に、本業の取材先の人たちの優しさや笑顔を重ねてしまい、ちょっと考えこんでしまいました。企業として大きくなりゃいいってもんじゃないのは大前提です。
だけど、優しくて正直でまっすぐだからこそ最初はぐんぐん成長するけど、リーダーはそれに甘えすぎず、後継の幹部を育てるなどの組織増強をしないと、あっという間によそに征服されてしまうんだなと。
そうはされたくないな、がんばろうと強く決意。
ありがとう我が君ジャラルッディーン、あなたのおかげで大切なことに気づきました(どの立ち位置
最後はかなり個人的な感想になってしまい恐縮ですが、2回目観劇記はそんなところです。
1年続けてみて、改めて振り返ったときにどんな変化があるのか楽しみだな~。
個人的な挑戦にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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