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心を磨くって

書道を本格的なお仕事にしたいと取り組み始めたのが2011年。
主人と結婚生活を始めるため上京したのがこの年のお正月で、2ヶ月くらいゆるりと仕事を探しながら東京ライフ&初めての同棲生活を満喫していた時に東日本大震災を経験しまして。

それでかれこれ12年は「書道とは?」という事を考えてきたと思うのですが。
(全然少ない方だけど)
最近ハッと気づいたことがありまして。

というのも、私自身、書を「視覚」重視で見過ぎていたのでは・・・・ということ。

私はアカデミックな学習はしておらず独学しかなかったので、いろんな作家さんや本やらで勉強するしかなかったんですが、その時にどこに注目していたかと言えば、やっぱり「形」しか見てなかったんじゃないか・・・と、最近になってふと思うようになりました。「絵」的にしか見てなかったんじゃないかと。
でも「書」と「絵」では全くもって性質が違うんじゃ・・・と思うようになりました。

書は芸術という枠組みの中では「視覚芸術」に含まれるので、視覚重視で問題はないのですが、なんと言いますか、書評論や作家さんの作品集、活躍されているアーティストさん達を私が追える範囲で見る限り、書の「視覚で見る芸術表現」以上の特に精神的な部分での成熟さが大事なのでは・・・と思うようになったんです。

私の恩師の恩師である方の書論を見ても、「結局は心を磨いてゆく事が大事」とあったりして、「心を磨くってどゆ事?心を磨いていったら書にどんな影響があるの?書が抜群に上手くなっていくの?」と、かなり「心を磨く」という表現に毒ずいていた時期がありました。

「心を磨く」と言われても・・・
磨いたところで見えないのでは・・・?
書の腕を磨くと形となって見えるけど、心を磨くと何になって形になるの・・・?

心の動きと、筆の動きと、形となって現れたもの、がイコールになる、という事を全く理解できていませんでした。

ただ最近になってやっと、「心を磨く、鍛錬するという事は、身体的な活動に影響が出て、結果、書表現をした時に良いものができるのでは」という思いに行き着きました。

毎日作品を作ったり研究したり、具体的に技術を訓練するのとはまた違ったところの訓練。

「心を磨く」というかなり漠然としたワード。
抽象的すぎますよね(笑)
具体的に生活の中でどのようにしていったらいいんだろう。。。?
聖人君主になる事を目指していけばいいのだろうか?
僧侶みたいに厳しい修行をしなくちゃならないのかな?


「心」という捉えられないものについて磨きをかけていくことは、果てしなく難しいことなんじゃないかと。


最近読んだ現代美術家の小松美羽さんの本に「祈りのレベルを上げていく」というワードが出てきたのですが、彼女の「見えない世界を描く」という確固たる決意と彼女自身の確信が、祈る事の精度を上げるという日常行為に現れているのかなぁと思うと、それこそが「心を磨く」という事なのかなーとも思ったり。

心を磨く行為は色々ある。
怒り・妬み・恨みなどの心の毒を発生させない。
全てに感謝して過ごす。
家をきれいに保つ。
質素な食事にお酒は飲まない。
瞑想をする。
思いやりの心を持つ。
etc・・・


どれもこれも、日々幸せに生きていくために欠かせない心構え。
果たしてどこまで徹底してるか?
自分だったら、何のレベルを上げることが心を磨くことになるのかな?
やりたくない事をあえてやってみるとか?
むしろやりたくない事を徹底的にやめてみる事とか?

何を表現するために、何のレベルを日常行為で上げていくのか?

そこがまだぼんやりしてるうちは、ぼんやりしたものしか書けないのかなー。

でもぼんやりしてても、やめない事。
それだけは大事と納得している気がする。

禅語「魚行きて水濁る」

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