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人類救済学園 第弐話「校内暴力」 ⅲ

前回

ⅲ.

「うわ……!?」

 風紀委員、櫻坊(さくら・ぼう)は今、圧倒されていた。彼の自称チャームポイントであるくりくりとした瞳が、心配そうにキョロキョロと動いていた。櫻は早くも、図書館に入ったことを後悔している自分に気がつく。図書館に来るのは初めてだったが、まさか、ここまでだったとは……。噂には聞いていた。だから覚悟はしていた。そう、覚悟はしていたのだ。しかし、でも、これはいったいぜんたい、これはいったい……。

 櫻は見あげた。書棚は信じられないほど高く、遥か、遥か上まで伸びている。しかもそれらの書棚は、一メートルにも満たない間隔で所狭しと並んでいる。それも、ただ並んでいるわけではない。櫻は顔を降ろし、彼方を見つめた。無限を感じさせるほど延々と、遥か遥か向こうまで、書棚の列は広がり、続いている……。

 唖然とした。
 眩暈がした。

 きしむ音とともに、櫻の背後で図書館の大扉が閉じていく。扉から差しこんでいた陽ざしが消えると、いよいよ、図書館に取り残された気分になった。しん、と静まりかえった図書館のなかには、櫻以外の人影は見当たらない。櫻はピシャリと頬をたたいた。

「がんばれがんばれ、俺!」

 ふわりとしたクセのある茶髪が揺れて、その頼りなげな顔に決意が漲る。

 がんばるのだ。そうだ、俺は、がんばるのだ。櫻は勇んだ足どりで、わっしわっしと書棚の奥へと進んでいく。

 櫻は決意していた。自分は変わらなければならない、と意気ごんでいた。なぜなら風紀委員長、平等院鳳凰丸と出会ってしまったから。それは、櫻にとって決定的な出会いだったのだ。

 櫻は思い出す。鳳凰丸の権能によって、テレパシーのように伝わってきた言葉。それはまるで啓示だった。魂が震えるようだった。胸が熱くなった。思いだしただけでも目頭が熱くなる。

 そして、金堂廬舎那の逮捕だ。

 その現場には櫻もいた。生徒会長を逮捕するという未曽有の偉業。いまだかつてない高揚感に包まれた。それをやってのけた鳳凰丸に、心奪われてしまった。そして思った。この人の、お役に立ちたいと、心の底から。

 櫻はなんの取り柄もない人間だと自覚していた。そんな櫻が、いまから鍛えて何になるだろう? そう顔を曇らせていた櫻に、級友である図書委員が告げたのだ。

 図書館には無限の知識が眠っているよ、と。

 知識は力だ。知識があれば、僕だって……。そうして櫻は図書館に来たのだった。風紀委員は一心同体だ。櫻がいま、こうして図書館のなかを進んでいく様子すらも、鳳凰丸は把握しているのかもしれない。でも。

「むしろ、見ていてください、です」

 櫻はつぶやく。目当ては集団戦闘の指南になるような書物だ。それさえあれば、急激に膨れあがった美化委員の敵意にも対抗できるかもしれないじゃないか……。

 櫻はあてもなく、無限に続く書棚の森を歩き続ける。……が。「……あれ?」なにやら嫌な予感がした。櫻は後ろを見た。背後には……延々と書棚が続いている。

「もしかして!?」

 もと来た方向を戻る。いくつもの書棚を通りすぎていく……書棚、書棚、書棚……いつしかその足は小走りになり、書棚、書棚、書棚……やがて駆けだす。書棚、書棚、書棚、書棚、書棚。

「そんな、そんな……」

 嫌な予感は確信に変わっていた。もしかして……俺、迷っている!? 聞いたことがある。稀に、図書館のなかで位置を見失い、そして、二度と出てこれなくなる生徒がいるのだと。櫻は蒼白になった。

「そんなバカな。役立たず過ぎだろ、俺……」

 図書館が、まるで魔窟と化した気分だった。書棚の森がつくりだす影のなかで、本たちが不気味な笑いをあげている……なんだかそんな錯覚すらしてくる。

「どうしよう……俺、俺……」

 櫻は足を止め、頭を抱えた。
 涙が出そうだ……。

「お困りですか?」

「え……」

 突然の呼び声だった。驚き振りかえる。そして「は!?」と声をあげてしまった。そこには櫻の倍はあろうかという、長身の少年が立っていた。薄闇のなか、影になった少年の顔はなんだか微笑みをたたえているようにも見える。

「あ……あ……」

 櫻は口をぱくぱくと動かしながら少年を見あげていた。少年がまとっているのは図書委員を示す、紫の長衣。その胸元には大きな円形のアミュレットが下げられている。よく見るとそれは、赤と青、二匹の蛇がお互いの尾を噛んだ環のなかに、紫の金属盤がはめられているものだった。金属盤は唖然とする櫻の顔を、鏡のように映しだしている。「心配しないで。大丈夫」少年は櫻を安心させるように優しい声音で言った。その途端、

「あ……?」

 櫻はますます驚いた。それはまるで魔法だった。薄暗かった書棚の森に、ぱあっと光がさした。そして「えええ……」と戸惑う櫻のうえで、書棚からひとつ、またひとつと飛びたっていく。そう、飛びたったのだ。本たちが。まるで梢のあいだを飛ぶ小鳥たちのように、楽しげに光のなかを、本たちは舞っていく。

「ふふふふふ。『知識とは、天に飛翔するための翼である』」

 芝居がかって少年は言った。そしてまるで舞台俳優のようにお辞儀をする。

「はじめまして。わたしは半跏思惟中宮(はんかしゆい・ちゅうぐう)。図書委員長です」

「ええええ。図書委員長……!」

 中宮は静かにうなずいた。

「そうです。だからわたしは、君のお役に立つことができます。必要な知識をお渡しすることも、外に出してあげることも……なんだってできるのです。ただ……」

「ただ……?」

 中宮はゆっくりと身を屈めた。櫻はその顔をまじまじと見つめた。痩せた、知的な美しい顔だちをしていた。中宮は微笑んだ。

「風紀委員である君が、こうして訪れてくれたことに。わたしは心から感謝しています。これはわたしにとっての僥倖でもありました。櫻さん。そこでわたしは、君にひとつお願いしたいことがあるのです」

 その微笑みは、とても優しいものだった。

「賛成多数。よって本案は……」

 救世は厳かに告げる。

「原案の通り可決した。明後日。講堂にて、緊急生徒総会を開催する」

 その瞬間、鳳凰丸は見ていた。鏡鹿苑の顔から、スッと怒りの色が消えていく様を。そしてその変わりに、冷徹で鋭い眼差しが鳳凰丸を貫いていた。

 投票は僅差であり、まさに薄氷の勝利だった。賛成は鳳凰丸、救世、九頭龍滝神峯、蓮華三十三、銀沙向月の五名。反対は鏡鹿苑、御影教王、疎水南禅、八葉蓮寂光の四名。鳳凰丸は知っている。この結果は、救世による事前の根回しの賜物である。

 金堂盧舎那のもとで保たれていた均衡は崩れ……役員たちの思惑が噴き出そうとしている。この投票は、その嚆矢であり、権力闘争そのものだ。

 鳳凰丸も鹿苑を見つめかえす。鳳凰丸は理解している。彼女は切りかえたのだ。これからの彼女は手段を選ばない。いま鹿苑は、ただその方法を冷徹な機械のように考えている……。

 鳳凰丸を見つめるその目は、血のような深紅に染まっていた。

「ん」

 講堂の優しい光が見えた。風が静かに吹いていた。鳳凰丸は、芝生の上に横になっていた。「あらら」鳳凰丸はまぶしさに目を細めた。「寝ちゃってたかあ……」

 丘の上だった。今朝の役員会を思いだすうちに、いつの間にか微睡んでいたようだ。「やれやれ」と呟きながら、講堂を見つめる。今日の投票で、役員たちの関係性はなんとなく見えてきた。やはり警戒すべきは……。

「鏡鹿苑……」

 そして気がかりなのは図書委員長、半跏思惟中宮と、体育委員長である南円堂阿修羅(なんえんどう・あしゅら)だ。ふたりには、直接会いに行って話してみるしかないだろう……。

 まぶしい。腕をかざし、影をつくる。その影のなかからでも、はっきりとその輝きは見える。講堂は、遥か想像できないほどの高みにあった。鳳凰丸は呟いた。

「明後日だ。明後日、あそこで僕は……ん」

 鳳凰丸は呟きを止めて片眉をあげた。「んんん?」その顔に暗い影が落ちていた。そして聞こえてきたのは、嘲笑うような声だった。

「おーおー。やりたい放題やっちゃって、学園をめちゃくちゃにしやがったのに、そのご本人様は呑気に昼寝ってわけかぁ? てめえ、やっぱ度しがたいよな~」

 講堂の輝きを背景に、歪んだ笑みが見えた。その笑みは、寝転ぶ鳳凰丸の顔を覗きこむように立っている。

「なぁオイ、風紀委員長ォ~」

 鏡鹿苑だった。鳳凰丸は鹿苑を見あげた。そして見えてしまった。思わず早口で口走る。

「あの、パンツ見えてますけど!?」

「バ~カ。そんなの……」

 その足が振り上げられていく。

「気にするわけねェだろがよッ!」

 足は猛烈な勢いで振りおろされる。「ギャハッ!」それはあきらかな殺意をこめて、鳳凰丸の顔へと向かっている。とっさに首を動かす。その横を風圧が通りすぎるのを感じた。ズムッ。鹿苑の足が芝生の地面へとのめりこむ。鳳凰丸はそのまま転がるように回避!

「少しは……気にして欲しい……ッ」

 鳳凰丸は距離をとり、膝立ちになってうめいた。鹿苑は嗤った。

「ぎゃはは! さっそくだがよォ。引導を渡しに来たぜぇ~。お漏らしクソ野郎ォ」

 鹿苑が浮かべているのは凄惨な笑みであり、その手は高々とかかげられていく……そして発したのは、意外な言葉だった。

ⅳに続く

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