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弱者男性(チー牛)を作り出すのは女性の「まなざし」である


最近では、弱者男性問題がメディアに言及される機会も増えた。

けれど、そうしたマスメディアやアカデミアで訳知り顔の専門家が口にする弱者男性論は的外れなものばかりだ。

というか、弱者男性自身にはちっとも刺さらない論評ばかりだ。

傍目に見れば理由は明らか、当たり前で、弱者男性の本当の生きづらさの原因を、まるでタブーでもあるかのように避けるからだ。

本稿ではその話をしたいと思う。




評論家の藤田直哉氏が、最近、意欲的な弱者男性論を晶文社スクラップブックで連載されている。ご存知の方も多いだろう。

「「フェミニズム」では救われない男のための男性学」というのは、実に良い着眼点だ。

実際、第一回の内容は、そうしたものとなる予感を読者に与える内容だったと思う。

本質主義的なフェミニズムにも問題は確かにあった。「男/女」を単純化し、男はこう、女はこう(加害者・被害者など)と決めつけるのが「本質主義」である。これは、大衆レベルのSNSでは無視できない影響力を持っていた。
実際には「男」の中には力のある者もない者も、恵まれている者もそうでない者も、加害性の多い者も少ない者もいる。女性の中にも加害者がいる。だから、本質主義は事実ではない。本質主義的なドグマを「真理」のように振りかざせば、それに当てはまらない現実を生きている者に不満や敵意が蓄積する。「現実を分かっていない」と思われるようになる。

http://s-scrap.com/9832
第1回 「弱者男性」──男性には「特権」があるのか、それとも「つらい」のか

しかし、第二回の内容は、炎上した。

表面的には、「「オタク」は属性ではないので、「差別」とは言えない」という記述があり、これがオタクに対する弾圧や、今も残る偏見への無理解に基づいているという批判が集中したことが原因だった。

けど、私が思うに、藤田論考の問題の本質はそこじゃない。

藤田は、非モテやオタクといった「弱者男性」の傷つきは、男性集団の内部に生じる「覇権性/従属性」「中心/周縁」といった権力闘争の結果生じる蔑視や排除が原因であり、オタク男性が年収を増やして強者側に回っても「弱者」との認識を持ち続けるのは、そうした過去の受傷経験がもたらす「トラウマ」なのだと主張する。

そして、「覇権性/従属性」「中心/周縁」は、女性やLGBTなどが社会構造的に不利な状態に置かれている「差別」と異なり、あくまで流動的なものであることが、弱者男性の傷つきを理解しづらくしている原因であると藤田は論じている。

主観的にはつらく、それを「差別」の問題だと誤認してしまう。実際、バカにしたり排除する点において、「差別」と構造は似ているのだ。しかし、差別は「属性」によるものと定義されているのだから、これは「差別」ではないと否定されてしまう。実際、定義上は、差別ではないのだ。そして、自分がなぜそう扱われるのかの理由を明確に理解することも難しい。よって、「男性だからである」などの誤認も生じ、「男性差別」というフレームに沿った誤った理解に導かれやすくなる。
「覇権/従属」や「周縁化」は流動的だから、固定的な属性によるものと定義される「差別」とは異なる。しかし、現に傷つきは存在する。それを、「差別ではない」と否定され、「お前はマジョリティだから強者である」と言われてしまう回路が存在している。これが、リベラルや反差別運動への反発の心理的メカニズムのひとつの根拠ではないかと思われる。

http://s-scrap.com/9868
第2回 「オタク差別」は存在するか?――「覇権的男性性」と「従属的男性性」

藤田論考の問題はここにある。

弱者男性の傷つきの原因は、「流動的」なものではない。

ましてや、過去の傷つきが「トラウマ」としてフラッシュバックするなどというような、感傷的なものでもない。

確かに定義は難しく、曖昧なものではあるかもしれないが、それでも確固たる実在としてそこにあり続けるものだ。

その表れを一つ挙げるとすれば、「チー牛」という言葉だ。

チー牛とは、上記のような容貌の「陰キャ」「ネクラ」「非モテ」……的な男性を表す、ネットスラングである。

現在では、単なる容姿への罵倒を超えて、「女性から見てキモい性質の男性」全般を指す言葉と化して久しい。

「弱者男性」のイメージとして用いられていたのは、昔は「オタク」だった。

けれど、藤田氏が指摘するように、オタクは文化やテクノロジーの生産者として、一定の社会的地位を確立するに至った。要するに、部分的には「強者」になってしまった。

だから、弱者男性のイマジネーションとしての「オタク」は退潮し、それに代わって出てきたのが、「チー牛」という肖像画であったと言える。

東京大学駒場キャンパスに現れた立て看板
チー牛的男性が弱者男性の代表的表象として用いられている

現代のインターネット言論におけるチー牛への嫌悪はすさまじい。

例えば、私が昨年末にこのようなポストをしたところ、びっくりするほどの反響があった。

引用するとキリがないのでこの辺にするが、「意志の弱い女の子を狙って」性加害をしたり、「付き合ったら大体モラ化する」「ヤれないことで拗らせて女憎んでる」「有害な男らしさの塊」、それが「チー牛」である。

そして、勘のいい方は気づかれているかもしれないが、こうした「チー牛」に対する嫌悪の念をあしざまにぶつける人々の多くが、アカウントを見る限り、女性であるようなのだ。

このようなはてな記事がXで話題になったこともあった。

(妻)そう感じてしまったものは仕方がない。母親であっても異性としての視点があり、息子がこのままでは対人関係面で悪化するのを予想できる。チー牛という分かりやすい言葉がある以上それを使うのは当然だと思う。

https://anond.hatelabo.jp/20240807210906
妻が、息子を、チー牛と言い出した

「チー牛」的なものへの女性の嫌悪は、かなり生理的・本能的な部分に根差したものであるようだ。




改めて、藤田論考の言う、覇権性/従属性の問題に立ち返ろう。

藤田は、「覇権」と「従属」の持つ流動性を次のように説明している。

コンネルが出している例であるが、労働者階級での「男らしさ」の表し方は、犯罪を恐れないことや、肉体の頑強さかもしれない。しかし一方、専門職階級においては高度な知性や理性的な判断こそが「覇権的男性性」の証となる。管理職などにおいては、共感性やケア能力のような「女性性」に近い性質こそが、「覇権的男性性」の要素とされることもある。部分社会ごとに、「覇権」(強者)の中身は様々であり、同じ人間でも場面ごとに「覇権/従属」の立場は移り変わっていくのである。「強者・弱者」の概念は、むしろ固定的な属性としてそれがあるかのような印象を与えるが、多くの男性の実際の経験で大きな位置を占めているのは、流動的な「覇権/従属」の方なのではないか。

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第2回 「オタク差別」は存在するか?――「覇権的男性性」と「従属的男性性」

しかし、もしも藤田が言うように覇権性が部分社会ごとに異なるのであれば、弱者男性のイメージとしてチー牛のような固定的な肖像が生まれ、かくも広く支持を得られるわけがない。

藤田の言う覇権の「流動性」が正しいのであれば、チー牛が覇権性として想起される場面があっても良いことになる――が、現実にはそのようなことはほとんどない。

否、皆無と言ってよい。

仮にチー牛的な容貌の人々の多くが、プログラマーやクリエイターになって高い年収を得たとしても、チー牛的なイマジネーションが覇権的・中心的・強者的な男性の表徴となることはありえないだろう。

そもそも、男性集団において強者/弱者を決定するものはなんだろうか?

もちろん、部分社会において、例えばプログラミングが上手いとか、足が速いとか、アニメ作品のセリフをたくさん暗記しているとか、営業成績が良いとか、そういう特定の限定された価値観のもとでの優劣がつく場合はある(藤田論考でいう覇権/従属の関係性がそれだ)。

けれど、それでも、そういう様々な「部分社会」を横断する価値としての弱者の肖像(チー牛)が存在する以上、部分社会ごとの様々な価値観を超えて、男性社会内部の強者/弱者をかたちづくる審級が存在するはずである。

そして、そのような審級は、男性社会の価値観の多様性を超越して強者/弱者の判定をしうるものでなければならないのだから、男性社会の外部にある、「第三者の審級」である必要がある。

つまりは、それこそが「女性」の審級まなざしである。


男は女性の審級(まなざし)をめっちゃ気にする生き物である


乱暴な推論だと言われるだろうか。

しかし、はっきりというが、これは男性を支配している紛れもない現実の力学だ。

「女性と性的関係を持つことができるか」ということが、男性にとっては、致命的に、アイデンティティに関わる問題だからだ。

それは、単に男社会内部のヒエラルキーにかかわっているというだけのことではない。

自分が、異性と、性的な接触を許される存在であるかどうか。

多くの男性にとってそれは、無意識下に抑え込み、閉じ込めているかどうかに個人差はあれど、大なり小なり、身体化された現実の悩み、苦しみなのである。

ここの苦しみに目を背けて、「有害な男らしさ」などともっともらしいことを口にする男性学は、いかに修辞を駆使しようとも、弱者男性当事者に届くことはあるまい。

チー牛のイマジネーションの根源はここにある。

女性との接触が許されない「不可触民」として描述されたのが、「チー牛」とそれを形作る様々な要素だった。

そして誰かをチー牛として切り捨てる女性のまなざしこそが、チー牛としての弱者性を生み出すのであり、そしてそれこそがまた、女性のまなざし権力の源泉である。

このまなざし権力からは、高い収入を得、結婚し、いったん「強者」となった男性さえも無縁ではないのだ。女性から見て不快な行動をとった瞬間に、直ちに「チー牛」として認定される。

男性として生まれた人間は、女性のまなざし権力から逃れることはできないのだ。

そう言うと、

「それは勝手に男性が傷ついているだけだ、自分たちはただ素直に自分の感想を言っているだけ。」

などと言うかもしれない。

しかしそれは、自己のまなざしの権力性をごまかしているただの「すっとぼけ」に過ぎない。

女性はみな、自己のまなざしの権力性を完全完璧に理解している。

だから、必要とあれば、ためらうことなくその権力を行使する。


論争で批判された女性が、批判者を「チー牛」として切り捨てる言説の例




では、逆に、女性の側はどうだろうか。

確かに、女性にもヒエラルキーはあり、強者も弱者も存在している。

しかし、ここが肝心なところなのだが、女性のヒエラルキーを形作る審級は、男性一般ではない


女性にとって審級(まなざし)の価値は平等ではない


女性にとって価値ある審級は、一定ラインよりも上の男性のまなざしに限られるからである。

「チー牛」という女性の暴言に対抗するための概念として、「豚丼」なるワードを作ろうとする向きがあるようだが、はっきり言って無意味だ。まったく効果はないだろう。

豚丼などと女性の容姿を貶めるルッキズムワードを振りかざす人間の言葉など、ゴミくず非モテ野郎の妄言として「チー牛」と書かれたゴミ箱にポイっと捨てられるだけであり、無価値な審級として処分されて終わりだ。

この非対称性は、男性(オス)が種を撒く性として生まれ、女性(メス)が種を受ける性として生まれている以上、生物学的に仕方のない話だと言えるだろう。

男性はとにかく女性に受け入れてもらうことが必要なのだが、女性は「その子を宿す価値のある男性」に承認されるかどうかが重要となる。価値の低い男性と番うことは、逆に、自らの価値を貶めることでさえある。

そして、先ほども述べたように、男性の価値を決めるのは女性の側なのだから、必然、女性の側のヒエラルキーは、同性から見て価値があるとみなされる男性と結ばれているかどうか、である。



上記は、以前、「彼女ポケモンバトル」として、Xでバズッていた漫画であるが、おそらく、この種の「ポケモンバトル」を行うのは、どっちかというと女性のほうだろう。

男性は、モテるかどうかを気にすることはあっても、配偶者のステータスで競うということはしない。

逆に言えば、女性にとっては、同性から見て「価値ある男性にふさわしい女性である」と承認されさえすれば、極端な話、実際にそのような配偶者がいなくとも、とりあえず目先の承認欲求を満たすことができるのである。

だから、女性は女性のコミュニティの中で、ある種、完結をすることができる。

このような女性の審級まなざしの権力は、極限すれば、女性たちは男性を強者男性と弱者男性=チー牛に切り分けながら、他方で、自分たちに向けられる/向けてよい審級まなざしはコントロールする、ということで成り立っている。

フェミニストや女性が、性的表象に怒りを向け、ルッキズムを批判するのは、外見に向ける審級まなざしを本当に無くしてほしいと思っているのではなくて、自分たちがコントロールできるものにし続けたいという権力のあらわれであり、弱者男性やチー牛ごときが立場をわきまえずに審級まなざしを向けるな、ということを言っているのである。

ピラミッドの最下部でうごめく弱者男性が、この権力差をひっくり返すのは容易ではない。

何を言おうと、チー牛のたわごとと切り捨てられて終わりだからだ。

結局、女性に自分たちの視線を「価値のある審級まなざし」と認めさせたうえで、「お前たちの権力など大した問題ではない」とカマしてやるほかないのだから、ナンパ師(ピックアップアーティスト)が弱者男性のカリスマとなったのは、おそらく構造的必然であっただろう。

フェミニストがミソジニーと言って切り捨ててきた情念は、そうした権力差に押しつぶされる怨嗟にほかならないのだ。




さて、ここまでの話を、もしもフェミニストや、既存の男性学の研究者が奇跡的に読んでくれたとして(まず読みさえしないだろうが)、反応は次のようなものだろう。

「そんなもの、男性が『モテ』から降りればすむだけではないか」

「男性自身のセルフケアの問題だ」

「有害な男性らしさが男性自身を苦しめている」

だが、繰り返しになるけれども、女性の承認を欲し、それも性的接触を許される男性でありたい(不可触民=チー牛に貶められたくない)と願う男性の願望は、身体化された、本能的なものだ。

「男のほうがモテのレースから降りればいい」

というような「解脱」を説く言説は、無意味である。

無意味であるばかりでなく、女性のまなざしが持つ問題を男性に帰責しようとすることは、かえって憎悪を掻き立てることになるだろう。

男性は、自らの子を宿してくれる女性のために、命を賭けて家族や社会を守ろうとする。それは古今東西、変わらない男性の普遍的な習性である。

今よりずっと貧しい時代や、厳しい環境の中でも、そうやって男女は番って子孫を残してきた。だから今の文明があるのだ。

そして逆を言えば、男性は、女性に馬鹿にされることだけは我慢がならないのである。

一つ事例を挙げよう。

「津山三十人殺し」の犯人・都井睦雄の写真

記録に残る中では日本の歴史上2番目となる大量殺人事件である「津山三十人殺し」の犯人、都井睦雄といむつおは、生来、体が弱く、まじめで成績優秀な人物だった。

彼の人生が一変したのは、徴兵で結核により「丙種」とされ不合格になってからだった。

それまで関係を持っていた女性たちから関係を拒絶され、冷たく扱われるようになった。それが彼のプライドをひどく傷つけたという。

犯行の直接の動機は、彼が以前懇意にしていたものの、他村に嫁いでいた女性が里帰りしてきたことだという。その女性と都井の間でどのようなやり取りがなされたかは記録に残っていない。

その日の未明、彼は以前から準備をしていた猟銃や刃物を携えて、村の電信線を断ち切り、家々に押し入って、彼を馬鹿にしてきた女たち、村人たちを次々と殺めていった。

そして、犯行をなし終えると、彼は一通の遺書を残し、猟銃で心臓を打ち抜いて自殺した。

愈愈死するにあたり一筆書置申します、……(中略)……病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。

思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした……(中略)……

もはや夜明けも近づいた、死にましょう。

「津山事件報告書」より都井睦雄の遺書
https://w.wiki/ANGM

おそらくこれは、日本史上、最大級の大量殺人事件であると同時に、原初の「インセル」による犯罪の事例だと言える。

記録に残っていないだけで、歴史上、このようなことはおそらくあまたあったのではないかと思う。

かつての封建制や家父長制といった制度は、女性の審級の権力をかなり抑制していたと思うが、それでも、そのタガが緩んだ場所では、内に秘めた暴力性と絶望が化学反応を起こし、悲劇を生んでいたはずである。

ましてや、女性が自由になり、自由恋愛の名の下に、むき出しの審級の権力が暴威をふるい、自らの弱さを嘆くチー牛たちがあふれるこの現代社会においては、なおのことである。

それをミソジニーだと言って非難してみたところで、当のチー牛たちは救われない。

フェミニズムと弱者男性の問題に関して、私にとって忘れられないのは、上野千鶴子氏の言葉だ。


上野千鶴子ほか『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』p.433-434より


上野は、恋愛弱者(チー牛)に対して、「ギャルゲーでヌキながら、性犯罪を犯さずに、平和に滅びていってくれればいい」「彼らが間違って子どもをつくったら大変です」と述べた。

これがおそらく現代にいたるまで、フェミニズムの恋愛弱者の男性に対する認識の現在位置であろう。

ただ、そんな上野千鶴子も、まじめに「平和に滅びる」男性が現れたとたんに慌てたと見えて、こんなことを言っている。



上野は茶化し半分で言ったのかもしれないが、「平和に滅びる」という道は、現代の男性にとって切実なものになっている。

「自由恋愛」の名の下に、女性に審級の権力をゆだねた現代社会において、「チー牛」男性が大量発生することは、ひとつの歴史的必然である。

フェミニストにとっては、気持ちの悪い差別的なコンテンツに見えるものでも、それは、男性たちにとっては滅びの道行をともに歩む大切なパートナーなのだ。



時計の針を巻き戻すことはできないし、女性の自由や恋愛を肯定的に捉えるならば、そこから撤退した(撤退せざるを得なかった)男性たちに、チー牛という侮蔑ではなく、祝福の言葉を紡ぐ必要があるのではないか。

もし、「フェミニズムで救われない男たちのための男性学」というものに役割があるとすれば、そのような包摂の言葉を探す作業であろう。