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最後の福祉国家 第1章1

■導入 福祉国家に何がおきているのか

現在福祉国家に起きていることとは何でしょうか。このことを考えるために、ここでは事例として自殺対策を考えてみましょう。2020年代前半日本における年間の自殺者数は2万人強で、自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)で国際比較をすると日本はいつも上位にあるという意味では、相対的に自殺のリスクの高い国です。さらに、1998年から2010年までは年間自殺者数が3万人を超え続ける事態となっていました。

自殺には様々に誤解されてきた経緯もあります。その一つは、自殺は自由意思だというものです。そこから派生して、「勝手に死ぬんだから人様の迷惑にならないように死ね」といったタイプの誤った主張がなされたりしてきました。また、自殺者について心理学的剖検(psychological autopsy)のような調査を行いますと、亡くなる直前には大部分の当事者が抑うつ状態になっていることがわかるのですが、これを根拠に、精神科医が対策の中心であるべきだという主張もよくなされます。さらに、自殺対策は本人が自殺しないようにすることだ、というタイプの主張も誤解の一種であるといえるでしょう。

この連載は、自殺について述べることが目的ではないので、簡単に説明しますが、自殺者のかなりの割合が亡くなる直前まで、自分に生きる途が残されていないか模索していた形跡があることが知られています。つまり、それらの人びとは「生きれるものなら生きたい」と願いながら死を選んだ人びとです。このような選択を通常自由意思とは呼びません(自由意思で亡くなったとみなしてよい人が少数あることを否定はしませんが)。

また、自殺対策において精神科医の方々の中に真剣に取り組んで来られた方の存在を私は見知っておりますし、彼らは相対的に自殺に向き合う機会が多い方々でもあります。ただ、そのことは精神科医が対策の中心であるべきであることを意味しません。日本のうつ病の有病率は500万人位ではないかと言われています。年間の自殺数は2万人程度ですから、うつ病患者のほとんどは自殺しないということになります。また、その500万人のうち通院・入院している人は、患者調査によると、合わせて130万人程度にすぎないうえに、上記のようにその患者のほとんどは自殺しません。つまり精神科医の通常の活動の延長線上で、自殺予防の網掛けをすることは極めて困難なのです。自殺対策における精神科医の役割は決して小さくはありませんが、全体的な対策の中にうまく位置づける必要があるわけです。

また、自殺対策は本人が自殺しないようにすることだ、というも誤解です。この誤解に基づく対策で典型的なものは、「生命保険において死因が自殺の場合は保険金の支払いが免責されるようにすればよい」とか「青色灯を駅のホームに設置すれば自殺が減る」のような議論です。これらの対策は必ずしも自殺者を減らす効果という意味でもはっきりしないところがありますが、仮に効果があったとして、死ぬほど苦しい現状がなにも改善されないまま、ただ死ぬことができなかった方々はどうすればよいのでしょうか。そこには本人にとっては、この世が「生き地獄」となってしまうかもしれません。とするなら、自殺対策は単に死ななければよいのではなく、当事者が具体的に生きてゆく道筋を見つけることができるように支援してゆくことなければならないでしょう。

さて、本題に入りますが、人はなぜ自殺するのでしょうか。上述のように、亡くなる直前には多くの人が抑うつ状態になるということが知られていますが、これをもって自殺の原因は抑うつ状態だといってよいでしょうか。完全な間違いではありませんが、どんな事象でも、直接の原因となる事象の背後には、その原因となる事象が起きる原因があり、その原因にもその原因となる事象を引き起こす原因がある、という具合にいくらでも遡ることができますし、原因となる事象同士が相互作用しあっているという場合も考えられます。そうなりますと、特定の事象や状態を「原因」と呼ぶこと自体が、因果関係全体を「断面」のように切り取って提示することであるといえます。つまり、事象の因果関係とは通常「原因」とよぶものとは文字通り次元の違う複雑さをもった連関を意味すると考えなければなりません。


自殺についても同様です。このことをわかりやすく模式的に示したのが、下の図です(これは厳密には、因果連関ではなく時間の経過の中で生じた事態の連鎖を
表現したもので、これを因果連関として理解してよいかという点もいろいろと検討が必要ではありますが、状況の複雑さの表現としてはわかりやすいものです)。

ライフリンク「自殺実態白書2008」より

この図の元になった調査は、自死遺族に対する長時間にわたるインタビュー調査(半構造化調査)で、その結果は大変興味深いものでした。まず、調査者が用意した自殺の原因カテゴリーの大部分に該当ケースがあったということです。これは自殺が多様な因子の影響を受けていることを示唆しています。さらに、亡くなった方1人あたり上記のカテゴリーで平均約4要因が関わっていて、1つの原因で亡くなったとみなされるケースはほとんどなかったことです。これは自殺因子の複合性を示唆しています。

ライフリンク『自殺実態白書』2013

これに対し、亡くなった方たちはなにもしなかったかといえばそうではありません。「自殺実態白書2013」によりますと、約7割の人は、生きる途を探して主に専門機関に相談しています。自殺する1ヶ月以内に限っても約5割の人が、同様に相談していることがわかります(このことは上述した自殺が多くの場合自由意思でないということの証左でもあります)。そのうえで、亡くなったのです。

何かおかしいと思いませんか。先回お話ししたように、現在日本には、極めて目の細かなセーフティネットが構築されています。そして、自殺の要因とみなされる個々の状況に対応した相談窓口が実際に用意もされていて、だからこそ多くの自殺者たちは、生前これらに相談したわけです。とするならセーフティネットは何のためのセーフティネットだったのでしょうか。

これらの機関に相談して、生活を再建した人はこの調査には含まれませんので、どの程度の効果をセーフティネットがもっているかをここから評価することはできませんが、それでもこれらのセーフティネットが無用のものでなかったことは間違いないでしょう。それでも、少数ではあっても一定の人びとにとっては、これは助けにはならなくて、彼らはセーフティネットからこぼれ落ちてしまったわけです。それはあたかもザルに上から水を掛けるようなものだったわけです。このことは、戦後営々と構築してきたはずのセーフティネットに関して、一つの重大な可能性を示しているといえます。すなわち、セーフティネットは安全網として必要な性能を備えていない可能性です。

実のところ年間の自殺者は2万人程度ですので、人口比でみれば0.016%にすぎません。為政者的な観点からみれば、このくらいは仕方ないと判断される可能性のある人数かもしれません。ただ、このような評価が妥当であるのは、①人口が少なければ問題がない、②セーフティネットの「水漏れ」が自殺という現象に限って起きている、という2つが両方とも成立している場合です。①については、価値判断の問題になりますのでひとまず措くとして、②については実は成立しません。ここでは、ひとまず論証抜きで申し上げておきますが、このセーフティネットは、様々な生活困難およびそのような状態にある人びとに対して、同様の「水漏れ」を起こしています。そして、それらの漏らした人びとは、それぞれが自殺者のようにマイナーなカテゴリーに属していても、それらを総計してみると膨大な数になっていると考えられるのです。いいかえれば、福祉国家のセーフティネットには、システマティックな欠陥があるために、多くの人びとをさまざまなカテゴリーの少数者として取りこぼしており、結果として膨大な人びとがセーフティネットの恩恵から除外されているということです。



付録

私の基本属性を言うなら、「パンク」だと思います。今では音楽を通じて自分の人生観を見出すということはほとんど流行らなくなったと聞いていますが、私が若かりし頃は、音楽こそが、自分が選び取るべき精神性を提供してくれるものでした。パンクの定義について議論しだすと、それこそ連載を乗っ取るくらいの話になってしまうので、「自身に向かう叫びを内包した人間」くらいにしておきます。このパンクが自分に向かって叫び続けていますと、だんだん自分が壊れたり、それに耐えられなくて薬物漬けになったりしがちなので、パンクは大抵長生きできず、いわゆる「27クラブ」(27歳までに死んだロックスターが多いことからそう言われる)に入ってしまうわけです。曲に出てくるカート・コバーン(Kurt Cobain)も27歳で死にました。私などは生き残ったパンクの一人だと思います。

私は、早死にするのが格好いいとか憧れたとかで早死にしたパンクはいないと思っています。必死に生きようとせずに、真実を捉えるような曲を遺せたりはしません。どんなに自分を壊そうとする力が働いているなかでも生きようとする力。そこに私は、生きるということの本質を見いだせるような気がしています。

生きることの本質と関わって、かつて私はある人から興味深い話を伺ったことがあります。その人は、高齢者介護施設の責任者だったのですが、施設に入所している認知症のお婆さんが、いつも「死にたい、もう死にたい」と言っていたのだそうです。そこで、試みにちょっとそのお婆さんの首を締める仕草をしてみせたところ、
「何すんだ、人殺し!」と言われたのだそうです。介護現場におられる人びとであれば、当然そういう反応になるだろうと想像できると思いますが、おそらく大事なのは、なぜそれが当然なのかという点です。論理的な考察についてはこの連載の過程で議論するとして、次の曲で直感的に捉えてみてはいかがでしょうか。なお、くれぐれもお婆さんの首を締めて確かめないようにお願いします。


パンクスの牛乳

YouTube版(字幕付き)

SoundCloud版(ちょっとだけ音がよい)

マリファナを牛乳に変えて 生きる覚悟
選択が一本道に見えて  死ぬ覚悟

どっちが正しいではない
どっちが間違いではない
どちらも懸命に生きようとした
そこに真実があるんだろう

それは知性を超えた正しさを指差してる
死ぬのは自由意思だと思ってた西部
インテリの地金が見えてる格好つけ屋さ

死にたい言ってる婆さんの首締めてみればわかる
何すんだ人殺しって叫ぶはずさ
死にたい言ってる婆さんの首締めてみればわかる
何すんだ人殺しって叫ぶはずさ

生き残ったイギー 生き残らなかったカート

どっちも死にたがりじゃない
どっちも死に遅れじゃない
どちらも懸命に生きようとした
そこに真実があるんだろう

それは死線を超えた正しさを指差してる
死ぬのは狂気のせいだと言った精神科医
人への無知が見えてる知ったか振りさ

死にたい言ってる婆さんの首締めてみればわかる
何すんだ人殺しって叫ぶはずさ
死にたい言ってる婆さんの首締めてみればわかる
何すんだ人殺しって叫ぶはずさ

死にたい言ってる婆さんの首締めてみればわかる
何すんだ人殺しって叫ぶはずさ
死にたい言ってる婆さんの首締めてみればわかる
何すんだ人殺しって叫ぶはずさ

注)本当にお婆さんの首を締めてはいけません

lyrics: 1.o
music: 1.o powered by Udio



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