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メソポタミアのボート三人男 第四回/高野秀行
2-1 ムシュで虫になる
私と隊長は二人とも腰痛持ちである。
私は三十歳ぐらいのとき、ミャンマー・ワ州のアヘン地帯に住んでケシ栽培を行っていた。といっても、朝から晩まで畑で草むしりするだけだ。それで腰を痛めてしまった。四十歳頃、慢性腰痛が悪化し、整形外科から整体、鍼灸、カイロ、怪しげな気功まで、ありとあらゆる治療法を試した末、水泳をすることで寛解した。ただし、前屈みの姿勢を長時間続けたり、同じく重いものを持ったり下ろしたりする作業を続けているとてきめんに腰にくる。
山田隊長の腰痛も年季が入っている。なにしろ川旅は腰によくない。手漕ぎのカヌーやゴムボートあるいは外モーター付きの舟でも、一日中座りっぱなしなのは変わらない。なのに、二十歳ぐらいから四十歳ぐらいまで一年の半分は舟に乗っていたという。四万十川沿いの村に移住してからはカヌー教室のコーチもやっていた。朝から晩まで舟に乗っているのだ。さらに仕事での過労。しかも彼は私とちがって弱音を吐かない。腰が痛くてもひたすら我慢して働く。結果として腰痛はどんどん悪化した。
あるとき「おい、高野、腰痛が治ったぞ」と隊長が東京の拙宅にやってきたことがある。「原因は歯だった」という。
なんでも、西アフリカのニジェール川を旅していた一九八〇年代半ば、大飢饉に襲われ、食べるものが乏しかったときだという。ある日、やっとヤギの干し肉を少し入手したものの、石のように硬い。根性の人だから無理にかじったところ、ガキッ! とすごい音と激痛が走った。歯が折れたかと思ったが、そうではないらしい。ただ、それ以後、何かを食べるたびにひどい痛みに襲われるようになった。でも根性の人だから、「毎日痛みをこらえて飯食っていた。しかも痛みに慣れようと思って、痛む方の歯でわざと噛んでいた」そうだ。
根性の人は間違っている人でもある。
それから二十年。当時の無理が加齢とともに表に現れたようで、歯のあちこちが痛んできた。歯医者へ行ってレントゲンを撮ってもらったところ、予期しないものが発見された。
奥歯の一部が剥離したまま歯茎の奥深くに刺さっていたのだ。まさにヤギ肉事件で痛めた歯だった。後日、隊長はわざわざ私に剥離した歯の破片を見せてくれたが、まるで縄文人が使っていた動物の歯で作った鋭利な刃物のようだった。こんなカミソリのようなものが刺さっていたら痛いに決まってる。
「これを歯医者にとってもらったら、腰の痛みがスッとひいたんや」
歯だけでなく、腰にも悪影響を及ぼしていたという。
根性というのは体にとてもよくないと思ったものだ。
しばらく腰痛はよかったらしいが、過労が進むうちにまた悪化していった。今では完全に持病である。不思議なことに、山仕事で奥多摩の山を登り下りしたりチェーンソーで倒木を切ったりというハードな作業はまだ大丈夫だが、じっとしているのがきついという。椅子に座るのは三十分が限度。書類仕事は困難。
隊長の腰痛はただの腰痛ではなく、根性の人がたどりついたスペシャルなものである。腰の痛みがひどくなると、激しい頭痛を伴い、意識が朦朧としてくる。
試行錯誤と七転八倒の果てに、最近隊長は腰痛を防止できるようになった。一つは、体を締め付けるものを一切排除すること。ふつう、腰痛の人はコルセットでがっちり固定すると痛みが和らぐものだが、隊長の場合は真逆で、締め付けが痛みを誘発するという。そこでズボンのベルトとゴムをやめ、ズボンつりを着用。そればかりか「パンツのゴムもよくない」と、パンツも脱いでしまった。今やノーパン。
「俺はマリリン・モンローと同じや」とあるとき隊長は言った。
「は?」
「マリリン、知ってるやろ?」
「そりゃ知ってますけど」
「彼女は日本に来たときマスコミにどんな下着をつけてるのか訊かれて、『何もつけてない。つけてるのはシャネルの5番だけ』って言ったんや」
「はあ、それで?」
「俺も同じや。何もつけとらん。つけてるのはサロンパスだけや」
「…………」
マリリン・モンローが気の毒だと思ったのは私だけではないだろう。
ちなみに、サロンパスは夏で、寒くなるとホカロンにとってかわられるのだという。
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かくして隊長はノーパンサロンパスの状態で、舟を漕ぎ、一時間に一度の休みにはぐるぐる腰を動かしつづけ、舟の上でも体を伸ばしたり曲げたりと忙しい。
陸地でも同じだ。ヨガマットを持参し、ホテルの床だろうが川辺の土の上だろうが、サッカーの長友選手の体幹トレーニングにヨガをミックスさせた我流の運動を行っている。ただ、手や足が全然まっすぐ伸びず、風に吹かれる枯れ木のようにぎこちなく動く。
あるとき、それを見ていたら、なんだか日頃運動をしないお年寄りが無理して運動している様子を連想し、にやにや笑いがこぼれてしまった。
「おい、高野!」とそのとき隊長は、運動の途中でいきなり振り向いて言った。「おまえ、俺のこと、『年寄りが無理して運動してるみたいだ』とかって思ったやろ⁉」
な、なんだ、エスパーか? どうして私の心が読めるのだろう。そんな能力があれば、自分の腰痛を治した方がいい。
かくいう私も腰痛持ちである。カヌーはやはり怖い。北上川を下ったときも後半は腰の痛みが悪化し難儀した。今回はなぜか絶好調である。毎日六〜十時間も舟を漕いでいるのに。だからこそ、毎回隊長の枯れ木ストレッチを目にする度に薄笑いを浮かべていた。
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その報いが来たのは舟旅パートAが終わった二日後だった。
私たちは快適なクルドの豪農宅に宿泊してから、泥の川に戻りたくなくなり、パートAを一日早く切り上げてしまった。快適なシャワーを浴びたら、泥と汗とともに、緊張感ややる気も流れ落ちてしまったようである。
本来のパートAのゴール地点であるアールの街に出てから、今度は舟旅パートBを行うユーフラテス川の支流目指してレザンのフォルクスワーゲンで移動を開始した。
走り始めて二時間ほどで異変が起きた。助手席に乗っているうちに腰の左側が痛みはじめたのだ。最初は何か気のせいかと思っていたところ、痛みはどんどん激しくなり、しまいには体の位置を変えるだけで激痛が走るようになった。車から降りるのなどが至難の業だ。
信じられないし信じたくないことだが、紛うことなきぎっくり腰……。
私が状況を隊長とレザンに伝えると、二人して呆れ顔をした。「何もしてないのに、どうして腰が痛くなるんだ?」
そんなこと、こっちが知りたい。二人を無視して、助手席から降り、這うように後部座席に移動して横たわる。それでも車の振動やカーブや曲がり角で遠心力がかかっただけで電気のような痛みが走り、「うわっ!」と声が出る。
この日はもっと西の町まで移動する予定だったが、腰が我慢の限界に近づき、ムシュという街で宿泊することにした。
てきとうなホテルにチェックイン。本当は四つん這いになりたかったが、そうもいかず、死にかけた冬のカマキリのような歩き方で進む。荷物などは他の二人に任せ、私はベッドに直行した。しかし横たわってもどんな姿勢でも痛くていられない。
──ありえない……。
痛みと同時に絶望感が襲ってきた。ふつう、ぎっくり腰は完治するのに一週間近くかかる。最初は極力安静にし、そのうち少しずつ家の中で軽い作業をしたり犬の散歩に出かけたりできるようになり、それから外出して電車に乗ったりプールで泳いだりして、それでも問題がなければ、やっと川下りに行くという順序だ。言い換えれば、カヌーができたら「完治」と見なしてよい。
なにしろカヌーほどぎっくり腰に悪そうな活動は思いつかない。そして、私はここにカヌーをしに来ていた。あまりに情けなくて泣き笑いしそうになる。
トイレに行くときも、ベッドから起き上がるのがままならない。まず横にゴロゴロ転がってベッドの端まで移動し、片足から床に転げ落ちて、床に倒れてしばし休んでから手でベッドに掴まって慎重に立ち上がる。初めて掴まり立ちする赤ん坊の要領だ。
「なさけねー! 虫や虫」と隊長はゲラゲラ笑う。「カフカやな。ある日起きたら虫になってたってやつ」
こちらが息が詰まって返事もできないのをいいことに 「ムシュで虫になったか」と得意のダジャレまで付け加える。
苦痛と無念さで頭が真っ白になった。
パートナーが絶体絶命の状況に追い込まれているとき、こんなにバカにするだろうか。人間はここまで冷酷になれるものか。もともと品性下劣な人とは思っていたが……。
隊長は隊長で、私が腰痛体操を薄笑いで見ていたことを相当根にもっていたようだ。
夕方になり、隊長はレザンと一緒に飯を食いに行ってしまった。レザンは最初心配顔だったが、私がもぞもぞと虫のようにもがいて起き上がろうとするのを見ると、プッと吹き出していた。
二人が去って行った後、私は呆然と天井を見上げていた。
カフカか。虫か……。
そのときである。閃いたのは。
「わかった!カフカの『変身』、あれはぎっくり腰の話だ‼」
前から変だと思っていたのだ。朝目覚めると大きな虫になっていたというが、何の虫かさっぱりわからない。初めはイモムシかと思ったが、読んでいくと裏返しにされたカブト虫のようでもある。いずれにしても、主人公ザムザが変身したものは自分で自分の体を思うように動かせない。それが「虫」の意味だ。
でもおかしくないか? 本物の虫はもっと素早い。イモムシだってのろいように見えて、ちょっと目を離すと驚くほど遠くまで移動している。カブト虫だって当然動きは速い。裏返しにされたカブト虫も自分ですぐ元に戻ることができる。
だいたい、本当の巨大な虫と化してしまったら家族がもっと怖がるだろう。ザムザの親や妹は虫状態の彼を嫌がってはいるものの、見るのもおぞましいという感じではなく、「見下す」感じだ。
これはきっとカフカの実体験に基づいているにちがいない。ある日、カフカは目覚めるとぎっくり腰になっていた。ぎっくり腰は今の私のように、さしたる理由がなくても起きることがある。そして、死にかけた虫のようにしか動けなくなる。カフカは家族とうまくいってなかった。ただ、会社に勤めていて稼いでいたからそれなりの扱いを受けていた。ところがいったんぎっくり腰になるとどうか。
私でさえ旅の相棒の隊長からこんな仕打ちを受けているのだ。家族からはさぞかし冷たい目で見られたことだろう。当時の労働条件がどうだったかわからないが、おそらく腰痛による休暇など認められず、その分、給料からさっ引かれたんじゃないか。あるいは上司から家族に苦情もしくは脅しの電話でもかかってきたんじゃないか。家族も腹を立て、カフカに向かって「おまえは虫か⁉ 役立たずの虫!」と罵ったりしたのかもしれない。
たかが腰痛ごときで周囲の目が一変する理不尽。自分はこんなに苦しんでいるのに誰も理解してくれないという孤独。「これを小説に書かずして何を書く!」とカフカは考えたにちがいない。
でも、ぎっくり腰で「変身」じゃ家族同様、世間の誰も相手にしてくれない。何かもっと文学的深みがあるような話にしなければと思案したのち、「そうだ、家族の言ったことをそのまま小説にすればいいんだ。虫に変身するって話だ!」と思いついた。
それが文学史に残る名作「変身」の真実である──。
ムシュで虫になりながら、世界文学の謎を一つ解いてしまった私は、その日初めて爽快な気分になった。「わかった!」とガッツポーズを決めたとき腰に激痛が走り、「ひっ!」と悲鳴をあげたのを隊長に見られずに済んだのも幸いであった。
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2-2 ハンマームでエビになる
翌朝、目覚めるとまだ大きな虫のままだったが、少しラクになった気がする。
ハンマーム(トルコ式蒸し風呂)へ行こうかと思った。ぎっくり腰は急性の腰痛なので炎症だから冷やした方がいいとよくいわれるが、慢性の腰痛は絶対に冷やすのはよくない。温めるのがいい。そこでぎっくりが一段落したら、風呂に行きたいと思ったのだ。
トルコ人同様、クルド人もハンマーム好きである。イラクのクルディスタンへ行ったときも、ふつうのホテルに「ハンマーム」があった。ただ、客が使用するたびにわざわざ温める必要があるらしく、使いたいときは一時間ほど前に言わないといけない。それが面倒くさくて結局は入らずじまいだった。そもそも、私は風呂や温泉に長く入るのは苦手だ。有名な温泉に行っても、十分であがってしまう。長風呂が前提であるサウナにはまず入ることはない。
ムシュのホテルにもハンマームの表示があったが、私一人がちょっと入るだけなのに全体を温めてもらうのは気が引ける。それに一度ぐらい伝統的なハンマームに入ってみたい。
レザンにそう言ったら、「ヒストリカル(歴史的な)ハンマームに行けばいい」と答えた。ムシュはガイドブックにも載っていない地味な地方都市ながら、六世紀にはアルメニアの王が町を築き、その後も、ユーフラテス川(ムラト川)沿いの宿場町として栄えてきたらしい。歴史的なハンマームとは面白そうだ。
とはいえ、レザンが「カネは置いていった方がいい。持っていくのは百リラぐらいにしろ」と言うので少々不安になる。品性下劣な隊長は「身ぐるみ剥がされたりしてな。それこそ裸の虫や」とからかう。
そう言えば、トルコのハンマームでは垢すりをしてもらうんだっけ。腰巻き一枚のムキムキの垢すりマンがゴシゴシ体中をこすり、びっくりするほど垢がとれたなんていう話も耳にしたことがある
私はレザンに「ワクワクするよ。裸で他の男と一対一になるなんて普通じゃない。しかも俺は小さくてクルドの男はでかい。そして俺は今腰が痛くて何が起きても戦うことができない」と言うと、彼は腹をゆすって笑った。私はジョークが受けたにもかかわらず、あまり嬉しくなかった。
ヒストリカルとはどのくらい古いのかと聞くと、レザンは「わからないが、百年とかオスマン時代からかもしれないな」。また適当なことを言いやがってと思ったが、実際に目的地に着けば、「カラス・ハンマーム 一七一一年開業」とトルコ語で記されていて目を疑う。もちろんオスマン時代真っ只中だ。
決して、立派な場所ではない。ごみごみした下町の一角で、薄汚れた建物のわきを階段で下りた地下が入口。値段も激安で、風呂に入るだけなら定食より安い。日本円で七十円ほどだ。
日本で言えば、江戸時代中期、神田や深川に作られた銭湯がそのまま同じ形態で営業を続けているようなものだ。
ロビーに入ると、ムンとした熱気と湿気と風呂場独特のくぐもった声や音が聞こえてきた。
ロビーは六角形という不思議な形状である。その各コーナーには簡易な作りの木の長椅子が置かれ、客の着換え及びリラックススペースとなっている。サンダルにはきかえ、短パンを渡される。床はびしょびしょしているので、ズボンが濡れないよう、長椅子の上に立っておそるおそる着換える。
──これは危険ではないのか……。
と気づく。ただでさえズボンやパンツを脱ぐのが一苦労なのに、不安定な椅子の上でそれをやっているのだ。
だいたい、すべりやすい風呂、しかも勝手が全くわからないトルコのハンマームに来ること自体がぎっくり腰の患者が最も避けるべきことのように思えてきた。しかも湯気が立ちこめて視界が悪いうえ、めがねを預けてしまったので、極度の近眼である私は何もかも朧気である。最悪の状況に自ら入り込んでしまった。
「ゲル、ゲル(こっちに来い!)」と呼ばれるが、腰が不安で目もよく見えないため、手探りでソロソロ歩かざるをえない。たぶん端から見れば、ガイジンがトルコの風呂を無意味に怖がっているように見えるのだろう、ゲル、ゲル! とだんだん呼ぶ声は苛立ってくる。しまいには男の人が私の手首をつかんでぐいぐいひっぱって先導した。
床は濡れているし、前は見えないし、いつ腰が再びギックリ来てもおかしくないし、手を引っ張る相手は誰か全くわからないしで、複合式のお化け屋敷みたいな怖さだ。
低い通路を通りぬけると、広いホールに出た。いや、天井がきれいな半球に形作られているからドームと呼ぶべきか。年季の入って黒ずんだ漆喰の白壁とこの広くて閉鎖された空間は大学探検部時代によく潜っていた洞窟を思い出させる。洞窟にはよくこういう場所がある。
ドームには蒸気が充満していて暑く、要するにサウナだった。サウナ! 前述したとおり、私はサウナが大の苦手でこの二十年ぐらい入ったことがない。ハンマームは蒸し風呂であると知っていたはずだ。そして蒸し風呂とはサウナに限りなく近いものだろう。なぜ気づかない? 俺はもしかして馬鹿なのか?
「ここで待て」と誰かわからない男に言われ、一人ぽつねんと取り残された。中央に直径一・五メートルくらいの石作りの円形の台があったので腰掛ける。誰も来ないし、暇なので、何気なく、その台に寝そべってみた。そして仰天した。
メチャクチャ熱い! 下から熱されているらしい。「あちちち……」と思わず跳ね起きようとしたら腰の激痛に襲われ、今度は「いててて!」と絶叫。極熱円形石版の上で「あち、いて、あち、いて!」と体をぴちぴちけいれんさせた。虫というか、フライパンで乾煎りされている小エビのようだ。跳ねているうちに、なんとか床に転がり落ちた。落ちた拍子に膝や肘を打ったが幸い大事はないようだ。しばらくびしょびしょした床に倒れたまま腰の痛みが落ち着くのを待った。
──おれ、何やってんだろう……。
ティグリス=ユーフラテス川の源流部でワイルドに川旅をしているはずが、なぜゆえ田舎の古いハンマームで小エビになっているのか。
考え始めると精神衛生上よくないので、無心になる。起き上がると円形台座に腰掛けて何事もなかったかのような風を取り繕って人が来るのを待った。
やがて、「カセ(垢すり)?」と問う声が聞こえ、細身で小柄な若者が現れた。レザンのような熊みたいな男ではなく、清潔感もあって一安心だ。
手を引かれ、小部屋に入る。大理石の台にうつぶせになると、彼は右手にはめた布手袋で背中をたてにざーっ、ざーっと強くこする。圧力は強いが痛くはない。次に手、足、首は手でつかんで引っ張るようにこする。続いてあおむけになって同じことをくり返す。
その後、素手で第二クール、さらにはお湯をかけて流してから石けんをつけて第三クール。一クール五分。全部で一五分ほどか。
続いてマッサージ。手のひらの土手の部分に体重をのせ、ひたすら強い力で、首の付け根から足までを圧迫するだけ。でも変にツボを押したり、手足をひねったりしないので、むしろ安心した。
これも一五分程度であっさり終了した。特に垢もとれなかったが、私は「困難をくぐり抜けた!」という錯覚に浸り、よい心持ちであった。
ドームに戻るとお客が四人ほど来ていた。座っておしゃべりしたり、石の台に寝そべったりしている。彼らが彫りの深い顔立ちで髭を生やしているせいもあって、雰囲気がヤマザキマリさんの漫画で映画化もされた「テルマエ・ロマエ」にそっくりである。古代ローマの庶民が行く風呂にタイムスリップしたような気分になる。
不意に誰かが民謡かコーランの一節かを静かに口ずさみはじめた。歌声は蒸気の充満したドームにふわーんと漂い、聞いたことのないような、不思議にやわらかく、とろけるような調べとしてハンマーム全体に広がった。
一瞬、何かの神秘に打たれたような気がした。同時にこのドームがモスクを模していたことに遅まきながら気づいた。預言者ムハンマドは洞窟で啓示を受けたとされており、モスクは洞窟を模している。モスクの奇妙なでこぼこやつららのような造形はみな、鍾乳洞を象ったものだと聞いている。このハンマームが洞窟でありモスクのようでもあるのは当然であった。
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いつまでも浸っていたい気持ちだったが、神秘より熱さに負けた。そうでなくても私は長風呂が苦手なのだ。一時間ほどで外に出た。
自分の衣服が置かれたコーナーの長椅子に戻ると、控え室に戻ったボクサーのように肩にタオルをかけてもらい、お茶をいただく。またしても「俺はやり遂げた!」という謎の充実感が湧きあがる。途中、エビに変身するなどアクシデントはあったものの、幸い体は思った以上にほぐれている。
この町はかつてアルメニア人の町であり、後には中東のさまざまな王朝の支配下にもなったと聞く。オスマン帝国の昔には多民族が共存する賑やかな町だったのだろう。きっとトルコ人もクルド人もアルメニア人もアラブ人もペルシア人もここではみんな仲良く風呂に入っていたんじゃないだろうか。
エビから人間に戻った私もその仲間入りをしたようで、なんだか心も和んだのだった。
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プロフィール
高野秀行(たかの・ひでゆき)
1966年東京都生まれ。『幻獣ムベンベを追え』でデビュー。2005年『ワセダ三畳青春記』で第1回酒飲み書店員大賞を、13年『謎の独立国家ソマリランド』で第35回講談社ノンフィクション賞、14年同作で第3回梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。他に『謎のアジア納豆』『アヘン王国潜入記』『巨流アマゾンを遡れ』『語学の天才まで1億光年』『イラク水滸伝』など著書多数。24年、イラクの巨大湿地帯探検の功績で山田高司と共に植村直己冒険賞を受賞。
山田高司(やまだ・たかし)
1958年、高知県生まれ。探検家・環境活動家。1981年、東京農業大学探検部在学中に南米大陸の三大河川をカヌーで縦断し、「青い地球一周河川行」計画をスタート。85年にアフリカに渡り、セネガル川、ニジェール川、べヌエ川、シャリ川、ウバンギ川、コンゴ川の旅を成し遂げる。他に長江、アムール川、黄河、メコン川、セーヌ川、テムズ川、ライン川、ドナウ川、ポー川、なども一部下る。1990年代から環境NGO「緑のサヘル」設立に参加しチャドで植林活動、1997年から四万十川の持続可能な国際モデル森林作りに参加し、2005年まで「四万十・ナイルの会」を主宰しルワンダでの植林活動。24年、イラクの巨大湿地帯探検の功績で高野秀行と共に植村直己冒険賞を受賞。