宝塚de文学裏入門❶柴田侑宏さんの台詞たち
勝手に裏話シリーズ。わたくしの大切なお仕事「宝塚de文学入門‼︎」の中に書ききれなかったエピソードをご紹介していく連載です。あれ自体は宝塚歌劇を知らない人にもわかるように書いているので、こっちではどんどんすっ飛ばしてオタクモード全開で行きますよ〜!
まずは「柴田侑宏先生」の回。さすが、みんな大好き柴田先生、よく読んでいただきました。
この連載のきっかけとなった「#座付を推す者」という自分のスタンスの発端は確実に彼との出会いのおかげです。10歳の頃の、宝塚との出会いを整理してみました。
圧倒的柴田作品〜! 今見ると天才的な布陣ですね。谷先生や太田先生も大好き。爺もなんやかんや好きです。連載中も書いたけど、やっぱり王道だなと思います。
そんなわけで、今回の「裏口入門」では柴田先生との出会いによってヅカ受験生を経て「座付を推す者」になったわたし的・好きだったけど初心者に説明するのはあと5万字ください!となったセリフたちを振り返っていきたいと思います。
※ こちら旧住所の再編集になります。一度読まれた方はすみません💦
この裏切りはわたくしにとって命、なくなれば死にます(花の業平/星01)
『伊勢物語』をベースにした、稀代のプレイボーイ・在原業平と、時の施政者・藤原基経の妹・高子との伝説のロマンスを元にした作品です。業平を当時のわたしのご贔屓・稔幸さま、基経を香寿たつきさま、その妹君を星奈優里さまが演じました。
この当時はわたしは中3?とかで、一通り伊勢物語の知識もありましたので、なんともカラッと明るい優等生タイプの我が贔屓が「稀代のプレイボーイ」を演じることに、若干の違和感があった。それがひとめ見るなり、もう、無駄に場所だけ取っている我が鼻を地面に擦り付け、削れるほどひれ伏したというくらい、ノルさんは業平で優里さんは高子でした。
ノルさんの、潔癖にも見える明るさと聡明さ、しかしその反面細くて頼りなげな線の細さが、まぎれもない報われない不器用なエリート皇族の悲哀を表現していました。これは唸った。「似合わなくない?」とかいってごめんって。
そして、これはタカラヅカならではの、一種の【残酷性】なのですが、基経に高子がこう罵るわけです。
「行き遅れのおまえ」と。
(ちょっと忘れたのでニュアンス。高子が縁談を断り続けるため、当時最高権力者である基経の妹でありながら、年下の親族に入内の先を越されてしまう)
まず、これは何という当て書き…というとご本人に失礼だけど、本名の彼女ではなく、芸名の彼女に対するすごい当て書きだと思いました。
というのも、優里さんがノルさんの隣に来てくださるまでの道のりは、長くはなかったけど曲がりくねっていたじゃないですか。まず、星組時代に新人公演でコンビを組みます。バウとかでも組んだんじゃなかったか。しかしその後、1年下の花總まりさんが台頭します。『白夜伝説』の盲目の少女・ミーミルちゃんか何かで、一躍脚光を浴び、その後『うたかたの恋』のジャン(麻路・代役稔)の相手役としてストーリーテラーを務めるなど、ご存知の通り彼女の驀進に影をひそめることになる。
それだけならいいんだけど、その後、花總さんが雪組トップとしてお披露目するとき、その傍に優里さんがいましたね。一路さん・高嶺さん治世と、しばらくそのハナ優里体制は続いたのだった。
結局5組化のどさくさで、当時星組で、同じように「不動の娘2」ポジションを固めていた月影瞳さんと単純トレードするような形で、星組の主演娘役に帰ってきたという経緯でした。
そんなヒロインに対して「わがままで行き遅れているお前の面倒をみるこちらにも…」というシチュエーション、とりあえず全わたしが千々に引き裂かれるような気持ちになりました。
業平から引き離され、失意のうちに「行き遅れ」て入内し、業平は高貴の生まれながら低い身分のままその一生を遂げる…… これが『伊勢物語』の本来の結末。
だが、銀橋のラストシーン。これは原典になく、柴田さんが付け加えたオリジナルの展開で、梅若(絵麻緒ゆうさん)らの計らいにより、業平と高子は再び密かに見える様子がえがかれています。
業平 貴女を苦しめているのか、わたしは…!
高子 いいえ決して! 貴方はわたくしの、生きている証
業平 こうしている時が…既に貴女には裏切りとなりましょう
高子 この裏切りはわたくしにとって命、なくなれば死にます
ここ泣かなかった人いるの? わたし、バスタオルと友達になりました。紹介します、ボーイフレンドのバス・タオルくんですって感じで抱きしめて泣いた。
何って間が素晴らしくって、優里さんの芸風って少し古いというか、かなり奥ゆかしい「背が高くて踊れすぎちゃうんで5歩以上下がっときますねどうぞ!」くらいのしとやかさがウリでいらした娘役さんなのに、この応酬は、すごいスピード感だった。
逡巡とか無い。鮮やかな即答。
全ノル優里ファン(きっと古ければ古いほど)が成仏すらした、柴田先生が描く業平と高子「最後の一文」でした。
きっと一生、一番強く忘れない、こころの渡し合いの言葉です。
ついでいうと、ノルさんは未だに優里さんのことを「姫」って呼んでいる。
彼女と歩んだ短い燃えるような就任期間を、そう弔いたくなる気持ちにいたく共感し、まだわたしは彼女のことを好きで好きでたまらない、尊敬する人だと思えている。
…なんか、ノルさんの話になってしまったけど😬
その2人の【永い逡巡】と私たちの待ち焦がれた思い、どちらも成仏させてくれたのが、柴田先生の書いた「この苦しみがなければわたしは死にます!」だった。
苦しみがなくても、ひとは生きていけないんだなって。
そういう人としても大事なことを教えてもらった、柴田さんと高子に。そんな中3の終わりだった。
駒を拝借!!(飛鳥夕映え/月04)
ここからは、シーンというか、とても印象に残った【金言】を、紹介していくことになります。
『飛鳥夕映え』は蘇我臣鞍作(彩輝直さん)とその妻・瑪瑙(映美くららさん)の一代記であり、藤原鎌足・軽皇子・石川麻呂をそれぞれ特別出演の貴城けいさん・瀬奈じゅんさんと月組の大空祐飛さんが役替わりしたことが話題となった、90周年のお祭り王朝ロマンです。柴田先生はもう体調が思わしくなかったとお聞きしており、演出は大野拓史先生でした。
その好きな台詞、早速。入鹿が暗殺されたことを聞かされたシーンです。
瑪瑙 父上! 駒を拝借!!!!
亡骸に追いすがったり、気を失ったりするでもなく、そこ(甘樫丘)から馬を飛ばすというヒロイン像。あのシーンに続き、それはタク先生の演出の妙なのだろうが、舞台上をななめに横切る葬列に並行する形で、放心した瑪瑙が歩いていくというシーンがつくられており、秀逸な演出だなと思いました。
崩れ落ちもしないし、涙も枯れて、それでも足は歩いている。
1500年前の、きっと現代のような消費のされ方も抑圧もきっとなかったかもしれない時代。女性のみずみずしい感情があふれるように描かれた【配偶者が死んだ女】の情景。まさに、可愛らしい容姿ながらみずみずしく凛々しい映美くららさんらしいセリフでもありました。
自分ならその時、運転(馬は無理としてもね)できるだろうか。
いや、でもする気がする。じゃないと会えないんだもの。何かが覚醒してでも、その場に行こうとするはずだ。
自分で動けないほど憔悴するとか、気を失うとかっていうのは、男の人の描く女なのだよな(それはそれで美しいのだけど。そうなりたい自分もいる)と思った。
そんな2004年、受験前夜でした。改めて、女である私が女である娘役を演じようとする時…大事なことに気づいた、色鮮やかな台詞。
いや失礼、嬉しいですね。それはいい(うたかたの恋/星18中日)
台詞自身にはもっと早く出会っていたのだけど、あの中日で【台詞が正当な持ち主に出会った!!!】と感じた、わたしにはタカラヅカ史上一番好きなセリフかもしれない。そんな作品。
『うたかたの恋』に関する説明、要ります?要らないよね? ここまでマニアックな作品の解説読んでるんだもんな、わかんないひと、もう、ググってくれ。
ルドルフ 私が恋をするのが、そんなに可笑しいか!?
ジャン いや、失礼…嬉しいですね。それはいい。
この台詞の秀逸なところは、2つあります。それはまず、誰もが分かる方から話すと、この一言で「ルドルフの闇」が描かれている。たった20文字の返答で、です。
これは、ルドルフがマリーとの逢瀬について、少年のように従兄弟のジャンにほおを赤らめながら語って聞かせるようすを見て、思わずジャンが破顔してしまうというくだりのあとの応酬です。
ジャンの慈愛に満ちた破顔を、ルドルフは【笑われた】ととってしまった。それに対し、やや激昂ぎみにジャンに詰め寄ったとき、その人間らしい尊い様子に対して、ジャンが「今笑ったのは嬉しいからだ」と心の内を改めて解く、そんなシーンです。この一言で、今までルドルフがそういった類の笑みを向けられたことがない男であることがわかり、それがマリーとの初逢瀬で見せた髑髏との整合性が取れる、という超高度な20文字だったりする。
もう1つは、この台詞のその【役割】を特にしっかりと表現していようがしていまいが、きちんと進行して完結する物語であるということ。これが実は、柴田作品の最大のよさであり、むずかしさでもあるかもしれない。
この「いや失礼」は、非常にちょっとしたシーンであり、今自分で言ってみて測ったんだけど、ルドルフがムキになるところから含めても10秒足らず、ましてやジャンのセリフそのものはたった4秒のセリフでした。しかも、本題(なんかきな臭い動きがあるよという話)(雑)の序段という。
実際に、自分が見た中で麻路さん・稔さんのジャンもカッコ良かったし、このセリフが大きな意味を持っているんだなということは何度も味わううちに次第に理解していきましたが、そこに一発ですべての意味を持たせていたのは、手前味噌ですが紅ルドルフと七海ジャンだったと思うのです。
まず、紅さんの「そんなに可笑しいか!?」が、大層子供っぽく、そして危うい。単に可愛らしい雰囲気でお言いになるルドルフはこれまでたくさんいましたが、さゆみさんの場合、若干そこに狂気を感じました。ちょっと早口なのかな。そういう微差。すごい繊細な演技だと思う。
それに対して、七海さんの『うれしいですねえ』は、本当に、なんていうか、語彙力が喪失するくらい良かった。大の大人に対してだから、普通の解釈としては少しライトというか、揶揄うくらいの軽さがあってもいいようなものを、七海さんはあの『いや失礼、嬉しいですね。それはいい』を、初めて赤子が喋ったのを見たような優しいふるえる声で囁いたのでした。たぶん、そのあたりにさまよっているルドルフの怨霊がいたら、わたしといっしょに成仏してくれるんじゃん?くらいの、すごくいい『うれしいですねえ』だった。
そして、その優しくてまぶしい『うれしいですねえ』を引き出したのは、まぎれもなくうちの若・紅ルドルフだということも付け加えておきたい。さゆみさんもカイさんも、柴田作品に魅せられたオタクたちだったはずで、ずっと柴田さんの言葉に触れて憧れ続けてきた彼女たちだからこそ、呼吸するようにルドルフの青春の輝き(激昂)とジャンの心の震えを表現できたんだと、思ってます。
日本語・構成そもそもが完成されているのに、奏でる人によってさらに醸成されていく、ワインみたいな脚本、それが柴田侑宏さんの宝塚歌劇でした。
ご冥福をお祈りするとともに、今後もあなたの愛した世界を見守り応援し続けることを誓います。
冥土歌劇団で、また!!!
***
「初台詞が柴田作品であった」と偲んでおられた芝居巧者の某OGさんがいました。
その方を育てたのは、紛れもない、その【初鳴き】だと、私は信じています。
『GOD OF STARS 食聖』やら『めぐり逢い』、あるいは『暁のローマ』とか正塚作品の多く…といった完全なる当て書きはそうそう再演すべきものではないが、良い文学作品は無理をしてでもどんどん再演してほしい。
演じることをとおして触れられる世界があるんです。そして、それより広い世界はない。
ただでさえ、短い文章で短気・瞬発的な感情表現しかできない(かつその繰り返しを長文だと思い込んでいる批評家気取りも含む)観客と、それに触れて入学してしまう受験生・未来の役者を擁しているのだから、なおさらです。
美しい人物描写とこころのわたしあいを、たくさん再演してほしいと願います。
さ、『花の業平』のせおくら再演はまだですかね(結局)
ご静聴ありがとうございました。
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