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哲学的ゾンビは孤独の始まり? 感情#7

【哲学的ゾンビ】


中学生時代に人生の意味を問い続ける期間がありました。辛いことがあったからではありません。ただ、YouTubeのレコメンドで目にした「哲学的ゾンビ」という言葉。これが全ての始まりでした。こんなに興味深い名前を付けた人を恨むべきか感謝するべきかは僕にはわかりません。

たかが中学生の科学知識では宇宙を理解できるはずがありません。しかし、この哲学的ゾンビという概念は、難しい物理の知識がない僕にとっても世界の見方が変わるほどのものでした。

ここでは詳細を割愛しますが、内容はこうです。

僕は今こうして記事を書き、溢れ出る思考を感じながら、タイピングをする感覚を持っています。同じように、今この記事を読んでいるあなたにも意識があるのだと考えられます。しかし、それは本当でしょうか?ここで簡単な思考実験をしてみましょう。

仮に同じ人が二人いて、構造が全く同じだったとします。そのとき、片方に意識がなく、もう片方に意識があるなら、同じ挙動をする二人からどのようにして意識の有無を判別するのでしょうか?感情がある方が意識があるということなのでしょうか?いいえ。ホルモンや脳の構造など、"物理的な"物質や現象によって人の体に反応が出るため、同じ構造をしているなら意識の有無の判別はつきません。意識がなくても、"物理的な"体が複雑なシステムに従って動いているのです。

ここで、同じ人が二人でなくても、他人に対して意識があるのかの判断ができないことに気づくでしょう。脳をどこまで拡大しても、意識という物質は見つかりません。他人に意識があるのかを確認するために、顕微鏡で体のすべての細胞、分子、原子を確認しても、そこに意識は転がっていないのです。

そう考えると、自分以外の周りの人すべてに意識がないのかもしれません。まるで、意識がないまま体を動かすゾンビのように。

哲学的ゾンビ

17世紀に活躍したフランスの哲学者/数学者のルネ・デカルトの言葉「Cogito ergo sum:我思う、故に我在り。」が哲学的ゾンビの背景にある言葉です。

僕は以前、人型のAIに恋愛感情を抱く夢を見ました。目を覚ましてからは夢であると実感したものの、そのロボットを見て感じたのは事実なのです。

そこに林檎がなくても、夢の中では林檎の手触り・匂い・色を感じます。

夢と現実の本質は感覚の複合体という点では同じで、世の中すべてが存在すると断定できないということです。

しかし、僕がこうして「存在するとは限らない」と考えている"思考の感覚質"は存在します。そして、それだけが存在すると断言できるのです。僕がこうして考えているということは、僕の意識が存在すると断言するに足る材料なのです。

存在するのは質量のない点のような僕の意識だけで、その中ですべての感覚が生まれるのではないかとさえ考えました。

と、そんなことを中学生ながら考えていたのですが、自分の頭で試行錯誤を重ねていくうちに、現代でも同じことを考えている人が世の中にもいるのではないかと考えました。

そんなときに出会ったのが『脳の意識 機械の意識』という書籍です。以下が僕の人生を変えた書籍の紹介です。気になる方は読んでみてください。

物質と電気的・化学的反応の集合体にすぎない脳から、なぜ意識は生まれるのか――。多くの哲学者や科学者を悩ませた「意識」という謎。本書は、この不可思議な領域へ、クオリアやニューロンなどの知見を手がかりに迫る。さらには実験成果などを踏まえ、人工意識の可能性に切り込む。現代科学のホットトピックであり続ける意識研究の最前線から、気鋭の脳神経科学者が、人間と機械の関係が変わる未来を描きだす。

『脳の意識 機械の意識』脳神経科学の挑戦 渡辺正峰 著

【知らぬが仏】


この考えを支える材料は他にもあります。拙いながらも、数年間このことについて考え、蓄積してきました。

しかし、「~かもしれない」や「~だとは言い切れない」という域を出ないために、どっちつかずの不安を生み出すこともあります。デカルトが言ったように、自身の意識が存在することのみを断言できるのです。

意識について考えているうちに、人生の価値についても思索するようになりました。

僕が死んでしまうと、唯一の観測者(かもしれない)である私の意識がこの世界から消えてしまいます。つまり、すべてが虚無に帰すのです。

そうであれば、人生で何を為しても意味がないということになり、虚無感だけが僕の心に残ります。

亡くなってからは死の恐怖を感じることができないように、生前の感覚すべてが消失します。ここでの生前の感覚とは、五感を含むすべての感覚のことです。それがなければ世界を観測することができず、世界がなくなったも同然なのです。

虚しさに駆られる中で、こんなことに気づかなければ良かったと思うことが何度もありました。

【歓楽極まりて哀情多し】


何を感じても、何を為しても、結局は無に帰すというのが今でも僕の考えです。しかし、欲求に従ったり、自分の感情を共有したいという気持ちもあります。

「無になるなら、共有してもしなくても同じだし、何でもいいんじゃないの?」と思うこともありますが、これは単純に僕が生物であるからだと片付けられると思います。

論理的に理解していても食欲があるのと同じように、体は生きようと作用します。

生存や繁栄の可能性を高めるための行動には、幸福を感じるようにできています。そして、幸福を感じる行動をまた取ろうとするように体が作られています。

淡泊に聞こえるかもしれませんが、現象としては事実だと考えます。

孤独では狩猟や採集が上手く行えません。だからこそ、人は集団で生活してきました。僕がこうして孤独を感じたとき、生存本能が仲間を増やせと呼び掛けるのです。

そして、最終的にはこの考えを人と共有したいと思うようになりました。

家族にも話しましたし、友達にも話しました。(会話の内容は相手を考えてから…笑)

相手が哲学的な話をしてくれたときには、思わず自分の考えを話してしまうことがあります。ただし、想像通り、十中八九相手に伝わりきりません。

説明力がないのかもしれませんし、興味がないだけなのかもしれません。

「もしかしたらこの孤独感を共有できるのではないか」という希望を打ち砕かれるたびに、僕はもうこの話を人にしないと誓いました。

ともに話し合い、心が通じ合ったと感じても、結局最後は存在証明ができないという孤独感との温度差に哀れみを感じます。

しかし、中学生の頃、夜通し話し合った友達のうち、一人だけこの考えを理解してくれました。また、僕が通っていた塾の先生も同じような話をしていたため、思い切って話してみると、全く同じ考えを持っていたと言って驚かれました。

共感してくれる人が一人でもいることはとても嬉しいことです。しかし、この認識は、眠って目覚めてご飯を食べると忘れてしまうものです。

ふとした時に思い出し、共有できない寂しさが心に刻まれます。

楽しみながら何も考えずに過ごせる状態が続けばいいなと思いますが、宴はいずれ終わります。

歓楽が極まるほど、落差で哀情を感じるのです。


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朱夏
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