趣味の宗教|学びのコツ(1)「誰が言ってるの」
はじめに
私は宗教を趣味として学んでいます。義務でも教養でもなく、「人生を〇〇する」でも、何かを批判する材料でもありません。
同じように、宗教に興味があったり勉強しようとする人もいるんですが、「このままいくと問題アリかも…」と思うような人がちらほら。問題というのは、例えば偏見を持ったり、間違った情報を信じたり、更にそれを広めたり糾弾するなどです。
特に、悪意なくそんな事をしちゃうと、いたたまれないので、宗教を学ぶコツというか心構えをいくつか紹介しておきます。
ポイントは
情報源を見る
ひとくくりにしない
見比べる
急がない
書いてみるとなんとも単純です。でも重要です。今回は「情報源を見る」についてです。
情報源を見る
宗教は、ざっくりいえば「中の人」と「外の人」がいます。信者かどうかというような意味です。たとえば私は仏教のうち、浄土真宗本願寺派の信者(門徒)です。浄土真宗でいえば中の人ですが、大好きなキリスト教カトリックにおいては外の人で、宗教という大きなくくりでは中の人です。(「信者とは何か」とか言い出すとややこしいので、省かせてくださいませ。)
さて、宗教に関する情報はネットや本でいくらでも出てきますが、それは誰が言っているのか、特に「中」か「外」かを見ましょう。というお話。
「外の人」の場合、悪く言うためだったり、自分の主張に合わせて切り取っている時があります。その他、文献で学んだだけの表面的な情報の場合もあります。イメージとしては会社の役員が「うちの工場はこういう労働状況なんです」言う場合でしょうか。合っている面もあるでしょうが「あんたに現場の何が分かるんだ!」と思われる可能性があります。
こう言うと、「中の人が流した情報も、自分に都合よく切り取ってるじゃん!」という反論がくるでしょう。それは正しいです。
でも、それでいいんです!それが宗教だもん!あくまで「中の人」の個人的な信条・いとなみとして宗教はあるのです。学者だから公平、信者じゃないから事実に即しているなんて事はありません。
念のため言っておくと、信者の言う事はいつでも正しいと言っている訳ではありません。反対に、信者じゃない人には宗教のことは分からないという訳でもありません。宗教の「中」を語る時には、「中の人」の言い分が、その宗教にとって真実なのだろうということです。
また、「中の人」は、別の宗教や信仰の無い人の「外の人」になるので、「この人の言ってることは常に正しい」ってこともあり得ません。
「中の人」でも個人差あるよねーという話は別の記事で書く予定です。とりあえずこの辺で。
さて、宗教を学ぶ時の話に戻りますと、『世界の宗教事典』とか『はじめての〇〇教入門』みたいな本を読む時、あるいは「〇〇教はこういう教えだ」というSNSの投稿などは、著者がどの立場にいるか確認してみましょう。
著者の立場が分かって、「外/中 から見るとこう見えるんだな」という風に理解できれば、冒頭に述べた”問題アリ”な学びから一歩抜け出せると思います。
ただ、「私は〇〇教XX派の信者です」と言われても、〇〇教(の多数派)から見れば異端で、結局外の人だったりもするので、注意は必要です。
こうして見てみると気付くことですが、特に宗教教義をネタに自説にもっていく人は自分の信仰を明らかにしていない事が多いようです。そういう話は深入りせずに、ぜひ中の人のお話に耳を傾けて欲しいものです。
中の人と外の人を区切って差別しろってことじゃないので、お間違いなきように~