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philosophy

哲学=世の中の常識を疑うこと、思想など
非常に曖昧で様々な用途はある。

信号はなぜ赤が止まれで、青が進めなのか。
自分はここに関しては疑わなくて良いんじゃないかとか思うけど、これも哲学。

自分に関わる人へ幸せや感動を与える。
これも自分の哲学。


私が大学に入って、なんとなくハマった哲学。ハマった理由は深く思考することが楽しいと思ったこと。
少年が仮面ライダーかっこいい!くらいの好奇心みたいなもん。

明確な理由は覚えてないが、はっきりしてるのが飽き性な自分が飽きずに関心を持ってるってことは2〜3年たった今でも好きなんだと思う。

宗教のように哲学者たちの言葉を本で読み漁り信仰して、時には自分が「誰か」の言葉を周りの人たちへマウントを取るように高らかに語っていた。


でもそんな背伸びは見たことない景色を見せてくれた。訳わからん言葉の応酬、え、何いってんの?って理解に達せない人たちとの出会い。
要するに、私は今でも論理的思考が苦手である。


でもそんな宇宙人のような存在になぜか嫌悪感なんかなかった。

理由は2つ。
知性がある人というのは理解できた。
そして知性のある人は自分が知らない言葉を淡々と話していく。言葉は途中いくつかわからなかったが内容は理解できた。それが素敵だと思ってしまった。


憧れ。それは10代が終わる青年には圧倒的に影響が出る現象なんだと思う。



大袈裟にいうと他人の哲学こそ自分の哲学と無意識に置き換えてた。

「経営者思考」「投資」「成功」「行動力」「直感」「ロジカルこそ武器」

とんでもない影響力の渦中に身を置いた結果、自我を何処かに置いて何者かになった気分になってた。これも憧れ。




昔は全部吸収しようとオーバーワーク気味でも何者かにしがみ付いてためオーバーワークに気付くこともなく突っ走ってた。

そう思うと私は案外、無理が効くらしい。
さすが体育会系。


今になるとソレが二郎系食べた後の胃もたれの様にしんどくなってくる。


しんどいっていうのも自分が仮面を被り続けて鏡を見ても自分で泣いてるのか笑ってるのかすらわからなくなるような状態を指す。


今は素直な自分がすごい楽。
なんでって鏡で自分の顔が見れて表情が見えるから好き嫌いが鮮明だから。


「無理して嫌いなことも全力で取り組め!それが当たり前だ!」

と唱える人達。

まぁ嫌なことをやらなくていいって考えるほど自由人でもない、とは言え当たり前って誰にとって?って斜に構えるのも、サボりたがりも含めて私。


嫌いな事、嫌いな人に対しても接し方は真摯に。でも神経すり減らす必要はない。と思う。

「程々に」「まぁいっか」「なんとかなる」
そして「だからもうちょい頑張ってみようかな」

完璧主義者ぶったり、知性にこだわる自分は今はどっかいった。


楽観的で飽き性だけど好奇心旺盛で素直なアホが今ではしっくりきてる。


哲学は好きだ、


何歳まで自分に対して言えるか楽しみでもあるし、好きでなくなった時に自分はどんな大人になってるか楽しみ。



とか綴り終わった夏、真っ盛りの午後でした。

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