③自分で「ご飯論法」を見つけてみよう
国会や官邸記者会見における論点ずらしの代名詞となりつつある「ご飯論法」について、『国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み』の著者・上西充子教授が、さらに掘り下げて、わかりやすく解説します。はじめは見分けがつきにくいのですが、答弁を聞くうちに「ご飯論法」に気づけるようになると、隠された論点が見えてきて、国会審議をより深く理解することができます。
「ご飯論法」は気づいてもらうための手がかり
──国会審議で、閣僚や官僚が「ご飯論法」を続けることの問題は、どんなところにあると思いますか。
まず、審議のなかで検討すべき問題が、まともに議論されないまま、法の制定や改正がおこなわれるという問題があります。さらに、改めるべき問題が、原因究明もされず、責任の所在もうやむやなままに終わってしまうという問題もあります。
たとえば、裁量労働制の対象拡大案は撤回しましたとか、桜を見る会は来年も中止を決めましたとか、検察庁法改正案は取り下げましたとか、それらはすべて、指摘された問題に正面から向き合わないまま、争点そのものをなくしてしまおうという処理方法です。本当に改めなければいけない問題にはふれさせないまま、それが温存されてしまうわけです。
そういう現状についても、「ご飯論法」から導かれて、問題意識を持ってほしいと思います。「もう朝ごはんの片付けは終わったし、まもなく昼ごはんの時間じゃないか」と言われても、「朝ごはんにパンを食べましたよね?」という問題の説明を求めることについては、うやむやにしてはいけないのです。
何が隠された論点であるかがわかっていれば、相手が問題をうやむやにして収拾させようとしても、「いや、問題はまったく解決していない」と、見きわめることができます。
図形の問題を解くときに、補助線を一本引くことで、面積を求めることができる図形が浮かびあがってきたり、証明のための道筋が見えてきたりしますよね。それと同じで、「ご飯論法」は、何がおかしいのか、どう論点がずらされたのかを、自分で気づくための手がかりなのです。
「ご飯論法」という用語を聞いたことがない人には、何のことだか当然わからないでしょう。だから、そういう新しい言葉を広めようとするよりも、国会で不誠実な答弁が横行していることをそのまま指摘した方がよいと考える人もいます。
けれども、国会で取りあげられているひとつひとつの問題は、専門用語だらけなので、それらの用語を使って説明されても、ある答弁が不誠実なものなのか、そうでないのか、自分では判断がつかないという人も多いでしょう。そういうときに、「こういうかたちで論点ずらしがおこなわれているんですよ」と、論点ずらしの論理構造だけを、食べものを例にとって説明して、理解してもらったうえで実際の答弁を見ると、「ああ、なるほど」とわかると思うのです。
「朝ごはん食べた?」と訊いて、「はい」や「いいえ」ではなく、「ご飯は食べてません」という答が返ってきたら、パンを食べているのを隠している可能性があるよというように、ごまかしかたのパターン認識ができれば、似たような国会答弁に出くわしたとき、「これもご飯論法だ」と気づけると思うんです。「またご飯論法の答弁をするつもりかな」とあらかじめ心の準備をしていれば、さらに気づける機会は多くなっていきます。
「ストップ詐欺被害! わたしはだまされない」といった呼びかけで、注意喚起の番組が夕方にNHKで放送されていますが、そこでは詐欺被害のさまざまなパターンが、ドラマ仕立てでくり返し紹介されています。「オレオレ詐欺には気を付けましょう」といった言葉だけでは聞き流してしまう人も、ドラマ仕立てだと「たしかにこういう状況なら、私もだまされるかもしれない」と考えることができ、同じような状況に自分が陥ったときに気づけるようになる。それと同じです。「不誠実答弁」「論点ずらし」「詭弁(きべん)」といった言葉では伝わらないものが、「ご飯論法」だと伝わるのです。
そして「ご飯論法」で巧妙な論点ずらしの答弁手法をわかってもらったうえで、働き方改革関連法案の国会審議ではこんなふうにごまかしたなどと説明していくと、「難しいことはわからない」という最初の理解の壁が取り除かれて、話が伝わりやすくなるのです。
国会パブリックビューイングでは、2018年に『第2話 働き方改革──ご飯論法編』という35分の番組を制作し、実際の国会審議のなかから「ご飯論法」を見つけてもらう試みをおこなっていますので、YouTubeで確認して、挑戦してみていただければと思います。
「ご飯論法」は問題意識を持つきっかけ
──まず、「ご飯論法」という論理を知る。すると、答弁の見かた、受け取りかたも、おのずと変わってきますね。
ごまかしの論理がわかって、自分で「ご飯論法」を見つけることができたら、国会審議に興味が持てますよね。なにやら質疑がぐちゃぐちゃしているように見えていたものが、どう答えていないかがくっきりと見えてくる。図形に補助線を1本引いただけで相似形が見つかるのと同じように、問題が可視化されていきます。
だから、国会パブリックビューイングの試みと同じで、「こんな法改正はやってはいけません」と主張を押しつけるのではなく、その人が実際の質疑を見て、「たしかに野党が指摘する問題に政府側は向き合っていないな」と気づいてもらうための手がかりを差しだす。そのほうが、その人自身が「ああ、なるほど。だから野党は反対しているのか」と理解してくれるわけです。
こちらがどれだけ「ダメだ」「おかしい」と力説しても、主張を押しつけられたくない人は、耳を貸してくれません。押しつけられるのは嫌だと、抵抗感が先に立ちます。だから、そうではなくて、理解の手がかりを差しだして、自分で気づいてもらうというアプローチの方が効果的だと思うのです。
そうやって、いったん答弁の不誠実さに実感を伴って気づいた人は、加藤勝信氏が厚生労働相から内閣官房長官に役職を移っても、これまでと同じように不都合な指摘には論点ずらしを続けていることが見てとれるし、さらには首相や大臣らが答弁書を棒読みしているときにも、官僚が作成したその答弁書のなかに「ご飯論法」が仕込まれていて、それらしく繕(つくろ)っているだけだなということにも気づけるようになります。「ご飯論法」を知ることは、国会審議の答弁や記者会見の答弁が今のままでいいのか、という問題意識を持ってもらえるきっかけになると思うんです。
巧妙に隠されていることを、どのように可視化するか
──国会審議できちんと説明しないことと、政策決定にいたる過程を公文書として記録・保存しないこととは、関係しているような気がします。
公文書をどんどん廃棄するとか、口頭決裁したので決裁文書は作成しないと言い張るとか、官邸での打ち合わせ時にはメモを取らせないとか……要するに、いろんなことがブラックボックス化されているわけですね。それから、国会答弁では「丁寧に説明」と言うけれども、その「説明」とは、自分たちが言いたいことをくり返すだけで、質問者の問いに対しては答える姿勢がない。
そういう状態はおかしいとわたしたちが気づくためには、「知る権利」が侵害されているという認識も必要です。「知る権利」という言葉にわたしたちがふれることによって、「記者会見って、別に政府の見解を教えてもらう場じゃないよな。記者が国民の疑問を代弁して質問して、それに誠実に答えてもらう場だよな、本来は。そうじゃないと、政府広報といっしょだし」と、ものの見かたが変わるわけです。誰かが声高に「おかしい」と異議を唱えるだけではなく、「おかしい」とひとりひとりがわかるための言葉が必要なんです。
「ご飯論法」では、不都合な「パン」を隠し、「野党は反対ばかり」のような「呪いの言葉」では、相手を責めることによって自分たちに批判の矛先が向かうのを防ぎ、野党合同ヒアリングでは、官僚を防波堤にして自分たちは表に出ずに隠れている。どれも、指摘に正面から向き合わない姿勢の表れです。野党から要求されても国会を開こうとしないことも、開かれたかたちで記者会見をおこなわないこともそうです。
「記憶にございません」のようなごまかしかたであれば、ごまかしている姿がカメラに捉えられるため、それを報じることができるし、「いや、おかしいだろう」と多くの人が気づくことができます。けれども、記録を残さない、言及しない、姿を現さない……そうやって報じる材料を与えない、気づくきっかけを与えない。そういう作戦が横行しています。
ないものを語ることは難しい。それがうまく利用されています。だからこそ、隠している、そのしぐさを、わたしたちは「ご飯論法」といった言葉を手がかりに、構造的に認知しなければいけないと思います。
*次回は「海老チャーハンと玉子チャーハンで考える」です。
『国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み』書籍詳細
http://www.shueisha-cr.co.jp/CGI/book/detail.cgi/1684/
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