【ホラー連載】 ココカラダシテ 第一顔
ゴッゴゴゴ。ゴン。
微睡みの中、聞こえてくる。
ゴッゴゴゴ。ゴン。
叩き、引きずり、唸るようなあの音が。
ゴッ。ゴッゴゴゴ。ゴン。ゴウン。
ゴッ。ゴッゴゴゴ。ゴウン。
寄り集まっていく。部屋に広がる闇が。のたうっている。蠢いている。這いずっている。
ゴンゴ。ゴッゴゴゴ。ゴウン。
ゴッ。ゴッゴゴゴ。ゴンゴ。ゴ。
蟲のようににじり寄ってくる。体にまとわりついてくる。体液のような生温かさで包み込んでくる。
ゴンゴ。ゴゴ。ゴッゴゴゴ……くちゃ。
ゴンゴ。くちゃ、くちゃ。くちゃ。
あぁ、咀嚼されている。いつもの通りだ。また始まろうとしている。また。また、あの、恐ろしい……そう、とても恐ろしい、あの……。
くちゃくちゃ。
くちゃくちゃくちゃ。
くちゃくちゃ。
くちゃ……。
…………。
……………………。
…………………………………………。
ダシテ……
ダシテ……
昏い底で、たった一人。
ココカラ……
孤独に囚われ、
ダシテ……
ココカラ……
ただひたすら揺蕩っている。
テレッテー!
うわーい、ぼくはあんこくをつらぬく、
あおきりゅうせい!
うちゅうをかけるせんしだ!
(よーちゃん!)
己を見失い、体を震わせて。
ダシテ……ダシテ……
昏い底で、たった一人。
わるいうちゅうあくまめ!
ぼくがたいじしてやるぞ!
ココカラ……
ここは羊水のように温かくて、冷たくて。
ココカラ……
(陳野くんさぁ……もう少しなんとかならない?)
しゅばーん、しゅばーん、
ばきゅんばきゅん!
永遠に孤独で。
ココカラ……ダシテ……
顔。
苦しくて。そして。
ココカラ……ダシテ
(少しは宮司君を見習いなさい)
顔。
ただひたすらに哀しくて。
どうだ、えいえい。
まいったか!
ココカラ……
えいえい!
うわーい、やったぞ!
ダシテ……
涙ももはや、枯れ果ててしまって。
えーん、えーん。
(かわいいようちゃん)
顔。
ココカラ……
ごめんさい……
ダシテ……
ごめんなさい……
ココカラ……
わっはっはっ!
あやまったって、ゆるさないぞぉ!
胸を押し潰す悔恨。
ココカラダシテ
底知れない、闇だ。
…………………………………………。
……………………。
…………。
「はぁ……ッ!」
飛び起き、額の汗をぬぐった。カーテンの端からは淡い陽の光が漏れている。動悸を感じる。体は震えている。心は怯えている。呼吸が荒い。枕元のスマホを掴む。時刻は6時54分。
「……朝、か。くそッ」
最悪な目覚めだ。いつにも増して最悪な朝だ。
『ワー、ワー、すっごいぞ、さっすがはあおきりゅうせいだー!』
つけっぱなしにしていたテレビからは、子ども向け番組が流れている。
陳野洋平(つらのようへい)は手で顔を覆った。そして、あああああ、と叫ぶように息を吐いた。
「俺は大丈夫……俺は大丈夫……」
自分に、言い聞かせる。
2019年 7月23日 7:00
ベッドから抜け出し、寝汗でべたつく体を引きずるようにしてキッチンへ。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、貪るようにして飲む。
「そ……くそ……ッ」
溢れ出す言葉が止まらない。
「くそ……くそッ、くそッ……」
洋平は自分の手を見た。まだ震えている。眩暈がする。力なく、流しの縁(へり)へともたれかかる。
「なんなんだよ……なん、だよ……」
恐ろしい夜が続いている。うなされ続ける夜が。微睡みの中で繰り返し聞こえてくる言葉、それは、目覚めた今でも頭から離れない。そう、それは今でも……。
「……ココカラダシテ」
思わず声が漏れた。体がぶるりと震えた。
「俺……いったい……俺は……」
洋平は裕福な家庭の育ちである。
……そう、俺は挫折など知らない男! 勤務先は大手商社。同世代の愚鈍な奴らより遥かに稼いでいる! 労働環境もホワイト、オールホワイト、真っ白。自分で言うのもなんだが、容姿も良い。イケメン。運動神経抜群。モテモテ。当然のように彼女は可愛い! スタイルもいいんだな彼女は。さらには親から継いだ家と土地、けっこうな資産! 趣味は資産運用。ジャンジャンバリバリ、ジャンジャンバリバリ、稼ぎまくり。恵まれた人生の勝者。完璧。公私ともに問題なし。完全無欠、完成された生活。それが俺。悩み無用!
そのはずだった。それなのに、なぜ……。
洋平は手で顔を覆い、指の間から流しの排水溝を見た。そこには薄暗い闇がある。それは、深い深い闇へと繋がっている。
「うげェ……」
込み上げてくる感覚に、思わずえずいた。ミネラルウォーターと胃液が渦を巻いて、排水口に飲み込まれていく。洋平は虚ろな目でそれを眺めた。
底知れない、闇だ。
2019年 7月23日 19:00
「ねぇ」
夏野美咲(なつのみさき)は洋平の顔を覗き込んだ。
「なんかさァ……目が死んでるんだけど」
「そう……かな」
気の抜けた相槌を打ちながら、洋平は目をそらす。その顔を照らし出しているのは、青や紫の光。夏の涼をイメージしたイルミネーションだ。都心の通りを、小洒落た輝きが彩っている。
「忙しいの? 仕事とか」
「忙しくは、ないかな」
美咲は小首を傾げながら、人差し指を唇の下にあてた。
「何か……悩んでるとか?」
「悩みなんて、ないよ」
美咲は洋平を指さし、わざとらしく大きな声を上げた。
「あー、もしかして。私の知らない恋の悩み、とか?」
「んなわけ、ないだろ」
美咲は一瞬沈黙する。そして、はぁ~っとため息をついた。
「よーちゃん、なんか変だよ」
洋平の目の前で可愛らしくワイドパンツが翻る。前に立った美咲は、下から睨むように洋平を見つめた。
「う……」
洋平は思わずたじろぐ。美咲は腕組みをしている。
「なんか……隠してるよね?」
答えに窮した。咄嗟に答えたくないな、と思った。目が泳いだ。
「いや……隠してるとかじゃなくてさ……」
いや、答えるわけないでしょ! 俺は人には弱みを見せないタイプ! ましてや君に弱味を見せるわけがない。それは知っての通りだよ。だからそこは察してもらいたい。あまり追求しないで欲しい。こっちはほんとしんどいんだからさ。黙って寄り添って欲しい。それとなく慰めて欲しい。そこは察してもらいたい。そもそも俺の弱みを掘り下げてどうする気? なんか企んでる? 束縛しようとしてる? そういう疑念を持たせるの、ほんと良くないよね。マジで良くない。そこは察してもらいたい。顔。……提案! もっと頭使おうよ。デートの費用は俺が持ってるし、プレゼントだって常に俺が何倍も高いのだし、俺には唸るような資産があるわけだし。そこは察してもらいたい。だから俺を困らせるってことは、実は君が不幸になるってことなんじゃないのかな? 困るのは君の方なんじゃないのかな? そこは察してもらいたい。こういう時はただ黙って寄り添って欲しい。二人で快適な時間を過ごしていきたい。でないと、一緒にいる意味なくない? そこは察してもらいた……うわーい、ぼくはあんこくをつらぬく、あおきりゅうせい!
「え」
洋平はぎょっとした。なんだ今の。そのままよろめき、一歩二歩と後ずさり、何かにつまずき……派手に倒れた。
「痛……」
「大丈夫……? きゃっ!?」
駆け寄る美咲が口に手を当てて叫ぶ。洋平は自分がぶよぶよとした何かを下敷きにしていることに気がついた。「なんだこいつ……」黒いスーツを着た、太ったサラリーマンが横たわっている。
「え……なに。死んでるの?」
「いや……」
洋平は身を起こし、サラリーマンに触れた。温かい。寝息をたてるように胸が上下している。
「生きてる」
「救急車呼ばなきゃ……」
「は? なんで? ただの酔っぱらいでしょ」
ほっとけよ、そう言いかけた洋平は、再びぎょっとして動きを止める。だらしなくズボンから飛び出したワイシャツの隙間。そこから見えるたるんだ腹……。
「おじさん、おじさん。起きなよ」
美咲がぺしぺしとサラリーマンの頬を叩いている。しかし、洋平は身じろぎできずにその腹を見つめている。……サラリーマンのたるんだ腹。その一部が不自然に隆起していた。「なんだ……?」洋平は恐る恐るワイシャツをたくし上げる。
うわーい!
「うわ、なにそれ!」
横から覗きこんだ美咲が声をあげた。顔のような瘤が……目、鼻、口のような凹凸を持った瘤が、サラリーマンの腹の上から二人を見つめるように盛り上がっていた。
顔。
「やば……この人やっぱり病気なのかも。わたし、救急車呼ぶね」
そう言って離れた美咲の言葉は、洋平には聞こえていない。なぜなら……。
ゴンゴ。ゴッゴゴゴ。ゴウン。
ゴンゴ。ゴッゴゴゴ。ゴンゴ。ゴ。
洋平は、闇が這いずる音を聞いていた。
瘤の目が開き、咀嚼するように口が動く。
くちゃ。くちゃ。くちゃ。
くちゃくちゃくちゃ。
くちゃくちゃ。
くちゃくちゃくちゃ。
くちゃくちゃ。
「なんで……」
ゴンゴ。ゴッゴゴゴ。ゴウン。
ゴンゴ。ゴッゴゴゴ。ゴンゴ。ゴ。
瘤は洋平を見つめている。懇願するような眼差しで洋平を見つめている。そして口を開く。洋平は呻いた。「やめろ……」頭を抱える。「やめてくれ……!」
瘤は……言った。
ココカラダシテ
洋平は嘔吐した。
底知れない、闇だ。
【続く】
「ココカラダシテ」は毎週火曜日、
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