読書ノート『デザイン思考の仕事術』(2013年)
現在、放置状態の私のBlogにアップした過去の記事を再編集、こちらのnoteに再掲載しております。
今回は、2013年の7月から8月に書いた読書ノートです。
読書ノートですので、文章は全て引用で、私のコメントやまとめは一切、ございません。ただし、タイトルと太字は私がつけました。
*こちらのnoteに転載したBlog記事は削除して、最終的にBlog消滅を目指します。
『デザイン思考の仕事術』
著著:棚橋 弘季
出版社:日本実業出版社
第1刷:2009年6月29日
1.再帰性 その1
「調査をするなかで何か目新しいことはないか、自分が知らない事実がないかと探しても、そんなにこの世のなかに多くの新奇の発見がありわけではありません。そうでなくて調査で大事なのは、自分の視点そのものを変えるきっかけを発見することです。見ている対象が変わるから驚くのではなく、自分が変わることで驚くんです。本当の意味での「わかる」というのは、そんな風に自分が「かわる」ことを指します」(Page.086.より)
2.聞くのではなく察する
デザイン思考の仕事は人間中心の仕事です。
人間中心とは、デザインする人や企業の理屈で仕事を進めるのではなく、その仕事の成果としての商品・サービスを利用する人びとのために仕事をするということです。
人びとの意見を聞いてデザインしろという話ではありません。
他人の意見を聞くのではなく、他人の立場、ニーズを察するのです。
デザインする側が観察を通じてユーザー自身も気づいていない潜在的なニーズを探し出すのです。(Page.043.より)
3.統合的視点
勘違いしている人もいますが、グループワークは民主主義的に意見のすり合わせを行うものではありません。それぞれが持ち寄ったさまざまな情報・多様な視点をあわせて、包括的な視点からより大きな森がみえる状態をつくるのです。グループワークで求められるのは、共通点を探る作業ではなく、すべてを統合できる視点を見つける作業なのです。(Page.051.より)
4.再帰性 その2
デザイン思考で求められる発見、視点の切り替えというのは、結局、自分の外に出ることを意味します。外と接することで内が変わる。これは第三条の「他人の意見や作ったものを否定しない」ということと併せて考えると、何かと内にこもり、群れがちな日本人にとっては結構大変なことかもしれません。(Page.060.より)
5.進歩史観という思い込み
利用者がなぜそれをそのように使うのか、また、その製品に何を望むのかを深く考えようとすれば、その製品が辿ってきた歴史の変遷を知らなければ、製品と人びとの行動や評価のあいだの相互作用的な関係を読み取ることはできません。その関係性を理解し、どのように改善するのかがデザインの仕事なのに、そこを見ようとしない。結局、それをしないと昔の製品のほうが良かったね、なんてことになりかねません。
(中略)
かつて中国人はきわめて保守的で、時代が下るほど文化は劣化していくものだと信じていたそうです。これには一理あって、僕自身、博物館や美術展に行って、歴史が下るにつれてものの質が落ちていくなと感じることもあります。近代が前提とした人間は時代とともに進歩に向かうというのは、その意味で結構間違っているんじゃないかなと思います。かつての人びとが苦労して積み上げたデザインの知の恩恵にあずかろうとしないのなら、中国人が考えていたように時代とともに文化は劣化してしまうという可能性も少なくないでしょう。(Page.061-062.より)
6.問題の発見・解決という2ステップ
「理解」「観察」の最初の二つのステップが問題発見過程で、「視覚化」「改良」「実現」が問題解決の過程にあたります。仕事の現場でよくある間違いは、この問題解決だけを進めようとしてしまうことではないでしょうか。何のために作るのかを考えずに、とにかく作ろうとする人が多い。問題発見のやり方を知らず、その必要性も理解していないというのは日本のビジネスシーンではよく見られる間違いのひとつです。(Page.068.より)
7.自分で確かめること
自然に存在する自律性のある生のものの動きをとめて、固定意味に変換してしまう。それが情報化であり、デザインです。人工化です。人工化するというのはある意味では生き物を絞め殺すのに似ているんですね。本来自律的な動きをもつものの息の根をとめて固定化する。固定化することで人間の制御化におくことです。制御化におかれた瞬間、それはそれ自体の生を失うわけです。
(中略)
情報化にしても、デザインにしても、人工化というのは不確実な自然を確実性のもとにおく行為です。当然、その過程においては何かを拾象しています。情報化する人は必要なものだけを残して純化します。一方で、純化された情報だけに接している人はすでに拾象されたもののなかに本当は自分に必要なものがあったとしても気づかないわけです。それでは自分にとっての大事なものを見過ごすおそれがある。だから、誰かが要約したものに接するのではなく、現場に出向いて自分の眼で、身体で、ちゃんと確かめてみることが大事なのです。(Page.075.より)
8.自分で創るフレーム
僕らが普段、情報収集という場合はほとんどがすでに他人が純化=情報化したものに接する形の情報収集です。本や雑誌、テレビなやネットからの情報。上司や同僚、家族や友達から入ってくる情報。多くの場合、すでに誰かが情報化した情報を集めているにすぎません。
(中略)
現場でのフィールドワーク調査というのは、ありのままの人びとの暮らしに触れて自分の力で情報化する作業です。自分の目で観察して、自分の身体で体験して、研究やデザインの材料を作りだす作業です。フィールドワークにおける観察は、情報化の作業であるからこそ、無理やり自分の頭のなかの固定概念=枠組みにあてはめるような見方をしてはいけません。
(中略)
何度もいいますが「わかる」ことが重要ではありません。むしろ、わかっていることの外に出ないといけない。固定概念の外に出るのです。フレームにあてはめるというのは自分の内に留まることなのです。当たり前のことを当たり前だと思ってわかったような気になるのでは現場で観察する意味がありません。それは本や解析結果で知識を得るのと変わりないからです。無理やり自分の理解できる形にあてはめないで、とりあえずは見たままをありのままにメモに書き落とすのです。それが問題発見には必要なことです。
(中略)
フレームは新たに自分たちがつくるものです。そのためにはまず、理解の外、既存のフレームの外にある謎を見つけることが大切です。(Page.076.077.より)
9.状況・背景・きっかけ
次の行動の状況は、行動が行われた背景を把握するということです。
僕が専門にしている人間中心設計の分野でも"Context of use"=利用状況というのがひとつのキーコンセプトになっています。
利用状況が異なれば同じ物でも使い勝手は異なると考えます。
(中略)
携帯電話の通信速度やアプリケーションの起動時間などでも、プライベートでだけ使っている人はあまり気にしないのに、仕事で忙しく外回りしている人などは同じスピードでも遅いと感じる傾向があったりします。
これも単純にスピードに関する印象だけ聞いても意味がないことで、その人が携帯電話を利用する状況と比較してみてはじめて意味のある問題がみえてくるという例です。
(中略)
状況というのは広い範囲を示すことばで、行動が行われる物理的な環境も含みますし、文化的背景や行動の直接的要因やきっかけも含みます。(Page.080.081.より)
10.グランドデザイン=経済と文化を仲介する商品の設計図
僕は情報過多だといわれるようになったのは、情報が増えたからではなく人間が情報の生かし方を忘れていったからだと思っています。
(中略)
すこし脱線しますが、おなじ意味で物余りというのも嘘だと思ったほうがいい。足りない物なんていくらでもあります。それに気づかないだけです。物をつくる人たちがそれに目を逸らしているだけです。
結局、そうやって物も殺してしまっているんですね。物が生きるのは人々が暮らす文化のなかです。ところが、物を文化に結びつけて考えることができない人が物を文化から切り話された(ママ)状態でつくりだしている。
言い換えれば、それは経済と文化を切り離してしまっているのとおなじです。ハードとソフトが、メディアとコンテンツが、価格と価値が切り離されてしまっているんです。
(中略)
ハードのことだけ考えてソフトがない。価格だけあって価値がない。技術だけあって解決すべき問題が見当たらない。鍵と鍵穴が別々になってしまって、どちらも機能しなくなっています。もともと経済と文化は一組のものなんですね。作り手と使う人もつながっていたはずです。それが物に経済的な目的ばかりを負わせて、文化との結びつきを断ってしまったからおかしくなってしまっている。物余りで物が売れないなんて発想になっています。
(中略)
物が経済と文化をつなぐ役目ができなくなってしまっているんですね。需要がないなんていいますが、それも嘘です。需要は供給と同時につくるものです。その設計図がグランドデザインです。いま、その需要と供給、経済と文化が包括的に描かれた設計図を誰も引かないまま、物だけがデザインされているからおかしなことになってしまう。(Page.109.110.より)
11.アブダクション
パースは、推論の形式を例の三つに分類しました。アブダクション、帰納法、演繹法です。この三つの推論の方法のうち、帰納法と演繹法では新しい観念を生み出すことはできないとパースは考えました。その上で「アブダクションは説明仮説を形成する方法であり、これこそ、新しい諸観念を導入する唯一の論理操作である」と言ったんです。(中略)
パースはそこで記号という概念を持ち出します。推論の過程は記号過程だとしたのです。
ここでパースが記号といっているのは、いわゆる文字やアイコンのような記号だけを指しているわけではありません。人がみて、そこから何かを解釈できるようなものはすべて記号だとパースは捉えた。パースのいう記号過程は、2章で紹介した養老孟司さんのいう情報化という考え方に近い。自然に存在するもの、現実に存在するものをみて解釈する過程を養老さんは情報化といいましたが、パースはそれを記号過程と呼んだわけです。
(中略)
パースは記号過程を、表象(Representamen)、対象(object)、解釈項(interpretant)の三つの要素からなるものと考えました。パースの三項論理と呼ばれています。
(中略)
よく例に出されるものでは、森の中でハンターが木に傷がついているのを見つけて、その傷から近くに鹿がいることを察知するという関係があります。この場合、木の傷は「近くに鹿がいる」ことを示す表象であり、対象は鹿ということになります。この二項を結びつけるのが、「鹿は木の皮をはぐ」というハンターの知恵としての解釈項です。
(中略)
ここでのポイントは、表象と対象は絶対的な関係で結ばれているわけではないとパースが考えたという点です。ハンターが見れば木の傷は鹿の存在を示す表象ですが、僕らのような素人がみたらそれは単なる傷でしかありません。おそらく、僕らが傷をみつけたとしても、そこに何の表象性も感じず無視するでしょう。表象が表象として成り立つためには、それを対象と結びつけて解釈する第三項が必要なんですね。
(中略)
なんだろう? と感じることさえできれば、あとは森林監視員に鹿は木に傷をつけることがよくあるという話を聞いたときに、あの傷は鹿がつけた傷だとパッとひらめくこともありえます。それが発想のひらめきです。すでに与えられた情報がまた別の情報と結びつく瞬間に発想がパッとひらめくわけです。
(中略)
調査では「わかる」ことが重要ではないという話を第2章でしました。わからなくても事実を持ち帰ってきておけば、それが何かを示す表象であったということがあとから解釈でき(ママ)可能性があるのです。
(中略)
さらにいうと、どんなものでも表象となりえるということは、いったん解釈に寄って頭に浮かんだ対象自体が次の瞬間には表象となるということでもあるわけです。発想が次の発想を連鎖的に生み出すというのもこうした記号過程の働きがあるからだとパースは考えたんですね。(Page.116.~119.より)
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