慣れの果てに

 僕も新入社員だったころがありました。
 一度転職をしているので、新入社員という意味では2度あります。1社目ははじめての会社勤めであり、地元から遠く離れたまちだったので、慣れるまでそこそこ時間がかかりました。
 しかし慣れとは不思議なもので、その土地の電車にも、街並みにも、食べ物にも、空気にも、水にも、ひと月もすれば慣れてしまいました。そのまちには5年ほど住んでいましたが、今では懐かしさを感じます。僕の身体には、あのまちを歩いたときの感覚がまだ残っているような気がします。はじめは旅行に来たような感覚だったのに、すっかり自分の居場所となっていました。

 転職したあとは、地元の近くに戻ってきましたが、やはり新しいまちでした。
通勤に慣れず、いきなり体調を崩しました。家から最寄駅までの道、乗り換えのための巨大な鉄道駅、まだ片手で数えられるほどしか来たことがなかった、会社の最寄駅、すべてのものに身体が、そして心が慣れず、疲れやすかったのかもしれません。同時期に結婚をしており、新生活が始まったことも相まって、気が張り詰めていたかもしれません。
 しかしやはり、このまちにも、この生活にも慣れ、今では体調を崩すことも滅多になくなりました。

 その昔、会社勤めをする前の大学生の頃、僕は中国に留学していました。そこでは本当に周りの何もかもが新鮮で、異文化で、異世界でした。僕は大学で中国語を専門に学んでいたので、最低限の生活に支障はありませんでしたが、現地の人のナチュラルスピードの中国語を聞き取ることは、最初はとてもできませんでした。しかしその生活も3ヶ月を過ぎる頃、慣れのおかげである程度聞き取ることができるようになり、ぐっと生活が楽になりました。

 こんなふうにして、僕の身体や感覚は、周囲の環境に適応して、だんだん変化していくのでしょう。きのうやおとといやあの頃とは違う自分に。そして周囲の 環境は、新しいもの(非日常)から慣れ親しんだもの(日常)へとそのすがたを変えていきます。僕にとって非日常だと思えた「新しいまち」や「新しい会社」や「新しい言語」は、いつのまにか僕の当たり前の日常になっていました。
 それも「いま」では過去の日常に過ぎない、非日常に戻っています。僕らが普段生きている「日常」は、いつでもゆったりと気付かないスピードで、それでも確実に変わり続けています。くらしに新鮮味がなくなるのは単に、自分が「慣れた」と思って、たくさんの「変化」を切り捨てて生きていった結果でしかありません。

 演劇の稽古をして、その稽古の成果を公演という場で披露するとき、物語の中で僕らは「慣れ」を消し、「新鮮さ」を探し出さなくてはなりません。稽古で繰り返し行った動きや繰り返し口に出した台詞を、あたかもいまはじめて表したかのように振る舞わなければなりません。新鮮さへの敏感さが求められるのだなと改めて思います。はじめてあの道を歩いたときのことを、はじめてあの料理を食べたときのことを、はじめてあのひとと話したときのことを、舞台の上で再現できるように、僕らの日常から掬い取って保存しておくことが必要なのかもしれません。

 その点、台本の無い「インプロ」や「エチュード」は、その「新鮮さの抽出」に有利かもしれません。と言いつつ僕はインプロをやったことがないんですけれども。先日参加した「架空のプレ稽古」は、新鮮さを強く感じる催し物でした。初めて共演する方が多いということもあるでしょうが、すべての動きが、台詞が、僕にとって初めてであり、非日常であるからなのでしょうか。と書きつつ、そういえば演技は「思い出して再現するもの」だったことを思い出しました。ということはやっぱり記憶であり、僕にとって初めてではないのでしょうか? よくわからなくなってきました。

 ただやっぱり、架空のプレ稽古では、初対面のひとと共演したいと思いますし、願わくばそのひと自身が架空のプレ稽古慣れしていないといいなと思います。自分は複数回参加しているくせに何を言っているんだという感じですが。自分の知らないひととやる、自分の知らない架空の物語が、僕は結構好きなもので。

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日向修二
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