【ネタバレ多分有】18年齋藤吉正贔屓の宝塚ファンが『JAGUAR BEAT』の見方解説します
星組宝塚大劇場公演『JAGUAR BEAT』。早速観てきました!
初日より、意味が分からないとかトンチキとか、前物の『ディミトリ』を吹き飛ばすとか、好き勝手言われているのを横目で見ていましたが、私には今まで観た宝塚のショーの中で一番好きなものでした。
このnoteでは言ったことがなかったかな?と思うんですが、私はある出会いから18年来の齋藤吉正先生のファンです。
みなさんがさんざん意味が分からない、トンチキだとおっしゃるので、齋藤さんのプロとして(?)私が見立てを発表、齋藤作品の‟歩き方”みたいなものを解説していきたいと思います。
私と齋藤(ひどい見出しだな)
筆者は10歳から25年来の宝塚ファンです。
ただ、音楽学校を受験するほどまでの熱心なファンでありながら、ずっと、どうしても後ろ暗いというか、未熟な幼心には胸を張って「宝塚が好きなんだ」と言えないと思っていました。
その理由は、後物。宝塚のレビューやショーの現実離れした豪華絢爛さ、スターたちの美しさに惹かれながらも、どこか恥ずかしいものという印象がありました。今となってはその浮世から離れたところが唯一無二の魅力だと思っているし、さらに「オタク文化」が市民権を獲得した今、特に気後れせず「宝塚いいよ」と人に勧められる環境にもなりました。
でも、80年代の個性が爆発するカラフルな時代の否定の上に成り立った90年代。その後半にティーンだった私にとって、洗練や抜け感をよしとする世間のムードと一切隔離された宝塚の世界は、どうしようもなく好きで、一方でどうしようもなく怖くもありました。
学校という小さな世界のクラスメイトたちは、小学生の私には世界のすべて。その子たちと共有できないものは恐怖でした。多様性を正義とする今の人たちには嘲笑われてしまうかもしれないけれど、世間の美的感覚と離れたものを胸を張って「好き」という勇気がなかったのです。
そんな恐怖から吹っ切れたのは中学・高校時代。吹奏楽部に入り、クラッシックやジャズなどの「古くていいもの」を愛好し共に追求する仲間と出会ったことが大きかったです。
それでも私には、いまだ宝塚のレビューやショーは「見るもの」でした。前物と違って音楽や舞踊で綴られているわりに、音楽的な魅力をひとつも感じることができなかった。もちろん、見識の少ない子供時代なので、宝塚のレビューやショーを通して知ったジャズやクラッシックの名曲もありますが。
宝塚のショーの揶揄される点は、タイトル連呼や自画自賛系の主題歌が挙げられます。また、唐突でブツ切りの物語性。突然争いが起こり踊り、一人が死んだり、という。
が、私にとって最も気持ち悪いのはそこではありませんでした。何度も同じ曲が繰り返し使われ、おなじみの曲であればあるほど機嫌良く手拍子をしている客席の“ノリ”が寒い……。そんな温度差を心の奥に抱えていました。
そんな中、恋に落ちるように心震える経験がありました。
2004年の正月、『アプローズ・タカラヅカ!』。
“いつも通り”、いやいつも以上に「宝塚らしい曲」で幕が開き、眼前のスターたちに見惚れながらも惰性で手拍子をしていました。17歳だった。
次場は贔屓・瀬奈じゅんさんの銀橋渡りから始まりました。オリジナルのロック風チューン。宝塚らし〜いダサい曲をキメキメで歌う贔屓。この頃になるともはや、安心感すら覚えており、変なカツラだな〜くらいの感想で。
次の瞬間でした。
銀橋を渡り終えて、本舞台に瀬奈さんが歩いていく。
その背後に聞こえてきた鍵盤の音色、合流するトランペット……。ダサい1曲前と同じロック風のムードをシームレスに引き継ぎながらも、明らかに「いつもの宝塚」で聞いたことのない洗練されたサウンドでした。それもそのはず、そこから2曲は当時メキメキ頭角を表していたインストゥルメンタルジャズバンド・PE’Zの楽曲だったのでした。その選曲と、溶け込ませ方と。しびれました。
「宝塚が好きなことと、カッコよくありたいことは両立できるんだ!」
それは子供の頃から人に言えない趣味であることを受け入れていた私には新しい希望でした。宝塚のショーを見るようになって8年目のことでした。
また、あのレビューは三木先生、藤井先生、そして齋藤さん3人の共作で、全体のテーマが「ジャズ」でした。その中で齋藤さんは、いわゆる宝塚ファンがお好みの70年代以前のジャズではなく、アシッド系、しかもジャパニーズジャズの最新ナンバーをチョイスしていました。(確か2002年発売とかの曲。)
耳の気持ちよさと、私がずっと沸々と「気持ち悪い」と思っていた慣習への挑戦と。
「私この人好きだなあ」
そう思いました。
単なる‟動物のジャガー”をモチーフにしただけの話なのか?
相変わらず前置きが長い。長いぞ前置き!やっと『JAGUAR BEAT』の話に移ります。
「メガ・ファンタジー」などという聞いたことないジャンルが冠されて発表になったときは、単に齋藤さんの新作ショー見られる!わーい!というだけで。雄々しい礼さんがジャガー、しなやかな舞空さんが鳥というのもなるほどね〜と。ただそれだけでした。
が、ですね。初日の神戸新聞。
……!!!
もしかして、ジャガーって、単に動物のジャガーではないんじゃないか……イエモンでジャガーといえば……
それは、彼らが1994年に発表したコンセプトアルバム『jaguar hard pain』。先の「ROCK STAR」が収録されたアルバムです。
コンセプトアルバムとは、1曲1曲が単体で独立した一般的なアルバムとは違い、一貫した筋書きをもとに楽曲が並べられたアルバムのことです。デヴィット・ボウイの『ジギースターダスト』ですとか。U2の『ZOORPA』、人間椅子の『怪人二十面相』。ロックに明るくなくても『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、ご存じの読者様が多いと思います。あれは、先にコンセプトアルバムとして発売し、のちにミュージカルとして上演されました。迷い込んだジャニオタ向けの例だと、関ジャニ∞『8UPPERS』とか。
『jaguar hard pain』は、異国で戦死した青年ジャガーが、死ぬ間際に恋人マリーの魂を見たことで死んだことに気付かないまま魂だけ50年後にタイムスリップし、恋人の面影を追い続けるというストーリーのもと12曲がラインナップしていました。
そのうちの4曲目を、同じ「JAGUAR」を冠するショーで引用すると。これ、意味を感じない方が無理というもので。「ROCK STAR」はシングル化されておらず、ライブなどでは歌われていますが、齋藤さんのことだから引用する以上アルバムを聞いてないはずがない。
また、私にとって、初めてコンセプトアルバムというものに出会ったのが当作で。大学1回生の時、吉井さんを好きな友人の自宅で聞かされたんですよね。夜中の2時は確実に過ぎていたと思う。酔いつぶれて寝てる奴もその辺に転がっている、地獄みたいなモラトリアムの景色のなかで、出会いました。
期待を胸に、自分の初日を指折り数え、12月2日。
公演パンフレットを読まず、筋書きの先入観を持たずに見た『JUGAUR BEAT』は、あのジャガーが+28年彷徨いつづけているみたい……!そう感じました。
ちらほら見かけた「インフルエンザのときに見る夢」という揶揄。あれ、あながち間違っていないと思います。
(複数お見受けしましたので特定の誰かを糾弾し反論する向きの文章ではないことをおことわりいたしておきます。ご安心を。)
※ ここから以降は本筋に触れていきます。特に『jaguar hard pain』を聞いたことがあるような見識の深い人は、読まないで観た方が圧倒的に楽しめると思う。イエモン好き未見勢は回れ右。むしろ観た後に感想を聞かせてくれ
『JAGUAR BEAT』の前に『jaguar hard pain』を紐解く
当作の主人公・JAGUAR(礼真琴さん)は、単なる獣をモチーフにしたキャラクターであると同時に、兵士・ジャガーの彷徨う魂、要は元人間の死後の姿でもあるのではないか。そういう仮説です。
それを考えるために『jaguar hard pain』の収録曲を概説します。単に要旨を追うつもりでしたが、久しぶりに通しで聞くと音楽的な構成もかなりリンクしているように感じたので、素人ながらサウンドの解説も添えていきます。こんな長たらしい文章飛ばして良いので本当は聞いてほしい。Apple Musicにリマスターが入ってます(歓喜)
SECOND CRY
戦死した兵士ジャガーの魂が「From 1944 to 1994」、50年後にやってくるというこのアルバムの前提を歌う曲です。エレキギターとボーカルのみの語るような導入から、ドラム他のサウンドが合流して盛り上がっていきます。
FINE FINE FINE
一転、バスドラとタムのジャジーなリズムでガラッと空気が変わり、縦ノリの曲調に。このアルバムで一貫して登場する「あの娘」に対するラブソングでもあるし、「穴が開いた胸」は前曲で歌われる「三発の弾丸」が打ち込まれた胸でもありそう。
A HENな飴玉
前曲のアッパーなテンポを受け継ぎつつ、エキゾチックな質感も加わるファニーな曲。前曲のラストのドラムで表拍に移行してる。好きな繋ぎ(※)。「世紀末のEndless game」というサビが象徴するように、頽廃した歓楽街を想起させます。
ROCK STAR
陽気なエイトビートで、同アルバムの中で比較的親しみやすくメロディアスな位置付けの曲です。呑気に聞こえるんだけど、ところどころ「幻覚が足りない」などとあるので、前曲の「A HEN」でラリってるんでしょうね。
薔薇娼婦麗奈
一転してややテンポダウンし、重いラテン系の曲調になります。ややストリングスが効いていつつ、途中のギターソロ超かっこいい。このアルバムで唯一、ジャガー本人以外の名前が歌われる。
街の灯火
さらに曲調が変わり、のんびりしたワルツです(と言ってもBPM150くらいかなぁ)。「透き通る青い空の下」とあるんで、薬でキマって女買って、その翌朝でしょうね。二日酔いワルツ。フランス語で愛は素晴らしい、愛は、愛はと繰り返し、恋人を探してます。
RED LIGHT
静かなギターの伴奏と女性の歌声で始まり、重たいロックチューンに展開します。ここで出てくる「左利きの少女」は麗奈とはまた別の女。恋人の面影を探す日は続く。
セルリアの丘
ゆるくてメロウな曲調。主人公は一人心のうちに向き合っています。「色とりどりの罪」はここまでのことを言ってるんだろうな。
悲しきASIAN BOY
先行発売されたシングル曲。アッパーかつキャッチーなロックチューンでありながら、軍歌や歌謡曲も参考にしているのだそう。ロック音楽という強烈な異文化に出会い、抗うことのできない二律背反を歌っていると評されることもある。
赤裸々GO!GO!GO!
前曲のカップリング。古式ゆかしいロックンロール(ロックじゃねえぞ)だけど、切ない。ジャガーはそろそろ、自分も恋人も死んでしまったことに気づき始めている。
遥かな世界
ギターのサウンドが支えるスローテンポの曲調に一転。タイトルにもある通り、50年に渡る魂のさまよいの終わりの予感。強い痛みを想起させる描写が繰り返されながら「もう痛くない」と歌う。肉体が滅んだことに気づくジャガー。
MERRY X‘MAS
鍵盤とストリングスが効いた超メロウな唯一のバラードです。ジャガーが探し続けた恋人マリー本人の言葉が初めて紡がれます(ボーカルにより二役)。「君は一人じゃない」と叫ぶように歌い、しめくくられます。
青年ジャガーの魂は、盛り場から面影を求めた女へ、また一人になり、そしてまた恋人を探し……と、ふらふらと移ろっていきます。これはアルバムを通して聞いてもらうのが早いんですが、ぶつ切り感がなく気持ちのいいグルーヴを保ったまま、それなのに唐突に心象風景は変化していく。歌詞もミュージカルのように説明的ではありません。聞き手は物語を補完しながら聞き進めていく。
これって齋藤作品に限らず宝塚のショーと似たものを感じます。そもそも、この“コンセプトアルバム“って、要は宝塚のショーと似ていますよね。曲だけで物語を紡いでいく。『怪人二十面相』なんか大好き。ぜひ聞いてみてほしい。
JAGUARとは、ジャガーの見ている別の夢ではないか
で、やっと今作にただいま~。
公演パンフレットには、各場面ごとのストーリーが細かに説明されていますから、それはそれとして正規のプロットなんだと思います。読まずに観ても読んだうえでも意味がわからないと嘲笑う人もいますが、別に宝塚のショーの物語性って大体あんなもんだと思うんですが。物語が首尾一貫してるのは『ノバ・ボサ・ノバ』、『サジタリウス』、そして『BADDY』くらいのもんで。
ただ、正規のシノプシスだけでは説明がつきづらい点は何点かある。それが全体を通して、あんなに華やかで煌びやかな世界のどこかに影を感じる要因にも見えてきます。
最初に引っかかったのは、マシンガール(詩ちづるさん)でした。猛獣使いが使う女たちのなかにおいて異質な存在。JAGUARを癒すも、壊れてしまう。
「RED LIGHT」内の「左利きの少女」を想起しました。当アルバム内の「世紀末」の狂ったような世界の中で、唯一生々しい‟相手”を感じる悲しくて痛い曲。また、同曲は「宇宙を買う」とか「背中の羽根をむしる」とか、今回の作品のプロットに関連するキーワードが出てくる曲でもあります。
また、中詰の熱狂を経て再会したクリスタ(舞空瞳さん)はなぜ車椅子に座っているのか。そして、どうしてJAGUARと再会するや否やいとも簡単に立ち上がるのか。
ここが一番意味がわからないと揶揄されるポイントだと思うんですけど、私は割とすんなり受け入れてしまっていました。それこそが、頭の片隅に『jaguar hard pain』のコンセプトを置いていたからです。
再会した二人を襲うバファロー(瀬央ゆりあさん)はサーカスの追っ手とシノプシスにはありましたが、あらすじの予備知識のない私には兵士に見えたんです。“戦争”をイメージしました。だから、クリスタの正体はジャガーの恋人マリーで、実際は既に戦禍で負傷したすえ死んでしまっていたのではないかと直感しました。これはジャガーがJAGUARになる前に見た光景のフラッシュバック……?
答え合わせに公演パンフを読むと、JAGUARは「異国に住むクリスタ」に「クリスマスに」会いにいくとあります。先のアルバムでのマリーは「祖国に残してきた恋人」であり、12曲目二人が初めて言葉を交わし合う曲は……
正規のシノプシスが詳細具体的にあるので、ひとりよがりな深読みであることは承知の上で、半人半獣の青年JAGUARが悲しみを通して愛を知る物語は、青年ジャガーが1994年にマリーと自分の死を知ったのちも、28年の時を超えてふたたびマリーを救いたい夢のつづきに見えました。車椅子から立ち上がるどころか、止まった心臓さえ動き出してまた自分の胸に飛び込んできてほしい。
だからクリスタの“死後“も何度でも二人で踊る。恋人の面影を追い続けるから。二度目、宝塚のショーの的には最後のデュエットダンスだけれど、幕切れたあともジャガーは夢の中で恋人と永遠に再会し踊り続けるのかもな、と。
だからすべての場面がうなされるように極彩色で、「胸に穴が開くくらい」音でつんざいてくるのではないかと思いました。
音楽的な構成も似ているといいましたが、一つは「ROCK STAR」の位置。プログレ風アレンジの「G線上のアリア」から始まるプロローグは狂ったようににぎやか。「FINE FINE FINE」~「A HENな飴玉」を聞き終わったのと同じような後味を感じながら聞くことになります。次場、中詰と熱狂したのち白妙さんが歌うワルツにつながっていくのも、「街の灯」が挟まっていることで感じる浮き沈みに似ているなと。
齋藤さんは本当にシーンとシーンの音楽的つながりを大切にする人です。しかもそれは感覚でなくある程度技術として仕掛けられていまして、たとえば『BLUE・MOON・BLUE』。ダーティなロックチューンからバニーに扮した娘役たちが歌うポップな楽曲に移行するとき、先述(※)の「FINE FINE FINE」〜「A HENな飴玉」みたいな切り返しがキマってるんです。先の『アプローズ・タカラヅカ!』内のPE‘Zもそうだけど、「間奏でぶち上がる」ってやつ。これ、ライブやクラブに通う人には「だから何?」って感じなんですが、宝塚のショーでは稀な気の回され方なんですよ。ライブでは一番の気持ちいいポイントですよねこれ。でも、宝塚のショーでは珍しいことなんです。最悪、あったとしてもダサい。
これ、私が子供心に抱いてきた「人に言えない」浮世離れ感にも通じていると思います、今振り返れば。特に苦手と感じるショーは、ほぼカラオケ大会なんですよね。曲と曲で曲を殺してることすらあるんですよ、宝塚のショーって、作り手によっては。
もうすこし裏付けを続けます。
主題歌「JAGUAR BEAT」の中に、1曲目の「SECOND CRY」を中心にリンクしたキーワードが散りばめられてるんですよね。
歌詞を曲と切り離して比べていくのは後出しジャンケンのようで無粋ですが、わかりやすいので失礼しました。
さらに話を広げていくと、先に例示したデヴィット・ボウイ『ジギー・スターダスト』は、宇宙旅行がモチーフです。『jaguar hard pain』はこちらにインスパイアされてもいるそうで、そうなると『JAGUAR BEAT』の舞台が宇宙の旅であることも意味を感じたくなります。
「ロックという異文化」への遅すぎる邂逅
繰り返しますが、ひとりよがりな考察で、齋藤さん本人からは考えすぎだよと笑われてしまうかもしれないことも重々理解しています。
ただ、私にとっては齋藤さんのつくるものって、そのとき悶々としている気持ちを代弁してくれることが多いのに、それでも言語化するのがむずかしくて、ずっとずっと世の中にそれを発信できずにいました。
過去にやっていた座付作家のコラムの中にも、ラインナップすることを諦めました。
が、今回わざわざこんな長文でだらだらと書こうと思った。その理由はもう1つ。パンフレットのこの部分でした。
まず、ここに強く共感しました。私は宝塚の浮世離れ感を受け入れ愛していながら、‟ジャズやシャンソン、ひどい場合はラテンという曲”があるかのようにおなじみのナンバーに機嫌をよくし、仮にポップスが使われたときも歌っては拍手、踊っては手拍子……という‟スタアのカラオケ大会”的な後物にうんざりしていたからです。興奮して超口悪いけど。すみません
やっちまってくださいよアニキ!そんな気分だ。
また、『jaguar hard pain』に収録される「悲しきASIAN BOY」は、音楽評論において、日本人にロックがつくれるのか?歌えるのか?という当時の議論の文脈の中で語られる楽曲でもあるそうです。
邦ロックがジャンルとして確立した今ですが、戦後50年そこそこの当時。70年代にフォークやロックを聞き始めた先人は、駐屯地のアメリカ軍のラジオを聞いたり、駐在兵が帰国するときに売ったレコードを買ったりしていたのだそうです。その時代を経て、今があります。日本人のロックは猿真似か? 異文化を受け入れることは、日本の独自性を食いつぶすことになるのか? でも、どうしようもなくかっこいいと思う自分がいる……
アルバムのコンセプトと別に、そんな思いもあるのだと。
(今だとHIP HOPがまだこの段階にあるような感じがします。FREE STYLEの技術とか、ダンスの方では前に進んでる感じがあるけど)
『JAGUAR BEAT』は、世間から30年遅れの、宝塚とロックとの邂逅だと思いました。From 1994 to 2022……
ロックやポップスを多用する作品はこれまでもあります。その何とも言えない居心地の悪さ。そして一部のファンからの、ロックやポップスを使うという事実だけを十把一絡げにした、良いだの悪いだのの評価。
そこから次のフェーズに進みたいという齋藤さんの思いのようなものを巻頭言から読み取るほどに、戦後50年のあの日に、‟ちっぽけな日本のロックバンド”だった売れる前のイエモンが発表した1枚のコンセプトアルバムを、おまもりのように意識しているのではと思えてならないのです。
ちょっと長すぎるなこれ。もう読んでる人いないか。最後に隙自語失礼しますね。
当時の日本人がロックなんて不良の音楽だとか言いつつ、日本人のオリジナリティと自負、抗えない胸のときめきと闘っていた二律背反は、自分の子供時代の「宝塚のショー」への抵抗とも重なる部分があります。
だから、『JAGUAR BEAT』は宝塚のショーにしちゃ最高にイケててかっこいいけど、ロック音楽として「世の中に出せるほど」洗練されてるとはひとつも思ってはいませんよ。一応ね。 彼の言うように‟メイドインタカラヅカ”、宝塚のショーでしかないんですよ、良くも悪くも。
当時のイエモンや日本の若者たちが、ロックに憧れ、抗い、模索しつつも、それがちっぽけな島国で生まれたジャパニーズロックでしかないように。
ただ、新しい一歩だなと。
宝塚のショーも、今や圧倒的な正解のようになった白井先生のレビュー路線とはべつにさまざまな挑戦が生まれては消え、たくさんの演出家が派閥争いのようなものに負けて去っていますから、これがニュースタンダードになるとは思ってません。
が、力強くて最高にかっこいい一歩だなと思いましたし、私は支持したいという表明。
紅さんの記事のときも似たようなモヤモヤを書きましたけど、ずっとずっと言いたかったことがあります。
齋藤さんのつくるショーは、トンチキでもなんでもないです。感性やセンスが先に出て論理が後回しになることはありますが、感性やセンスなく客の尻だけ追う媚びた作品はつくりません。いつだってずっと本気です。
彼自身論理が後回しになるし、私もそこが好きなもんだからなかなか言語化できずにいたのでスッキリした。異論は認めるけど、議論するつもりはありません。私がそう信じているという、ただそれだけの話です。嘲笑いたきゃこれからも嘲笑えばいいよ。
私は彼と彼の作品を愛していて、彼を愛せる自分も愛してるんだ。
また、そうやって嘲笑う人ほど、齋藤さんのことをヨシマサ、サイトーと蔑称で呼びますが。(これは齋藤さんに限ったことじゃないけど。座付を蔑称で呼びますよね宝塚ファンって。)
THE YELLOW MONKEYが日本人の蔑称に由来していること、覚悟と葛藤みたいなものを思い起こし……。‟蔑称で呼ぶ側の人間”にはなりたくないなと強く思うのでした。
世間や自分と闘い、ときにつまずきつつ、本気で生きる側の人間でありたい。
意味、わかりましたでしょうか。私がトンチキで不可解な🐵に見えていますか?
どちらも正解だと思います。
そんなに簡単に人の目って、変わらないので。私も頑固ですから。信念や嗜好を変わるつもりはない。
それでも10分前には見えなかった、変わった人間がいるんだなと見知っていただけましたら、幸いです。
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