最後の福祉国家 第1章5
■ニーズについて
「ニーズ」は、おそらく支援の現場ではもっともよく使われる言葉だと思います。当事者のニーズをみつけることで支援がスタートし、ニーズを充足するように支援が行われる。つまり、支援の現場ではニーズこそが、支援にとって最も重要な概念なのです。一方で、ニーズという概念は、大変あやふやな使われ方をするのが通常でもあります。ためしに、ニーズを日常的に使用している人に、ニーズとは何かと質問してみましょう。もしくはもう少し、話を限定して、ある特定の個人のニーズを説明している人に、どうしてそれがその個人のニーズだといえるのか、と質問してみましょう。大体しどろもどろな回答が返ってくるはずです。というのも、現場においてニーズという言葉は、なんとなく阿吽の呼吸で使うものだということが暗黙の了解になっているからです。
実のところ、学術的にもニーズに関しては、あまり理解が深まっていないといえます。J. ブラッドショーという人によって1972年に書かれた、「社会的ニーズの分類学」 (Taxonomy of Social Need)という論文が、ニーズを学術的に理解しようとした最初期の業績だと思います。分類するというのは、「困難は分割せよ」の原則に合致していて、理解が難しい概念を把握するための初動のアプローチとしては間違っていなかったと思います。ただ、有り体に言って、分類したくらいではニーズについて理解を深めることはあまりできませんで、その後、ちらほらニーズについて言及する研究はあったもののこのテーマはあまり流行りませんでした。そんな中、ドイヨルとゴフ『必要の理論』が1991年に出て、今日までこれが、今でもニーズ論でもっとも本格的なものとされているといってよいでしょう(同書については理論部分の抄訳が日本語で読めます)。率直にいって業績といってもこの程度で、大して進展しているとはいえないといえます。
このように、ニーズについては、実践的な重要性と概念に対する理解の乏しさという際立った対照がみられます。ただ、この連載においては、この点を放置しておくわけにはゆきません。先回、私たちは幸福を必要条件から取り扱う一つの方法として、現世主義があることをみてきました。実は、ニードはこの現世主義をより一般化した概念であり、幸福を必要条件から考える場合には、避けて通ることができません。そこで、以下ニーズについてできる限り平易に説明することを試みたいと思います。ただ、ニードと幸福にとっての必要条件は、少しねじれた関係にありますので、そこを整理するところから始めなければなりません。読者のみなさんには少し辛抱しつつお付き合いいただければと思います。
まず、支援の現場などで使われる「ニーズ」は、単数形で「ニード」とも言います。ただいずれにせよ、元の英語のneed, needsはいずれも極めて日常的な単語で、意味が拡散してしまうので、英語ではhuman needsとかsocial needsのような言い方をするのが通例です。ただ、日本ではカタカナで「ニーズ」というときは、単なる必要性のことを意味するのではなく、専門用語として使用するというぼんやりとした慣例がありますので、ここでは、一括して「ニーズ」と呼んでおきましょう(先に出た「セーフティネット」と同じですね)。
■ニーズに関する2つの立場
次に、ニーズには、幸福との関係において2つの考え方が論理的に可能であるということを確認しておきましょう。ニーズに関する一つの立場は、幸福という状態から欠けているもののことを指してニーズと呼ぶというものです。この場合、ニーズがない状態を幸福と呼べばよいので、ニーズについて知ることは幸福について知ることと同じことになります。つまりニーズは幸福を裏返しただけの概念ということになります。この立場に立ちますと、幸福については前に議論したように、具体的内容が全くわかりませんので、当然ニーズも全くわからないということになります。要するに、ニーズについての一つの立場は、ニーズについての不可知論ということになります。
これに対して、もう一つの立場が、幸福を一旦脇において、まともな暮らしをするうえで少なくとも充足されなければならないものを指してニーズと呼ぶものです。
ニードの充足は、なんらかの観点からの改善を意味しなければなりませんが、この評価基準は、幸福な状態とみなさざるを得ません。その意味では、ニーズは幸福との関係でいえば、必要条件であることを主張しているといってよいでしょう。ただし、この評価基準を真の幸福に置くと幸福がわからない以上、評価不能になってしまいます。
このように考えてゆきますと、第1の立場と結局同じことになるのではないか、という疑問が湧いてくるかもしれません。いずれもニーズ概念を意味のあるものとして機能させるためには、実用主義的な妥協が必要であることに変わりありません。その意味では、第1と第2の立場は共通しています。ただし、第1の立場が、当事者の「改善」が幸福への接近を意味する必要があるので、幸福そのものの代理変数が必要になるのに対し、第2の立場では、当事者の「改善」は幸福の「必要条件」に関する改善でよいわけで、「改善」とみなせる自由度が少し大きくなります。
ここで、「幸福でないより幸福の方がよい」という言明を考えてみましょう。幸福は、内容が定義されていない点はともかく、それは個人にとって最もよい人生の状態を意味していますから、この言明は自動的に正しいということになります。ただし、ここから人生を改善する具体的な方向性を取り出すことはできませんね。ただひたすらに正しい文というだけです。これに対して、「貧乏よりも貧乏でない方がいい」という言明はどうでしょう。この言明は、貧乏でないことがよいというための評価基準が与えられていないので、厳密には正しいとも正しくないとも言えないわけですが、現実世界では大部分の人がこの言明を正しいと評価してくれます。いいかえると、この言明の正しさに対する社会的合意が、幸福との厳密な関係抜きで成立するわけです。これが、ニーズを幸福の必要条件の位置に置くことの現実社会における効果になります。こういう幅広い合意が可能な価値評価はそこらじゅうにあります。「肺がんにかかるよりもかからない方がいい」とかもそうです。読者の皆さんはぜひ、いろいろと考えてみてください。
もちろん、ここには社会的合意なるものが、そもそも人生の改善と何の関係があるのかという疑問が湧くわけですが、実のところ、社会的に合意できるということは、現実世界においては非常に大きな意味をもちます。この合意に従って支援しますと、支援者は自身の支援が自己利益のための行為でないということを正当化できますし、また合意に基づいてさまざまな政策や制度が作られてゆくことが期待できるからです。そうしますと、内容がわからない幸福を真面目に考えるよりも、現実世界を実際に動かせる、幸福の必要条件たるニーズの方が人びとに対して助けになるのではないか、と考えても当然でしょう。
■ニーズの他者評価性
私が医療職の方と交流していると、よく聞く言葉に「患者が一番よく知っている」というものがあります。これは、かつての医師の一般的な態度であった「パターナリズム」を、医師が自ら戒めるための言葉であるといえます。ただし、これは本当に患者がどのような治療がなされるべきか、どのような療養生活を送るべきかについて本当に知っているという意味ではありません。かりに本当に自分のことを当事者が一番よく知っているのであれば、支援は欲しがっているものを提供すればよいだけなので、支援者は正しい支援とはなにか、ニーズとはなにかなどと思い悩む必要はなく、本人に必要なものを訊ねればよいだけでこんな簡単なことはありません。
ニーズを幸福や社会的合意のような当事者や支援者からすると外的な基準に評価を求める背景には、本人に尋ねるだけでは支援はどうにもならないという事実があります。たとえば、アルコール依存症の人にとっての最大の欲求は、もちろんお酒です。でも支援者としては「ハイそうですか」と酒を提供するわけにはいきません。ここでお酒を飲むとさらに心身を壊してしまうからです。支援者としては、お酒を飲まなくても生きて行ける方法を模索していこうとするはずです。このように、一般に支援は欲求(wants)に従って進めることができません。そこには、本人の欲求と同じでなくとも行われるべき支援があるわけです。もちろん、本人の欲求とニーズが一致する場合もいくらでもあるわけですが、それが一致していない場合でも行われるのがニーズに基づく支援です。
このようなニーズの他者評価性については、永らく論争の争点となってきました。ニーズの他者評価性の何が問題になってきたかといえば、もちろん、それがもつお節介な性格です。これは評価者に何らかの善意があるお節介の場合にはパターナリズム(父権主義)と呼ばれますし、さらにそれが濫用されると旧東側陣営で顕著であったとされる「ニーズに対する独裁」(dictatorship over needs)という状態になってしまうわけです。
このように、ニーズには一貫してある種のいかがわしさがつきまとうわけですが、だからといって福祉の現場でこれを手放すわけにもいきません。上述のアルコール依存症のケースからもわかるように、支援と他者評価としてのニーズを切り離すことは現実にはできないのです。とすると、ニーズをできるかぎりいかがわしくなくするかを考えるほかなく、いかに個人的な感情・価値観や利害から切り離された、客観的な概念にするかというところがニーズという概念の正当性の鍵となるわけです。
■社会レベルでニーズを発見する方法
個人レベルでのニーズについて議論するのは後回しにして、まず社会全体とか社会集団とかのレベルでニーズを、個人的な感情・価値観や利害から切り離された客観的なものとして見つける方法について考えてみましょう。これまでに行われてきた方法を大きく分けると2つです。一つは社会認識からニーズを抽出する方法です。典型的なものはマルクス主義ですね。マルクスは、資本主義についての観察から、労働者が階級として団結して権力を持つべきであることを主張しました。労働者にとって権力がここでのニーズになります。これは日本国憲法第28条や、それに基づく労働組合法などとして法制化されているものです。他にもマルクス主義から抽出されたニーズはたくさんあります。最近では廃れましたが、日本で永らく社会政策学の正統とされてきた大河内理論のようなものは、社会政策の存在自体がマルクス主義理論から導出されていました。マルクス主義にかぎらず大理論に基づくニーズ抽出は最近では流行らなくなりましたが、今日でも、ジェンダー理論、社会階層論、家族社会学などさまざまな社会理論がニーズの発見を下支えしています。いずれも社会を何らかの方法で把握することを通じて、そこに生起し得るニーズのありかを指示するわけです。
このようなニーズの発見法と完全に切り離されているわけではありませんが、マルクス主義のような大理論を背景とするのではなく、もっと草の根からニーズが主張されてゆくことでニーズが発見される場合もあります。これは、社会問題化することでニーズを発見する方法です。近年でいえば、無戸籍問題などは典型です。さまざまな事情で無戸籍状態で生きている人は、以前から存在していました。日本では戸籍がないというのは非常な困難を生み出すもので、学校にも通えませんし、医療保険にも入れませんし、銀行口座も作れず、運転免許もパスポートも取れず、選挙権も行使できません。ただ、これが社会問題化したのは2010年代でした。ここに、社会問題という社会現象の特徴が表れているといえます。生活上の非常な困難があれば、それは自動的に社会問題になるのではなく、当事者やジャーナリストの告発にせよ、単なる偶然にせよ、それが社会に認知されてゆく過程があってはじめて社会問題となります。ただ、一旦社会問題になりますと、その改善は政治や行政にとってのアジェンダとなってゆくことが期待でき、無戸籍問題についても現在不十分ながらも改善が進められています。このような社会問題化は、上述の社会認識によるものと並んで、ニーズを発見するもう一つの方法といえます。人びとが経験する実体としての困難がどのようにして社会問題として提起され、放置できない問題として社会的合意に向かうかについては、ベスト『社会問題とは何か』(筑摩選書2020年)を読まれるとよいでしょう。専門書のわりには、読めばわかるように書いてあります。
ここまで、社会レベルでニーズを発見する2つの方法について述べてきました。これら2つの方法は、全く別の方法というわけではなく、社会問題化に際してもさまざまなレベルの社会認識が行われますから、これらの違いは、厳密には利用される社会理論の大小の差にすぎないということができるでしょう。その意味では両者の区別はある程度便宜的なものです。
いずれにせよ、社会レベルでのニーズは、最終的には社会的合意を根拠として取り出されます。というのも、社会理論から出発するにせよ、偶然的な告発から出発するにせよ、放置できない社会問題となるためには、その事象を社会が「問題」として承認・合意する必要があるからです。ここで、読者のみなさんは、不安に襲われないでしょうか。私はこのようにして発見されるニーズには大変不安を覚えます。その理由は2つです。1つは、人びとが経験する生活上の困難がニーズにならないことで見逃される可能性があることです。たとえば、家族同然で可愛がってきた犬が死んだというような状況で、飼い主が深刻なパワーレス状態(ペットロス)になることは、比較的よく知られた事実ですが、現状では、これが社会的に対応すべきニーズとしての社会的合意は存在していません。このため、この飼い主の苦しみについては、現在のところ、飼い主が自分でなんとかするか、飼い主の家族や友人が有志で支えるほかないわけです。いずれもう少し立ち入って検討しますが、私は、このようなニーズとしての社会的合意が形成されていない生活上の困難は無数といってよいほどあると考えています。
もう1つは、発見されたニーズが個人に適用できる保証がないということです。これは、以前議論した「住みやすい街ランキング」と全く同じ理由によります。なぜこれが同じことになるのかについて、細かく解説しているとただでさえ長い文章がさらに延びてしまうので、ここでは練習問題ということにしておきましょう。ヒントとして申し上げれば、ニーズがニーズである究極的な根拠が、社会的合意=多くの人がそれは放置できない問題だということを認めているということにすぎないことがポイントです。
付録
私がなんとか職にありついたのは30歳のときでした。佐賀大学の講師として赴任したとき、折しも就職氷河期の真っ只中でした。大学ではゼミというものを各教員が主宰することになっていて、私も比較的親しく接する学生たちを得ることになりました。彼らは、大学3年の始めから事実上就職活動を始め、何十社、場合によっては百社を超える会社に応募していたのですが、4年の冬になっても就職が決まらない学生がたくさんいました。みな家族からの期待を受け、少しでもみすぼらしくない就職先を見つけようとしていましたが、多くが挫折することになったわけです。
ある冬のこと、4年生のゼミ生が研究室に訪ねて来まして、どこにも就職できなかったと気落ちした様子で話しました。今であれば、もう少し本人によりそうこともできるように思いますが、当時の私に言えたのは次のことだけでした。「就職活動なんかするからだ!」もちろん学生は絶句していましたので、続けて「わかっただろう。世の中から君はいらないと言われたんだ。だったら、これからは自分がやりたいことをやれ!」しばらくして、この学生から理学療法士を目指して学校に入るつもりだ、という話を聞きました。その後の顛末は、承知していませんが、陸上部に所属する長距離選手でしたので、もしその途に進んでいればよいPTとなっていると思います。
比較的最近のことですが、ひろゆきという人が、いわゆる「氷河期世代」について、「氷河期世代でも日本に生まれただけでかなり幸せなんじゃないの」ということを言っていました。今後本論において述べますが、日本社会にいることが氷河期世代の人びとに幸せを与えるようには、現在の日本社会はできていません。そして、このことは氷河期世代に限った話ですらありません。今回の曲は、氷河期世代をテーマとしたものですが、実は私を含むあらゆる世代の人びとにとって対岸の火事ではないということを言っておきたいと思います。
氷河期/ ice age
Youtube版(動画、歌詞付き)
SoundCloud版(音声、少し音がいい)
氷河期
lyrics: 1.o
生きるために得た junk job
マンモスもいない氷河期
展望のない人生
すぐに行き着いた終着点
僕なんていらない
替わりはいくらでもいる
何度も言われた
無価値 無価値
無価値 無価値
僕の名は
無価値
僕の名は
無価値
僕を必要としないなら
僕は自由なはずだ
むかつく むかつく
むかつく むかつく
他人の眼が
絡みつく
寒い 寒い 寒いよ
寒い 寒い 寒いよ
絡みつく
寒い 寒い 寒いよ
寒い 寒い 寒いよ
僕を暖めてよ
自由の替わりに君が
僕を暖めてよ