
「うまい」と「美味しい」
栄養摂取、うまい、美味しい。食にはいろいろな段階がある。前から、生存としての段階、本能としての段階、文化としての段階である。今回は文化としての段階に着目する。僕はこの美味しい、文化としての段階を美食と定義している。美食とは職を通じてその地の文化と歴史など副次的、根本的な料理の要素を感得する行為であると考えている。いわば美食は食の文化人類学といえる。?美食はいわゆる高級料理やうまい料理を指しているのではない。大概にして、畢竟、そのような料理であることは多いのは確かであるのだが...。本場のフレンチに寄せた無駄に酸っぱい料理(確かグラニテだったか)やイギリスの無駄にしょっぱい料理などこれも美食になりうる。個人の趣味嗜好、好き嫌いを話しているのではない。料理の味付けや形態が体系的文化になっており、それに忠実であればいいのだ。うまいご飯を食べたければ、ファミレスに行けばいい。また同時に高級食材を使うことも美食と同義ではない。インパクトとうまみのある松茸のような食材をいつものあの形に切ってスープに入れればそれなりにうまい料理にはなる。しかし、その松茸を形がないぐらい粉々にしてスープに入れてみること。旨みと風味の爆弾になる。この見かけに頼っていない、食への探求心と本質的な調理が美食には必要だと考える。どうしても食材、料理そのものに目が行きがちであるが、料理を提供する際、店内の音楽や照明が料理に与える影響は決して無視できない。意外なことに時より寿司屋に行くといい感じのタイミングで曲が変わったり、誰もが聞いたことのある音楽のサビがくるように設計していたりすることがある。かといって、ファインダイニングで下手に流行りのJ-popを流すことはと料理の邪魔になりかねない。まぁ下手に音楽を書けるぐらいなら、何もしないか、無難にジャズやクラッシックを微量に流すぐらいでいいのかもしれない。また照明はSNS、撮影の観点での要素が大きいのかなと個人的には考えいる。カウンターなら席の前方に配置するのがベタであるが、照明をライティングとして意識している店舗は少ないように感じる。これらの要素は、単なる背景ではなく、料理そのものを引き立て、食事の体験をより豊かなものにする「演出」の一環として捉えるべきだと思って。ガストロノミー、美食では食体験という価値を享受するのである。もちろん演出だけではなく、料理のレベルも高くなければならない。料理のレベルとは良い食材を指すのではなく、料理の加工度を指している。職人技、芸術といった料理の深さ、掛け算的な調理技術を受け取る対価としてフーディー達は代金をお支払いする。ここまで書いてきたが、僕は食を探求することも好きだが、人と楽しく食事をすることも好きである。ましてや美食家でもない。ただの大学生だ。ただ、時より食について正面から向き合いたいときがある。あいにくそれを一緒に言葉にできる友人が少ないので何かのご縁でもあればと思い書いている。そんな感じだ。テーブルマナーなんて人を不快にしなければそれでいいし、料理を楽しめなければ本末転倒だ。そこら辺の人よりちょっと料理が好きな人とご飯に行きたい。それだけだ。繰り返しになるが、美食とは単なる食材の選別や調理技術の優劣を指しているのではない。そこには、料理を通じて私たちが経験する五感を超えた感覚の旅のようなものが存在している。一皿のフレンチが持つ背景には、歴史的な文脈やその土地の風土、そして人々の暮らしが隠されている。その料理を味わうことで、私たちはその土地に根付いた文化と、そこに生きる人々の魂に触れることができる。ガストロノミーが目指すのは、冒頭で述べた「うまい」を超えた感動体験であり、それは時に、私たちの固定観念を揺さぶるものであると認識している。なんかもう、僕のおばあちゃんが作る味噌汁も美食なのではないか思い始めてきたしだいだ。食材は自家栽培、味噌も自家製、日本食と発酵の文化歴史、伝統の中でも日々変化する調理方法。もはや美食と言いたい。このような料理と向き合うことのできる瞬間こそが、美食家にとっての至福の時間であり、そこには「料理としての完成度」ではなく、「文化としての完成度」を感得することができる。同様にまた、食文化の理解には、食材そのものだけでなく、それを育んだ環境や人々の哲学を理解することも欠かせない。例えば、ピエモンテ地方で愛される白トリュフは、その香りや味わいだけでなく、何世紀にもわたって築かれた農村の伝統と、人々の手による丁寧な収穫方法を通じて、真の価値が引き出される。よく聞くアルバの白トリュフってやつだ。まぁ美食とは、私たちが一口で文化を食べるみたいなことであり、レストランはその劇場になる。だからこそ、ただうまい料理を求めるのではなく、その料理が持つ物語や背景を尊重し、感得することこそが、真の美食家の姿勢であると思う。食を通じて、世界を理解し、そこに秘められた多様な文化の豊かさを享受する面白さが食にはある。このような視点で食と向き合うとき、私たちは単に「うまい」を超えた、心を満たす豊かな経験を手に入れることができるようになる。美食とは、その一皿に宿る文化と歴史、そして作り手の想いを感じ取り、食べる行為そのものが一つのアートとなる瞬間なのだろう。