最後の福祉国家 第1章2
先回述べたように、どうやら福祉国家が張ってきたセーフティネットには、困難に直面する人びとを容易に漏らしてしまうという欠点があるということが見えてきました。この欠点がどのくらい深刻なものかについては後で考えるとして、これからしばらくは、そもそもセーフティネットになぜ穴があいてしまうのかを、できるだけ丁寧に考えてゆくことにします。そこでまず検討しなければならないのは、個人の幸福の問題です。
■幸せとは
この連載の読者のみなさんは、幸せになりたいですか。この「幸せ」という言葉が、「個人にとってもっともよい人生(生活)の状態」のことを意味するのであれば、当然誰でも「イエス」ですね。もっとも、「ささやかな幸せ」のような使い方もありますので、「幸せ」の意味は一つではありませんが、ここでは、冒頭に挙げた個人にとっての究極的な目的としての「幸せ」をその意味として使用します。
さて、この「幸せ」、もう少し硬い言い方をすれば「幸福」ですが、この言葉には、大きな欠落があります。それは、この言葉がどのような状態になれば幸福といえるのか、について何も指示していないということです。いいかえれば、幸福という言葉は内容が「空っぽ」なのです。もちろん、これまで多くの哲学者たちは、幸福の内容を説明しようとしてあれこれと議論を積み上げてきました。その概要は、森村進『幸福とは何か』(ちくまプリマー新書, 2018)という良書がありますので、興味のある方はそちらをご覧いただきたいのですが、そこで書いてあることを、社会科学者的観点から要約すれば、長年色々と議論しても結局幸福の内容を説明することはできなかったということです。将来人間を遥かに超える知性が幸福の内容を説明してしまうということは否定できないにしても、現状で幸福の内容について、私たちは何も知らないというほかありません。このことは、私たちが幸福について厳密に取り扱うときは、その内容はわからないということを前提としなければならないということを意味しています。これが、私たちの幸福論の出発点です。
幸福には、ほぼ同じ意味の同義語が多数存在しています。たとえば同じ幸福でも「幸福(happiness)」と並んで今日では「幸福(well-being)」もよく使われます。さらに、保健・医療でよく使われるQOL(quality of life)は幸福を程度として表現する概念です。さらに、WHOの定義する広義の「健康(health)」もほぼ幸福と同じ意味です。また「自己実現(self-actualization)」、「成長(growth)」、「尊厳(dignity)」も文脈によっては大体幸福と同義になります。もちろんこれらは、具体的内容が指示されていない点で共通しています。
このような幸福諸概念の「空っぽ」さは、私たちの文化を豊かにしてくれているといえるでしょう。たとえば、文学・映画・演劇・音楽のような活動は、ある意味では人間にとっての幸福を言い当てる遊びのような性質をもっています。一つの答えがないからこそ、私たちは幸福について「ああでもない、こうでもない」といつまでも論じ続けることができるのです。内容がなくても、それを概念化できるところが、言葉の重要な特徴の一つで、私たちの文化は、その恩恵をさまざまに受けているわけです。
ただし、この幸福という概念の性質は、対人支援の領域で活動する支援者にとっては大変不都合な性質でもあります。幸福を目標として支援をしようとすると、目標を具体的に把握できませんので、そこから逆算して何をすればよいかを考えることができませんし、また自分がしていることが当事者の人生にとって有益なのかどうかも判断することもできません。政策や支援の現場で、解決すべき課題は何かをはっきりさせろ、あとで活動の評価ができるように数値目標を立てろとか、PDCA回せとか、そういうことがよく言われると思いますが、これらはいずれも、上のような不都合なことが起きないように、政策や支援の目標を明確化(評価可能化)しろ、と言っているわけです。私の申し上げていることがあまりピントこない方は、バーダックという人が書いている『政策立案の技法』(東洋経済新報社, 2012)あたりをチェックしてみてください。近年日本でも流行ってきているEBPMも、もちろんこの文脈の中にあります。したがって、ここで幸福が「空っぽ」だということを認めることは、上述のような目標を明確化することで政策や支援の見通しをつけるという方法が、厳密には無効だということを認めることを意味しています。
とはいえ、支援者はできることなら当事者をより幸福に近づけたいと願っています。そこで従来、この困難を回避する手段として大きく分けると2つの方法が発達してきました。一つは、具体的に評価できるものから構築した幸福の代理指標を用いる方法です。近年、QOLやWell-beingの測定尺度が大量に開発されていますが、これらは一括してこの方法に属しています。本来測定できないものを測るわけですから、それらの測定尺度で測ったものは厳密にはQOLでもWell-beingでもないわけですが、それでも構わないといえるほどの説得力をなんらかの方法で持つことができれば、少なくとも用途を間違えなければ、QOLやWell-beingの替わりに使用しても構わないのではないか、というわけです。このような立場をこの連載では「実用主義的幸福」と呼んでおきましょう。
そして、幸福の不可知性による困難を回避するもう一つの方法が、必要条件から考えるというものです。幸福が何かはわからなくとも、少なくとも「貧乏でない」ほうが「貧乏」よりもいい、という考えに基本的にほぼ全員が納得するだろう。とすれば、貧困撲滅は、幸福の必要条件の充足だと言っていいんじゃないか。こういう考え方です。従来福祉国家がやってきた支援政策は、基本的にこれです。誰でも嫌いそうな社会状態を問題と定義してそれを解消するということを繰り返してゆくことで人びとはだんだん幸福に近づいていくという世界観ですね。この連載では、このような立場を「ニード主義的幸福」と呼んでおきましょう。
次回は、これらの幸福概念が、幸福の「空っぽさ」をいかにして回避しようとしているか、またそのような回避策の限界について、順を追って説明してゆこうと思います。
付録
私が5才のときに母は父と離婚し、私は母に引き取られました。母は再婚しませんでしたので、私は母一人子一人の家庭で育ちました。よく知られているようにシングルマザーに対する日本社会の風当たりは強くて、ご多分に漏れず私の家庭もとても貧乏でした。気丈な母が養育費を受け取らなかったことも原因でしたが。
私は私立の中高一貫校に入ったのですが、授業料はそれなりに高かったと記憶しています。ただ、これは皮肉なことですが、私が通ったのは全国でも有数の進学校だったので、生徒の家族は概して裕福で、私は中1から高3まで競争相手がない状況で授業料免除を受け続けることができました。それでも私自身が貧乏なことは変わりませんで、部活に使うテニスラケットを電車の網棚に置き忘れ、そのまま紛失したときは本当に絶望しました。
そんな感じで貧乏暮らししていた私ですが、高1ぐらいのころ人並みにバンドをやってみたいと思うようになりまして、母にシンセサイザーを買ってほしいと頼み込んだことがあります。1980年代当時シンセといえば、YAMAHA DX-7というくらい定番のものがあったのですが、20万以上するので普通ではとても買えません。ただ母も、ピアノをやめていた私がまた鍵盤楽器をやりたいと言ったので、なんとかしようと思ったのだと思います。母と一緒に御茶ノ水まで出かけたのですが、会計する段になって結局ローンが通らずそのまま帰ったことを覚えています。後日何らかの方法で金策したのでしょうか、母がDX-7を手に入れてくれたときは本当に嬉しかったですね。当時のシンセにはリバーブ(エコーの一種)などのエフェクター内蔵されていませんのでしたので、めちゃくちゃドライな音がしたのですが、それでも一音一音感動しながら弾いたことをよく覚えています。
高1のときに、生活保護という制度があることを聞きつけまして、母に勧めてみたことがあります。母も私がそういうならということで、地域の民生委員に相談したのですが、「あんたが怠けてるから貧乏なんだ、もっと真面目に働け」的なことをひたすら言われたらしく、本当に怒っていました。もっともこれは、本編で話しているセーフティネットの穴とは別の問題です。大学生になってアルバイトで自分の生活費を自分で稼げるようになったとき、手元に自由に使えるお金があることに、嬉しいというよりも不思議な感じがしたことを覚えています。
幸せになりたい/ if i were happy
Youtube版(動画、歌詞付き)
SoundCloud版(音声、少しだけ音質がいい)
幸せになりたい/ if i were happy
僕は幸せになりたいよ
かつて友だちだった人と話せるほどに
ありがとうを言えなかったママに会えるほどに
死にたい気持ちを忘れるほどに
生きる値打ちなんてわからない
心が叫んでも
生きる値打ちなんてわからない
心が叫んでも
言葉にならない
僕はここにいる みな知らない
僕はここにいる みな知らない
僕はここにいるよ
僕はここにいるよ
僕は幸せになりたいよ
働いてばかりの日々を笑えるほどに
長い闘病が意味をもつほどに
死にたい気持ちを忘れるほどに
生きる値打ちなんてわからない
心が叫んでも
生きる値打ちなんてわからない
心が叫んでも
それでも
雨上がりの空気 深呼吸
明日のことを想う日夢見て
僕はここにいる みな知らない
僕はここにいる みな知らない
僕はここにいるよ
僕はここにいるよ
僕はここにいる みな知らない
僕はここにいる みな知らない
僕はここにいるよ
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