小説指南書の研究(6.どう書くのか?~人称と視点・描写・会話・推敲)
6.どう書くのか?~人称と視点・描写・会話・推敲
前回に引き続き、文体に大きな影響を及ぼす「人称と視点」「描写」「会話」について指南書の記述を比較し、最後に作品の仕上げに通じる「推敲」について見ていきます。
【人称と視点】
「描写」を誰の視点で行うか、一行目を書く時点で決めねばなりません。もちろん、間違えたなら書き直せば済むので、それほど神経質にならなくてはいいのかもしれませんが、できることなら、最初に決めた人称と視点で書き上げたいものです。
佐藤誠一郎氏の『あなたの小説にはたくらみがない』(新潮新書)では、人称と視点について詳細な検討が行われています。小説コンクールは一人称だらけで、芥川賞に至っても一人称のオンパレードだといいます。もしやと思い、書棚にある若い作家たちの単行本を開いたら、見事に一人称だらけでした。
大沢在昌氏の『売れる作家の全技術』(角川書店)では、小説家を目指す人たちへの「講義」として、「一人称の書き方を習得する」を最初の課題にしています。要するに、一人称一視点を基本にしているのです。一文の中に複数の視点が混ざる一人称多視点が読者を混乱させるので駄目だというのは指南書に共通していますが、この本の中で、大沢氏はいわゆる「神視点」を否定します。神視点であれば、読者は小説につき合う必要がない、オチもラストも謎も神視点は全てを知っているのだから、読者が登場人物と感情を共有できなくなるからだといいます。そして、大沢氏が新人賞の選考委員なら、神視点の作品は全て落選させるそうです。
貴志祐介氏は、『エンタテイメントの作り方』(角川新書)の中で、「基本は三人称一視点」とし、視点人物の視界に入ってこない情報をいっさい描くことのできない一人称は簡単ではないと説きます。一人称の方が文章を書き出しやすいものの、「決してすすめられる手法ではない」といいます。確かに難しい側面はあるのでしょうが、それよりも、私は「既視感」が気になります。
「僕」と書いた瞬間に主人公には「僕」の性格が付与され、「私」であれば「私」の、「俺」であれば「俺」の、作者であれ読者であれ、それぞれの言葉が持つ既にあるイメージの人物に染まってしまうような気がして、それは小説に一定の制約をかけてしまうのではないかと感じています。
一人称一視点、一人称多視点、三人称一視点、三人称多視点、二人称一視点、一人称パートと三人称パートの複合型、どれを選ぶのかもまた、作家の自由です。佐藤誠一郎氏の『あなたの小説には――』によると、一人称と三人称の「複合型」は近年多く見られるようなり、傑作が多いのも事実だといいます。
ル=グウィン氏は、『文体の舵をとれ』(フィルムアート社)の中で、視点を五種類挙げています。「一人称」、「三人称限定視点」「潜入型の作者(全知の作者)」「「遠隔型の作者」「傍観の語り手(一人称使用・三人称使用)」の五つです。
「一人称」は「わたし」が視点人物、「三人称限定視点」では「彼」または「彼女」が視点人物であり、それぞれ視点人物が経験できることしか物語上で語ることはできません。「潜入型の作者(全知の作者)」は、いわゆる「神視点」のことです。語り手は、全てを知っています。
「遠隔型の作者」には視点人物がいません。語り手は登場人物のひとりではなく、中立の観察者が登場人物について振る舞いや発言から推測できることのみを話すだけです。この視点には〈壁にとまったハエ〉〈カメラアイ〉〈客観視の語り手〉とル=グウィン氏は付記しています。ハエなので、作者は登場人物の心中にも立ち入りません。どこへでも行ける神視点よりも限定的です。
ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』(新潮文庫)の語り手がこれに当たるのでしょうか。語り手は、基本的にマコンドの中に居続けます。じっとそこにいて、客観的に、淡々と事実のみを語ります。これは神視点ではなく、「地縛霊視点」と呼ぶべきかもしれません。三人称一視点の一類型だと整理してしまうと味気ないですが、登場人物に視点人物のいない「地縛霊視点」だと考えれると何か新しいものが生まれそうな気もします。視点は強いていうならば壁のハエ。面白そうです。
作品にもっとも相応しい視点と人称は自ずと決まってくるような気もしますし、間違えたと思ったらすっぱりと切り替える潔さが必要なのかもしれません。保坂和志氏は、『書きあぐねている人のための小説入門』(中公文庫)で「一人称か三人称か――どっちでもいい」と書いています。自分がいちばんしっくりする人称で書けばいい、といいます。保坂氏自身は、「小説は細部の積み重ねによって完成するという考えが基盤になっている」ために、ほとんどの小説が一人称になったそうです。
これとは全く逆の意見を、デイヴィッド・ロッジ著、柴田元幸・斎藤兆史訳『小説の技巧』(白水社)に見られます。著者はイギリスの作家であり文学者です。本書は英米文学の名作を例に引きながら、小説の技巧に関する五十のトピックについて解説するもので、帯には「小説愛好家・作家志望者必読!」とあります。個人的には技巧に関して辞書的に使うというより、コーヒーブレイクのお楽しみとして手元に置いておきたい一冊だと思っています。
「視点」と題したトピックでは、ヘンリー・ジェイムズの『メイジーの知ったこと』(1897年)を例文にして「視点」について解説する中で、著者は「物語を語るときに視点をどこに設定するかは、小説家の選択項目としてはおそらく最も重要なものであろう」としています。ひとつの「不倫」を描くにしても、誰の目で語るかによって、読み手の反応はだいぶ違ってきます。「怠慢な作家や未熟な作家にありがちなのは、視点の扱い方に一貫性がないことである」。気をつけなくてはいけません。
【描写】
小説における描写の重要性は多くの指南書が説くところですが、宮原昭夫氏の『書く人は――』は、これを、「説明」というものの弱みと「描写」というものの強み、として判りやすく解説しています。「小説を『描写』によって書けば、読む人それぞれにさまざまな読み方をしてもらえる可能性が生まれます」。この一文に、描写の重要性が凝縮されているように思います。
本稿の第一章「小説とは何か」で触れた「読者の想像力を刺激する」ための表現こそが、この描写なのでした。描写に作家の個性が表れ、それが文体につながっていくのでしょう。こう考えると、「説明」は「コピー」であり、「描写」は作家の目(フィルター)を通した「スケッチ」なのかもしれません。
三島由起夫氏は、『文章読本』(中公文庫)の中で描写について細かく分類しています。人物描写――外貌、人物描写――服装、自然描写、心理描写、行動描写、の五種類です。ここまで細かくせず、人物描写と自然(情景)描写のふたつくらいを考えればいいような気もします。
「描写」という言葉そのものの「混乱」について、大岡昇平氏は『現代小説作法』の中で解説を試みています。外国では分化している様々な描写を、「描写」という言葉でひとくくりに扱うことへの疑問から出発しています。三島氏の『文章読本』の出版が「婦人公論」の別冊となり単行本も出版されたのが1959年で、大岡氏の『現代小説作法』(ちくま学芸文庫)の三年後の1962ですから、大岡氏は三島氏の描写の分類に些かの影響を受けたのかもしれません。なお、大岡氏は、「心理描写」「自然描写」を独立した章で扱っています。
人物描写について、丹羽文雄氏は『小説作法』(講談社文芸文庫)の中で、「作中人物の服装や容貌には私は、それほど重大性を見出していない。その人物をとらえるには、表情と行動に重きを置くやり方である」と書いています。また、心理描写を重要視するものの、心理をくどくど描くのではなく、行為や会話で表現出来る場合はそれに任せるといいます。
大沢在昌氏は、『売れる作家の全技術』で、描写の三要素を「場所」「人物」「雰囲気」だとしています。また、「描写に困ったときの虎の巻」として、「天・地・人・動・植」の五つを挙げます。天は天候・気候、地は地理・地形、人は人物、動は動物、植は植物。これらを文章に盛り込むことで、活き活きとした描写になると説きます。私が知る限り描写について最も詳しく解説しているのが、この指南書です。
一方、ハリウッド式三幕構成の指南書には、いわゆる「描写」について記述したものは見つけられませんでした。物語の構成(プロット)、キャラクター、会話など、テクニックとしての解説は実に豊富ですが、「視点と人称」、「描写」、その先にある「文体」、といった、文章そのものに関する記述は見当たりません。基本的に脚本の指南書なので、映像として見せられるのだから、文字で表現する必要がないのです。裏返せば、映像として見せられない小説にとって、読者の想像力を掻き立てる「描写」こそが命であるということでしょう。
ハリウッド式三幕構成の指南書ではありませんが、翻訳書の中で、唯一、描写に言及しているのがスティーブン・キング氏の『小説作法』(アーティストハウス)です。「読者が物語の世界を実感するためには、登場人物の身体的特徴よりも、舞台となっている場所や、そこに漂う空気を伝えることの方がずっと大切である」と説きます。「小説においては、見せることができるなら語るな、が鉄則である」との一文は、描写を重視するキング氏の姿勢をよく表しています。
エロティシズムの「描写」について、三島由紀夫氏が『文章読本』で述べている言葉を紹介しておきましょう。「他人の性行為を見る楽しみがすなわち猥褻であるとサルトルは定義します。文章は抽象的であればあるほど猥褻に近づくのであります」。
【会話】
スティーブン・キング氏は、『小説作法』の中で、小説の要素は三つだとしています。①話をA地点からB地点、大団円のZ地点へ運ぶ叙述。②読者に実感を与える描写。③登場人物を地の通った存在にする会話。つまり、キング氏は小説を創り上げる重要な要素として会話を挙げているわけですが、その会話は曲者で、「本人がまったく気づかないところで話者の性格を人に伝える」としています。「よくできた会話は人物の賢愚、善悪、あるいは、愛嬌と因業の対比を炙り出す」わけです。
キング氏が説こうとするところは、宮原氏の『書く人は――』で判りやすく解説されています。会話には、「情報としての会話」と「描写としての会話」があり、キング氏がいう「よくできた会話」とは、「描写としての会話」による効果を述べたものでしょう。
宮原氏は、「情報としての会話」を、さらに「作中人物への情報伝達」と「読者への情報伝達」のふたつの機能にわけ、「読者への情報伝達」のために安易に会話を利用することを戒めます。
大沢在昌氏は『売れる作家の全技術』で実際の会話と小説の会話の違いに言及した上で、「隠す会話」のテクニックについて解説しています。会話をトリックに活用するところなど、いかにもミステリ作家らしい指南書です。筒井康隆氏は『創作の極意と掟』で小説の手抜きの一手段として会話が使われることを嘆いています。一方で、対立であれ説得であれ、会話は価値観や個性の異なる人物によってなされるべきとします。
日本推理作家協会編著『ミステリーの書き方』(幻冬舎文庫)で、黒川博行氏が「セリフの書き方」というテーマでインタビューに答えています。そこに、「ふだんからアンテナを張って、頭の中にセリフをストックしておく」と書かれています。アイデア同様、登場人物の台詞もストックしておくとは、さすが、プロはそこまでやるものなのだと感心しました。
シド・フィールド氏の『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』(フィルムアート社)には、会話はふたつの大きな目的を持っているとして、①会話によってストーリーが前にすすむこと、②主要登場人物の情報を明らかにしていくこと、を挙げています。どちらかひとつでも達成できていなければ、その会話は不要だといいます。映画という「尺」のある世界では、それだけ研ぎ澄まされた会話が必要なのでしょう。
会話について、徹底的に考察した一冊をご紹介しておきましょう。ロバート・マッキー著・越前敏弥訳『ダイアローグ』(フィルムアート社)です。小説のための指南書ではなく、劇やドラマも対象としています。最も詳しく「会話」を分析した一冊で、詳細な「講義」として「会話」について学べます。
【推敲】
作品を仕上げる最後の作業が推敲であり、これはまさに文体を定着させることです。推敲の重要性は疑いようがありませんが、スティーブン・キング氏は第一稿を書いた後、第二稿まで最低六週間を目安に原稿を寝かせると『小説作法』に書いています。何度となく読み直したい誘惑にかられても、断固として退けなくてはならないといいます。寝かせた後に読み返して発見する大きな間違いは、たいていが人物の動機だそうです。いくつかの注意点を推敲し、自分が何を語ろうとしているのか、それを発見することが当面の課題といいます。
貴志祐介氏の『エンタテイメントの作り方』も推敲の方法について詳しく書かれています。「推敲にどれほどの労力をかけられるかが、作品のクオリティを左右する」と貴志氏は書いています。「書き上げた原稿をいったん寝かし、少し時間をおいてから読み返すのが効果的だ。スケジュールに余裕があるなら、二、三日おいて読み返すだけで、驚くほど多くの齟齬や違和感が見つかる」。プリントアウトして読み返すのも有効だといいます。ワープロソフトの読み上げ機能を使う手もありますが、森沢明夫氏は『プロだけが知っている小説の書き方』の推敲に関する素朴な疑問に答える中で、自分の声で読みながら、リズムや見た目のチェックを推奨しています。
面白いところでは、日本推理作家協会編著の『ミステリーの書き方』で、「推敲のしかた」のテーマを花村萬月氏が書いています。冒頭から、「私は自分が何故、日本推理作家協会に所属しているのかよくわからないのです」と笑わせてくれます。「推敲とは、自分の書きあげた文章を格好よいものにするということに尽きるのです」「推敲とは削る作業です。デブな文章は格好悪いでしょう」等々、花村節が炸裂します。
『たった独りの――』では、花村氏は重言を避けることを説いています。そして、「自分の書いた原稿を完全な他人の目で見て冷徹に手を入れられるようになること」を求めます。興味深いのは、花村氏が「文學界」の新人賞の選考委員をしていたころ、最終選考作品のゲラ刷りをバッと拡げて床に置き、離れたところから眺めたそうです。よい作品は、文字の集積がつくるフォルムが端整で陰影が美しく、なによりも律動があるのだそうです。そんな馬鹿な、といいたい人はいるでしょうが、プリントした作品に並ぶ文字たちのフォルムが悪いと、私は気持ち悪くなります。
推敲について、余談めいた話をひとつ。『書きあぐねている人の――』の保坂氏はワープロではなくサインペンで執筆しているそうです。本書は2008年に文庫化されたもので、現在も手書きかどうかは不明ですが、手書きにした根本の問題は「推敲」「作品の仕上げ」に対する考え方にあるといいます。特に短編には言葉を過度に大事にする傾向があって、何度でも書き直しができるワープロは壊れた時計を修理するような、とんでもない細密作業を強いられることになり、それが年齢とともに辛くなるというのです。ワープロの方が肉体的にきつい。手書きであれば外を眺めたり手を休めたりする余裕ができるからと、手書き原稿の経験を勧めています。私も学生時代は手書きでした。
就職後に富士通オアシスを知り、個人的にも購入し、文字を書かなくなった大人の第一世代は私たちだったのでしょう。それでも、当時はペン習字をやっている同期もいましたが、私などは、パソコンを自分で組む第一世代でもあり、血眼になって使いやすいキーボードを探した口です。もう四十年も前から手書きとは決別し、従って子供のような文字しか書けず、手書きなどしたら自分で何を書いたか判らなくなります。
しかも、最近では原稿はクラウド上にあって、通勤途上にスマホで書くことが普通になっています。ですから推敲という細密作業地獄に堕ちるしかないのですが、それでも校正ソフトという救世主が登場したこともあり、たぶん、こっちの方が楽だな、とニンマリしています。ただし、日本語変換エンジンがこっそり仕掛ける地雷は曲者です。知らん顔で同音異義語に変換している。こうやって原稿を書きながらも、絶えず誤変換の恐怖と背中合わせです。ATOKを使うようになってだいぶマシにはなりましたが。これなどは手書きなら避けられたストレスですね。
創作に関する話題が小説指南書にどう書かれているのか、内容の比較は以上です。次回は最終回です。本稿で取り上げた小説指南書の一覧をご紹介します。12月15日(日)の公開予定です。お楽しみに。
「6.どう書くのか?(人称と視点・描写・会話・推敲)」で扱った小説指南書は以下のとおりです。
〈文芸系〉
・小説家・選択講義型:デイビッド・ロッジ著、柴田元幸・斎藤兆史訳『小説の技巧』(白水社)
・小説家・選択講義型:宮原昭夫著『書く人はここで躓く!』(河出書房新社)
〈エンタテイメント〉
・小説家:選択講義型:ロバート・マッキー著、越前敏弥訳『ダイアローグ』(フィルムアート社)
・編集者等・選択講義型:佐藤誠一郎著『あなたの小説にはたくらみがない』(新潮新書)
小説家・全体講義型:貴志祐介著🔰『エンタテイメントの作り方』(角川新書)
小説家・選択講義型:アーシュラ・K・ル=グウィン著『文体の舵をとれ』(大久保ゆうこ訳・フィルムアート社)
〈エンタテイメント(ミステリ・サスペンス)系〉
・小説家・選択講義型:スティーブン・キング著『小説作法』(アーティストハウス)、新訳版は田村義進訳『書くことについて』(小学館文庫)。
・複数小説家・全体講義型:日本推理作家協会編著『ミステリーの書き方』(幻冬舎)
小説家・全体講義型:大沢在昌著🔰『売れる小説家の全技術』(角川文庫)
〈参考書籍〉
・脚本術:シド・フィールド著、安藤紘平・加藤正人・小林美也子・山本俊亮訳『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』(フィルムアート社)
・G.ガルシア=マルケス著『百年の孤独』(新潮文庫)