好感度上昇サプリ
「ごめんなさい。人としては好きなんだけど、異性としては……。」
彼女の言葉に、“あぁまたか”とうんざりした。
「そっか、正直に言ってくれてありがとう。」谷村はいった。
彼女と別れ家に帰る電車の中、気付くと自身の人生を振り返っていた。
勉強もスポーツも苦手で、友達が殆どいなかった学生時代。
希望するところには受からず、何とか引っかかったところに進んだ大学受験・就職活動。
就職して7年、同期が出世していくなか、これといった成果も出せずに言われた業務を只管こなす日々。
想いを伝えて断られるか、付き合ったとしても3ヵ月以内に別れを告げられる女性関係。
そして、今日こそは、と強く言い聞かせながら約束の店へと向かう数時間前の自分の姿。
回想が終わり大きなため息をつくと、最寄り駅の風景が目に入った。
駆け足で電車から降り、スマホを開くと画面の上部に表示されている通知に目が行く。
さっき別れた女性からの社交辞令的なメッセージと、登録している動画投稿者の新着動画の通知だ。とりあえずメッセージは無視して、新着動画の方をタップする。
自分と同世代の青年が現れ、有名俳優と親しげに話している様子が映し出された。
彼は、この動画サイト上で5本の指に入る人気投稿者で、その総再生回数は数十億回。アパレルブランドや美容系サロンも経営していて、年収は10億を超えるとのこと。少し前に、若手女優との交際も報じられていた。
こんな風になれたら人生楽しいだろうなぁ、そう思いながらスマホの画面を見ていると、アパートの自室前に着いた。鍵を開け、動画を流し見しながら着替えていると、会話の内容が耳に入ってきた。
「ほんとすごいですね、動画投稿だけでなく事業もうまくいっていて。何か成功の秘訣はあるんですか?」
「秘訣って言うほどのもんじゃないですけど、周りからどう見られているか、を察知するのは得意ですね。良くも悪くも周りからの好感度の影響が大きい仕事なんで。」
「それってどうやって身に付けたんですか?」
「身に付けたというか、元からですね。小さい頃から空気をよく読んでいたんで。」
「なるほど、天性のものなのかもしれませんね。」
周りからの好感度か、簡単にわかったら苦労しないけどな、そう思って冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
翌日、会社に行ってスケジュールを確認すると、成績報告会の文字が目に飛び込んできた。僕がいるシステム会社の営業部では、四半期ごとに営業成績の報告会があり、上位者の発表と表彰が行われる。会議室に入ると、中央奥にあるスクリーンの横に部長が立っている。僕が出口付近の席に座ると、どうやら他の部員は揃っていたらしく部長が口火を切った。簡素なスライドで部全体の成績について話した後、成績上位者の発表に移った。
向上心のある社員には嬉しいものだろうが、ビリ争い常連の僕にとっては、力の差を見せつけられるだけの痛々しいイベントだ。そして、僕にとっては、もうひとつこの会議が嫌いな理由がある。
「1位はまた後藤か、さすがうちのエースだな!」
ネイビーのスーツに身を包んだ爽やかな男が、前に出てきた。自信に満ちた表情をしている。
そう、それはこの男の存在だ。後藤は同期入社で、3年前に僕のいる営業部に異動してきたが、あっという間に頭角を現して今では成績首位を独占している。プライベートでも、同期で1番の高嶺の花を射止め結婚している。そんな順風満帆を絵に描いたような男と僕は親しいはずがなく、彼が営業部に配属されてから互いを知り、たまに軽いあいさつをする程度の間柄だ。
彼にスポットライトが当たる度、同期である僕を揶揄する視線や言葉が向けられている気がして、耐えがたい苦痛を感じてならない。
部長の締めの言葉で会議が終わり、逃げるようにデスクに戻ると、昼休みの時間になっていた。一緒にランチに行くような人がいない僕には、コンビニで買ってきたものをデスクで食べるのが日課だ。サンドウィッチを口に含みながら、他人の投稿を眺めるだけのSNS画面をスクロールしていると、見慣れない広告バナーが目に入ってきた。
『好感度上昇サプリ~これであなたも人気インフルエンサーに~』
大きい文字と共に、有名インフルエンサー達の写真が載っている。その中には、昨日見ていた動画投稿者も含まれていた。
この手の胡散臭い広告は普段なら無視するのだが、何故か気になり、引き込まれるようにバナーをクリックした。無料カウンセリングの予約を促され日程表を見てみると、今日の夕方以外の日時は2週間先まで埋まっている。先延ばしにするのも億劫で、今日予約を入れることにした。
そのクリニックは、繁華街の裏路地のビルにあった。他には美容系の店や洒落た飲食店が入っていて、思っていたほどの胡散臭さは感じられなかった。
エレベーターの扉が開かれると、そこには白い空間が広がっていた。壁や床、天井はもちろん待合用のソファ、受付テーブルまで全て白で統一されていて、まるでSF映画に出てきそうな場所だった。大きな観葉植物が飾られてはいるが、大きさに比べて存在感は薄く、どうにも落ちつかなかった。
視線を泳がせながら立ち尽くしている僕の姿を見て、受付にいる20代半ばと思しき女性が声を掛けてきた。
「こんにちは。いかがされましたでしょうか?」
「18時30分からカウンセリングを予約した谷村という者なのですが……」
「谷村様ですね、ご来院ありがとうございます。準備ができましたらお声がけいたしますので、こちらをご記入してお待ちください。」彼女はそういって、紙が挟まったバインダーを差し出し、真っ白なソファに僕を案内した。
渡された用紙を見ると、名前や住所などの個人情報の下には、SNSのフォロワー数、交際相手の有無、定期的に仕事以外で会う友人の数など風変わりなアンケート項目が並んでいる。見慣れない項目に半信半疑だったが、正直に書くことにした。SNSのフォロワーは数人、彼女はいない、定期的に会う友人は1人。幼馴染の長谷川の顔を思い浮かべながら記入を終えた。長谷川は小学校の同級生で、クラス内で唯一友達といえる存在だった。彼は私立の中学を受験をしたので別々の学校に進んだが、中2の夏に地元の商店街でばったり会って以降、今でも交流は続いている。
用紙を受付に返却して5~10分程待っていると、名前を呼ばれ、奥の個室に案内された。
ドアを開けると、瘦身で短髪の男性が座っていた。40代半ばから50代前半ぐらいだろうか、髪にはところどころ白髪が混じっている。面長の顔と切れ長の眼がやや冷徹な印象をかもし出している。少し視線を落とすと、『松原』と書かれた、ネームプレートが目に入った。
「谷村さんですね、アンケートを見させていただきました。率直にお聞きします。あなたは現在のご自分が嫌いですよね。」いきなりの抉るような質問に一瞬たじろいた。
「……はい。好きではないですね。」
「それは、周囲の人達から認められていないと感じるからですか?」
「そうですね、何をやっても自分より得意な人がいて、誰にも褒められないというか……」
「それで、周りから評価される人になりたいと?」
「……はい」
「お悩みはよくわかりました。当院でしたら、あなたの期待に応えられると思いますよ。」
彼はそういうと、デスク上のモニターに資料を投影した。
『好感度上昇サプリ』というタイトルのページが出てきて、『レギュラーコース』、『プレミアムコース』と左右に並ぶ文字が目に入った。『レギュラーコース』の文字の下には、男性に囲まれるスーツ姿の男性の写真が、『プレミアムコース』の下には、女性に囲まれシャンパングラスを手に持っている男性の写真があった。
「2種類コースがあって、違いは好感度の上り幅です。レギュラーはクラスの人気者や職場のエースレベル、プレミアムは話題のインフルエンサーレベルになれるとイメージしてください。」
「費用は、どれぐらいかかるのですか?」とおそるおそる聞くと、彼は無表情な顔つきのままマウスをクリックして、画面を切り替えた。
「どちらもサブスク形式で、レギュラーは月30,000円、プレミアムは月70,000円ですね。」
得体が知れないのに高いな、そう思った僕の心を表情から読み取ったのか、続けざまに松原は口を開いた。
「高いと思うかもしれないですが、好感度が上がれば元を取れる金額ですよ。それでも不安があるなら、無料体験をしてみますか?」
少し逡巡したが、無料ならやってみてもいいか、と思い受けることにした。
簡易な同意書に署名した後、4種類の錠剤を喉に流し込んだ。
「明日には効果が出てきますよ、何かあったら当院まで連絡してください。」と松原は微笑を浮かべながらいった。心なしかその表情は不気味さを感じるものだった。
こんなもので本当に効果があるのか、と半信半疑に思いながらもクリニックを後にした。
翌朝、顔を洗いに洗面台を見ると、信じられないことが起きていた。
できものや黒ずみが無くなり、肌がキレイになっていたことも驚きだった。だが、そんなことよりも目を疑ったのは、頭上に大きく表示されている『4』という青い文字だった。
写真への落書きのような大きさで、ホログラムのような透明度をしている。手を伸ばして触れようとするが、触ることはできない。頭を動かしてみると、頭上の数字も連動して動く。何が起きているのか理解できず、顔を洗ってスマホのロックを解除した。
昨夜寝る前まで観ていた、動画が続きから再生される。よく観る男性の動画投稿者が映しだされたが、なんと彼の頭上にも数字が表示されているではないか。同じ青字だが彼の頭上に表示されていた数字は『5,000』だった。
慌てて近くにあったリモコンでテレビの電源を入れると、毎朝放送している情報番組が映し出された。普段は内容を流し見しているが、今日は画面をまじまじと見つめた。
特集映像からスタジオの映像に切り替わると、思っていた通り、映っている全員の頭上に数字が見えた。司会を務める元国民的アイドルは『100,000』、バラエティに引っ張りだこの中堅芸人は『70,000』、ベテランの女優は『50,000』キャスターは『1,500』と自分とはけた違いの数字が並んでいた。
なんなんだこの数字は、と思いながらもテレビ画面の左上に表示される時刻を見て、クローゼットからワイシャツを取り出した。
家を出て会社までの道中でいろいろな人を見かけたが、例外なく彼彼女らの頭上には数字があった。ゴミ出しをする主婦から、公園を散歩をしている老人、集団登校する小学生、大きなテニスバッグを背負っている学生、満員電車に揺られるサラリーマンまで、老若男女関係なく、それぞれ異なる数字を頭上に抱えていた。けれども、誰もその数字を意識することなく過ごしているように見える。この数字が見えているのは自分だけなのか。心の中でそうつぶやき、この状況を受け入れ始めている自分がいるのに驚いた。それでも、ひとつだけ気がかりなことがあった。それは、自分の頭上にある『4』より小さい数字が見当たらないことだった。
そんなことを考えモヤモヤしている内に、会社が入っているビルのエントランスに着いていた。エレベーターに乗って営業部のフロアで降りると、背後から声をかけられた。
「谷村さん、おはようございます。」
「あぁ斉藤さんか、おはよう。」
斉藤祥子は、営業部の年次がふたつ下の後輩だ。入社当時はおどおどしているところがあり、年次の近い僕に仕事の質問をしにくることが何度かあった。5年間でこの仕事のコツをつかんだからか、今では垢ぬけて堂々としている。言うまでもなく、営業成績は僕より上で、上位に食い込みそうな勢いだ。
「あれ、谷村さん何かしました?いつもより若々しい感じがします。」
横に並んで歩いていると、彼女が怪訝そうな表情でいった。
「いや、特になにもしてないよ」
サプリの効果だとは思ったがお茶を濁した。
営業部のデスクが並ぶ場所に着いたので、自分のデスクに向かった。荷物を置いてトイレに向かう。洗面台の前に立つと、異変が起きているのに気付いた。
頭上の数字が「5」に変わっている。事態を呑み込めないでいたが、始業のチャイムが鳴ったので急いでデスクへと戻った。
自分の身に何が起きているのか気が気じゃなく、いつも以上に仕事に集中できない。クリニックに何が起きているか聞いてみよう、と思い浮かんだのは昼前のことだった。
給湯室近くまで移動し、電話を掛ける。2、3回のコール音の後に電話に出たのは、落ち着いた声の女性だった。周囲には聞こえず電話相手には聞こえる声の大きさを探りながら口を開く。
「あの、昨日無料体験をさせていただいた谷村と申しますが……」
「谷村様、昨日はご来院いただきありがとうございました。いかがされましたでしょうか?」
「えっと……サプリを飲んで、変わったことが起きてまして。カウンセリングいただいた方とお話したいのですが。」
「かしこまりました。松原は本日午後から出勤しますので、よろしければ午後の時間帯に予約をお取りしますが、いかがでしょうか。」
「よろしくお願いします。」
「それでは、14時などはいかがでしょうか」
「大丈夫です。」二つ返事で答えた。
就業時間中だが、外回りをしていることにすれば問題ない。何より、一刻も早く自分に起きていることについて知りたかった。
クリニックへと向かう途中、電話のやり取りがふと気になった。
施術をした患者の身に異変が起きていたら、普通動揺したり具体的な内容を聞いてくるのではないか。電話に出た女性は、詳細を聞いてくるどころか、声色ひとつ変わらなかった。
たまたま感情の動きが少ない人なのか、よくあることで対応に慣れていたのか、考えてみても釈然とせず、途中で思考を止めた。
奥の個室にはすぐ案内された。
昨日話した、冷徹な印象の男が目の前に座っている。彼の頭上には『200』の数字が見えた。
椅子に腰かけて話し始めようとすると、松原が口火をきった。
「頭の上に数字が見えるようになりましたか?」
言おうとしていたことを先に言われてギョッとした。
「これは何の数字なのでしょうか?」
「簡単に言うと、あなたに好印象を持っている人の数です。」
「じゃあ僕の場合は5人ということですか?」
「そういうことになります。あまり驚かれないのを見ると、予想はされていたようですね。」というと松原は微笑を浮かべた。
有名人の数字の大きさや、自分の数字が誰よりも小さいことから薄々そんな気はしていた。
「この数字はあなたを含め特定の人にしか見えていません。ただ、この数字には力があって、数が大きければ大きいほど、人を惹きつけられるようになります。」
「数字が見えなくても、無意識的に影響を受ける、ということですか?」
「その通りです。さて、無料体験はここまでになりますが、どうしますか?」
僕が困惑した表情をしていると、松原は話を続けた。
「このまま施術を終了することもできますし、本コースに入会し、好感度を上げてあなたの人生を変えることもできます。もちろん強制はしません。」
「途中でやめることもできるんですよね?」怪訝そうに聞くと、松原が黙ったまま頷いた。
「それじゃあ、レギュラーコースに入会します。」
そう答えて同意書への署名と引き落とし用の銀行口座登録を済ませた。普段なら慎重に検討するのだが、改めて“自分が周りから評価されていない”という事実を突きつけられて、躍起になっていたのかもしれない。
別室に案内されて、小奇麗な格好をした女性から5種類のサプリメントの詳細や飲み方の説明を受ける。その日は数日分のサプリを渡された。後日ひと月分が自宅に送られてくるとのことだ。サプリの数の多さや副作用が気になったが、効果があるなら問題では無かった。
クリニックを出ると時刻は15時を回っていた。会社用の携帯電話を開くと、何件か着信が入っていた。そのうちのひとつを見て、眉をひそめた。
『住岡商事 髙橋』
住岡商事は異動した先輩から引き継いだ取引先だ。僕が勤める会社より規模の大きい会社で、時には一千万円以上の金額の発注をしてくれることもある。
引き継いだ当初は、取引規模の大きい会社が回ってきて運が良いと思っていたが、この髙橋という男がかなり厄介だった。いわゆる典型的な腰巾着タイプの男で、上司や親会社に対して腰は低いのだが、僕らのような外注先に対する態度は粘着質で高圧的だ。システムの開発が始まってからの急な仕様変更は日常茶飯事、無理な納期短縮や予算削減を要求してくることもある。ふたことめには“御社以外にも受託してくれる会社はいっぱいある”と言ってきて、過去に上司と一緒に取引継続を懇願しにいったこともある。気は乗らなかったが、先送りする理由も見つからず電話を掛け直すことにした。
「はい、髙橋です。」
「もしもし、谷村です。お電話に出れずすみません。」
「あぁ谷村さんでしたが、ずいぶんと遅いコールバックですね。」
「申し訳ありません……。所用で外出していたものでして……」
「所用で外出とは、お時間に余裕があって羨ましいですよ。まぁいいでしょう。開発を進めていただいてる例の発注システムなんですが、一部仕様を変更させてください。詳細は会って話したいので、これから来ていただけますか?」
「これから……ですか、かしこまりました。17時頃には伺えると思います。」断る気力も無く、そう言うしかなかった。電話を切ると、重い足取りで地下鉄の駅へと向かった。
住岡商事のビルを出て、家に着くころには19時半を回っていた。
打合せの内容は散々だった。また大がかりな仕様変更で、僕が“わかりました”という言葉を発するまで帰してもらえない雰囲気だった。仕方なくその場で開発チームに電話して仕様変更を打診することにした。必死で開発チームに頼み込み、小言をいくつか言われながらも承諾してくれた。そんな状況に追い打ちをかけたのが、髙橋の頭上の『80』という数字だった。こんな男が自分よりはるかに多くの人から好かれているのか、そう考えるとどんどん惨めな気分になっていった。帰り際に、当たり前だとも言わんばかりの顔で発せられた「引き続きよろしくお願いしますね。」という一言が頭から離れない。
明日は休みだし、こんなときは飲みに行って愚痴をこぼしたい、そう思い幼馴染の長谷川に連絡したが、先約があるとのこと。帰りがけにスーパーで買ったお惣菜と缶チューハイを丸テーブルの上に並べて、登録している動画サブスクサイトを開く。昔から嫌なことがあった時は、主人公の転落ストーリーを題材とする映画を観ていた。たとえフィクションだとしても、どん底にいる人の姿を見ていると、自分の方がまだマシだと思えるからだ。そうやって、自分自身を安心させることで29年間生き延びてきた。
翌朝、インターホンが鳴る音で目が覚めた。体を起こすと、食べかけの惣菜や飲みかけのチューハイが目に入った。寝落ちしてしまったか、と思いながらインターホンのボタンを押す。
「宅急便ですー。」頭上に『50』と書かれたおじさんがいった。
「はい、今行きます。」急ぎ足でドアを開けた。
小包サイズの段ボール箱がひとつ、内容物の欄には『サプリメント』と書かれていた。
厳重に貼られたテープを剥がして中身を確認してみると、封筒が一つとサプリの容器が複数。封筒の中にはA4サイズの紙が2枚入っていて、片方の紙にはサプリの服用方法の説明、もう一方には入会に対する社交辞令的な感謝と、できる限り人目に触れるように外出を促すメッセージが書かれていた。早速サプリを飲んだが体に変化はない、おそらく時間差で効果が出てくるのだろう。特にすることもなかったので、買い物ついでに出かけてみることにした。
数字が見えるようになってから、人の視線が気になるようになった。自分の頭上の『5』という数字のせいだ。街中にいる人たちは大抵、自分より数字が大きい。そんな人たちの視線を感じると、数字の少なさを馬鹿にされているんじゃないか、と考えてしまう。
周りの人に数字は見えていないのはわかっているんだが、どうも落ち着かない。そんな緊張のせいか、家から30分程度の繁華街の商業施設に着くまでに、普段の倍以上の疲労感が溜まっていた。
本屋に行って好きな漫画の最新刊を買った後、朝から何も食べていなかったことを思い出し、近くにあった定食屋で食事を済ました。
他に行きたいところも無かったので、帰って溜めていた家事をすることにした。ひとりで外出すると大抵このように小一時間であっさりと帰宅することが多い。外に出るまでには大きな気力を必要とするのに、不思議なものだ。
帰りに最寄り駅でトイレに入り、鏡に映った自分の姿を見た。
頭上の数字が増えていたのだ、それも『5』から『20』に。
少しは期待していたが、想像以上の結果に顔がほころぶのを感じた。もっと多くの人の目に触れれば更に増えるかもしれない、そんな期待を持ちながら明日外に出るための用事を探し始めた。
自室に戻りパソコンを点けると、昨日途中まで観ていた映画が映し出された。そういえばこの作品、続編が最近公開されていたよな。たまに行く映画館のホームぺージを開き上映スケジュールを確認してみると、案の定公開していた。
ひとりで観に行くのも少し気が引けたので、長谷川に電話した。丁度彼も明日は予定が無かったらしく二つ返事で承諾してくれた。
翌日の午後、映画館の待合スペースに着いてしばらくすると、長谷川が現れた。白いハイケージのセーターの上に、チャコールグレーのチェスターコートを羽織っている。どちらも僕なら着ないが、長身でスマートな彼にはよく似合っている。そして彼の頭上には『100』という数字が見えていた。
「よおー、金曜は誘ってくれたのに悪かったな」
「あぁ全然、むしろ急に誘ってすまんな」
「お、もしかしてイメチェンか?なんか小奇麗な感じになったな」
「うん、まぁそんなとこだな」
自分より外見に気を遣っている人に言われると、悪い気はしなかった。ただ、スタイルが良くて顔立ちも整っている長谷川と二人でいると、いつも少なからず劣等感を感じる。互いの仕事の近況などを数言交した後、劇場へと足を運んだ。
映画は可もなく、不可もなくというような内容だった。前作とは主人公が変わっていたが、“順風満帆な生活が突如崩れて落ちていく”というストーリーラインは同じで、いまいち新鮮味を感じなかった。劇場から出た後に長谷川と感想を話し合ったが、彼も似たような印象を持ったようだった。
映画が終わると、そのままの流れで軽く飲みに行くことになった。
居酒屋のトイレで鏡を見てみると、数字が「60」になっていた。
成功だ、数値の高い長谷川と一緒にいたのが効果的だったのかもしれない。席に戻った後も喜びを隠しきれず、何度か長谷川が怪訝そうに訳を聞いてきた。日曜日の夕方だというのに、翌日仕事に行くことにワクワクし始めていた。こんな風に思ったことは今まで一度もなく、新しい自分が現れたような気がしていた。
その後の5日間は、社会人になってから一番充実したものだった。
部署内での好意的な反応にはじまり、関連部署とのコミュニケーションが円滑になったり、既存の取引先から見込み顧客の紹介を受けるなど、今まででは考えられない程仕事がうまく回っていた。
自分に少し自信がついたのか以前より堂々と振る舞えるようになり、取引先への提案や社内調整をスムーズにできるようになっていた。
残業はいつもより多かったが、今までのように義務感からではなく仕事を続けたい気持ちから体が動いて、不思議と苦にならなかった。
上司からご飯に誘われる、同僚から差し入れをもらうなど新しい経験も多々あった。これが全て好感度によるものかと思うと、ますます数字を増やしたいと思うようになった。
平日は今まではやりたくなかった新規顧客の開拓に勤しみ、休日は無理やり用事を入れて、なるべく外に出るようにした。面倒ではあったが、大して親しくもない高校や大学時代の知人にも連絡をとった。
少しでも多くの数字を稼ぐために、手段を選んでいる余裕はなかった。
それから2ヵ月が経った。僕は充実度の最高記録を更新し続けていた。
仕事では新規顧客を次々と獲得し、四半期の中間成績発表では上から3番目に位置していた。取引先や同僚と頻繁に飲みに行くようになり、出会ったことの無い人を紹介される機会も少なくなく、人間関係は大いに広がった。
ずっと敬遠していたゴルフを取引先の勧めで始めたり、知人が主催する飲み会やホームパーティに参加するなど、少し前までの僕には考えられなかった経験を次々としていった。それに呼応するかのように頭上の数字も順調に増えていき、今では『500』を越えている。そして、数字が増えれば増えるほど、次はどんな世界が待ち受けているのかを考えて期待に胸を躍らせていた。
ここからもう一段殻を破るには、まず営業成績で1位になることが必要だと感じた。四半期の締めまであと1ヵ月弱。首位の後藤との売上差は数千万円で、死ぬ気でやれば挽回は可能だ。他のことは全て捨てるぐらいの覚悟を持ってやろう、そう自宅で意気込んでパソコンの電源を入れた。
そして3週間後、ついに後藤の成績を上回った。
平日は終電近くまで残業や取引先の接待をし、休日の時間も案件獲得に繋がる人間関係に集中させた。
好感度上昇サプリもプレミアムコースに変更し、10種類以上のサプリを飲み続ける生活を送った。ブランド物のスーツや時計、服も買いそろえた。ここまで必死に何かに打ち込んだのは生まれて初めてかもしれない。
さすがに連日の激務と睡眠不足がたたったのか、少し体がフラフラする感じがする。
これでようやく休める、と午後半休をとろうと思っていた矢先、部長と後藤の話す声が聞こえてきた。
咄嗟に部長席の近く、パーテーションで区切られコピー機が並ぶエリアに足を運び、コピーをする素振りをしながら聞き耳を立てた。
「本当か!やっぱりエースはさすがだな。」
「正直今回は危ないと思いましたよ。谷村も勢いがすごいですし。まぁそれでも簡単に1位の座は渡せませんけど。」
「まだ後藤の方が一枚上手だったということだな。見込み顧客をうまく育てて、期日内に刈り取るのは営業の極意だからな。」
「次はもっと圧倒的な差をつけられるよう、気を引き締めて頑張ります。」
具体的な数字や案件についてはわからなかったが、“後藤には秘策があり今回も彼が一位になりそうだということ”はわかった。
後藤が自分のデスクに戻ったのを確認した後、廊下に出て、エレベーターに乗って下に降りた。あと一歩でチャンスを掴み損ねたという現実を受け止めきれず、外の風にでも当たって気持ちを整理したかった。
オフィス近くの公園のベンチに座って考えたが、頭が回るはずもなく、呆然と座りつくしていた。さっきの会話が脳内で繰り返し再生していると、自分のこれまでの努力が水の泡になったような気がして悔しさがこみ上げてきた。
どんな手を使っても1位になりたい、そう思い可能性を探っていると、ひとりの男の顔が浮かんできた。髙橋だ。
少し前に、営業関連のシステムの一新を考えていると言っていた。普段は必要以上にこちらから連絡することは無いのだが、今回だけは例外だ。藁にも縋る思いで、電話帳から彼の名前を探し電話番号をタップした。
1週間後、僕は四半期報告会で部長から表彰状を受け取っていた。
斉藤をはじめとした他部員から向けられた羨望のまなざしと後藤の悔しそうな顔が目に映る。
ついにここまでこれた、今まで味わったことのない達成感に酔いしれると同時に、ほっと胸を撫でおろしながら髙橋に電話を掛けた後のことを振り返っていた。
髙橋に電話をすると、彼も上長から営業システムの刷新を進めるよう強く指示されていたらしく、その日にアポを取って話すことになった。
期末で実績を残すことに焦っていたのか、僕の態度や様子が変わったことに驚いたからか、彼の態度に以前ほどの高圧さはなく、スムーズに商談は進んだ。
開発チームにも同行してもらい、現在のシステムの構造確認や新しいシステムに必要な要件整理などの準備を3日間で完了させた。髙橋には社内での根回しを進めてもらいつつ、開発予算の見積もりもタイムリーに出し、1週間以内での契約締結にこぎつけた。少し厳しめの納期と予算条件を受け入れる代わりに、着手金で1千万円以上の金額を入金してもらい、後藤を追い抜くことができた。
最中に考える余裕は無かったが、あとから見ると一切無駄のない動きをしたように思える。
こんなに自分で自分を褒めたい気分になったのは初めてだった。
その日の夜は斉藤や開発チームの人が祝勝会を開いてくれた。参加してた人はみんな僕の変化に驚いていたようで、ことあるごとに“何があったんですか”と変化の背景について聞いてきた。中でもしつこかったのは斉藤で、どうしても答えを聞き出したい様子だった。本当のことを話すわけにもいかずに適当な精神論を話したが、彼女は最後まで納得のいかない表情をしていた。飲み屋を3軒ほどはしごをして、家に着くころには深夜1時を回っていた。スーツを脱ぐと、そのままベッドに倒れこんだ。疲労の溜まり具合はピークで全身が岩の様に固くなっているのを感じた。それと同時に、これから訪れるであろう大きな幸せに顔の筋肉がゆるむのがわかった。
その期待に沿うように、そこからの僕の生活は栄華を極めた。
営業成績は右肩上がりで不動のエースという立場を築いていた。
その劇的な躍進を題材に社内の広報誌で特集を組まれると、今まで関わりがほとんどなかった同期や他部署の社員から交流の声がかかることも増えた。
社外でも、他の営業担当がうちの社名を出すと谷村という社員がいるか聞かれることもある、など業界内ではちょっとした有名人になっているようだった。
そのおかげもあってか、発注金額の小さい取引先の担当からは外れ、金額の大きい限られた取引先に専念することができた。
日中は既存プロジェクトの進捗管理と既存の顧客伝ての新規顧客獲得に専念し、夜は既存大口顧客やその紹介で会った人たちと交流をする、そんな平日が続いていた。
頭上の数字が『1,000』を越えた辺りから、プライベートで付き合う人たちも変わっていった。総合商社やコンサル等いわゆるエリート企業のサラリーマン、同世代の経営者、時にはインフルエンサーや芸能関係の仕事をしている人など、以前のままの自分なら一生関わらなかったであろう人たちだ。
そんな生活と比例するように出費の額も増えていった。
ある日の外回り中のことだった。
紹介してもらった新規顧客とのミーティングを終え、公園で一息ついているとスマホの画面が光った。
『住岡商事 髙橋』
そこに表示されていた名前には少し懐かしさを感じた。住岡商事の担当は斉藤に引き継いだはずだよな、と訝しがりながらも、ボタンをスライドして電話に出た。
「はい、谷村です。」
「お久しぶりですね、住岡商事の髙橋です。」
「お久しぶりです。どうされましたか?」
「いや、御社の斉藤さんに対応いただいているシステムの件なんですが、こちらの要望を聞いてくれなくて困ってるんですよ。折り合いがなかなかつかなくて、谷村さんにお願いできないかなと思って。今日か明日にお話できませんか?」
「状況はわかりました。少々確認したいことがあるので、すぐ折り返させていただきます。」
どうせいつものように無理難題をふっかけて斉藤が困っているんだろう、そんな考えが一瞬頭をよぎったが、髙橋が紹介してくれた顧客もいて無下にはできない。
とりあえず斉藤に電話して事実確認をすることにした。斉藤に電話をして、髙橋から電話があった旨を伝えると少しうんざりしているような声で状況を説明してくれた。
大方は予想した通りだった。唯一外れていたのは、髙橋の要求がいつにも増して度を越していたことだった。彼が提示していた予算と納期はあまりに現実離れしたものだった。おそらく上長から言われたことをそっくりそのまま引き受けたのだろう。
部長にも電話をして、最悪プロジェクトが白紙に戻ることも視野に入れて、夕方斉藤と一緒に話をしにいくことになった。
髙橋に電話を折り返すと、二つ返事でミーティングを承諾してくれた。
案内された会議室の席について簡単な世間話を済ませると、さっそく本題を切り出した。
「髙橋さん、いただいた予算と納期の修正案なのですが、率直に申し上げると今の仕様書前提では難しいです。一部機能を削るなどすれば検討の余地はあるのですが……」
「その話は何度も聞きましたよ、そのうえで何とかならないかをお願いしているんです。」
髙橋が話を遮りイライラした口調でいった。彼の態度や話し方には以前の高圧さが戻っていた。正しく言うならば、前会っていた時にはなりを潜めていた高圧さというべきだろうか。
「そういわれましても、私たちにも対応できる範囲というものがあります。予算や納期を大幅に変更される場合、御社側でも何か別の要素を妥協いただかなくてはなりません。」
「そこを何とかするのが、あなたたちの仕事じゃないんですか?当社としては、御社の競合他社さんにお願いするということもできるんですよ。」
「御社のご状況は理解しています。なので、機能の見直しをお願いしているのですが、検討いただくことはできませんか?」
「それは無理な相談です。こちらの仕様書前提で関係役員も承認してますので。」
「わかりました。それでは、今回のプロジェクトは“中止にする”という選択しかないようですね。」“中止”という言葉を聞いた瞬間、髙橋の眉毛が上に動いた。
「少し前まではペコペコしていたのに随分な態度ですね。過去の自分を隠すように強がる様は、見ていて気持ちいいものではないですよ。」痛いところを突かれたのか、髙橋の一言に怒りがこみ上げ、頭にドクドクと血が上るのを感じた。
「いかがですか?元の予算と納期で進めるか、機能を見直していただくか、プロジェクトを中止するか。」できるかぎり平静を装った声でいった。
そう言った後も、僕の瞳は髙橋をにらみつけていた。すると、彼の頭上にある『80』という数字の横に、小さな文字のようなものが見えた。目を凝らして見ると、小さく赤字で『70』と書かれている。そして、その数字は見つめていると『71』になった。
「わかりました。一度持ち帰らせていただきます。」そういって髙橋は立ち上がり、会議室のドアを開けた。一礼をして、僕と斉藤はオフィスを後にした。
住岡商事から担当変更の連絡があったのは、その一週間後だった。
髙橋が行方不明になったらしい。消息を絶った日は、僕らと打ち合わせた日とのことだ。
あの日以来ずっと気になっているものがある。あの赤い数字のことだ。
気になって自分の頭上も確認してみると、赤い数字は『10』だった。
もしかしたら彼の失踪に何か関係しているかもしれない、妙な胸騒ぎがしてクリニックの松原に話をきくことにした。
「ずいぶん調子がよさそうですね。少し前とは別人のようです。」相変わらず感情のこもっていない声で松原はいった。
「ええ、おかげさまで生活もかなり変わりましたよ。今日は頭上の数字について聞きたいことがあります。」
「どんなことですか?」
「赤字の数字のことです。青い数字の横に小さく見える。」
松原の表情が少し変わった。口元が緩み、気付いたかと言わんばかりの表情だ。
「数字にも2種類あるんですよ。あなたがずっと気にしていたのは、いわゆるGOOD数、周囲からの肯定的な評価の数です。」少し間をおいて松原は続けた。
「そして赤い数字はBAD数、周囲からの否定的な評価の数です。」
「BAD数……。この数字が増えると何が起きるんですか?」
「この数字自体は、存在感の大きさみたいなものです。街中でもたまに見かけますよね?近寄りがたかったり関わりたくないなと思う人は。」
「存在感……、そういう意味ではGOOD数に似ているんですね。」
「そのとおりです。どちらも数字が高いほど目立ちますからね。ただBAD数にはGOOD数との大きな違いが1つあります。それは、“増えすぎると淘汰される”ということです。」
「淘汰?どういう意味ですか?」
「不祥事や事件を起こした人は、法で裁かれますよね?起こした事件の度合いが倫理という基準から外れているほど裁きは重くなり、行き過ぎると社会から抹殺されます。」
「……何が言いたいんですか?」
「人間には、不適切と見なしたものを排除する傾向があるということですよ。身近なものだとアダルトコンテンツやグロテスクな描写、青少年の教育に不適切として公には排除されていますよね。動画投稿プラットフォームなどでも、過激すぎたり禁忌に触れるような投稿は削除されたり、そのアカウントは停止されたりしますよね?」
「もしかして、BAD数が増えすぎた人も同じように…」僕が震えた声でそういうと、松原はニヤッとほほえんだ。
「そして、適切・不適切の基準は実にあいまいなで、大衆が適切とみなせば適切、逆もしかりです。大衆というのも実体があるわけではありません。特定のコミュニティやプラットフォームなど限定された範囲の中での多数派、それが大衆です。」冷や汗をかきはじめた僕をよそに、松原は淡々と続けた。
「でも、その大衆が動くきっかけを作っているのは、一部の力を持った人達です。彼らが作ったきっかけに他の人達が便乗していって、大きな流れが形成される。そして不適切なものは“淘汰”される。谷村さん、一部の力を持つ人達ってどんな人達だと思いますか?」
「同調してくれる人が多い人とかでしょうか。ファンとか。」
「そうです。不特定多数の人に発言や行動を支持してもらえる、影響力を持った人です。」
そうかもしれない、GOOD数が増えると誰かに肯定される機会が増えていった。GOOD数が増える前と増えた後では、同じことをしていても周りの反応は違った。思考を巡らせていると、ゾッとするような仮説が浮かんできた。
僕がBAD評価をしたから髙橋さんは“淘汰”された?
心臓の鼓動がだんだん大きくなっていく。首筋に汗が流れ落ちる感覚もある。
「どうしました?顔色が悪いですよ。」
「いえ……、なんでもありません。」
「何があったか知りませんが、これだけは覚えておいてください。影響力というのは両刃の剣なんです。一度生み出してしまった流れは誰にも止めることはできず、きっかけを作った人の想像を超える事態に発展します。」
気が気じゃない状態で、松原の最後の言葉はほとんど耳に入らなかった。
クリニックをでた僕は、呆然と立ち尽くしていた。自分がしてしまったかもしれないことに対して、どうすればいいかわからなかった。その時、スーツのポケット内に振動を感じた。
『華金だし、今夜飲みにいかない?』長谷川からメッセージが来ていた。
彼とは以前映画を観てから会っていなかった。何度か誘いは来ていたが、仕事上の付き合いを優先していたのでずっと断っていた。
直ぐに返事をして、その足で彼と飲みに行くことにした。特段彼に会いたかったわけではないが、ひとりで考える時間を作りたくなかった。成長した自分を見せ、称賛する言葉のひとつでも貰って気を紛らわすつもりだった。
約束した店で待っていると、10分ほど経って長谷川がやってきた。
彼の近況について話を聞いたあと、この何カ月かの華々しい生活について話した。営業成績で最高記録を更新して社長賞の受賞者に選ばれたこと、業界内で名が売れ始めたこと、芸能関係の人と飲みにいったことなど。
しかし、彼の反応は思っていたものと違った。
相槌を打ちながら話を聞いてくれるものの、他の人の様に羨ましがったり、称賛の言葉をくれるわけではない。酒の勢いもあったのか、躍起になって話し続けた。が、彼の態度は変わらなかった。そして、話のネタも尽きて沈黙した僕を見て口を開いた。
「谷村、お前変わっちまったな。」
「え……。」
「昔はそんなしょうもないことを自慢するやつじゃなかったよ。」
「誇れることがなかったからな。長谷川と一緒にいても恥ずかしくないように頑張ったんだよ。」
「俺はお前といて一度も恥ずかしいなんて思ったことはないよ。むしろ、周りとの競争に乗らないお前をカッコいいと思っていた。」
「そんなわけないだろ、ホントは俺のことが羨ましいんだろ?」
「……今のお前とは話していても楽しくない。俺帰るわ。」そういって長谷川は財布から金を出してテーブルに置いた。そして、立ち上がってひとこと彼はいった。
「そんなつまらない奴になって残念だ」
その言葉の意味は理解できなかった。なんで認めてくれない、こんなに頑張っているのに、こんなに結果を出しているのに……。荷物をまとめ出ていく長谷川の後ろ姿をただ見つめることしかできなかった。そのとき、彼の頭上の数字が変わった。青ではなく赤い数字だ。『5』だったものが一気に増えはじめ、あっという間に『200』近くに達した。
慌てて彼を追いかけて店を出た。けれども、長谷川の姿はなかった。
必死で周囲を探し回ったが、どこにも見当たらない。祈るように電話をかけても「この電話は現在使われておりません」という音声が流れるだけだった。
また…やってしまったのか?でも何かがおかしい、悲しさこそあったが憎しみを抱いていたわけでは無い。頭の中が真っ白になった。そのとき、松原の最後の言葉が脳裏をよぎった。
「一度生まれた流れは誰にも止めることはできません。そして、大抵がきっかけを作った人の想像を超える事態に発展します。」
そういうことか、僕の反応がきっかけで長谷川は消えてしまったのか。
唯一の親友を失ったという現実の重みに耐えられず、そのまま逃げるように埼玉の実家に帰った。
実家に顔を出すのは、数年ぶりだ。急な訪問に両親は驚いたが、理由も聞かず受け入れてくれた。そして、3つ年上の兄が今実家で暮らしていることを教えてくれた。
兄には昔から何をしても勝てなかった。スポーツ、勉強、人望、仕事。兄が習い事をはじめれば始め、学習塾に通えば競うように通い始めた。でもいつも成績がよかったのは兄の方だった。兄が国公立の大学に進み大企業に就職する一方、僕は中堅私大を出て、中規模のシステム会社に勤めた。
就職をしてからも兄は順風満帆だった。社内で影響力をもつ上司に気に入られたらしく、大きなプロジェクトに抜擢されたり、最年少での海外駐在も決まっていた。距離を取るように実家を出たのも、彼の海外駐在が決まった辺りだった。それ以来兄とは話していない。
実家に帰っても、特に何をするわけでもなかった。何かをして裏目に出ることを恐れていたのかもしれない。頭上の数字は2,000の大台を越えていた。
昔の面影がそのまま残る自室で、自分の歴史に思いを馳せていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「雄二、いまちょっと話せるか?」久しぶりだが、聞き覚えのある兄の声だった。
「あぁいいよ」
兄がドアをゆっくりと開けて部屋に入ってきた。その姿は、近くで見ると昔よりずいぶんと老けて見えた。頭上の数字も『110』、記憶の中のスマートさもなくなっていた。
「お前にも報告したいことがあってな、俺少し前に会社辞めたんだ。」
「え……」思わず言葉を失った。
「やりたいことが見つかったんだ。」
「やりたいことって何?」
「漫画家になろうと思ってる」
「ま、漫画家?どうして急に?」
「俺は今までずっと、周囲の期待に応えて生きてきた。学生時代は親や周囲が望む優等生、社会人になってからは、上司が望むエリートサラリーマンになるために必死だった。」
「でも、それで幸せだったんじゃないの?」
兄は大きく首を左右に振った。
「全然そんなことないんだよ。周囲からの承認をいくらもらっても、満たされることはなかったんだ。だから、自分が本当にやりたいことをやろうと思ったんだよ。」
「そんなこと、何で今更俺に言うんだよ?」絞り出した言葉は震えていた。
「今のお前が、爆発寸前だった時の俺に似ているからだよ。言ってなかったけど、俺は駐在先でメンタルをやられて、休職していた時期があるんだよ。」
驚きで声がでない僕の表情をよそに、兄は続けた。
「平日は毎日遅くまで残業か接待で土日は人脈作りのための付き合い、そんな生活を続けていたら、ある日突然ベッドから起き上がれなくなったんだ。」
「何でいきなり…」
「わからない、でも何かしようと思っても身体が動かなかったんだよ。1週間ぐらい経って動けるようになって医者にいったら、うつ病だってさ。そこから復職するまで半年ぐらいかかったよ。その半年間会社はどうなってたと思う?」
「そりゃ、優秀な社員が抜けたら大変なことになるんじゃないの?」
「なにも問題はなかったよ、別の部署から異動者が来ておしまいさ。雄二、お前にはもっと早く目を覚ましてほしいんだ、俺みたいに爆発する前に。」
「急にそんなこと言われても、どうしろっていうんだよ?」
「お前がやりたいことをやれ、周りの目を一切気にせずに」
「そんなのわかんねーよ!俺はずっと兄貴みたいになりたくてようやくなれたのに、なんで兄貴まで俺を認めてくれないんだよ!」そう言い放った次の瞬間、兄の姿が目の前から消えた。
違う、そんなことを望んでいない、兄貴を否定したわけじゃない。声にならない声を出してその場に崩れ落ちた。しばらくの間ふさぎこんでいると、徐々に平静を取り戻してきた。そうなると、その場から離れたくなって、逃げるように実家を出た。
他に行く当てもなく、自宅のアパートに戻ることにした。ずっと憧れていた兄が幸せじゃなかったこと、今の自分を否定されたこと、その兄を消してしまったこと、それらを同時には受け止めきれず頭の中はこんがらがっていた。兄の最後の言葉が脳内で繰り返し再生されていたが、どうすればいいのかわからなかった。
週が明けてオフィスに着いた時にも、頭の中のもやは晴れていなかった。
何も考えずパソコンを開いてスケジュールを確認すると、社長賞の授与式が入っていた。
今日だったのか、ここ数日のドタバタですっかり頭の中から抜け落ちていた。
社長賞は毎年目覚ましい成績を残した社員に授与される。今年の受賞者は3名。該当者が特定の部署に偏ったり、いないこともあり、営業部からの受賞者は数年ぶりとのことだ。
授与式は大会議室で行われ、その様子は各部署・拠点に映像で配信される。受賞者に選ばれた当時は嬉しくてたまらなかったが、今となっては素直に喜べない。あれこれ考えて気持ちに整理をつけようとしていると、式の時間になっていた。
会議室に入ると、沢山の椅子が並んでいた。手前には傍聴者の席がずらっと並び、奥には中央の舞台を挟むように左側に役員席と司会の台、右側には受賞者席が並んでいた。奥の席に『谷村 雄二』と書かれた紙があったので、その席に腰掛けた。
社長が席に着くと、式は始まった。社長が総括を話した後、各受賞者が簡単なスピーチをするという流れだ。僕のスピーチの順番は最後だった。
社長がマイクの前で話し始めた。受賞者たちの業績の紹介と称賛の言葉、全社員に向けた激励といった内容だった。全社員の前で社長から称賛の言葉を受ける、会社員としてこれ以上の栄誉はないと思っていた。しかし、実際に経験してみても何も感じず、社長の言葉は右から左へと抜けていった。
受賞者のスピーチが始まった。開発部の社員が前に出て話し始めた。仕事に対する想いや、どのように成功に導いたかのサクセスストーリーを話している。少し前の僕なら、強く共感して心から成功を祝福したのだろうが、最後までその話が僕の琴線に触れることはなかった。
“お前がやりたいことをやれ”、兄の言葉が反芻した。本当にやりたいことって何なのだろう?物心ついたときから誰かと比べられ、それ以外でやることなんて考えたこともなかった。頭の整理が終らないまま、スピーチの順番が回ってきた。
拍手の音の中、席を立ち前に出る。
目の前を見ると、沢山の同僚と中継用画面に映る自分の姿が見えた。頭上には『2,100』の数字が見える。
「営業部の谷村です。皆さんお集りいただきありがとうございます。僕は今まで何をやってもダメでした。勉強、運動、恋愛、仕事も全部。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、営業成績も去年までは最下位争いの常連でした。周りに自分より得意な人がいると、投げ出して諦めていたからです。でも、そんな自分から生まれ変わりたい、そう思ってこの半年間は人生で初めてがむしゃらに頑張りました。結果、営業成績の記録更新という、信じられないような成果を達成することができました。」
「ですが、その成果では僕の心は満たされませんでした。」周囲からざわめきが聞こえたが、構わず続けた。
「なぜなら、僕が本当にやりたいことじゃなかったからです。営業成績が良くなって周りの人から称賛されて、最初は嬉しかったです。でも、その喜びは一瞬で、すぐにもっと大きい称賛を求めるようになりました。どんなに成果を出しても、どんなに周囲の人から認められても、僕の渇きはなくなりませんでした。皆さんにひとつだけいいたいことがあります。どうか周りの目をきにせず、やりたいことをやってください。僕もまだやりたいことはわかりません。でも探して行くことを決めました、世間体とか他人の評価を気にせずに。自分を認めてくれるのは自分しかいないんですから。ご清聴ありがとうございました。」
拍手がまばらに起きる中、モニターで自分の姿を見る。僕の顔は涙に濡れていた。そして頭上の青数字は『3,000』に増えていた。自分の考えに賛同してくれる人がいる、ただそれだけが嬉しかった。
そのとき、『3,000』の横にある赤い数字が動いているのが目に入った。『1,500』『3,000』、『4,500』、凄い勢いで増えていってる。
僕はそれを笑みを浮かべて見つめるだけだった。了
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