【ネタバレ】「戦争も革命も“殺人”だ」~非暴力を強く説く“新装・植田版”『ベルサイユのばら―フェルゼン編―』の読解【宝塚】
ご無沙汰です。
季刊「宝塚イズム」寄稿候補として書いたが、観劇日と締切日の都合がつかず掲載にいたらなかったものをリライトしました。
ですのでWEB向きの文体ではないんですが、前回そうしたように記事を敬体に直して書いたら座りが悪かったので(前回記事は座り悪いのにたくさん読んでくださり感謝)
文体はそのまま、前後と見出しだけ加筆して掲載します。
これよりもはるかにコンパクト(2500字くらい)で端的な評論文ですが、ご興味ある方はぜひそちらも。たのもしい先生方の批評も読めて楽しいです。
私は末席に加えていただいている身なのでまだまだですが、いい劇評ってネットではなかなか出会えないものです。少なくとも、SEOを攻略した「観客やファンに媚びたもの」に淘汰されやすいので、簡単にたどり着くところに落ちてないのよ。
「イズム」は複数の編著者や担当編集さんがお読みになって意見を交わして掲載されていますので、考え方の違いはあれど品質は保障します。
次号「宝塚イズム50」の特集は、咲のサヨナラ特集ですのでぜひに!
この機会に“劇評に課金する”という楽しみを知っていただけたら幸いです。
↓以下本編、もちろん全編無料でお読みいただけます↓
「また『ベルばらか』」
宝塚上演50周年。
歴史あればこそいたし方ないけれども、そう思った観客は多かったのではないか。
なにしろ、私自身そう思ったことをここに白状する。
しかし、今年の『ベルサイユのばら―フェルゼン編―』からは、「いつものベルばら」とまったく違う迫力と緊張感を受け取ることになった。
なぜなら私の読解によれば、今年の「宝塚版ベルばら」のテーマは圧倒的に“非暴力(反戦)”だったからだ。そして、私は初見時に「そのメッセージに気づくのが遅すぎた」と強く後悔した。
そのくらい、当作からは、面喰うような強いエネルギーが感じられた。
はじめて描かれた“血”のなまなましさ
先のテーマを私が感じたのは、クライマックス、マリー・アントワネット(夢白あや)が断頭台に向かう「お決まりの大階段」のシーンだった。
フェルゼン(彩風咲奈)が見送りつつセリ下がり……、「これまでの型通り」マリーは断頭台に見立てた大階段を昇っていく。ここまでは「いつものベルばら」。
昇りきったその瞬間、一瞬の暗転とともに、大階段に真っ赤なバラを真俯瞰で描いたグラフィックが登場。つぼみから満開に一気に花開いた。
私はその真っ赤な花の形を、まるで血しぶきだと思った。大きくてなまなましい血痕のようだと。
単なる感想ではあるが、果たして本当にそう読めるか検証したい。もしかすると「マリーが死をもって王妃として花開いた暗喩」とかかもしれないと、一度譲歩した。しかし、あざやかとかあでやかというには少し悲しい開き方、そして赤黒いバラが、しかも真俯瞰から開くさまは、マリーの王妃としての自覚や、人生の開花を表現するにはグロテスクだと思った。
さらに、単に映像技術が進化したので「ここで紅バラ咲かせといたろ」という試みの可能性。これもやはり、“真俯瞰のバラが開く”を選択するだろうかといぶかしい。1幕 6場「夢幻」のピンクのバラのセットは横だし、何より一般的にバラの花を装飾的に描くときは斜俯瞰なんじゃないかと思う。
そこで、やはりきっとあの紅バラのグラフィックは飛び散った血しぶきだと私は思っているのだ。
マリーの首が斬り落とされる表現は、漫画でこそ激しいオノマトペで表現されていたが、宝塚の舞台で明確に表されたのは初めてなのではないか。その、マリーの処刑に対する今までにない直接的な表現に気づいたとき、それまでの演出の変更点にも合点がいったのだった。
「愛と国に殉じる若者」を「歴史の犠牲者」に
今回のヴァージョンで最も見過ごせない翻案上の変更は、オスカル(朝美絢)とアンドレ(縣千)による「今宵一夜」が早々に一幕で“片づけられ”、彼らが殉職するバスティーユ襲撃は、幕間を挟んだのちにフェルゼンの回想として描写される点だ。これは漫画原作ファンとしても宝塚版のファンとしても驚くような大胆な翻案で、見ている間は私も正直戸惑ったが、すべてを見終えた今、私なりに読解した「今回のテーマ」と照らして納得している。
それはなぜかといえば、オスカルとアンドレの決死の愛の一夜が、戦死のシーンと隔てられて描かれることで、彼らの死は「名誉の殉死」ではなく「歴史の犠牲」という見方が強調されたと思ったからだ。
この2つのシーンが地続きになってしまうと、オスカルとアンドレが「愛と国に殉じる」印象を強めもする。原作を素直に読むと、もちろんそれが“正解”だろう。
しかし、ともすればそれは「行き過ぎた愛国精神を助長する」印象にも読み取れてしまう。もしかしたら、この「愛の物語」をプロパガンダ的に悪用されることが近い将来起こってしまったら――?
それを脚本・演出の植田紳爾は危惧したのではないかと私は思った。彼自身が誰よりも『ベルサイユのばら』を愛し、オスカルとアンドレの”長き友“であるがゆえに。
外国人が、外国人を通してよそさまの文化を語る意味
そしてその危惧を不自然なくおさめるため、徹底的に「フェルゼン=外国人」から見た物語として描いたのではないかと読み進めている。
アンドレが銃弾に倒れ、オスカルが「フランス万歳」と唱えながら息絶える。これまでの「宝塚版ベルばら」としては最大の見せ場であるはずだ。
しかしそのあと、高揚した空気の“余熱を覚ます”ように、フェルゼンが一人冷静にその死の是非について考えを独白する。荒廃したバスティーユと変わらぬマロニエの並木道を眺めながら……。
ここは原作や過去作に前例がない新設シーンである。「セラビ・アデュー」という新曲も書き下ろされ、こちらは今回をもって退団したトップスター・彩風咲奈から宝塚への惜別の気持ちと重ねられたものとなった。
この新設シーンには「『今宵一夜』の扱い」とともに賛否あるだろうが、私はこのシーンこそ「植田版ベルばら」の完成形と好意的に受け取った。
正直、「今宵一夜」にいたる新演出が許せない人を説得したい気持ちはまったくない。仮に先に推察したような意図があったとして、あのシーンは原作にとっても大事なシーンであると、片方では私も理解しているからだ。
ただ、このフェルゼンの独白に関しては、すこしちゃんと“聴いて”ほしい。植田とフェルゼン、そして彩風の声を。ただ「素敵」と眺めるのではなくて。
理由の1つは、彩風演じるフェルゼンの口から闘いのむなしさをとうとうと語られたからこそ、クライマックスで「王妃の血しぶき」を目の当たりにするという、新鮮かつ華やかでありながら少しグロテスクな演出にショックを覚えつつ、一続きのメッセージ性を受け取ったからだ。
別作品の話だが、チャールズ・チャップリン作・主演の『殺人狂時代』(1947年)にこんなセリフがあるのを思い出していた。
翻って、植田が言いたいのはこうではないか。
「戦争も殺人だ、そして革命も殺人だ」
植田は、あの劇団の中でもいまや数少ない、戦争を知る生き証人である。
とはいえもちろん、今回の翻案は植田の主張のみが乱暴に追加されたものではないと思っている。これが2つめの理由。新曲2曲のうち「セラビ・アデュー」は彩風への惜別も重ねた新しいキーワードでつづられた曲だが、「王妃、その罪の先に」内の
という歌詞の根拠は、原作のマリーの内言に確かに描かれているのだ(完全版4巻 209ページ)。
今あらためて、「ベルばらブーム」の立役者たる植田が、丁寧に原作をなぞりながら慎重に翻案を進めており、そのうえで決死のメッセージを追加しているのがうかがえないだろうか。
そもそもこの作品の主人公たちは、フランスという絶対王政時代の国政における「よそもの」たちである。マリーは外国人の女、フェルゼンは外国人、オスカルは女……。
文化を尊重する観点から、本来的には他人の文化を気軽に描くものではない。扱い方をまちがえば文化の盗用ともみなされる恐れがあるからだが、そんな意識がしっかりと高まった今だからこそ、”外国人が外国人を通して描いたフランス革命”としての『ベルばら』があらためて読みごたえがあるときづかされたのだった。
「女性だけで演じる」関係性に進化をみせたオスカルとアンドレ
そんな決死ともとれるアレンジが加えられた「新装・植田版」ともいうべき本作。
それを支えたのが、トップコンビ彩風・夢白を筆頭に主要スターが他に類を見ないほど演劇的な話法での会話劇(特に発声)が達者であることだったと思う。
特に朝美は、70年代少女漫画独特の詩的なセリフ回しや内言セリフの発声がずば抜けてうまいことに気づく。池田理代子が紡ぐ言葉と、写実的な会話劇とは違う“宝塚型”の親和性。それを再現できる主要演者たちはたのもしい。
私は特に朝美が演じるオスカルに対して、今回初めて「セリフが正当な持ち主のもとに渡った」という感動を覚えた。
縣の演じるアンドレ像も意外でおもしろかった。彼女の明るく骨太な持ち味をいかし、包容力たっぷりに演ずるかと思いきや、繊細で柔和。
それこそ原作連載当時の70年代アイドル、郷ひろみや城みちるのような中性的な雰囲気の甘い色気を表現した。
これも、原作のオスカルの内言に
と、いうのがある。これまでさまざまな切り口で演じられてきたアンドレだが、オスカルとアンドレを女性同士で演じるからこそ、相対関係でアンドレの男性性が強調されることが多かったように思う。
そんな宝塚ならではの事情と歴史があるからこそ、あらためて男らしさやマッチョイズムと極端に距離を置いた優しい演じられ方をしたのは、原作準拠でありながら新しい発見のきっかけとなった。
そして、それを叶えた朝美と縣の繊細で的確な芝居づくりに感嘆した。
様式美とスターたちを通したどこよりも強いメッセージ
今の雪組の布陣、彩風・夢白・朝美・縣で『ベルサイユのばら』を改めて演じることで、この話は行き過ぎたナショナリズムとマッチョイズムに毒された中世で必死に生きた「外国人(マリーとフェルゼン)」と「女(マリーとオスカル)」の話だったと気づかされる。
徹底した型のセリフ回しや様式美のなかで、リアリティ演劇よりもずっと鮮烈に。
私は戦禍を知る植田の叫び―もしかすると『ベルばら』を通しては最後の―のように受け取ったが、原作ファンは怒るだろうか。
では、観客に問う。こんな世界に誰がした?
春の宮殿でオスカルやフェルゼンの美貌にうつつをぬかすモンゼット夫人やシッシーナ夫人を、今の世を見渡して、自分をかえりみて手放しで笑えるだろうか。もちろんあれから私は自分にずっと問うている。
たまたま当記事を見つけたあなた。当作は大胆な新解釈で演出されたものだから、論旨に賛同はできなくとも、少なくとも「はたして今は戦後なのか」と真剣に考えてみてもらえると幸いである。
オスカルとアンドレやマリーの愛と使命への殉死を、ここまで慎重に描きわけねばならない事態。もはや戦後ではないのか? という焦燥とショック。
とにもかくにも「戦後」を守り抜きたいし、オスカルとアンドレに愛の一夜を“返したい”――。
彩風は「あなたが誰かの夢になる」と遺して宝塚を去った。
彼女に憧れたスターがまたいつか「宝塚版ベルばら」を演じるとき、このような自責と焦燥にかられながら観ることがない世界にしなければならない。
「市民(citoyens)」が歴史の主人公だと『ベルサイユのばら』を通して教わったなら、我々観客だって指をくわえて眺めているだけでいいはずがないのだから。
★★★2023年3月・書籍を上梓しました★★★
ISBN978-4-7872-7453-3 C0074
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