曖昧な対応関係
数年前の冬、私は4月からの就職に備えて引越しをする必要があったため、1人暮らし用の部屋を探していた。いくつか部屋の候補を事前に決めておき、その日はそれらの物件を1日で見て回ろうという日であった。
その中のある1つの部屋を内見した時のことである。時刻は夕方くらいで部屋の中が少し暗かったため、照明をつけようとした。
見慣れた形のスイッチが廊下の壁に3つあったので、適当に1つを押した。
ところが部屋は暗いままだった。
次にひとつ下のスイッチを押したが、またも変化はない。
そして3つ目のボタンを押した時、やっと明かりがついたのだった。
天井を見てみると、照明器具が取り付けられていない場所がいくつかあった。
なるほど、照明が部屋の全箇所にはついておらず、さっきの3つのスイッチは繋がっているものと繋がっていないものがあるというわけであった。
スイッチがある場合、それを押したら何かしらが起こると考えるのが自然である。一般的な部屋の壁に見慣れたスイッチがある場合、私たちのほとんどはそれを照明(あるいは換気扇など)のスイッチと認識する。
住み慣れた家であれば、どのスイッチが何と対応しているのか把握し、狙った通りにスイッチを操作することができる人がほとんどだろう。
しかしこの時の私のように、当然照明がつくと思って押したスイッチに対して反応がないと、人は大げさに言えば不安とも呼べる感情を抱く。
電球が切れているのか、気づかない場所でちゃんと明かりはついているのか、そもそもこのスイッチは何と対応しているのか、、、
こういった「操作と結果」を分かりやすくすることは、何かをデザインする上でとても重要なことであることを改めて実感すると同時に、私は以前知った、あるボタンのことを思い出していた。
それは、日本における死刑執行のボタンである。
死刑は選任された刑務官がボタンを押すことで執行される仕組みになっている。しかしこのボタンは、1つではなく複数(通常3~5つほど)あり、ボタンと同じ数の刑務官で一斉に全てのボタンを押すのだという。
複数あるボタンの中のどれか1つだけが実際に死刑台と繋がっており、他のボタンは見かけだけの偽物なのである。刑務官はどのボタンが実際に繋がっているかは分からないようになっている。
なぜこのようなことをするのかというと、仕事とはいえ人間の命を奪わなければいけない刑務官の心理的負担を少しでも分散するためである。
いくら死刑囚が過去に残虐な事件を起こしていても、その命を奪わなくてはいけない刑務官の心的負担は、私には到底計り知れない。
ボタンを複数用意するその方法が、様々な観点から考えて良いことなのかどうかは私には断言できないが、ボタンを押す行為とその結果起きる出来事の対応関係を少し曖昧にすることで、刑務官の負担を軽減しようとしている事実は、個人的にとても興味深いことであった。