人類救済学園 最終話 「平等院鳳凰丸」 ⅳ
【前回】
ⅳ.
友は消えた。
冬の夕陽のように、あっという間に過ぎ去り。
あとには、孤独な闇だけが残された。
闇のなか、鳳凰丸は床にくずおれている。
しかし、それでも。それでもなお鳳凰丸は……。
「……諦めてたまるものか」
と呟く。
そこに、光がさした。
鳳凰丸は呆然と顔をあげ……目を見開く。
光とともに、女がいた。
女はあたかも、ずっとそこに居たかのように笑みを浮かべ、鳳凰丸から十数歩ほど離れた場所に佇んでいる。
女はニヤニヤと、貼りついたような笑みを浮かべていた。その姿は……ぼさぼさの髪、大きな丸縁のメガネ、白地にストライプのパンツ、白いブラウス、紫の紐ネクタイ、そして、医師のような白衣と、俗人そのものの姿でありながら……あきらかに、生徒を超えたなにかを感じさせた。それはまるで──超越者の現前。
女は笑う。
「んふふ」
その瞬間──女の背後、回廊の最奥。円陣を中心に溢れだしたのは、光だった。完全なる白。完璧なる漂白。それは絶対的な白亜の輝き。同時、回廊全体に荘厳にして神秘的なる音色が溢れだした。それはまるで、天上の調べだ。
その音色とともに、光は侵食するように広がっていく。闇を上書き、回廊を覆う荊の残骸をも光の塵へと変えて。回廊は本来の白さを、それ以上の白さで上書き、まばゆい輝きを放っていく。その完璧なる輝きのなかで、鳳凰丸は、空気そのものが精妙で霊妙なる別のなにかに作り替えられていくのを感じていた。
女は……右手の甲を腰にあて、足を開き、颯爽としたポーズをとり……そのままの姿勢で静止。明るい声音で言った。
「おめでとう!」
続いて、左手を胸に。右手を鳳凰丸に差し出すように伸ばし……再びポーズを決め、静止。
「おめでとう、平等院鳳凰丸!」
そして、顔の前で腕を交差させるようなポーズでニヤリと笑い……静止。
「おめでとう!」
迎え入れるように腕を広げる。
「君の内申点は、いまや歴代最高点……爆上がりだ!」
鳳凰丸は顔を歪め、ぎちぎちと奥歯を噛み締めた。その頬を冷たい汗が伝っていく。わかる。鳳凰丸にはわかる。はっきりとわかる。
この女は。
敵だ。
鳳凰丸は立ちあがり、女を見据えた。
「あなたは……新しい教師なのか」
女はいかにも、とうなずいた。
「私の名は六波羅密弁財(ろくはらみつ・べんざい)。極楽真如の後任として、先ほど赴任した」
六波羅密弁財……鳳凰丸にはその名前に心当たりがあった。半跏思惟中宮の高笑いを思いだす。
──何万年もの歴史のなかには、時に超絶の才が現れる。いまを遡ること二千年前! 学園の秘密を、自力で解明したひとりの天才が現れたのです。彼女の名は六波羅蜜弁財!
救世を狂わせた、あの本の著者だ。
弁財は左手を腰に当て、右手で鳳凰丸を指さし胸を張り、傲慢に見おろすような視線で……ピタリと静止した。
「いろいろと伝達事項はあるが……まずはひとつ。大事なことを伝えておこうか。君たちが極楽真如に対して勝ち取った権利は、いまだに有効……つまり君は、この学園について知りたいことを私に尋ねることができる」
鳳凰丸はハッと目を開く。
弁財は指さした姿勢のままニヤニヤと笑う。
鳳凰丸は……静かに問うた。
「……人類救済学園とは、なんだ」
「おお……」
弁財は手を広げ、わざとらしく驚いてみせた。
「いきなりどストレートな質問だね! しかし、君に似つかわしい、なかなか良い質問だとも言える。んふふ、いいだろう、答えてあげよう。だが、それに答える前に……私は君に問いたいことがある」
ふわり、と光のなか、その体が浮かびあがる。腕を広げ、空中でくるくると回転。弁財は続けた。
「君は……自分の実在を説明できるかい?」
「……?」
鳳凰丸は眉根を寄せる。
輝きとともに宙を舞う弁財は続けた。
「君には自己認識がある。自分が存在すると認識している。感じるもの、考えたこと、話したこと……それらの経験を通じて、それが自分だと考える」
弁財は回転しながら、いつしか鳳凰丸の頭上を旋回するように飛んでいた。光の粒子が鳳凰丸に降りそそぐ。
「君は考えているだろう……我思う、故に我ありと。しかし、本当にそうだろうか? 本当にそうと言い切れるだろうか? 夜。ひとりで鏡を見つめる君は、その鏡の向こうにいる像を自分だと思っている。しかし、それは本当に君だと言えるのか? 君は寝床に潜り込む。眠り、そして夢を見る。眠っている君と、夢の中の君。ふたりは同一人物である。君はそう思っているだろう。でもそれは、本当にそうと言えるのか? 実際には君は、常に自分の連続性から断絶される危険と隣りあわせだ。先ほどまでの自分と、今の自分。それを同一の存在だと、君はどうやって証明する? んふふ……自己認識の連続と、同一性の感覚。それが、人を人たらしめている要件だ。しかし……もしそこから解放された時、君は、自分自身をどう認識できるだろう?」
弁財は鳳凰丸の前に、すっと降りたった。鳳凰丸は、淡い光に包まれた。
「かつて……人類は繁栄を極め、栄華を極め、叡知を極め。陸海空、そして宇宙。ありとあらゆる場所を探索し、そしてその知を高めていた……人類は、まさに絶頂に近づきつつあった。しかし……そんな人類にとっても未踏であり続けた領域がある。それが、意識だ」
弁財は、黙りこむ鳳凰丸の顔を覗きこむように、その顔を近づけた。淡く輝くニヤニヤ笑いが、鳳凰丸の視界いっぱいに広がっていく。
「しかしすでに人類の理論は導きだしていたのだよ。認識の連続性の彼岸……連続性の軛から逃れた彼方に、時空を超えた完全なる自由があるということを! 人の意識を連続性から解放したとき、人は、まさに時空を超え得る存在になるのだと!」
だが、と弁財は続ける。
「それは福音であるが、絶望でもある。なぜなら連続性からの解放は、人類をあらゆる苦しみから救済し得る。だが同時に、人を人たらしめる基盤そのものを破壊する。連続性を失った人間の自我は、あっさりと崩壊する……」
弁財は後ろにスキップするように跳ねた。「んふふ」そして着地すると、胸の前で、パン、と手と手を打ちあわせる。
「さて。君に少しイメージをしてもらいたい……この場所に、ひとつの合わせ鏡があるとする。その合わせ鏡の間に人を立たせたとき……さて、いったい何が起きる?」
鳳凰丸は警戒の色を露にしながら、その問いにこたえた。
「鏡同士の写像が相互に写し出される。そして、無限にも近しい写像の連続が発生する……」
「そうだ! 実に優秀な生徒で私は嬉しいなぁ。んんふふふ、いいかね、人類の自己認識もまた、その合わせ鏡に似ているのだ」
弁財はそう言って、合わせていた手と手を離した。その間にぼうっと淡い輝きが浮かび、それは、人の形をした像を結んだ。そして連続するように、弁財の手の左右に次々と光が浮かびあがっていく。
「人は自分を参照し続ける。結果、自分の同一性を意識し続ける。合わせ鏡のように自己言及し続けることによって保たれる連続、それが、人の自己認識であり、人の自我だ。いいかね? そして……さぁさあ、お立ち会い! ここからが、君の質問への回答、その本題だ。以上を踏まえ、神のごとき叡知の持ち主たちは考えたのさ。仮説検証プロジェクト──〈人類救済学園〉をね」
弁財の手の間、浮かびあがる光が、はっきりとした像を結んでゆく。それはどこか、鳳凰丸にも似た少年の姿だった。そして連続する光の像もまた、それぞれ、別の姿を形作っていく。少年、少女、性別不詳……だがいずれも、どこか鳳凰丸の面影を持っている──
「んふふ。この学園における入学と卒業もまた、合わせ鏡のようなものだと思っていただきたい。それは、ひとりの生徒を写し出す合わせ鏡なのだ。生徒はひとつの魂であり、そしてその魂を合わせ鏡に配するとき、魂はその生を自己言及的に繰り返し、無限の彼方へと連続していくこととなる……しかし、ここにひとつの工夫がある。記憶の断絶、自我の連続性の棄却。それらを自己言及的に織りこんだ再帰処理……君も知っての通り、それが本学園における入学と卒業である。合わせ鏡のように連続した自己言及を無限に繰り返し、同時に、それぞれの鏡に写る像は断絶され、それぞれが固有の時間、固有のコンテキストを持つことになる……」
鳳凰丸は言った。
「つまり……」
「んふふ。察しのよい君ならもうわかっているだろう! つまりは、これは壮大なる実験なのだよ、平等院鳳凰丸!」
弁財はヒラヒラと手を振った。浮かんでいた像が淡い光を放ち、散っていく。「んふふ。そして……」弁財は、すーっと滑るように後退。回廊の最奥、輝きを溢れさせる円陣の上に立ち、「ここ」と下を指さした。
「夢殿救世は、この円陣を門だと表現していたけど、それはちょっと違うんだなぁ。これは、関数なのさ。君たち生徒をパラメーターとして受けとる関数なのだ。だから入学も卒業も、この円陣を通じておこなわれる……先ほど言った通り、入学と卒業は合わせ鏡にも似た自己言及であり、等しく関数への代入であり、それは再帰的に実行される……つまりはこの学園は巨大な関数近似器……いわば不動点コンビネータなのさ。時空間のあわいに造りだされた、仮想の……」
と、そこまで語り、弁財は「おっとっと……」とおどけてみせた。
「いやーめんごめんご! つい熱くなって専門的に語ってしまったね。なぁに、難しく考えることはない……ようするに、連続と断絶、その矛盾が同居し、永続する自己言及のなかで、人の自我はいかにして同一性を獲得するのか……って、うーん、この言い方でも難しいかな。もっとカジュアルに言うならば……そう、分断されたすべての己を、自分だと認識する……うん、これだな、この説明がいい」
んっんー、と咳払いし、弁財は説明を再開した。
「無限に連続し、分断されたすべての自己を、自分自身だと認識できる生徒を造りだす。それが、本プロジェクトのゴールだ。そしてそれを成し遂げた生徒は、まさに人類を救済する存在、救い主となる! そう言っても過言ではあるまい!」
そして。
「平等院鳳凰丸、はっきり言おう。学園の見立てでは、君はまさにその救い主一歩手前だ。先ほど内申点爆上げと言ったが……君はきっと、卒業を待たずに成し遂げることだろう。人類の救い主として、栄えある地上世界への帰還を果たす! すごいことだぞ。それは、人類史に残る壮大なる神話の顕現、大いなる降臨劇となるだろう……私は、そう信じているよ」
弁財は恍惚と語る。それを見据える鳳凰丸の体、その周囲が陽炎のように揺らいだ。
「その実験とやらに……僕たちは望んで参加したのか?」
弁財は、ニヤリと笑った。
「そこに関しては必ずしも学園の秘密とは関係ないと判断させてもらう。個人個人、事情も異なるしね。故に、ノーコメントとさせていただこう!」
「では、なぜ……」
鳳凰丸は重ねて尋ねる。
「なぜ学園は、生徒たちの闘争を煽っている」
「んふふー。それはいい質問だね!」
弁財は顔の前、対になるように腕を上下に構え、静止した。
「自分の帰属する色が明確にあり! そして、異なる色の敵との闘いがある! それは、人の同一性を高めると判断されたのさ。事実、君たちは長い長い繰り返しの中で、驚くべきことに〈継承〉なんてものを生みだしたよね。これには驚いた。素晴らしい成果だったよ!」
「なるほど。ではさらに問おう……あなたは、かつて生徒だった。そうだろう?」
「あー、なるほど。それも大切な質問だね。君がはじめっから風紀委員だったように、生徒たちは自我同一性を内申点として評価され……そして、それに基づき格づけがおこなわれているのさ。私もかつては生徒だった……生徒として、数々の学園の秘密を解き明かし、そしてその秘密を、君も知るあの書籍にまとめあげた。さらには退学を迫る教師の魔の手からも逃れ、無事、卒業してみせたんだ。その結果、私の内申点もまた爆上げした。だから迎えいれられたんだ……この学園の教師としてね。んふふ。でもね」
弁財は、目を三日月のように細めて言った。
「本来、君もそうだったんだよ、鳳凰丸」
その瞬間。
ドクン。
鳳凰丸の鼓動が高鳴った。
「んっふふふ。君もまた、すでに高い内申点を得ていた生徒だった。そして、もう生徒である必要はなくなっていた。君はより高次の存在……学園理事になるはずだった。だが、君はそれを拒絶したんだ。あがき、もがき、無理矢理に突破した。入学と卒業、生と死の、アンビバレンツな両価性の結合点──生まれ生まれ生まれ生まれて、生の始めに暗く、死に死に死に死んで、死の終りに冥し──あの、認知を越えた言葉の領域をね。そして無理矢理、自分の存在をパラメーターとして関数に代入した……そして転入してきた」
その瞬間。まるで、霧が晴れるようだった。鳳凰丸の周囲で風が吹き荒れ、ぱぁっと視界がクリアになった……そんな感覚だった。すべてが鮮明だった。
そうだ……そうだったのだ。
僕は。
僕は……もとから……。
僕は。
自分から望み、ここに戻ってきたんだ。
みんなと、卒業するために──。
「さてさて、そろそろ質問は終わりかな? これより君は、しばらく私とともに学園復興事業に従事してもらう。んふふ。当面、ふたりだけの個人指導が続いてしまうね……」
弁財は、蛇のように舌を舐めずった。
「手取り足取り教えてあげよう……実に楽しみだなあ……」
「……待て」
そう声をあげた鳳凰丸を見て、「おや」と弁財は呟いた。鳳凰丸の周囲が揺らいで見えた。何かが違う。どこかが、異なっている。先ほどまでの鳳凰丸とは、違う。何かが……。
「最後に、聞きたいことがある。退学した生徒は、いったいどうなる」
「あー」
弁財はお手あげ、とばかりに両手をあげ、首を振った。
「彼らは落伍者だ。故に、彼らにはさらなる強化学習が必要とされている。だから……」
弁財はニヤニヤとした笑いを、さらに不気味に歪ませた。
「彼らには、地獄に落ちてもらう」
「地獄……」
「そうさ、地獄だ。人類が抱いていた概念上の地獄、それを再現した世界さ! むろん、地獄もまた永劫の自己言及……まさに、無間地獄と呼ぶにふさわしいものとなっている。んふふ。夢殿救世は、この学園を地獄と呼んでいたようだが……甘いんだよなぁ、甘い、甘い! 真の地獄とは、退学の先にこそあったのだよ!」
鳳凰丸はうつむいた。その顔に影がかかり、表情はようとして知れない。沈黙が流れ……やがて嗚咽をもらすように、その肩が震えはじめる。拳は固く、強く、握りしめられている。
弁財は、やれやれ、と鼻白んだ。しかし……鳳凰丸は顔をあげ、その震えは、嗚咽ではないと判明する。
「あ、ははははははは!」
鳳凰丸は、泣き、笑っていた。
それは、心の底からの喜びだった。
鳳凰丸は首を振る。涙を打ち消し、呟く。
「みんな、消え去ったわけではないんだ……!」
鳳凰丸は、思った。
それだけわかれば、十分だ。
それだけで、十分だ!
弁財は困惑の表情を浮かべている。
鳳凰丸は静かに呟いた。
「そうであるなら、僕は……」
呟きながら、身をかがめて床から拾いあげる。それは、折れた和刀──救世の刀の柄だった。
「そうであるなら、僕は……!」
顔をあげ、凛とした眼差しで弁財を見る。そして、覚悟とともに前へと踏み出す。弁財は首をかしげた。
「おやおやおや?」
鳳凰丸のその足は、確実に。
「おいおいおい」
その足は、六波羅蜜弁財へと向かっている。「おい……」弁財は制止するように右手を前に出した。
「妙なことは考えない方がいいぞ。もし私を攻撃しようと考えているならば……無駄なことはやめておけ、と忠告しておこう!」
鳳凰丸は、祈るように呟き続けている。その瞳は静かな覚悟とともに弁財を見据え、鳳凰丸は……決して歩みを止めない。
六波羅密弁財はチッ、と舌打ちをした。その背後に巨大な白く輝く影が伸びた。回廊の天井を覆い尽くし、ギラリギラリと目を輝かせるそれは、まさに神のごとき威容である!
「私を極楽真如と一緒にしてもらっては困る……旧世代教師である彼女と、新世代教師として刷新された私とでは、そもそもの次元が違うのだ。故に……」
弁財の目がメラメラと怪しい輝きを放った。その右手を突きあげ、その中指をズンッと立て、弁財は言い放つ。
「理論上、私は極楽真如の……」
その顔に、爬虫類じみた笑みが浮かんだ。
「一億倍強い!」
鳳凰丸は歩みを止めない。その脳裏では、様々な光景が、記憶が、渦巻き閃いていた。それは爆発的な記憶……何万年もの体験のすべてだった。
その身に纏う制服が輝き、歩みに合わせるように徐々に白く、美しい詰め襟へと変わっていく。
「そうであるなら、僕は……」
そして鳳凰丸は気づいている。床に伏せた南円堂阿修羅、彼女の荒々しい呼吸が止み……彼女の指は、ピクリと動いている。
「そうであるなら、僕は!」
弁財の体から伸びた巨大な光影が、回廊を震わす凄まじき雄叫びをあげた。
「そうであるなら、僕はッ!」
鳳凰丸の髪が、かがり火のように揺らめく。雷鳴が轟いた。その手に持つ刀の柄が……漆黒の戦鎚へと姿を変える。
「そうであるなら、僕はッッ!」
戦鎚を、振りあげる。
「そうであるなら、僕はッ!!」
眼前で、弁財がニヤリと笑った。
「そうであるなら、僕はッッ!!」