②「ご飯論法」によって隠されていること
質問に対して、論点をずらした答弁をする「ご飯論法」が、ふたたび注目を集めています。はじめは国会における加藤勝信厚生労働相(当時)の答弁を譬(たと)えたものでしたが、現在では、首相官邸の内閣官房長官記者会見に場を移して、加藤官房長官が記者の質問に答えるさいに、同様の論法がくり返し用いられているからです。
そもそも「ご飯論法」とは何だろう。そして、それはどのような過程を経て名付けられ、これほど多くの人々が使うようになったのでしょうか。「ご飯論法」の発案者である『国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み』の著者・上西充子教授に訊きました。
括弧で隠された不都合な事実
──2020年9月29日に、アメリカ大統領選に立候補したドナルド・トランプ大統領とジョー・バイデン前副大統領の第一回テレビ討論会がありましたが、それを報じた日本の民放番組で、キャスターは「司会者の質問に対して、トランプ氏は『ご飯論法』でかわした」と解説していました。2年ちょっとで、これだけ市民権を得た言葉も少ないような気がします。
訊かれたことに、話をずらして答えるという意味では、ある程度、浸透しました。
けれども、もうひとつ重要なのは、そこでは不都合な事実について、一切言及されていないということなんです。つまり、「朝ごはんは食べなかったんですか?」という問いに対し、「ご飯は食べませんでした(パンは食べましたが、それは黙っておきます)」と答えるとき、パンを食べたか食べていないかは、一切語っていない。パンという言葉も、口にしていない。単に論点ずらしであるというだけではない狭義の「ご飯論法」のポイントは、そこにあります。
だから、「ご飯論法」について、「ご飯は食べてません。パンは食べたけど」と紹介されることもあるんですが、それは違うんですよね。それだと、すでに種明かしをしちゃってるわけで(笑)。パンのことは絶対に言わないからこそ、パンの話は括弧に入っているんです。そして、言及されないことについては、人はなかなか気づけないんです。
私はそのことを、大学生の就職・採用活動を検討するなかで、強く感じてきました。金井壽宏(としひろ)さんの『働くひとのためのキャリア・デザイン』(PHP新書、2002年)という本に「白い嘘」という言葉が紹介されています。偽ったことを語るという文字どおりの嘘を「黒い嘘」と言うのに対して、大切なことを故意に語らないことが「白い嘘」です。M・スコット・ペックの造語だと思われると金井さんは記しています。
たとえば、会社案内のパンフレットに豪華な独身寮が載っているけれども、実際はすでに満杯で、新入社員はそこに入ることができない。あるいは、リストラが進行中なのに、会社案内では、そのことは説明されない。そういったことが「白い嘘」にあたります。
より多くの学生に応募してほしい企業は、自社の魅力を伝えるパンフレットを作り、企業説明会では生き生きとした先輩を登場させ、就職情報サイトにもキャッチーなコピーやイメージ写真を載せます。だから、私は学生に「企業側が伝えたい情報やイメージだけを手がかりに応募先を選ぶのはまずいよ」と注意喚起し、3年後離職率などの客観的なデータを掲載している『就職四季報』(東洋経済新報社)を確認しようと呼びかけてきました。そのことと「ご飯論法」への問題意識はつながっているのです。
若い社員が多く、活気あふれる職場を見れば、年齢の近い人といっしょに働けると学生はポジティブに受けとめます。労働条件が悪いから社員が定着しないのかなとは考えません。けれども、そうやって裏を読む力が本当は必要なのです。『就職四季報』であれば、新卒入社者の3年後離職率の掲載欄があります。そこにNA(非公開)の表示があれば、「なぜこの会社は3年後離職率を開示したくないんだろう」と疑問を持つことができます。けれども、生き生きと働く若手社員たちの集合写真だけでは、隠された不都合な事実には、気づけないのです。
「ご飯論法」も同じです。隠されたパンには、なかなか気づけません。相手が何を隠しているかをこちらがすでにわかっている場合には、「答えずに話を逸らした」と気づけますが、そうではない場合は、よほど警戒しながら聞いていないと、隠されているものには気づけないのです。
実際の国会答弁をもとに考えてみよう
──『国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み』では、働き方改革の国会審議における「ご飯論法」が紹介されていましたが、その後の国会審議でも「ご飯論法」の答弁が続いたのでしょうか。
たとえば、桜を見る会についての田村智子議員による2019年11月8日の参議院予算委員会の質疑を見てみましょう。自民党の閣僚や議員には、後援会支援者の招待枠を割り振っているのではないかと田村議員に問われた安倍晋三首相(当時)は、こう答えているのです。
私は、主催者としての挨拶や招待者の接遇はおこなうのでありますが、招待者の取りまとめ等には関与していないわけであります。
これを聞くと、当日のホスト役は務めるが、招待のプロセスには関与していないように思えるでしょう。けれども、その後の追及により、安倍首相にも招待枠があったことが明らかになります。ではこのとき、安倍首相は虚偽答弁をおこなったのでしょうか。
よく見ると、安倍首相は「招待者の取りまとめ等」に関与していない、と答弁していることがわかります。取りまとめの段階だけに言及し、それに関わっていないと答弁することによって、あたかも招待枠の割り振りには何ら関わっていないかのように思わせていたのです。ここでは、隠されたパンは、招待枠の割り振りや推薦のプロセスです。なお、映像を見ると、安倍首相は下を向いて答弁書を棒読みしています。この「ご飯論法」答弁は、官僚の手によるものだったというわけです。
隠されたパンにすぐに気づくのは難しいことが、わかっていただけるでしょうか。
「ご飯論法」で気づいてほしいこと
──もうすこし詳しく「ご飯論法」について訊かせてください。問いにある「朝ごはん」と、答にある「ご飯」は、表記も異なるので、別のものを指しているんですね。
はい。「朝ご飯は食べたのか」「ご飯は食べていない」と紹介されることもあるのですが、私としては「朝ごはんは食べたのか」「ご飯は食べていない」と、「ごはん」と「ご飯」を書き分けていただきたいのです。
元のツイートの表記に従っていただきたい、ということもあるのですが、「ごはん」という言葉は、日本では食事全般を指す言葉ですよね。パンだろうが、パスタだろうが、シリアルだろうが、白米だろうが、すべて「ごはん」です。「朝ごはん」とは、そういう、さまざまなメニューを包含した言葉です。
一方、「ご飯」の方は、お茶碗に盛った白米を指しています。白米を食べたかどうかを訊いているわけではなく、何か朝ごはんを食べたかと訊いているのに、パンを食べたことを隠しておきたいために、あえて「ごはん」という集合概念の中から「ご飯」という、ひとつの要素だけを取り出し、それを食べていないと言うことによって、あたかも「朝ごはん」は何も食べていないかのように相手に思わせる、それが狭義の「ご飯論法」なのです。
「ごはん」を意図的に「ご飯」に限定するところに相手の誤認を誘うポイントがあるので、命名者の紙屋高雪さんが「ごはん論法」ではなく、「ご飯論法」と命名したのも、よくわかっていらっしゃるなと思うのです。けれども、国会会議録では、どちらも「御飯」という表記で記録されているのが残念です。
ついでに言うと、「朝ごはんは食べたのか」という質問に対して「食べていません」と答えるのは、「ご飯論法」ではありません。それは単なる虚偽答弁です。「朝ごはん」を「食べていません」という意味になるからです。
「朝ごはんは」と問われているのに、さりげなく「ご飯は」と勝手に話をずらして答えることで、相手を誤解させ、都合の悪い事実は答えずにすませるのが「ご飯論法」です。「ご飯(白米)」を食べていないのは事実なのだから、虚偽答弁ではないと言い張れる余地を残しているのです。
「ご飯論法」という言葉が「詭弁(きべん)」といった従来からある言いかたよりもすぐれていると私が思っている点は、何か不都合なことが隠されているということに、ひとりひとりが気づく手がかりになるところです。
「詭弁」と言うだけだと、はぐらかしていることしかわからない。「詭弁だ」と言われて、そうなのかなと思う。そういうぼんやりとした認識にとどまるのではなく、「そうか、これを隠しておきたいから、こうやってごまかしているんだな」と、各自が答弁を読み解けるようになる手がかりが、「ご飯論法」という比喩だと思うのです。
何か噛み合わないやりとりが国会でおこなわれているということは、実際の質疑を見れば多くの人が感じるわけですが、なぜそういう噛み合わないやりとりがおこなわれているかを、ひとりひとりが理解できるようになれば、これは訊きかたが悪いという問題ではなく、誠実に答えない政府の側に問題があることが誰の目にもはっきりしてくるはずです。
*次回は「自分で『ご飯論法』を見つけてみよう」です。
『国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み』書籍詳細
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