人類救済学園 第壱話 「嵐を呼ぶ少年」
※ 逆噴射先生のご指摘を踏まえての改訂版が下記で連載中です!
ⅰ.
彼はただ、震えていた。寒いわけでなく、冷たいわけでもなく。色も、光も、形もない世界のなかで。重さも、熱も、時の流れも、上下も左右も、名も、言葉も、なにもかも、すべて。なにもない世界のなかで、彼自身、なにものでもなかった。
色を持たず、形を持たず、時も経ず、名も、言葉も、なにもかも、すべて持たず。なににも縛られず、解き放たれていて、完全に自由。
彼は、そのような自由のなかで震えていた。震え、震え、震え、やがてもがき、やがてあがき、なにかを掴もうとして手を伸ばし、なにかを叫ぼうとして口を動かし、己に手があるのか、口があるのか、それすらもわからないまま、もがき続け、あがき続け。
その果てで、彼は言葉と出会った。
生まれ生まれ生まれ生まれて
生の始めに暗く
死に死に死に死んで
死の終りに冥し。
言葉は、彼を飲みこんでいった。そこには闇があり、重さがあり、痛みがあった。彼は落ちていった。きりきりと回転し、引きのばされ、叩きつけられ、落下していく感覚のなかで、彼はたしかに、己を呼ぶ、誰かの声を聞いたのだった。
お前は……。
もうろうとしながら、その声を反芻する。
僕は……。
お前は……。
僕は……。
鳳凰丸。
お前は……。
僕は……。
平等院鳳凰丸。
お前は……。
僕は……。
びょーどういん、ほうおうまる。
お前は……。
僕は……。
僕は、平等院鳳凰丸。
光が、見えた。
そして彼は、目を覚ました。
「やあ、目覚めたな」
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✺ 人 類 救 済 学 園 ✺
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第壱話「嵐を呼ぶ少年」
重さ、ゆらぐ空気の感触、輝きがチカチカと、ぼんやりと視界はひらけていく。匂い、冷たさ、温かさ、静けさ、人の気配。そして。
肉体だ。肉体がある。
鳳凰丸は口を開き、嘔吐のように息を吐いた。空になった肺に空気が流れこんできて、どくんどくん、鼓動で体が弾んでいく。
少しずつ目の焦点があってくる。白く、ほのかに輝く床が見えた。形があり、色があった。床を覗きこむように手をつき、四つん這いになっている己がいた。
もう一度息を吐く。息を吸う。呼吸ができる。いや、呼吸は、しなければならない。
手のひらをつうじて、ひんやりとした冷たさが伝わってくる。床には黒い文様が刻まれていて、彼を取り囲むように円を描いている。
「大事ないか、転入生」
顔をあげる。見おろす視線がそこにはあった。思わず目を見開く。雄々しく、勇壮で、冷たく美しい光。凄まじい。凄まじい眼差し。息を呑む。苛烈で、鮮烈で、強烈な……それはまるで、獅子の目だった。
「ふふ、戸惑っているな」
眼差しの主は笑みを浮かべた。
「まあ、当然ではあるが」
そう言いながら少年は——金の刺繍で縁取られた、豪奢な詰め襟の黒服に身を包んだ、十代半ばほどの少年だった——目元まで伸ばした黒髪をかきあげ、「フン……」と鼻で笑った。そして、ゆったりとした所作で壁を指さす。鳳凰丸もつられるように壁を見る。
壁は鏡で覆われている。その鏡の向こうから、もう一人の少年がこちらを見つめている。鳳凰丸は確かめるように顔を触った。「これ、僕なのか」「そういうことだ」黒髪の少年は応じた。
鏡の向こうの自分は白い詰め襟の制服を着ている。こちらを見つめる眼差しには影があり、肌は白磁のように滑らかで、髪は緋色に染まっている。髪がゆるやかに波打つ様はさながら燃えあがる炎のようで、思わず「……なるほどね」と呟いていた。
「立てるか?」
黒髪の少年が手を差し出す。
「いや、大丈夫」
手を振ってこたえる。膝に手をつきながら立ちあがる。重さの感覚に、一瞬、吐き気にも似た不愉快さが浮かんでくる。それを、首を振って打ち消していく。
深く吸って、深く吐く。少しずつ感覚に馴れていく。顔をあげ、黒髪の少年に向かいあう。そうしなければならない。そう、感じたからだ。
「ふむ」
黒髪の少年はあごに手をあて、「見当識に異常なし」と呟いた。「では……」
少年は左の口の端をあげると、尊大に腕を広げてみせた。
「ここはどこで、己がなにものなのか。言ってみせろ」
その言葉にうながされるように、鳳凰丸は目を閉じた。そして、言葉を反芻していく。
僕は、鳳凰丸。
びょーどういん、ほうおうまる。
僕は、平等院鳳凰丸。
チカチカと、頭のなかで光が瞬いていた。まばゆい星ぼしが生まれ、消えていくように。そのひとつひとつがまるで鮮明な、ひとつの世界のように満ち満ちていって、浮かび、消え、それはどんどんと彼に刻みこまれていく。
記憶だ。
なにも驚きはしなかった。そうなることが当然だと感じていた。閃き、輝き、光が次々と花ひらいていくと、次第に、ここはどこで、己がなにものであるのかを、彼はどんどんと思い出していく。
静かに目をあけた。黒髪の少年がうながす。
「どうだ?」
確信に満ちた声音でこたえる。
「ここは、人類救済学園。そして、」
優雅な所作で、己の胸に手をあてた。
「僕の名は平等院鳳凰丸。学年は二年」
鳳凰丸は、己の眼差しに力強い光が宿るのを感じていた。静かな高揚とともに、口から言葉がこぼれだしていく。
「僕は、この学園の風紀委員長だ」
「……よかろう」
黒髪の少年はうなずいた。
「貴様は平等院鳳凰丸。そしてたしかに、我が学園の風紀委員長だ。俺にも今、その記憶が閃いたぞ」
黒髪の少年はうなずき、ふふん、と鼻で笑うと、挑発するように言った。
「では、この俺はなにものだ。言ってみろ」
「君は……」
静かに、淀みなくこたえる。
「君は、夢殿救世(ゆめどの・くぜ)。僕と同じ二年。そしてこの学園の、生徒会副会長だ」
ほう、と黒髪の少年……夢殿救世は目をみはった。
「見事」
救世の手がパンパンと乾いた音を奏でる。
「人類救済学園へようこそ、平等院鳳凰丸。貴様は無事、本学園への転入を果たしたぞ」
ⅱ.
白く輝く堂々たる回廊だった。その輝きのなかを、夢殿救世はまっすぐに歩んでいく。鳳凰丸は、その後ろにつき従うように歩いている。
「え。そうなんだ?」
鳳凰丸は素っ頓狂な声をあげた。
「ああ、そうだとも。通常、学園に入学した直後はパニックを起こすものなのだ。見当識に異常がみられ、目の焦点はあわず、場合によっては叫び、暴れだす。記憶だって混濁する。入学とは、尋常なできごとではないからな」
救世は立ち止まり、振りかえった。その顔には笑みがたたえられていた。
「だから、貴様は見事だ」
鳳凰丸の肩に手を置く。
「貴様のようなやつは、俺の知るかぎり本学園はじまって以来だ。ゆえに……貴様は尊敬に値する。平等院鳳凰丸」
「んー。なんだかよくわからんけど……」
鳳凰丸も笑みを浮かべた。
「とりあえず、あんがとね」
「フン……」
救世は鼻を鳴らした。
「鳳凰丸、貴様はおもしろいやつだ……奇妙だがな」
回廊の輝きが眩しくて、鳳凰丸は思わず目を細めた。輝きのなかを再び歩きだした救世の後ろ姿は気品があり、優雅さと勇壮さを兼ねそろえている。その後ろ姿を眺めながら、鳳凰丸は細めていた目を「あ……?」大きく、丸く広げた。
「ツーブロックだ!」
目覚めたばかりということもあって、さっきまでは気づいていなかったのだ! 救世のこめかみから後頭部にかけて、アウトラインがツーブロックに刈りあげられている。右耳には、さりげない金のピアスだ。
鳳凰丸は口に手をあてて、くすくすと笑った。
「君、案外おしゃれなんだね」
「なんだ?」と救世が振りかえる。「んーん、なんでもないよ」と笑みを噛み殺して鳳凰丸。
二人はやがて回廊を抜けた。景色が開けて、風が吹き抜けていく。二人の髪が涼しく揺れる。
「うわあ……」
鳳凰丸は声をあげた。救世と鳳凰丸はテラス状の建物の上に出ていた。そこから見える景色は、あまりにも美しかった。
空は溺れるような瑠璃色に染まっている。その下には緑豊かな校庭が広がっていて、その向こうには、壮麗な伽藍のごとき超高層建築が煌めいている。
「あの、あのさ、救世くん!」
「なんだ」
鳳凰丸はぶんぶんと腕を広げた。
「これ、全部が学園!?」
「そうだ」
「じゃあ、じゃあ、あのでっかいのが校舎!?」
「ああ、そうだな」
「ううー」
鳳凰丸は、うめいた。
「おおお……マジか……マジですか……」
「ふふふ、驚くだろう、そうだろう」
「すご……」
救世は自慢げにうなずいていた。その横で「おやっ?」鳳凰丸は手のひらをひさしのように額にそえて、空を見あげた。
その見あげる先、上空には巨大な球体が浮かんでいる。それは神秘的で、鋭くも優しい光を放っている。
「なんじゃあれはっ!?」
「講堂だ」
救世は誇らしげに続ける。
「講堂……あれは特別なのだ。あそこに入れるのは生徒総会や卒業式、そういった特別な行事の時のみ……」
「ふむふむ。なるほどなあ……すっげえなあ」
「って、おい。ちょっと待て」
救世は軽く咎めるように言った。
「よくよく考えてみれば、奇妙な話だぞ。鳳凰丸」
鳳凰丸はきょとんと救世を見かえした。
「え、なにが」
「フン。なにが、ではない、鳳凰丸。俺をからかうつもりなのか。貴様の状態から察するに、間違いなくあれらの記憶もあるはずだ。そうだろう?」
鳳凰丸は屈託なくこたえた。
「うん、そうだね」
すべて憶えているともさ。でもさ、と鳳凰丸は続けた。
「やっぱ実物を見ると感動すんだよね。僕はさ、なんか嬉しいんだよ。肉体がある。形があって、色がある。重さがある。風が吹き、髪を揺らす。隣には語りあえる人がいる。いいね、実にいい。世界には時間があって、時は静かに刻まれていく。僕らは少しずつ時を重ね、そしていずれ、すべては最期を迎えるのだ……」
だからさ。
「一秒一秒を、全力で楽しみたいじゃん?」
鳳凰丸は満面の笑みとともに、それを一息で言い切った。そして直後、目を丸くした。
「……うわ、どうしたの?」
救世はうつむき肩を震わせている。「え、なになに?」鳳凰丸が声をかけるのと同時。救世は顔をあげ、呵呵と笑いだした。
「ははは! 貴様、やはりおもしろいやつだ!」
「お、おう。なんかありがとう……」
救世はひとしきり笑うと、目にたまった涙をこすりながら鳳凰丸を見た。
「そろそろ、話しておかねばならんな。貴様の今日の予定だが……」
「はい」
「実は、あとは生徒会長との顔あわせを残すのみなのだ。それで終わりだ。もともと、転入時のパニックを想定して予定を組んでいたからな……」
「……はあ」
鳳凰丸は気のない返事をした。救世は続けた。
「ゆえに、いささか時間に余裕がある。俺が手ずから学園を案内してやろう。貴様、光栄に思え」
「え!」
鳳凰丸は目を輝かせた。
「マジすか!」
「マジだ」
「副会長って偉い人だよね!?」
「まあ、そうだな」
「忙しい、んじゃないの……?」
「フン。貴様が気にする必要はない」
おおお、と鳳凰丸はうめいた。
「救世くん、君って……」
鳳凰丸は救世に抱きついた。
「すごくいいやつ!」
「わ、バカ、ひっつくな!」
ⅲ.
二人はテラスから、校舎に続く沿道へと降りた。沿道には見あげるような木々が植えられている。さらさらと風にそよぐ木漏れ日が、優しく二人の顔を照らしだしていた。
「……というわけで、教師による授業は学園生活の三分の一にすぎん。残りの三分の二は、生徒による自主的な活動の時間ということになる」
「ほうほう」
鳳凰丸はきょろきょろと首をめぐらせた。おおぜいの生徒たちがいる。黒い詰め襟の生徒。赤い詰め襟、紫の長衣。鳳凰丸と同じ白い詰め襟。それから、緑、橙、黄、青……。いろとりどりだ。
生徒たちはみな、授業に参加するでなく、談笑したり、清掃したり。沿道から見える校庭にも、運動したり、組手をしたりの生徒たちがいる。鳳凰丸は不思議そうに首をかしげた。
「なんかさあ……」
救世はうなずいた。
「うむ。貴様の言いたいことはわかるぞ、鳳凰丸。一見、自由に見えるが、なぜか秩序あるように見える……そうだろう?」
鳳凰丸はブンブンと首を縦に振った。
「そうそう、それそれ!」
「ふふ。貴様の気づきは正しい。各自が勝手に動いているように見えて、実はそうではない。学園には守るべきルールがあり、秩序があるのだ」
救世はもったいつけるように咳ばらいをした。
「学園則第一章、第一条。『人類救済学園は、人類の救済に資する人材を育むために存在する』……これこそが、われらが守るべき第一のルールだ。貴様の記憶にも、刻まれていることだろう」
「うん、学園則は憶えているよ」
鳳凰丸は再び周囲を見た。
「ルール、そして秩序、か……」
間違いなくそれらは存在していた。上空から降り注ぐ講堂の柔らかい光のように、目に見えないルールと秩序とが学園中に浸透し、充満し、生徒たちを律しているのだ……。
「いずれ、貴様にもわかるだろうな」
「ふぅむ……」
鳳凰丸は腕を組み、考えこむように首をかしげた。が、すぐに……「おや」なにかに気がついて顔をあげた。
進行方向。沿道の先が、陽炎のように揺らめき、赤く染まっている。
「ん~?」
目をすがめた鳳凰丸の視界のなかで、その赤は、少しずつ膨らみながら近づいてくる。それは徐々に鮮明になっていき、やがて、はっきりとした輪郭が見えはじめた。
「……なんだなんだ?」
それは、生徒たちだった。真っ赤な詰め襟や真っ赤なセーラー服に身を包み、一糸乱れぬ行軍のように、整然とこちらに向かってきているのだ……。
「おい」
救世は鳳凰丸の袖を引っぱった。「え、なになに」そのまま沿道の脇へとひきさがる。その二人の前を、赤い一団は通りすがり……ごくり。鳳凰丸が唾を飲みこんだ、その目の前で……止まった。
「なになに、なんなの」
鳳凰丸は目をぱちくりとさせた。その横で救世は一団をにらんでいる。威圧するような眼差しだった。
一陣の風が吹き抜けた。
二人と、赤い集団との間に砂ぼこりが舞いあがり、「なあ~、副会長ォォ……」ドスをきかせた少女の声が響き渡った。
鳳凰丸は声の主を見た。「んん……」一見すると、美しく気品のある少女だったが……
その身にまとうのは、鮮血を思わせる真紅のセーラー服であった。髪もまた、血のように赤い内巻きボブで、顔には残忍そうな笑みをたたえ、そして、その眼は……白目がなく、紅蓮一色に染まっているのだった! 「ひええ……」鳳凰丸は震えた。
「なんのようだ、美化委員長」
救世が問う。少女は手をあげ、鳳凰丸たちが歩いてきた方角を指さした。その先には、二人が降りてきたテラスがある。そこから彼方に向かって、神殿のような回廊がのびていた。少女は口を開いた。その口元は嘲るように歪んでいた。
「聖なる入学回廊、今から清掃なんだわ。てめえらが汚しちまった可能性があるからなあ~」
フン、と救世は鼻で笑った。
「くだらん……汚すわけがない」
ハン。少女はバカにしたように嘲った。
「あ~、あ~、言うねえ~」
その眼が、ちらりと鳳凰丸を見た。
「でもよォ、そこのお坊っちゃん。パニクりお漏らし野郎、って顔してるよなあ? お漏らし、してねえといいんだがなあ~。ぎゃは」
ギャハハハハハハハハ!
赤い集団はけたたましく笑った。そして、そのまま去っていった。
「え、え、なに今の。怖……」
「あれは美化委員長、鏡鹿苑(かがみ・ろくおん)だ」
「美化委員長……」
「ああ見えても、十二人いる生徒会役員の一人。そして、あの取り巻き連中は美化委員……気をつけろ、過激なやつらだ」
「十二人いる生徒会役員……」
鳳凰丸は目をつむった。記憶が閃き、瞬いていく。
人類救済学園の生徒会役員……それは、学園の絶対的権威だ……生徒会長である金堂盧舎那(こんどう・るしゃな)、副会長である夢殿救世……二人を頂点として、その配下である生徒会執行部には書記、会計、庶務、広報の計四名が属し……そして、独立した委員……保健、学習、体育、図書、美化、風紀……それぞれの長が六名……合わせて総勢十二名で構成されている……。
「僕も、その一人」
「そうだ」
救世は首肯した。
「役員全員、いずれも只人ではない。だから……」
救世は再び歩きだした。
「せいぜい、もめごとは起こさぬことだな」
「ふーむ」
鳳凰丸は腕組みをして、再び考えこむように首をかしげた。その目の前を、白い詰め襟を着た二人の生徒が通りがかった。
「むむ……」
鳳凰丸は片眉をあげて彼らを見る。二人は立ち止まり、直立する。鳳凰丸が手を挙げて会釈をすると、彼らはうやうやしくお辞儀を返してきた。
「……なるほど」
「どうした?」
救世は振りかえった。鳳凰丸はなにかに納得したように、うんうんうん、とうなずいている。そして……手をあげ、遠くを指さした。
「救世くん、僕、あそこに登ってみたいな」
そこには、小高い丘があった。
ⅳ.
二人は丘の頂上に立った。丘は芝生に覆われていて、さきのテラスほどではないにしろ、そこからは学園を一望することができる。
鳳凰丸は芝生の上にゆったりと腰を下ろした。救世はその横に立つ。爽やかな風が吹いていた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、
いち、に、さん、し!
遠くからホイッスルの音が聞こえる。それにあわせて、集団行動をおこなう生徒たちが見える。鳳凰丸はささやくように呟いた。
「……ここには、いろいろな生徒がいるんだね」
救世は風を浴びながら、気持ち良さそうに腕を広げて伸びをしていた。
「ん。ああ、そうだな」
「みな、似たような色の制服を着ていても、一人一人が違う顔をしている。同じ制服を着ていたとしても、一人一人が別の心を持っている……」
鳳凰丸はさらに遠くへと視線を這わせた。
「ねえ……救世くん」
「んん……なんだ」
「なぜ……」
鳳凰丸の髪は風に吹かれて、静かに揺れていた。
「なぜ僕は、風紀委員長なんだろう」
「ふむ……それはな」
救世は伸びをやめて鳳凰丸を見た。それから、鳳凰丸と同じように遠くへと視線をうつした。
「学園則第一章、第二条。『人類救済学園の生徒には、その存在にふさわしい役割が学園により与えられる』……つまり、貴様はそうあるべくしてそうある。そういうことだ」
鳳凰丸は目を細めた。
「その学園則は知っているよ。僕の記憶にもある。でも……よくわからないな」
「フ……」
救世は、いささか困ったように髪をかきあげる。
「ようはだな、魂の格、とでも言おうか。とにかく……そういうものなのだ」
「んー……」
「いずれ貴様にもわかる、嫌でもな。時とともに貴様に備わった、風紀委員長としての権能に気がつくことになる……」
「権能……?」
「そうだ、権能だ」
救世は一拍おくと、厳かに託宣を告げるように続けた。
「権能とは、力だ。重き責任を果たすための、選ばれしものの力だ。絶大なる権限、偉大なる執行権力、なすべきことをなすための力。それが、権能だ」
「権能……権力……」
鳳凰丸は己の手のひらを見た。握りしめ、広げ、握りしめる。
「いずれわかる。今は無理でも、いずれ、な」
「ねえ……もっといろいろ聞いてもいいかな」
「かまわんよ」
「ふむ……」
鳳凰丸は深いため息をついた。そして、深刻そうに眉をひそめて言った。
「あのさ……僕らって、入学前は、いったいどこにいたんだろう」
「ん……」
救世は片眉をあげて鳳凰丸を見た。
「そして卒業したら……僕らはどうなるの。僕らは、どこに行くんだろう」
「……」
救世は沈黙した。鳳凰丸の前へと歩みでる。鳳凰丸に背をむけたまま、腰に手をあて、うつむく。一瞬、その肩が震えたように見えたが、それは笑いであって、救世は顔をあげると、ははは、と乾いた声で言った。
「人はなぜ入学し、人はなぜ卒業するのか。人はどこから来て、どこへ行くのか。ははは! 実に哲学的な問いだな、鳳凰丸」
救世はひとしきり笑うと、再び沈黙した。鳳凰丸は、その背を見つめて答えを待った。救世は静かに言った。
「……わからんよ」
その声は、どこか悲しげだった。
「なにも、わからん」
重い沈黙が流れた。いつしか風は強くなっていた。二人の上をいくつもの雲が通りすぎていき、それは影を落としながら、少しずつ、その厚みを増していく。
「卒業したらどうなるのか、わからない、か」
鳳凰丸はため息をついた。そして表情を変えずに、手のひらをヒラヒラと動かしはじめた。まるで、なにかを確認するかのように、自分の顔の前でヒラヒラと動かし続ける。
「……僕は、二年生だ」
「そうだな」
「そして今は三学期の半ば……つまり、僕に残された時間は、あと一年と少しということだ」
「ああ、そういうことになるな」
「……」
鳳凰丸は、ヒラヒラとした手の動きを止めた。救世はそれ以上なにも言わなかった。空はいつの間にか暗くなり、重い色に覆われつつあった。
「……君たちは、怖くないの」
救世はふっ、と鼻で笑った。
「ほとんどの生徒は、考えないようにしているだろうよ」
鳳凰丸はため息をついた。
「……バカみたいだね。バカみたいだ」
二人は黙った。風はますます強くなる。雲は、不吉な色で学園全体を染めていく。
「ねえ、救世くん」
「……なんだ」
鳳凰丸はゆっくりと、その手を前へとつきだした。
「僕は、決めたよ」
そのまっすぐに伸ばされた手が、なにかを掴みとるように、
「そうであるなら、僕は」
強く、強く握りしめられ、
「そうであるなら、僕は」
その目が、なにかを見据えるように、
「そうであるなら、僕は」
力強く見開かれ、
「そうであるなら、僕は!」
鳳凰丸は叫んでいた!
「……?」
異様な予感がした。嫌な感じだった。その予感とともに、救世は振り返っていた。そして……
「鳳凰丸、貴様……」
ゴロゴロと遠雷の音。空には厚い雲が垂れこめて、彼方で、チカ、チカ、チカ、と閃光が瞬いている。
救世は、鳳凰丸を見た。
「貴様、すでに……」
鳳凰丸の周囲には、何人も、何人も立っている。
まっ黒な空を切り裂くように……
白い詰め襟の生徒たちが立っている。
鳳凰丸の緋色の髪が、かがり火のように揺らめいていた。それを崇めるように、白い生徒たちは静かに立ちつづけている。
それはまるで、白狼の群れだ。
「貴様、すでに権能を……」
鳳凰丸は微笑んだ。
「救世くん」
それは、白磁のように冷たい笑みだった。
「そろそろ、生徒会長に会いに行こうか」
風が吹き荒れて。
雷鳴が、轟いた。
ⅴ.
その部屋は、すべてが黄金に彩られていた。そしてその男は、文字通り光り輝いていた。
「よおこそ、よぉこそ。平等院風紀委員長」
低くうなる獣のような声だった。さも当然のように、人を見くだした眼差しだった。王のように振るまい、王のように座り、王のように語る。
「俺が、金堂盧舎那だ」
それが生徒会長、金堂盧舎那だった。
救世にうながされ、金色のソファーに座りながら、鳳凰丸は目を細めていた。煌めくテーブルを挟んで、盧舎那は、その長身をソファーに沈みこませるように座っている。
黄金色の半袖カットソー。その上に、黒と金色ストライプの制服を肩がけにして、彼は、アッシュブラウンの七三髪をかきあげるように触り、美しい顔には獣のような笑みを浮かべていた。その背には光の輪が浮かんでいる。それは、まばゆいばかりの輝きを放っている。
あきらかに、常人ではない。
「どうも」
鳳凰丸は軽く頭をさげた。救世は盧舎那の背後に立った。鳳凰丸は興味ぶかげに生徒会長室を見渡して、「なるほど……」と微笑んだ。「どうやらご趣味がよろしいようで」
「はっ」盧舎那は猛々しい笑みを浮かべ、身を乗り出した。「大事なことを言っておく……」
「はい?」
「学園則以外に、お前が理解すべきことがひとつある。……なにか、わかるか?」
「んー。なんだろなあ……」
はっ、ははははは……。盧舎那は愉快そうに、かすれた声で笑った。右目を見開き、さらに身を乗り出す。「いいか。それは……」人差し指を鳳凰丸の眼前に突きつける。
「調子に乗るな、だ」
「……ああ、そう」
突きだされた人差し指は、鳳凰丸の左目眼球ギリギリ手前で静止している。
「いいか、もう一度だけ言うぞ」
その指が、さらに眼球へと近づく。
「調、子に、乗る、な、だ」
鳳凰丸はやれやれとため息をつき、手を挙げた。
「あのお、ちょっと質問いいですか?」
盧舎那は獰猛な笑みを浮かべた。その、直後だった。
「お前、アウト」
そう言うやいなや、盧舎那は鳳凰丸の頭を鷲づかみにしていた。「!?」そして立ちあがる。「んー!?」もがく鳳凰丸をものともせず、片腕のみで、その体を宙吊りにする!
「おい!」
救世が叫んだ。盧舎那は言った。
「ダメだ。こいつはアウトだ」
「わ、わ、わ、」暴れる鳳凰丸を振りあげ、テーブルに叩きつける! 凄まじい音が生徒会長室に鳴り響いた。
「盧舎那!」
救世の叫びを無視し、盧舎那は拳を振りあげる。そして鳳凰丸へと振りおろす! 振りあげ、振りおろす。振りあげ、振りおろす。振りあげ、振りおろす!
「よせ!」
救世の叫びと、ボクッ、ボクッ、ボクッ、と肉を叩く音。
「いい加減にしろ!」
盧舎那はかまわない。振りあげ、振りおろす! 振りあげ、振りおろす! 振りあげ、振りおろす! 振りあげ、振り……その手が、止まった。
「ああ……?」
盧舎那は背後を見た。腕をつかんだ救世が、そこにはいる。「いい加減にしろ……」救世の声は、静かな怒気をはらんでいた。
「それ以上やったら……鳳凰丸は退学してしまうぞ」
「はっ……」
ふ、くくく、
は……はっはっはっはっーー!
盧舎那は笑った。生徒会長室を揺るがさんばかりの笑いだった。
「当然だ。こいつはこのまま息の根を止めて、退学させる」
「……なぜ」
「はっ! 笑わせるな。お前、本当は気づいているだろう? こいつは異常だ。俺はこいつをひとめ見て、すぐに理解した。こいつはアウトだ、こいつは学園にいてはならない異常者だ……必ずや、学園の災いとなる男だ」
「論理的ではない」
「ふん、俺の勘はあたる。常にな」
ギリギリと、二人の膂力がせめぎあっていた。
「……本気か」
「ああ、いつだって俺は本気だ」
「そうか。ならば……」
救世の獅子のような眼差しが、冷たい光を放った。
「貴様、この夢殿救世を敵にまわす……その覚悟があるのだな」
「はっ、はっ……うける。お前、なにこいつに入れこんでいやがる……」
盧舎那は心底愉快そうに口を開き、笑おうとした。その時だった。
「やっぱり、そうだ」
盧舎那と救世は、同時にそちらを見た。
「救世くんはいいやつだね。僕は感動したよ」
割れたテーブルの向こう側……そこに、鳳凰丸が立っていた。悠然と、無傷で。「なんだと……?」盧舎那は顔をしかめた。鳳凰丸は挑発するように言った。
「盧舎那くん。君、僕をなめてるよね? まあ、おかげで助かったけど……君が本気だったら、僕は無事ではすまなかっただろうし」
「ああ、そうかよ……」
盧舎那の顔が獰猛に歪んだ。盧舎那は荒々しく救世の手を振りはらった。「ぬっ……」救世がうめく。盧舎那の背にある光輪が輝きを増し、その拳へと光が流れこんでいく。そして盧舎那は……鳳凰丸へと躍りかかった!
「あー、ちょっと待って」
それは、絶妙なタイミングだった。制止するように差し出された鳳凰丸の手に、盧舎那は意表をつかれたように目を見開いた。「!?」盧舎那は、鳳凰丸の手前で静止した。
「盧舎那くん。君に聞きたいんだけどさ……。こんな感じで、今まで、どれだけの生徒を退学させてきたんだい」
「はっ!」
盧舎那は笑った。
「今までも、これからも、危険人物は排除する。それが生徒会長としての務めだ……! 先の風紀委員長……お前の先代だってそうだった。そしてお前も、今からそうなる」
「なるほどね。じゃあやっぱり……」
鳳凰丸は冷たく微笑んだ。
「君は、ギルティだね」
その瞬間、窓の外で稲妻が閃いた。室内が白光で染まり、その光のなかで、鳳凰丸は高々と右手をかかげていた。盧舎那と救世は、つられるようにその手を見た。まるで、スローモーションのように時が流れていた。
「これより……」
鳳凰丸の瞳が冷たく輝く。緋色の髪が炎のように揺らいでいた。雷鳴が轟き、鳳凰丸は、その手を振りおろす。
「我が権能を執行する!」
それはまるで、すべてを飲みこむ津波のようだった。そのとき、白い集団は激しい音とともに扉を蹴破り、生徒会長室になだれこんだのだ。
盧舎那は雄叫びのような笑いをあげた。
その盧舎那を、白い集団は取り巻き、ねじあげ、床に押さえつける。風紀委員による、数の暴力だった。盧舎那は獣のように笑い続けていた。
「はっ! はっ! はっ! てめえ、これは本気か!?」
鳳凰丸は、盧舎那を冷たく見おろした。
「ここまでやって冗談でした、なわけないだろ……空気読めよ、金堂盧舎那」
そして言い放つ。
「我が権能において、君を、逮捕する」
「くっ、くくく……」盧舎那は震えるように笑った。「おもしれぇ……おもしろすぎるだろ……なあおい、俺の容疑はなんだ? 言ってみろ!」
やれやれ。鳳凰丸はため息をついた。
「そんなもの、いくらでも、どうとでもなるんだよ」
「くっ、くっ、くっ、」
は、はははははははは!
「あり得ん! 前代未聞だ! 秩序の担い手たる風紀委員長が、秩序そのものを破壊する! ……てめえはやはり異常者だよ、平等院風紀委員長!」
鳳凰丸は、盧舎那の咆哮を無視した。後ろ手に手を組んで、ゆったりと優雅に歩きだす。その足は向かっている。盧舎那のうしろ、救世のそばへと。「鳳凰丸……」救世は眉根をよせて鳳凰丸を見た。鳳凰丸はその耳元に顔を近づけた。ねえ……。
「これで君が、一番偉い人になったね」
それは、救世にだけに聞こえるささやきだった。「……」救世は表情を変えずにそれを聞き流した。鳳凰丸はくすくすと笑った。「救世くん。僕は決めたんだ」再び歩き出し、ソファーに深々と腰を下ろす。足を組み、そして床に這いつくばる盧舎那を見つめた。
「どうせ、残りわずかな学園生活だ」
ほおづえをつき、凍えるような笑みを浮かべた。
「徹底的に、めちゃくちゃに、やってやるってね」
稲妻が閃いた。
救世は、超然と眺めていた。
床に取りおさえられながら、盧舎那は顔をあげて獣のような笑みを浮かべている。鳳凰丸はソファーに座り、ほおづえをつき、悠然とそれを見おろしている。稲妻によって白く照らしだされた彼らから、瞬間、黒い影がのびて、くっきりと、白と黒のコントラストがつくりだされた。
それを見ながら救世は、
まるで、一枚の絵画だな。
そんなことを考えていた。
【続く】
命みじかし、闘争せよ少年。