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特別連載『梟の好敵手』/福田和代(1)

    【作品紹介ページ】    

「できた! これでどう?」
 薄く目を開けると、鏡の中でにんまりと笑うさとはらはるかが、くまふでのフェイスブラシを振りながらふみを見ている。
 ──ついに見なくちゃいけないわけか。
 この一時間ほど、目を背け続けた自分の顔を、見るべき時が来てしまった。
「────」
「──どう? 気に入らない?」
 いつも強気の遥が、微妙に不安そうな表情を浮かべ、史奈の顔を鏡越しにのぞき込む。
「いや──」
 たしかに、素顔がわからなくなりさえすれば、どんなデザインでもかまわないと言ったのは史奈自身だ。だが──。
「きれいに描いてくれたけど、でも遥──これから試合があるたびに、これを描かなくちゃいけないんだけど」
 鏡の中にいる自分を指して、史奈は困惑ぎみにつぶやいた。
 こちらを見返す顔は、目鼻立ちの輪郭以外、自分のものとは思えない。ぱっと見て、連想するのは京劇のれん──つまりくまどりだ。京劇に登場する女形おやまの顔には、ジユンバンと呼ばれるメイクが施される。目元に朱を入れ、アイラインと眉をくっきりと黒で描くものだ。
 遥は史奈の顔に俊扮を施した上に、あげちょうの図案を、アイマスクのようにさらに塗りこめたのだった。唇にはれたような朱色の紅を入れ、ぽってりとした厚みを感じさせる。ふだん化粧をしない史奈には、もはや自分の顔とも思えない。
 たしかにここまで塗れば、知人が見ても史奈だとは気づかないだろう。遥とはまだ四年そこそこのつきあいだが、彼女が女優「里見はるか」としてめきめき頭角を現しているのも、このメイクの技術を見れば理解できる。
「大丈夫よ!」
 遥が力強く、史奈の背中をたたいた。
「試合って四回だけでしょ? あたしがメイクしてあげる!」
「遥だって忙しいのに──」
「平気、平気。どうせ史ちゃんたちの試合は、全部見るつもりだったもん」
 控室のドアがノックされ、こちらの返事を待たずにながりょういちが勢いよくドアを開けた。
「よう! そろそろ記者会見が始まるぞ。早く来いよ」
 そう言った端から、諒一は鏡を見て「おっ」と声を上げて固まった。
「すぐ行く」
 史奈は仏頂面で返事をした。
「がんばってきてね!」
 遥が笑顔で肩をもむ。緊張を和らげようとしてくれているのだ。
「大丈夫、今日はただの記者会見だから」
 史奈は立ち上がり、全身を鏡に映してチェックした。髪はぴたりと後ろにでつけて、長い部分はお団子にした。顔は遥のメイクで別人のようだ。ユニフォームは、スポーツ用品メーカーのアテナが、長栖兄妹きょうだいと史奈のために特別にあつらえてくれた、通気性がよく丈夫なスウェット生地の上下だ。黒地に赤の縁取りという、すっきりとしたデザインだった。どこか、忍びの衣装をほう彿ふつとさせるのは、アテナ創業者一族である家の意向を反映しているからだろう。
 されるように諒一が廊下に後ずさる。
 史奈は遥にうなずきかけ、控室を出た。まもなく、アテナが主催する記者会見が始まる。
『お待たせいたしました、ただいまより、ハイパー・ウラマに参加する株式会社アテナの陸上競技部メンバーを発表します』
 会場のアナウンスがここまで聞こえてくる。
 行こう、と諒一をかして会場に向かうと、途中で長栖ようも合流した。
 容子はできばえを確認するように、鋭い視線を史奈の頭のてっぺんからつま先まで走らせ、満足げにかすかに頷いた。
 ──もう、引き返せない。
 あの扉をくぐれば、自分たちはハイパー・ウラマの参加者だ。
 扉の前で、アテナ陸上競技部のマイケル・カーヴァー監督が呼んでいる。
「そろそろだ。行くよ」
『それでは、紹介しましょう。ハイパー・ウラマに参加するメンバーです』
 テンポの速いポップスが会場にとどろくなか、アテナ陸上競技部で名を売った諒一が胸を張って席に向かう。史奈は遠慮して最後に入ろうとしたが、容子がトンと史奈の背中を押して、先に入らせた。
 まぶしいくらいの光に満ちたホールが、ぎっしりと集まった記者団のどよめきで揺れた。フラッシュがかれ、シャッター音が耳をろうするばかりだ。
 注目を集めるのは〈ふくろう〉の本意ではないが、史奈は平静を装って席につく。
 四年前の事件でも注目されたが、当時は未成年だったのでマスコミにも遠慮があった。今度はそういうわけにいかない。
 記者席の端に、見知った顔がある。四年前に長栖兄妹を独占取材した、かたばみというスポーツ新聞の記者だ。目を丸くして、こちらを見つめている。どうやら、史奈だと気づいたようだ。
 カーヴァー監督がマイクを握り、挨拶を始める。
「さて、第一回ハイパー・ウラマ世界大会予選の競技日程が発表になりました。一回戦は来週の土曜と決まったそうです」
 今日は木曜で、一回戦まで一週間と一日しかない。
「参加予定のチームは十三組だそうです。生まれたばかりの競技なのに、よく集まったなという印象です。アテナからは、三名が参加します。控えは未定です」
 三名は最少人数として運営から提示された人数だ。チームによっては、控えの選手を数名おいて不測の事態に備えるようだった。
 発表から競技の開始までひと月ないにもかかわらず、これだけのチームが参加を表明したということは、運営側が早くから根回しして参加者を募っていたと考えたほうがいいだろう。
 参加資格は特になく、競技の趣旨とルールを理解し、競技中の事故やについては、主催者は責任を負わないとの条件をむなら、誰でも参加は可能だ。優勝チームには賞金が出る代わり、参加者は決して小さくない金額の参加料を出さなければならない。
 一部のチームはひょっとすると、競技の内容についても発表前から知らされていた可能性がある。あらかじめルールを知っていれば、戦法を編み出す時間もあるはずだ。
「まずは、チームリーダーの長栖諒一」
 紹介とともに諒一が立ち上がり、スポーツマンらしいきびきびした動作で頭を下げる。彼の参加は予定通りだ。
「ふたりめは、長栖諒一の妹で、来年の春からアテナ陸上と契約を結ぶ予定の、長栖容子」
 これも予想されていたのか、記者の視線は熱っぽいが、さほどの驚きはない。容子があっさり頭を下げた。
「三人めは、アテナ陸上の所属選手ではありません。本人のたっての希望により、メイクで顔を隠しての参加となります。競技での登録名は『ルナ』」
 史奈は立ち上がり、諒一らに倣って軽く頭を下げた。三人のなかで自分がもっとも注目を集めるだろうとは覚悟している。正体不明の上に、この華やかな蝶形のアイメイクだ。そこまでして正体を隠そうとすることにも好奇心を刺激させられるだろう。
 案の定、再びいっせいにフラッシュが焚かれ、シャッター音が盛んになった。監督が、マイクを持たないほうの手を挙げて、発言のため静粛を求めた。
「あらためて申し上げるまでもありませんが、三人とも試合前にはアンチ・ドーピング機構の定める競技会検査を受けますし、その結果を公表します。アテナ陸上がハイパー・ウラマに参加する理由は、ひとつはドーピングを認める競技運営に対する抵抗です。もうひとつは、先日、長栖諒一が語ったように、ドーピングなどしなくとも日々の練習で勝てることを証明するためです。そのうえで、皆様にお願いがあります」
 生真面目なカーヴァー監督の言葉に、記者たちが聞き入っている。
「アテナ陸上の選手たちは、大会の開催期間中、飲食物の差し入れ等はいっさい受け取ることができません。外食もしませんし、申し訳ないですが個別の取材にも応じられません。ドーピングをしないという、皆様との約束を守るためですので、ご配慮をお願いいたします。取材はすべて、アテナ陸上の広報担当を通してください」
 Q&Aタイムに入ると、各社が先を争うように手を挙げた。
「ドーピング禁止を守るために外食をせず差し入れを断るということは、部外者が選手たちに禁止薬物等を摂取させようとする可能性があるという意味ですか」
「いっさいの事故が起きないように、予防するという意味です。今日から一か月、三人は他との接触を避けるため合宿に入ります」
 監督の回答は慎重だ。だが、差し入れに禁止薬物を故意に混入される可能性を指摘したのは、アテナの創業者一族、諏訪きょうだった。史奈もそれに同意した。
 ──これは戦だ。
 ハイパー・ウラマの運営は、ドーピングを禁止していない。アテナ陸上の選手がドーピングしたところで、出場に何の支障もない。
 だが、諒一たち三人は、ドーピングに抵抗するためにあえてドーピングなしでこの競技に臨むのだ。万が一、他人の悪意が原因だったとしても、禁止薬物を摂取して競技に出場すれば、参加の意味を失う。長栖兄妹の、今後のアスリート生命も危うくなるだろう。
 逆に、ハイパー・ウラマ運営の賛同者にしてみれば、アテナ陸上の選手たちに禁止薬物をらせることさえできれば、彼らを打ち負かしたも同然なのだ。飲食物でなくともよい。通りすがりに、チクリと針を刺すだけでもいいわけだ。監督をはじめ、チームの関係者はみな、神経をとがらせている。
 競技に参加するのはシード扱いの海外チームを入れて十三チーム。決勝戦まで十二試合が予定されている。試合は土曜と日曜に組まれる。まだ海外チームのメンバーが公表されていないのは、期待をあおるためかもしれない。
 一週めの土日が一回戦で、一日に三試合ずつ組まれている。二週めは日曜に三試合で、それが終われば四強が決まる予定だ。海外チームはいきなり四強入りが決まっていて、あとの十二チームで残る三つの席を争う。
 決勝戦は四週め、いまからおよそ一か月後となる。決勝まで順調に勝ち進めば、史奈たちが出場するのは四試合だ。
 その間、敵の策略にはまらぬよう、気を引き締めなければならない。
「長栖諒一さんと長栖容子さんはウルトラマラソンでおなじみですが、私たちはルナさんについて何も知りません。そもそも、彼女はどういう経緯でアテナ陸上のチームに参加するのでしょうか」
 こげ茶のジャケットを着た中年の記者が尋ねると、会場の記者たちが大きく頷いた。
「ルナにつきましては、私たちから何も申し上げることはありません」
 監督が、目に緊張をひそませて応じた。
「個人情報のいっさいを公表しない約束で、彼女は我々のチームに参加しています。彼女がこうした形で競技に参加することについては、ハイパー・ウラマの運営事務局に許可を得ています」
「素朴な疑問なんですが」
 先ほどの記者が続ける。
「彼女のメイク──と言うのでしょうか、しっかり顔立ちが隠れているので、もし別人と入れ替わっていても、僕らにはわからないんじゃないかと思うのですが」
 監督がほほんだ。
「彼女が全試合を通じて同じ人物であることは、チームメイトや私が保証しますが、もし別の人間に入れ替わっていたとしても問題はないというのが、ハイパー・ウラマ運営事務局の見解です。控え選手を用意するチームもありますしね」
「私は、ジェンダーという面で興味深いチームだと考えています。他はすべてが、男性ですよね。アテナ陸上は、三人のうちふたりが女性です。ハイパー・ウラマはそうとう激しい攻撃を許される競技のようですから、女性が多いと不利ではありませんか」
 その質問は史奈にとっては予想外だったが、監督には想定の範囲内だったようだ。とっておきの笑顔で、監督は自信たっぷりにマイクを握った。
「その答えは、ぜひとも試合でご覧になってください。バランスの取れた理想的なチームです」
 記者たちはまだまだ聞きたいことがあるようだったが、その質疑をもって、会場に記者会見終了のアナウンスが流れた。史奈たちは起立して一礼し、先に会場を出た。三人とも、ひとことも話さなかったが、これもあらかじめ決めた通りだった。声は本人を特定しやすい。だから史奈は黙っているつもりだったが、諒一と容子がマイクを握ると、ルナが話さないことが目立ってしまう。今日は監督ひとりがスポークスマンを務めることで、史奈を守ってくれたのだ。
「ふい~、終わった! 肩が凝った」
 控室に戻ると、諒一がバンザイして首を回した。大人っぽくなったように見えても、諒一は諒一だ。
「方喰さんが来ていた」
 容子が冷静に呟き、こちらを見たので、史奈もそれにこたえて頷いた。
「私も見かけた。私だと気づいたみたい」
「えっ、マジで?」
「史奈、心配いらない。方喰さんなら、他言無用と言えば黙っててくれると思う」
「そうかなあ。俺たちが決勝に残ってみろよ、ルナの正体なんて特ダネじゃん」
「ハイパー・ウラマに、そこまでのニュースバリューなんかないでしょ」
 ニュースバリュー云々うんぬんより、方喰記者は諒一と容子の大ファンなので、ふたりが書くなと言えば書かないとは思う。だが、方喰が気づいたということは、ニュースなどでルナの正体に気づく人間が、他にもいるだろう。
「気づかれても、認めなければいい」
 史奈はそう口にしてから、自分のそっけなさを反省して言葉を続けた。
「正式に認めない限り、ルナの正体をマスコミが書きたてることはできないはず」
「──まあ、マスコミはね」
 容子が渋い表情で頷く。今はSNSの時代だ。若い世代は特に、テレビや新聞のニュースより、SNSに流れる情報を頼りにしている。デマやうわさの域を出ないものが、少なからず存在するとしてもだ。
 何を書きたてられるかわからないという状況は、あまり気分が良くないものだった。
 控室の鏡に、ルージュで唇とOKサインを描いた付箋が貼ってあった。遥はもう立ち去っていたが、彼女の激励だろう。
 自然に口元がほころぶ。
 ──遥は芯の強い女性だ。
 自分の生きる道をしっかりと選び、目標に向かってまいしんしている。迷うばかりの史奈には、それが少しうらやましい。
「みんないる?」
 ノックとともに、カーヴァー監督が控室を覗いた。記者会見でも感じたが、ひたむきな情熱とユーモアをあわせ持つ、バランス感覚にすぐれた人だ。彼がチームを率いてくれるのは、史奈にとってもありがたいことだった。
「合宿所まで、バンで行くよ。準備ができたら乗ってくれ」
 アテナの創業家である諏訪家がしんしゅうに持つ別荘を、合宿所にあてたと聞いた。長栖兄妹は、これから一か月と少しの間、そこで寝泊まりしながら鍛錬を行う予定だ。
「監督、申し訳ないですが私は合宿には参加できません」
「ああ、聞いているから心配しないで」
 監督は動じない。
 史奈がふんする第三の競技者「ルナ」は、正体不明だ。だが、これから一か月以上、史奈が大学に行かず行方をくらませば、長栖兄妹との関係を知る人たちには、「ルナ」の正体は自明の理となるだろう。表向き、「ルナ」は長栖兄妹とともに合宿に参加していると公表するが、史奈はふつうの大学生の生活を続けるつもりだ。
 ただし、警備会社の夜勤のアルバイトは、試験が近いという理由で、週二回に減らしてもらった。もともと、学生なんだからもっと休めと言われていたこともあり、問題なく受け入れられた。いい職場だ。
「くれぐれも気をつけて。相手はどんな手を使うかわからない。ドーピングより、もっと危険な目に遭うかもしれない」
「はい。充分、注意を払います」
 ごく一般的な相手なら、たとえ格闘であっても負けない自信はある。だが、そう思うそばから、祖母のきり𠮟しっが頭の中で響く。
(史ちゃん、おごるべからず。慢心はどんな弱気よりも人間を堕落させるんやで)
 祖母はよく𠮟る人だった。厳しかったが、それはもちろん、史奈が〈梟〉の生をまっとうできるようにとの配慮からだ。
 いつか、たったひとりになっても、史奈が立派に生きていけるように。
 いま史奈は、祖母の教えをしみじみありがたく感じる。
「そいじゃな、史奈。次に会うのは、一回戦だな」
 諒一が軽い口調で言い、手を振った。容子と史奈は無言で目を見かわし、かすかに顎を引いた。それだけで、お互いの言いたいことはよく伝わった。
 ──私たちは、必ず勝つ。
 合宿所に向かう彼らを見送り、史奈は鏡の前のスツールに腰を下ろす。
 遥が描いてくれた、精妙な蝶の図案に目を凝らす。それは、息を吞むほどよくできていた。自分の顔に見入る趣味はないが、史奈はしばし、蝶に見とれた。
 それからクレンジングクリームを手に取り、濃いメイクを丁寧に落としていった。

(続きは『梟の好敵手』にてお楽しみください)

プロフィール
福田和代(ふくだ・かずよ)
1967年兵庫県生まれ。神戸大学工学部卒業後、システムエンジニアとなる。2007年『ヴィズ・ゼロ』でデビュー。大型新人として一躍脚光を浴びる。著書に『TOKYO BLACKOUT』『オーディンの鴉』『迎撃せよ』『怪物』『緑衣のメトセラ』『堕天使たちの夜会』『黄金の代償』『バベル』『ディープフェイク』など多数。

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第二巻『梟の胎動』

第三巻『梟の好敵手』

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