衛星軌道旋風ギャブリエル 凄絶メリクリ殺! #パルプアドベントカレンダー2019
静かな朝だった。
『ピピーガガッ……死ぬには良い朝だ』
『ザザッ……そうね、アデル』
完全なる無音。丸みを帯びた大気層に、眩い陽の光が差していく。それはたった5分程度の朝。あっという間に過ぎ去っていく朝だ。
『ザザッ……ごめんなさい、アデル。わたしは、もう……』
『ガガッ……わかっている……わかっているさ、ファティハ』
『ザザッ……あぁ……わたし……血が……止まらない』
『ガガッ……ファティハ……もう話すな……』
『ザザザッ……もう……あなたのことを……サポート……できない』
『ガガッ……わかっている……わかっている……だから……もう……』
『……あぁ……愛してる……アデル』
『ガガガッ……私もファティハ……心から、君を愛している』
応答は、もうなかった。
『おやすみ、ファティハ』
アデルはもう一度夜明けの地平を見つめた。それは余りにも美しい、想像を絶する光景。
(ファティハ……君とこの景色を最後に見ることができた。もう、思い残すことは何もない)
アデルがいる空間。そこは地上から約400km上空、カーマン・ラインの遥か上。時速約2万8千kmもの速度で地球を周回する、エクサゴナル共和国の宇宙ステーション、その船外であった。
(待っていてくれ、ファティハ。私もすぐに行く……全てを終えて、君のところへ)
ファティハの応答が途絶えたのと同時。アデルが足場としていた船外作業用ロボットアームもまた、その動きを止めていた。もう支援は望めない。
アデルは腕を見た。腕にセットされたタイマーが時を刻んでいく。
(あと……15分)
残された時間はあと僅かだ。これより先、アデルを待ち受けているのは前人未踏、人類の限界に挑戦する極限の作業である。しかも、失敗は許されない。
深く息を吐き出していく。酸素の消費量など気にはしていられない。元より帰還などあり得ない作戦だ。アデルもファティハも、そしてステーション内で死んでいった他の仲間たちも。すべては死を前提として、覚悟を決めてこの作戦に参加したのだ。
テザー(命綱)を外す。そして推進剤を吹かし、ステーション外壁へと接近していく。
「くっ……」
手を伸ばす。外壁への激突は即、死を意味する。外壁に取り付けられた作業用の手すりを辛うじて掴む。姿勢を制御する。そしてテザーのフックを手すりへと繋ぐ。
「ふぅっ……」
まずは第一関門を突破だ。目標点はここから約24m先。サッカー場のゴールエリアの幅程度の距離に過ぎない。だがその短い距離でも、この無重力空間下ではちょっとしたミスが命取りとなるだろう。ましてや乏しい装備で、支援もない状態で、湾曲した外壁に沿って進んでいかなければならないのだ。
アデルは再びタイマーを見た。無情にも時間は刻一刻と過ぎ去っていく。
(私の命などどうでもいい。だが、失敗はできない……失敗するわけにはいかない)
なぜなら、この作戦には祖国の命運がかかっているから。
(神よ……どうか力をお授けください)
アデルは再びテザーのフックを外した。そして呼吸を整えると反動をつけ、跳んだ。
「あっ……」
右手。掴むべき手すりを掠め、空を切る。咄嗟に逆手に左手を伸ばす。左手は辛うじて手すりを掴む。一瞬の思考停止。直後、ふっ、と深い安堵の息が漏れた。冷たい汗が噴き出していく。
(神よ、感謝します)
残り約18m。船外作業服の分厚いグローブごしに全力で手すりを掴み続けていた。握力は早くも限界に達しようとしている。残り時間は13分。弱音を吐いている場合ではない。アデルは呼吸を整え、そして地球を見た。
(地上は……クリスマスイブ、か)
アデルは思い浮かべる。エクサゴナル共和国の首都パリス。その賑やかなクリスマスマーケットの情景を。美しいイルミネーション。広場に設置された巨大観覧車。行きかう人々の笑顔。街はお祭りムード一色だろう。
(だが……)
アデルの胸の奥。そこに煮え滾り、燃え盛るのは暗い情念だ。
(これからお前たちに降り注ぐのは、祝福などではない。天から降る炎の惨劇だ)
コードネーム〈神の鉄槌〉。
それがアデルたちの作戦行動名だ。アルドリア連邦。アデルたちの祖国。そこは自然豊かな美しい国だった──1年前までは。
世界を変えたきっかけは温暖化、そしてそれに伴う大規模な気候変動だ。その結果もたらされたのは、飲料に適した水資源の枯渇である。
アデルたちの暮らすアルドリア連邦は、そのような大規模変動の影響がなかった数少ない地域だ。以前のままの豊かな自然、豊富な水資源量。それは果たしてアルドリアの人々にとって僥倖だったのだろうか? いや、そうではない。そうではなかった。
世界の情況が加速度的にひっ迫し、その深刻さが増すにつれ、いつしか「国際社会」はこう叫ぶようになっていた。「水資源は人類の貴重な財産である。一国のものではなく、国際的な共同管理の元に置かれるべきものだ」と。
大義名分はいともたやすくでっちあげられた。そして1年前。アルドリア連邦に対する国際有志連合の侵攻が始まった。美しかった祖国は蹂躙され、そして地獄と化した。
(待っていろ……もうすぐだ。もうすぐお前たちにも味あわせてやる。血と炎の地獄を)
アデルは跳んだ。手すりを掴んだ。
(よし……!)
残り約10m。残された時間はあと11分。ぎりぎりだが、十分に達成できる。
ケスラーシンドローム。スペースデブリ(宇宙ゴミ)の連鎖増殖現象。あと11分後、タイマーが示すその瞬間に所定の位置で爆破を起こすことで、宇宙ステーションは巨大なスペースデブリと化す。そして連鎖的に無数の衛星やステーションを巻き込んで衝突を繰り返し、やがてそれらはすべてが重力に引かれ、地上へと落ちる。
それは炎の雨だ。有志連合の中心国、エクサゴナル共和国の首都パリスに──クリスマスイブで賑わうその街に、裁きの炎が降り注ぐ。
それこそが、アルドリア連邦起死回生の作戦、〈神の鉄槌〉の全容である!
(時間も準備も人員も足りない中で、犠牲を払い、ここまで漕ぎ着けた。漕ぎ着けたんだ)
アデルは力強く目標点を睨んだ。
(だから私は……私は必ず成し遂げる……!)
そして跳んだ。手すりを掴む。あと5m。残り時間は10分。
(いける……! いけるぞ。あぁ……感じる。ファティハ、君が私を護ってくれている!)
次の跳躍ですべては最終段階に入る。アデルは再び深く息を吐いた、その時。
『ザザッ……ザザザッ……ガピー……』
通信ユニットから漏れ出す音。アデルは耳を疑った。
(通信……? いや、そんなはずはない……)
『ピピー……ザザッ……ガッ……』
宇宙ステーションはもはや無人。この回線に割り込んでくる者などいないはずだ。
『ピーガガー……』
その瞬間、アデルは息を飲んだ。
『Bonjour monsieur. (おはよう)』
(!?)
女の声。何が起きている……アデルは周囲を見渡した。そして見た。宇宙ステーションよりも低軌道を飛び、接近しつつある円筒形の小さな宇宙船を。
(バカな! 地上からの打ち上げなど間に合うはずがない……だとしたら)
──都市伝説めいた噂があった。エクサゴナルが秘密裏に運用する軍事宇宙ステーション〈CIEL(シエル)〉。そこには存在するという。
〈ARTS MARTIAUX ORBITAUX(ア・マシオウ・オービトゥ)〉
衛星軌道格闘を極めた、恐るべき特殊部隊が!
アデルは目を剥いた。宇宙船の上部ハッチが開放されていく。そこから武骨な、砲台のような機構が現れる。その照準はあきらかにこちらを向いている。
(レールガン……バカな。自ら惨事を引き起こすつもりか?)
砲台は音もなく物体を射出した。その物体は巻取り式のワイヤーを身に着けた──
(人間だと!?)
それは流線型の宇宙服に身を包んだ人間だった。急速接近。それは人間の限界をも超えた超高速であるはずだ。
(女……)
それはまるでスローモーションのように──アデルは高ぶった神経の中で、接近する女の眼差しを見た。それは冷たく、美しい。
アデルは思い出していた。噂の続きを。衛星軌道格闘〈ARTS MARTIAUX ORBITAUX〉。それは人類には不可能な、超人にしか為しえない机上の空論だと思われていた。しかし、そこに一人の天才が現れる。その名はギャブリエル。彼女の出現によって衛星軌道格闘は現実のものとなり、そして完成された──。
『un……(アン)』
まるでリズムを取るように、女が数をカウントしていく。
『deux……(ドゥ)』
「くそっ」
アデルは跳躍した。目標点まであと僅かだ……私は成し遂げてみせる……私は……
「あっ……?」
アデルは身を捻り、背後を振り返っていた。そうせざるを得なかった。アデルは宇宙空間の中であり得ざる気配を──殺気を感じてしまったのだから。そして見た。女。その手が虎の爪のように構えられ、そして──
『虎ァッ!(虎)』
凄まじい衝撃。アデルの視界が赤く染まる。
(これは……私の……血……?)
その赤い視界の向こう側で、女は手を広げ、まるで十字架のような姿勢となって急速に上空後方へと遠ざかっていく。
『Joyeux Noël(メリークリスマス)』
それがアデルにとって、最後に聞いた人間の声となった。
「あっ」
宇宙ステーションの外壁に叩きつけられ、そして跳ねる。女の打撃によってアデルの体には異常な振動と回転が生じていた。
「あ……ああ……あ……」
宇宙ステーションが彼方へと離れていく。アデルは理解した。女の打撃によって生じた振動と回転。それによって己の周回速度が減速し──そして重力に引かれ、地球へと落ちているのだと。
「そんな……そんな……っ」
アデルはもがいた。しかしもはや、どうにもならないことは明白だった。
🎄🎅🎄
エクサゴナル共和国の首都、パリス。早朝にもかかわらずマーケットは大勢の人々で賑わっている。そんな中、ベンチに座り、静かに新聞を広げている男が一人。
「ここ、よろしいですか?」
男に会釈をして女が隣に座る。その目の前を通りすぎる母と子。若い母親と、暖かそうな帽子をかぶった少女。
「ママ―。あたしナンテンドーステッチが欲しい!」
「はいはい」
女はその様子を見て微笑んだ。しかし、その目元は笑ってなどいない。女はそのまま視線を動かさずに、男にだけ聞こえるようにささやいた。
「〈神の鉄槌〉は失敗した」
「あぁ。俺たちがここで、こうしてまだ生きているということは、まぁそういうことだな」
男もまた新聞から視線を動かさずに応える。
「つまり……」
「わかっている。プランB。〈楽園の地獄〉作戦の開始だ」
男はそう応えると新聞をその場に置いて立ち上がった。そして女を振り返ることなく立ち去っていく。女は動かない。そのまま目の前の親子を見つめ続けている。
「あーママ―」
少女が空を指差す。「んー。どうしたの?」母親は身をかがめながら、少女の目線に合わせてその指先を見る。その指差す先に一瞬、きらりと赤い流れ星が見えた。
「あれってさぁ、もしかして、サンタさん……かなぁ……」
「うわ」少女は帽子を押さえる。びゅうっと冷たい風。ベンチの女は悲しげに顔をしかめ、立ち上がった。風に吹かれ、男が置き捨てた新聞紙が舞い上がっていく。その新聞の片隅には小さく、「アルドリア連邦の民間人犠牲者推定200万人、NGO試算」と書かれている。
【Fin.】
🎄🎅🎄
あとがきみたいなやつ
この作品は桃之字さん企画の「パルプアドベントカレンダー2019」への飛び入り参加作品です!
なおしゅげんじゃの宇宙工学知識は非常にふわっとしたものであり、細かいことを突っ込み始めたら切りがない。その点、娯楽だと割り切ってご容赦ください。
えっ、ケスラーシンドロームでデブリが地上に降り注ぐとかあり得ないって? えー、そんなの知ってるしー。
【おしまい】