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別冊・小説指南書の研究① 『文章読本さん江』斎藤美奈子著

「別冊・小説指南書の研究」として、一冊の指南書にフォーカスしてご紹介していきたいと思います。初回は、斎藤美奈子さんの『文章読本さん江』です。刊行後に評判となり、多くの書評や解説が出ました。「文章読本」の多くは小説というより文章そのものの向上を目指していますが、創作の一助とする目的で読まれる人も多いのではないでしょうか。

 あまたある「文章読本」から一冊を読もうとしている、という人がいたら、迷わず斎藤美奈子氏の『文章読本さん江』(2002年刊・2007年ちくま文庫から文庫化)を薦めます。谷崎氏・三島氏・丸谷氏・井上氏は読んだけどね、という人がいたら、『文章読本さん江』を読まないのは片手落ちだと申し上げたい。

 この本が大いに笑わせてくれるから、だけではありません。「文章読本」を書く人をサムライに喩え、まるで何かに引き寄せられるように「文章読本」を書いてしまう論理、書いた中身の真実、文章に関わる人々の確執など、「文章読本」をめぐる濃密な世界を教えてくれるのです。

 そればかりか、この本は、膨大な資料に裏打ちされた文章教育の歴史を紐解いてくれます。書くことに興味ある人であれば、知って損のない情報が詰まっています。

 ただし、川端康成氏の『新文章讀本』(1954年に新潮文庫から発売されたものは、『新文章読本』で「読」の字は旧字ではありませんでした)について、菊池寛氏の『文章読本』とともに谷崎読本のパクリが多く、「代作疑惑がもちあがり、文章読本界から抹殺された」と記載されている点には些か疑問があります。

 文壇から批判的な意見が多かった谷崎読本に対して、積極的な支持を表明したのが川端康成氏と小林秀雄氏だと、川端香男里氏(東京大学名誉教授・川端氏の養女の夫)による「解説」に記されています。谷崎読本で批判された「文章に実用的と藝術的との区別はない」について、『新文章讀本』で支持を表明しているのは、執筆したのが川端康成氏自身であることの証明のように感じます。

 さらに、そもそも、川端読本は『文藝往来』という雑誌の連載を一冊にまとめたもので、川端氏は作家であると同時に文芸批評を本業としており多くの小説に通暁していますから、それを他人に代作させるとは考えにくいのではないでしょうか。

 しかも、川端読本は「文章読本界」から抹殺された、としていますが、『新文章讀本』はタチバナ出版からタチバナ文芸文庫として2007年の12月に再刊されています。奇しくも、同じ年の同じ12月に『文章読本さん江』が文庫化されています。

 もちろん、一度「代作」の疑惑を持たれてしまったら、ネットに残る誹謗中傷と同じでその「汚点」は消えることがないでしょうし、代作でないことを証明するのは「悪魔の証明」であって困難です。

 ちなみに、川端康成氏の『小説の研究』(最も新しい再刊版は1977年の講談社学術文庫)は、伊藤整氏らとの合作だと判明したことを理由に文庫での再版がないとされているらしく、斎藤氏はこちらと混同していたのかもしれません。ただし、川端香男里氏による「まえがき」に、表題である『小説の研究』と、本文中の抜粋文集『小説一家言』のタイトルは春山行夫氏の提案であること、本書の制作に春山氏と伊藤氏が協力したことが明らかにされています。こちらは「合作」であると明記されているわけです。

 さて、川端読本の代作疑惑の一点を除けば、『文章読本さん江』の舌鋒鋭い記述は実に心地よく、さすが、「自由な精神と柔軟な知性に基づいて新しい世界像を呈示した作品に授与する文学賞」である小林秀雄賞の第一回受賞作に選ばれ、最後の「文章とは何か」の結論は、私が一生涯つかんだまま放さない「答え」になるものでした。

 それに加えて、最後の最後に驚かされたのは、文庫版の巻末にある「『文章読本さん江』さん江」、と題した「解説」です。そこに記載された高橋源一郎氏による「『文豪』たちの息の根止める一撃!」に、こう書かれていたのです。

 実はわたし、「文章読本」(みたいなものですが)を書いている最中だったのですよ。ところが、この本を読んだせいで、中身がすっかり変わってしまったのですね。

 この文章は、毎日新聞の2002年4月7日号に掲載されたとのことですが、この「文章読本」(みたいなもの)とは、同年6月に岩波新書から刊行された『一億三千万人のための小説教室』(2002年・岩波新書)のことではないでしょうか。

 実は、この本が「小説教室」を標榜しながら、必ずしもそうなっていないのではないか、というモヤモヤとした疑義を感じていました。歯切れの悪さが不思議だったのです。その謎が氷解しました。高橋氏は、もっと、ずっと「文章読本的」な「小説教室」を準備していたのではないでしょうか。ところが、解説を依頼されて斎藤氏の『文章読本さん江』を読んでしまったがために、「中身がすっかり変わってしまった」ものが書籍化され、それが歯切れの悪さにつながったのかもしれません。

 それほど、『文章読本さん江』は作家の皆さんに強烈なインパクトを与えていたわけです。まだの方は、一読をお勧めします。

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中島舟保
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