7つの沼❹宝塚の座付作家 〜地獄の人事とジジイたちの猛攻〜《後編》
続きです。
筆が止まっている間に
花組大千穐楽翌日の発表は、この「地獄のシャッフルイヤー」以来の衝撃でした。
衝撃という言葉がいいのかどうか……、びっくりしたとかそういうミーハー心ではなくて、あの新専科騒動でいろんな感情の詰まりや澱みを洗い流して以来、劇団は基本スタンスとして「全方位に配慮し善処する」姿勢を見せてきたと感じているので、今回のように100年続いてきた文化の芯を担うコンビとなりうる、しかも大切な“ヒロイン“の方をこんな幕切れで手放すのか…というのは、本人の意思であろうが劇団の意向であろうがどっちにしても損失だなと感じました。
これはTwitterでもつぶやいたのですが、柚香光さんと華優希さんのコンビは、短くも長くも宝塚にどっぷり浸かってきたファンにとって「一番美しい想い出」を想起させるムードを持っていたと思います。
この時の結びにも言いましたが、それがよくもあり、現代的に「バズらない」原因でもあった。それぞれがそれぞれの想い出を語るので、大きなムーブメントにならないのです。「誰々の再来!」とか「〇〇一の実績!」「始まって以来!」みたいなわかりやすさがないのは、こんなに現代において生きづらいことなのか。「生きづらい」という言葉が嫌いなメンタル筋肉バカの私ですら、そう思った。
ただただ美しさで全ての古参の心の少女を呼び起こすという、この界隈のニッチな正解であるはずの二人がわずか3作で夢のように消えてしまうことのショックは、今私が「地獄のシャッフルイヤー」を“必要な血“と捉えているようなターニングポイントになり得るのかしら…と多少不安な気持ちでおります。
一応、本題に入る前にそのことはどうしても書いておきたかったので失礼しました。
この時期の「作品力」が蜘蛛の糸に
前回では、私はこう言って新専科制度の時代の地獄を表現しました。
だから、私のツイッター(オタ垢)のフォロワーさんには2000年代で一旦宝塚を離れている人がひじょーーーに多いのですが。そのみなさんの半分くらいは「恩恵から漏れた」(上記のコメ主がいうところの)ファンの方が多いので、心のどこかでまだ「私が2004年前後のことを振り返ると『瀬奈じゅんのファンのくせに』と思われるのでは…」という怖さで躊躇する部分もあったりします。
こんな心的外傷を持ちながら、さらに私、2005年に受験に失敗しています。それなのにしつこくこの宝塚にしがみつき、多くのフォロワーさんのように離れなかったのは、この頃からメキメキ作品そのものが演劇として面白くなってきた転換点でもあったからだと振り返るのです。
まず、たくさんあるけれど、私にとって最も代表的なものは『スサノオ』(2004年雪組/木村信司作)と『マラケシュ・紅の墓標』(2005年花組/荻田浩一作)でした。全く趣も方法論も違いますが、この2作レベルの“芝居“を日本国内でも屈指の収容人数を誇る大劇場公演でやってのけたのは今振り返ると本当に痛快で希望に満ちたことでした。
一応ざっと両作品の芝居としてのブラッシュアップを述べておくと『スサノオ』側は「パフォーミングアートとしての芝居」、『マラケシュ・紅の墓標』側は「映画的話法」を宝塚というめちゃくちゃ制限の多いニッチなシステムのなかで、しかも大劇場サイズで完成させたという点だと思っています。どこかである座付先生が「140字サイズの細かくて大きな刺激が必要な時代」(ニュアンス)というようなことを言ったような講義レポートを読んだことがありますが、これは普遍的にそうで、マスに届けようとする=大人数を満足させるには【刺激】が必要です。文字情報(物語含む)は刺激にはならず、激しく歌ったり踊ったり、マス向けのエンタメ映画だったら爆発させたり戦ったりすぐキスしたり「っらぁぁぁぁーーーーん!」って叫んだりするのは、あれは【刺激】です。コントで歌ネタが客ウケするのはそういうわけ。漫才師さんが昔の童謡とかヒットソングを歌うのも「知ってる+歌」という【刺激】でつかんでいるわけです。(ディズニーミュージカルもパプリカも香水もみんな歌ネタだと私は思っている。)
そういうわけで、バウホールなどの小さな規模の劇場(それでも500人規模なので一般的にはでかいのですが)では、じっくり読ませるストレートプレイとか、歌舞伎や文楽の古典にインスパイアされたもの、演劇の基本に則ったワークショップ的な作品もありはしました。が、それが大劇場となると話は別だった。比較的リアリズム的な話法で書いていた晴彦さん(正塚晴彦先生)もアタリと言える作品は漫画原作だったりコメディだったりして、それはそれで良いのだけれど、結局何かしらの強引さをもって大劇場サイズにナイズドしている感じが否めない雰囲気があったなと感じていて。
『スサノオ』『マラケシュ・紅の墓標』の詳論は今更私が語るまでもない名作同士なので割愛しますが、それが生まれたことそのものだけでも尊いのに、それぞれ雪組と花組の大切にしてきた【らしさ】をベースに構築されているところも素晴らしい。雪組といえばトップを中心としたピラミッド芝居の真骨頂だし、花組といえば男役スターを中心とした濃い関係性の芝居が持ち味で、それぞれがそれぞれの制約を守ったまま、芝居として洗練されたこと、それができると証明されたことは、唯一にして最大の「新専科制度の収穫」だったと私は感じています。
それぞれ朝海ひかるさん、春野寿美礼さんという「新専科制度の寵児」に“なってしまった側“の二人がその頂点にいたことも感慨深いものがあります。
“制約があるからできる進化“
あの頃からうっすらと描いている【宝塚らしさ】ってそれかなと思いますし、私にとってもこれは人生のテーマです。自分で自分に制約を与えることは、何でもかんでも自由に生きることより広い世界を見せてくれると信じて生きている。
というか、取るに足らない凡人のわたしにはそうしか成長するすべがありませんから。
あの日地獄の中で見上げた蜘蛛の糸の先に、そんな発見があったのでした。
もがいていたのは生徒とファンだけじゃなかった
この時期の「作品力の進化」を語るにおいて、単に「いい作品が増えたよね」で済ませられないもう1つの観点があります。
それは、ベテランたちの壮絶なクラッシュアンドビルド。
具体的に目を見張るのが、岡田敬二先生と草野旦先生です。ご両名は80〜90年代のベルばらブーム以降5組化までの一番熱い宝塚のショーを確立した二代巨頭と言っていいと思います。前物が柴田植田なら、後物は岡田草野。改めて代表作を私などが述べるまでもないと思いますが、私は岡田さん『La Jeunesse!』、草野さん『LET’S JAZZ 踊る五線譜』が好き。
そんな二人は90年代までに名作を連発し、多分皆さんの頭に思い浮かべる「好きなロマンチックレビュー」とか「好きな草野ラテン」みたいなものは大体4組時代だと思うのですが、この二人、実は5組化以降にそれぞれの過去のフォーマットをアップデートしにかかっているところが、この「地獄のシャッフルイヤー」が生んだもう1つの副産物でもあると思っています。
もう、ちょっと見てもらった方が早いのでラインナップをどん!
岡田敬二先生
2003年 - 「テンプテーション! - 誘惑 -」(宙組)
2004年 - 「タカラヅカ・グローリー」(雪組)
2005年 - 「ASIAN WINDS! - アジアの風 -」(花組)
2006年 - 「ネオ・ダンディズム! - 男の美学 -」(星組)
2009年 - 「Amour それは…」(宙組)
岡田先生はなんと言ってもこの『ASIAN WINDS!』からの畳み掛けでしょう。『ASIAN WINDS!』は2000年『Asian Sunrise』のアンサーで、花の御曹司愛華みれさんから春野寿美礼さんへの“事業承継“のような趣すら感じる、花の血の濃い作品でした。
同じく『ネオダン』は1995年『ダンディズム!』のネクストフェーズ。これを同じ花でなく星に展開させるところに、岡田さんの強い意図を感じます。私はいつも花と星は最も遠いようで、最も濃い宝塚という意味では最も同質だ言い続けているけれど、多分岡田さんも同じことを思っていると思う。
からの、『Amour それは…』はアジアン2作・ダンディズムシリーズとは一線を画するロマンチックレビューシリーズです。先にあげた『La Jeunesse!』は、確かロマンチックレビューの記念公演で、自分のロマンチックレビューシリーズの歌を頼まれてもないのに自分でまとめ上げてメドレーするという中々強気で、でも最高な集大成的作品だったはずでした。
一度閉じた幕をまた自分で開けて、それをもっと鮮やかに描き起こして。
それを渡す先が「宙組」というのも、めちゃくちゃオツだなと思うのです。
草野旦先生
『夢は世界を翔けめぐる』(星組・2001年)
『サザンクロス・レビューII』(星組・2001年)
『ON THE 5TH』(雪組・2002年)
『レビュー誕生』(花組・2003年)
『タカラヅカ絢爛 -情熱のカリビアンナイト-』(星組・2004年、月組・2004年)
『レヴュー伝説』(宙組・2005年)
『ザ・クラシック -I LOVE CHOPIN-』(宙組・2006年)
『レビュー・オルキス―蘭の星―』(星組・2007年)
『Red Hot Sea』(花組・2008年)
『BOLERO -ある愛-』(星組・2010年)
『ONE -私が愛したものは・・・-』(月組・2011年)
草野さんはもう、全部ボールドにしたいくらい、2000年代にも代表作と呼んでいい作品が永遠にラインナップしてるところが本当にすごい。
1つ選べと言われたら、やっぱり「地獄のシャッフル」を抱きとめてくれた『タカラヅカ絢爛』でしょうか。あれもロマンチックレビューと同じく、一度『サザンクロスレビュー』で極まったと思っていた草野ラテンがもう一段上に手を伸ばし、まだ雲の上に頂上は隠れていたのかと思ったものでした。『絢爛』〜『ザ・クラッシック』あたりは人事の混乱で心がザクザクに切り刻まれていたので、この傑作二本があったから地べたを這いずりながら通ったようなところがあったことを思い出します。
『夢は世界を翔けめぐる』は言わずもがな大傑作ですが、私は同じくらい『レビュー誕生』『レヴュー伝説』も好き。岡田さんのロマンチックレビューとは違う答え、“軽やかな古典“みたいなものを遺そうという気迫を感じる二本でした。
40年50年、もう十分名作を遺してきた二人が、まだ何か新しいものを遺そうもがいていたということは、自分が10年働いてやっとわかったことでした。自分の過去に成功した方法論を超えることは難しいし、壊すのもものすごい勇気が要ることだとたった10年のキャリアでも思うのだから、彼らの覚悟はいかばかりだったか。今更ながら「すごいものを見ていた」のが、この新専科制度の混乱から抜け出そうともがいていた20年。
2019年星組『éclair brillant』のボレロを見て、直観的に「子供の頃にテレビで見た宝塚のショーが帰ってきた」と思いましたが、これは岡田さん草野さんを筆頭に、ショーでも芝居でも座付作家たちが舞台の熱気を取り戻す闘いをやめなかった結果です。その熱量を子供心にうっすらでも感じ取り、作品力をよすがに通い続けられたことで、結果的にその道筋を実感・体感して来られたのは、自分のキャリアにおいても貴重な経験になりました。フェードアウトしなくてほんまによかった。
「スターを育てる」という世界一難しい学校
岡田草野爺二人がなんでまた老体に鞭打ってそんなにもがいていたのか。
それは、この↑一言に尽きると思っています。
前項で自分を取るに足らない凡人と言いましたが、大人になって思うのは、あの妖精たちも原始は「もっと取るに足らない1人の少女たち」だということ。彼女たちを「スターにする」「役者に育てあげる」ということは、取るに足らない私たちが思うよりもずっと難しい茨の道のはずです。
自主性を重んじるとか、多様性を認めるとかというのは「現実社会の話法やで、ヅカは仮想現実なんで✋」ということのみならず、自己責任の世界、強者必勝の個人主義ということが言えると思います。だから、それは現実社会の正解である。今んとこ。そういう論理の順番。
ただ、宝塚は、発端は「何者でもない」少女たち、男役だろうが女役だろう実力者だろうがヘタクソだろうが、全員が力を持たない弱者でスタートするわけです。なんなら、どんどんスターダムに押し上げられていくに従って、立場は弱くなっていくのかもしれない。あの子たちが1人ひとりの研鑽と成長を通して目指すのは宝塚という「仕組み」の表現と保存であって、その手段・象徴としてのゴールがトップスターなのだなと読み解いています。あの子たちの目指しているのは、そもそも「個」の自己実現ではない。
個の自己実現を負う一般人の私たちを守る正義と、あの子たちを守る正義は何から何まで別なんです。古参と言われる人たち、長らくどっぷり宝塚を好きな人たちは、そこを前提として飲み込んでいるんだよということを説明しておきたくなりました。
だから、結論を言うと「新専科制度」にまつわる経験は地獄のようだったけれど、あの制度を「強行したこと」そのものについては大いに支持していると言うのが私の考えです。
宝塚を見てファンが「少女の頃に戻る」のは、理由なく惹きつけるトップスターの魅力あってこそ。よく「パートナーの好きなところを言ってみて」と言われてスラスラ答えられる人はその人のことそんなに好きじゃないみたいな噺がありますが、それと同じでスターに理由なんて求められたら、その人はもうスターじゃないわけです。
だから時にあんなふうに、有無を言わさない大きな力で強引に舵取りをしてくれた方が納得がいくなと。「スターを育てるんだ」「絶対に遺すんだ」そんな気概を、あの地獄の時期から感じさえするなと回顧するのです。
その劇団の強引な舵取りの中、生徒1人ひとりに役者として立たせるように鍛えるのが座付作家たちの仕事です。あの時期を振り返るにつけて、だから宝塚は例外なく座付に拘っているのだなとも発見します。
あの子たちを「プロの役者」ではなく「スターに育てる」ことと、芝居やショーの質の向上・役者としての基本や人生を教えること、その全てを負う座付それぞれに頭が下がる思い。個々に作風や読解に好みやそうでないものはありますが、おそらく世界一全体主義である宝塚というシステムの中で、個々をきめ細やかにブラッシュアップさせようとし、そのためにいつまでも自分の最高記録も超えようとするジジイ(と今やお姉さまがた)たちが集う集団、なんてかっこいいんだろうと思ったりするのです。
「地獄のシャッフルイヤー」で宝塚から離れなかった理由は座付作家にあり、今私が座付作家を猛烈に推している理由は、宝塚歌劇という世界一メジャーなニッチカルチャーを、なんとしても遺していきたいと強く願うからでした。
めちゃくちゃ長くなった。まあいいか。
ご清聴ありがとうございました。
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