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メソポタミアのボート三人男 第十一回/高野秀行

【第十回】

5-3 ディープグルメVSディープヒストリアン

 われらがレザンはかつて「俺はシティボーイなんだ」という衝撃の‟告白”を行った実績の持ち主だが、ギョベクリテペを訪れる前に泊まったシャンルウルファの町でも同じくらい驚くべきカミングアウトをした。
「いいか、タカノ、ヤマダ。俺はグルメだ。しかもふつうのグルメじゃない。ディープグルメだ」
 自分でグルメを名乗る人にもまれなのに、ディープグルメと来たか!
 しかし、いったい突然なんなのか?
 彼が言うには「俺は食事に飽きた」。私たちが川旅のために行く場所は田舎ばかりである。食堂のご飯は豆や野菜の煮こみ料理を中心とした家庭料理であり、たまに町のレストランへ行けばケバブばかりだった。私たちはクルド/トルコの煮こみ料理は好きだったものの、さすがにケバブは飽きてきたから気持ちはわからないでもない。
 そして、久しぶりに人口九十万人あまりの大都市シャンルウルファに来て「俺はディープグルメだ。やっと俺を満足させてくれるレストランのある場所に来た」と宣言したのだ。
 彼は日頃、裕福な観光客の相手をしているから、高級なホテルやレストランについては詳しい。ここギョベクリテペで私たちが泊まったホテルも、オスマン時代のキャラバンサライ(隊商宿)をモチーフにしたお洒落な宿であった。
 ところがである。「ここはとても評判がいい」とレザンに連れて行かれたレストランはインテリアや通りを見下ろす眺望こそよかったものの、肝心の料理がなんともえない。トルコ/クルド料理を変に洋食っぽくアレンジしているせいだろう。今回の旅で食事が美味くないと思ったのは初めてだった。
 レザンは料理に失望したうえメンツをつぶされ、ゲジゲジ眉毛を寄せに寄せまくった。おまけに翌朝、彼は顔色が悪かった。「下痢している。昨日食べた生野菜のサラダのせいだろう」と言う。
 ディープグルメ無惨! おかげで彼は、最古の人類文明遺跡であるギョベクリテペでも大半の時間をエアコンの効いた車の中で横になって過ごし、私たちが興奮冷めやらぬ顔で戻ってきても、ほぼ無言で車を発進させた。
 次の行き先はシャンルウルファから東へ二百キロほどにあるマルディンという町。ただし、そこで何もする予定がなかった。
 私はあくまでにわか文明史ファンなので、最古の栽培植物起源地と最古の巨大遺跡を訪れると、ネタ切れになってしまった。あとはティグリス川下りの起点であるディヤルバクルへ戻るのみ。でも、同じ道を通りたくないし、レザンが「マルディンは美しい町だ。食べ物も美味しい」としきりに言うからだ。もっともディープグルメの評判は昨日の時点で地に落ちている。
「シャンルウルファでも君はそう言っただろう?」私が茶化すと彼はじろりとにらんだ。
「マルディンは絶対間違いない。俺は最高の店を知っている」
 ディープグルメと言い争ってもしかたないし、何も期待せずマルディンへ向かった。
 道路はほぼ直線、土地はひたすら平原。今まで、どこまでも波を打つような丘や山が続くアナトリア高原に慣れきっていたので、真っ平らであること自体が新鮮だ。そしてそこは広大な農業地帯であった。ユーフラテス川に作られたトルコ最大級のダム、アタテュルクダムから引いた水路を利用し小麦や綿花などが栽培されているようだ。トラクターの販売所があったが、トラクターがあまりに巨大で驚く。後輪の直径が身長一七五センチの隊長より長い(高い)のだ。いかにこの平原が豊かなのかわかる。
 この辺を舟で旅してみたかったなと思う。景色も人の暮らしもちがうだろう。だが、なぜかアナトリア高原の南側には(水路をのぞくと)舟で航行できるような川がなかった。
 マルディンは平原にボコンと突き出た岩山の上に作られた町だった。標高は約一〇〇〇メートル。周囲は標高五〇〇メートルぐらいだから、岩山は五〇〇メートルほどの高さがありそうだ。トルコ/クルディスタンのたいていの町がそうであるように、ここの歴史も古い。一説によれば、三〇〇〇年前には砦か集落が築かれ、三世紀にはクリスチャン(東方正教会)のアッシリア人が町を作った。
「マルディン」はアラム語で「要塞」を意味するという。アラム語とはアラビア語(アラブ語)と近い言語で、二〇〇〇年前にイエスが用いていた言葉もアラム語である。昔からこの周辺に住むアッシリア人は今でもアラム語を話している。
 急な坂道を上っていくと、石畳の狭い道路の脇に石造りの建物がびっしりと立ち並ぶ町が現れた。狭い道路は乗用車やバス、タクシーなどで大渋滞していた。ここはイスタンブルを中心にトルコ各地から、さらには世界中から旅行者が訪れる観光地であり、今はバカンスシーズンなのだ。
 古いキャラバンサライを改装したお洒落なホテルに宿をとると、早速、昼食。だが、またディープグルメの期待を裏切る事実が発覚した。私たちの到着が遅かったせいもあるのだろうが、彼の知る「最高のレストラン」を含め、多くのレストランでは、夜こそ豪華ディナーを用意しているものの、この時間はどこもケバブしかないという。

ウィンドケースに並ぶケバブの食材

 下痢が続いていて、またしてもケバブを食べるハメになったディープグルメは口数も少なく、食べ終わるやいなや、そそくさとホテルへ帰った。私たちはトルココーヒーを飲みながらくつろいだ。
 ここは標高が高いだけあって風が涼しく、なにより眺望が素晴らしい。シリアに続く平原が何十キロの彼方まで見渡せる。陽炎かげろうじんがなければ、シリアの都市まで見えそうなほどだ。私たちはアナトリア高原の南端にいるのだ。
「こことギョベクリテペはそっくりやな」隊長が不意に言った。
「え? 見晴らしのいい高台ってことですか?」
「それもあるけど、アラビア半島がユーラシア大陸にぶつかってできた地形って意味や」
 いったい何の話をしているのか?といぶかった。半島と大陸がぶつかる?
 でも、隊長は私の不審な表情に気も留めず、英語のABCを教えるようにごく当たり前の口調で話し出した──。
 アナトリア高原ができた仕組みはヒマラヤ山脈ができた仕組みと基本的には同じである。
 インド(亜大陸)はもともとユーラシア大陸から離れて存在したが、あるときユーラシア大陸とインドがぶつかった。そのときの衝撃で盛り上がってできたのがヒマラヤ山脈。ぶつかった部分はかつて浅い海の底だったから、ヒマラヤには石灰岩が見られる。石灰岩は生物の死骸が堆積したものだ──。
 おお、大陸移動説か。それなら私も知っている。現代ではプレートテクトニクス理論とも言われる。大地のプレートが長い時間をかけて離合集散し、結果として現在の大陸を形作った。
「ここもそうだ」と隊長は言う。アラビア半島(アラビアンプレート)は、かつてアフリカ大陸にくっついていたのが、ある時期にアフリカから分離し、ユーラシア大陸(つまりユーラシアプレート)に衝突した。そのときぶつかって盛り上がった部分がアナトリア高原。
「ユーフラテス川の源流のところに石灰岩の石を切り出す場所があったやろ?」と隊長はくが、全く憶えていない。黙っていると隊長は決まり文句を放った。
「歯が痛い者しか歯医者の看板は……」
 またそれか! 無念だ。しかし言いたいことはわかる。石灰岩が採れるということは、かつて海の底だったことを意味するわけだ。
「火山があるのもプレートがぶつかっている証拠やな」と隊長は続ける。
 複数のプレートがぶつかっているところは地球のマントルの裂け目となるから、火山ができやすい。地殻内のマグマが割れ目から噴出するのが火山なのだ。そのよい例が日本列島で、三つのプレートがぶつかっている場所に存在するから火山が多く、同時に温泉にも恵まれている。
 ここ上メソポタミアも火山地帯だ。源流部に温泉があったのもそれが理由。カラジャ山も火山だ。トルコからイランにかけては地震がとても多いのもここがプレート衝突地域である証拠だという。
「ぶつかった衝撃で盛り上がったところはしわが寄るんだ。ぶつかったのと垂直の方向にな。ヒマラヤもそうやし、ここもそう」
 プレート(板)の次はしわ? ポカンとしている生徒を前に先生は淀みなく語る。
「川でわかるやろ。俺たちが今まで下ってきた川はみんな、東西に流れてたやろ。アラビアンプレートとユーラシアプレートが南北の方向にぶつかったから、東西にしわができた。川はそのしわを流れている。でもときどき水があふれて南側へ落ちる。そういう場所は山を乗り越えるから急流。今はダムができているか、激流かどっちかだ」
「ほんとだ!」
 トルコ領内(アナトリア高原の)ユーフラテス川は本流も支流も大半が東西に流れている。私たちが下ってきた源流の川、ムラト川もそうである。いっぽう、南北の流れは本流支流問わずダムだらけだ。
 ムンズル川は東西に流れている部分だけ下ることができた。南北に流れている部分は見事に急流で、私たちは避けざるをえなかった。このあと下る予定のティグリス川本流もトルコ領内は主に東西を流れている。部分的に南北の流れもあるが、そういうところはことごとく急流かダムができている……。
 なんてこった! 私たちはプレートテクトニクス理論に従って旅をしていたのか。
 町でこれを訊いても「へえ……」としか思わなかったかもしれないが、なにしろ私たちはひたすら東西に川旅を続けてきたし、今目の前に、まっすぐに切り立った崖があり、その下は地平線の彼方まで平地なのだ。
 ギョベクリテペもマルディンもぽっかり突き出た丘(山)に見えるが、実は隆起部分が長年にわたって雨風によって浸食されたため、アナトリア高原の南端ラインが不規則なギザギザになり、硬い岩盤部分が取り残されて岩山のようになっているのだった。この真下にアラビアンプレートがもぐりこんでいるということか。

アラビアプレートの移動

 私は文明史に惹かれていたものの、なにしろ初心者なので、持っている知識がバラバラの点でしかなく、線になってつながっていない。でも隊長はそれこそディープな歴史愛好者なので、さまざまな事物が線どころか面や立体でつながって見えるらしい。実際に隊長の歴史語りはまだ続く。
「肥沃な三日月地帯って知ってるやろ? あれ、なんで肥沃か知ってるか?」
 もちろん肥沃な三日月地帯は知ってはいる。ティグリス=ユーフラテス川からパレスチナにかけては、古代から土地が豊かで、だから古代メソポタミア文明が栄えたなんてことを歴史の授業で習ったおぼえがあるし、本でも読んでいる。でも、どうしてそこが肥沃なのかなんて考えたこともなかった。
「プレートがぶつかって隆起したから、そこにモンスーン(季節風)がぶつかって雨を降らすんや」
 地球の自転によりアフリカ大陸からユーラシア大陸へ「南西→北東」の向きに風が吹く。それがモンスーンだ。風は地中海を通るとき湿った空気を吸い込み、アナトリア高原の山にぶつかって雨や雪を降らす。だからアナトリア高原はもちろん、そこで降った雨や雪が川となって流れるため、下流の平原部も肥沃になる。
 ちなみに、アラビアンプレートが直撃した部分であるアナトリア高原では東西に隆起としわができたが、その右側と左側はしゅうきょくの作用で斜めに盛り上がっている。右側(東)にできたのがイランとイラクの国境となっているザクロス山脈、左側(西)にできたのがレバノン山脈だ。だから、上から見ると三日月(弧)を描いているように見える。そこに雨が降り、川が流れる。
「だからこの土地は豊かなんよ」と隊長はしみじみとした口調で言う。「ギョベクリテペができたのもそれと関係あるやろな……」
 ディープヒストリアンの隊長はアラビアンプレートの上に広がる平原を眺め、にわか文明史ファンの私は言葉を失った。
 うーん、参った。肥沃な三日月地帯がどんなメカニズムで肥沃かなんて考えたこともなかったが、今はっきりとわかる。メカニズムが目に見えるからだ。
 マルディンの町は白い石で覆われている。白い石にはレリーフが施されていることが多い。「これも石灰岩やろな。海の底だったんだよ」
 目からうろこという言葉があるが、このときの私はそんなレベルではなく、心底感動した。歴史──それも何億年という単位の──を体感したからである。
 私たちがアナトリア高原の南側を舟で旅できない理由も明らかになった。それはしわがないためである。私たちの舟旅は人類史とは比べものにならないほど古い「巨大な黒幕」に支配されていたのだ。 

 ディープヒストリアンに圧倒された後、意外にもその次には「ディープグルメ」に圧倒されることになった。レザンが言うように、マルディンの食は並みではなかった。
 最初の晩は、アラビアンプレートの平原に瞬く「百万トルコリラの夜景」(隊長談)を見ながらクルドの代表的な料理の一つ、「ゴシュト・セレ」を堪能。丸くて浅い鉄板で羊肉を焼いた後にトマト味で煮込んだもの。弾力がありつつも柔らかい肉をかむと、肉汁とトマトの風味が口の中に広がり、アナトリアの雄大さと豊かさを感じてしまう。
 次の日の夕食はさらにゴージャス。
 マルディン名物に「メゼ・タバ」という前菜盛り合わせがある。シルバーの大皿にこれまたシルバーのカップに入った前菜がぐるりと並ぶ。ナスのディップ、ヒヨコ豆のペーストなど定番的な前菜が多いものの、見た目の美しさも相まって、劇的な美味さ。
 さらに酒。トルコ東部(クルディスタン)ではレストランで酒を提供する店はめったにないのだが、ここマルディンではビールもワインもOK。もともとキリスト教徒のアッシリア人の土地だからだろう。今回の旅ではデルシムで一度だけ缶ビールを飲んだ以外は断酒していた。村の人も飲んでいないようだし、無理して入手するのは諦めていたのだ。ところがここは酒があるのみならず、アッシリア人の作る地元のワインを飲める。
 熟成されたヨーロッパのワインとちがい、絞りたてのようにフレッシュで、瑞々みずみずしい刺激が胃腸を走り、全身の血管を走り抜けるよう。こんな美味いワインがあるのか? と恍惚こうこつとなっていたら、メインディッシュの「カブルガ」がやってきた。羊肉のリブをハーブや調味料で味付けしたあとオーブンで焼き、ナッツを添えたクルド料理の逸品だ。赤身なのか脂身なのかわからないほどジューシーな羊肉が口の中でほろほろと溶けていく。
 今度は「ああ、こんなに美味い肉があるのか?」と思ってしまう。
 感動していたのは私だけではない。隊長も感心しきりで、「ここに一度家族を連れてきたい」と言った。私はこれまで隊長といろいろなところを旅してきたし、中には眺望や雰囲気や食べ物が素晴らしい場所も少なからずあったが、隊長がこんなことを言ったのは初めてだ(以後も聞いたことがない)。
 私たちがマルディンの美食に圧倒されているのを見て、黒ずくめの太ったディープグルメは久しぶりに王様らしい鷹揚おうような笑みを浮かべていたのだった。 

干し野菜(セブゼイエン・フィシク)

5-4 火と水の都ディヤルバクル

 人類文明発祥の地をめぐる壮大な‟箸休め”の旅を終え、私たちは川下り第三部の起点であるディヤルバクルへと向かった。
 レザンはいつものように車内でクルド音楽をかけている。でも、いつもと違い、もの悲しい旋律ではなく勇壮な歌声が響いていた。それもそのはず、「アーメドを守れ!」というクルディスタン労働者党(PKK)の歌であるという。「アーメド」とはクルド語でディヤルバクルを指す。
 ティグリス川の岸辺にあるこの町は一体いつ作られたのかわからないほど古い歴史をもつという。四世紀にローマ帝国の属州となってから本格的な都市が形成され、その後、ペルシア、ビザンチン、アラブ、トルコなどの諸王朝がこの都市を奪い合った。オスマン朝時代には宿敵ペルシアに対抗する戦略上の拠点として繁栄し、今ではトルコ共和国南東部の中心地となっている。そして、クルド人はここを「クルディスタンの首都」と呼ぶ。
 トルコ、イラン、イラク、シリアにまたがる広大なクルディスタンにおいて最も由緒があり、最も大きい町なのだ。と同時に、クルド民族主義やクルディスタン解放運動の中心地でもある。
 クルド人独立運動の歴史は二十世紀初頭まで遡れると聞くが、なんといっても重要なのは、PKKが一九七八年、この町の近郊で結成されたことだ。だから、今でもディヤルバクル及びティグリス川流域ではPKKの支持率が高いらしい。シティボーイにしてディープグルメのレザンが熱心なシンパであるのも、一つには彼がディヤルバクルの下流にある町バットマンの出身であるからかもしれない。
 PKK応援ソングを聴いていると、これまで文献やクルドの人々から聞いてきたトルコ政府と軍による容赦ないクルド人弾圧やPKKとの激しい戦闘の話を思い出さずにはいられない。レザンによれば「三年前(二〇一五年)のトルコ軍とPKKの戦闘でたくさんの兵士や市民が犠牲になり、町の半分以上が破壊されたんだ」という。おかげで脳内にはすっかり「陰鬱で半分廃墟のような町ディヤルバクル」のイメージができあがってしまっていたのだが、到着したら全くちがったので度肝を抜かれた。活気があり、古都らしい華やかさが横溢おういつしている。雰囲気も独特だ。
 正直言って、これまで見て来たクルディスタンの町は、トルコ人主体の町と比べて、どこがちがうのかわからなかった。外国人旅行者には、クルド人の町だとは気づかないくらいなのだ。でも、ディヤルバクルは他のトルコ/クルディスタンの町とははっきり異なる。というより、世界のどの都市にも似ていない異世界感に満ちていた。
 まず、町が「黒い」。旧市街は黒石を用いた巨大な城壁で囲まれている。ガイドブックによれば「玄武岩で作られ、厚さが三〜五メートル、高さが八〜十二メートル」という威圧感に満ちたもの。城壁の長さは合計約六キロで、町を取り囲む城壁としては世界最大級らしい。
 城壁の内側(旧市街)も同じように黒が基調だ。古い建物や石畳の道路がギラギラ照りつける太陽に反射して黒光りしており、この都市に流れた年月と歴史の重みを醸し出していた。なお、「ディヤルバクルの城塞と(それに隣接する)ヘヴセル庭園の文化的景観」は世界文化遺産にも登録されている。
 ホテルに荷物を置き、町を歩くと、他の地域では不明瞭だったクルディスタンの伝統文化が次々と目に飛び込んできた。
 例えば、ディヤルバクル最大のモスク、ウル・ジャーミー。モスクはふつう、白系統の石で作られるのに、ここは黒がベースだ。しかもミナレットは四角くてロンドンのビッグ・ベンのよう。独特のデザインである。お祈りの前に体を洗う場所は、日本のお寺の水場を連想させる。これまた石の黒さのせいだろう。
 モスクには、股の部分が膝下まで垂れ下がった奇妙なダブダブのズボンを穿いたおじいさんが何人かいた。絵本に出てくる「山賊」を思い出してしまう。こんな妙なズボンはクルディスタンでも世界のどの地域でも見たことがない。レザンにくと「クルドパンツだ。以前は穿くのを禁止されていた」という。二〇〇〇年以前は、トルコではクルド語を話すことのみならず、クルド風の服装も禁止されていた。今は許容されるようになったが、あまりに長期にわたって禁じられていたため、穿く習慣をもつ人自体がいくらもいないようだ。ディヤルバクルの旧市街のみ、年配の男性が穿いているらしい。
 町は黒一色ではない。鮮やかな白石を用いた建物も目を惹く。
 モスクの近くには十五世紀に建てられたカジ・キョシュクという民家が保存されていた。ここでは家の壁は黒い石と白い石が格子模様のように組み合わされている。「黒は男、白は女性を示す」と英語の説明書きがあった。ようするに〝マリアージュ〟の暗喩らしい。それを日本語に訳して隊長へ伝えたら、ナチュラリストにしてディープヒストリアンの隊長は「黒い方の石はカラジャ山の溶岩でできた玄武岩やろ。白は石灰岩やな」と鋭く指摘した。
 カラジャ山!!
 不意打ちを食らった気分だ。もう歴史編は終わったことだし、すっかり忘れていた。でも考えてみれば、「黒い石は玄武岩」とガイドブックに書いてあったではないか。玄武岩とは火山岩の一種で、この辺で火山と言えば、カラジャ山しかない。さらに石灰岩。それは「歯医者の看板……」の警句とセットで隊長から何度も聞かされたように、昔、海底だった場所で生じた岩である。

カラジャ山断面図

 なぜ、その二つの岩(石)があるのか。それはアラビアンプレートとユーラシアプレートが衝突したから──という大陸移動説再びなのである。黒と白の組み合わせは、人類が生まれるはるか前に行われた「火」と「水」のマリアージュなのだ。
 黒と白の石の建物はいくつもあれど、調和が最も美しいのは「ハッサンパシャ・ハヌ」だ。かつてのキャラバンサライ(隊商宿)は、今ではきれいに改装され、庶民と観光客の憩いの場として利用されている。建物の中は二階建ての豪壮な建築で、広い中庭を取り巻く一階と二階は、モスクのようなドーム状のバルコニーで縁取られ、アラビアンナイト的な美しさに溜息が出てしまう。天井は白い布で覆われていて、取り外しが可能らしい。雨風と日差しを防いでいるのだろう。
 ディヤルバクルは日中の気温が四〇度を越すこともあるが、湿度が低いので日陰にいると意外にしのげる。しかも、ここはミストも施され、さらに涼しく、かつお洒落。
 私たちが二階バルコニーのカフェでトルココーヒーを飲んでいると、すぐ下で、いかにも伝統衣装っぽい、飾りのついたレースの布をかぶった女性グループが水パイプをくゆらせていた。じっと見ていたら、彼女たちと目が合ってしまった。嫌がられるかと思いきや、笑顔でこっちに手を振る。下りて行って一緒に写真撮影。ディヤルバクルの人は気さくな人が多い。
 ハッサンパシャの外側には、例の山賊風ダブダブズボンを穿いた年配の男性が大勢いた。タクシーのドライバー、店で食べ物を売っている人、荷車を押している人……。
 乾物屋があったので、私たちは明日から始まる川旅用にと、ナッツと干しぶどう、小麦粉を練った菓子、ドライイチジクを買い込んだ。これこそ、昔の旅人が食料としてたずさえていたものだろう。正しいキャラバンサライの利用法である。
 町歩きを終えて、川を見に行った。ディジレ(ティグリス)橋と呼ばれる優雅な橋がかかっている。
 隊長が川辺を指さして、「チュージョーセツリじゃないか」と言う。
 何語かと思ったら日本語だった。柱状節理。天然の水晶の断面のような、多角形のギザギザが見える。溶岩流が急激に冷えて固まるときに,溶岩の体積が収縮し,そのために規則的な割れ目ができたものだという。結晶化の一種らしい。

柱状節理

 ここで再び、隊長の自然観察力が炸裂した。
「あれを見るとわかる。カラジャ山の溶岩は富士山とちがって粘性が低いんよ。あまりドロドロしていないから、遠くまで流れる。同じ火山でも富士山の溶岩は粘性が高いから、そんなに遠くまで流れないし、山もあれだけ高くそびえている。カラジャ山の溶岩はここまで流れて、ティグリス川の水で冷やされたんやろ。それでここにでっかくて平べったい岩盤ができた……」
 ディープヒストリアン恐るべし。シャーロック・ホームズのように観察と推理で物事の本質を見抜いていく。
 ディヤルバクルが古都であり、現在世界遺産に指定されているのも自然が基盤なのだ。
 厚い岩盤の上だから、川のほとりにあるにもかかわらず洪水の被害にあいにくい。火山岩がふんだんにあるから城壁や建物の材料にも事欠かない。防御にも最適だ。それだけではない。メソポタミア北部(ティグリス=ユーフラテス川源流部)は地震地帯でもあるが、こんな頑丈な岩盤の上なら地震の被害も小さいにちがいない。そして、川のそばだから、飲み水にも困らず、農業や牧畜にも適し、ゆったりとした川が流れているから、交易も盛ん……といいことずくめなのだ。
 カラジャ山のふもとで人類最古の農耕が始まった可能性ありと聞いて訪ねてみたわけだが、この山は私が想像するよりずっと深い意味を秘めていた。小麦や大麦の栽培が始まったのも、人類最古の大型宗教施設が作られたのも、カラジャ山の溶岩が流れた土地の上である。ここに生まれた文明の芽は下流へ下り、ティグリス=ユーフラテス川合流点付近の湿地帯で花開いた。
 のみならず、カラジャ山とティグリス川のおかげでクルディスタンの首都も成立していた。人が集まる絶好の場所。立てこもるのにもってこいの要害。みんながほしがる立地。ときには戦闘の被害にも遭う町。
「火と水のマリアージュでできた町だったんですね!」今更のように私が興奮して言うと、隊長はにやりとした。
「老子も言っとる。人は地にのっとり、地は天にのっとり、天は道にのっとり、道は自然にのっとるってな」
 人の生活は土地に左右され、土地は太陽、気温、雨風といった気象条件で作られ、気象は物理や化学の法則に従い、科学は大宇宙の法則に定まる……といったところだろうか。
 いやはや、参りましたというしかない。
 ディープヒストリアンの名推理に驚かされたあとは、ディープグルメに再度、猛攻を食らった。ディヤルバクルはマルディンに負けず劣らず料理が美味い。あるいはレザンの選ぶ店やメニューがいいのかもしれない。
 ディヤルバクル名物はジゲル・ケバブ。かつては労働者が朝、仕事の前に安くて栄養のある羊のジゲル(レバー)を食べた。それがやがて市民のランチの定番になったという。日本人はレバーと聞くと、「こってりしている」とか「臭みがある」と思いがちだが、ここのレバーは朝屠畜した羊のものだ。鮮度の高いレバーはむしろ爽やかである。アフリカのソマリランドでは朝食にヤギのレバー炒めを食べる習慣があり、それもまた屠畜したての肉だから恐ろしく新鮮で美味かった。ディヤルバクルのジゲル・ケバブもそれに匹敵する。熱々の肉はプリプリしているのに歯を立てるとすっとゼリーのように切れて舌の上に転がり落ちる。そのうま味と香ばしさ。
 レザンは串の肉をナンで包み、そこから串を一本ずつ引き抜いて食べる作法を見せた。「こうすると、肉が冷めないだろ」。さすがディープグルメである。
 晩に訪れたクルドの家庭料理のレストランにも驚かされた。料理自体は見たことのあるものながら、どれも洗練されている。心底感動したのはマルディンでも食べた仔羊のリブロース煮込み「カブルガ」。この店では煮込んだあと、オーブンで焼いていた。二度、異なる方法で調理しているから肉の柔らかさやジューシーさが尋常ではない。付け合わせの米もハーブが効いていて味に深みがある。
「ひゃ〜!!」 不意をかれて、変な甲高い悲鳴が出てしまった。三十数年間、世界各地を旅してきた私だが、これほど美味い肉料理はないんじゃないかという気がする。
 でも、実は、私はまだまだわかっていなかった。この旅のあとで、ディヤルバクル出身の人たちと話をしたら、驚いたことに、ディヤルバクルの異世界感を構成する諸要素の裏に「カラジャ山」が潜んでいたのだ。
 まず、年配の人たちが穿いているダブダブの山賊ズボン。ディヤルバクルでは「シャルワル・カラジャダー(カラジャ山のズボン)」と呼ばれているという。なぜかというと、カラジャ山は遊牧民の土地として知られ、このズボンはそこの羊の毛で編んだものだからとのこと。私たちは今回カラジャ山周辺でほとんど遊牧民を見ていなかったが、それは単に今が真夏であり、彼らはもっと涼しいデルシムとかワンの方に行っているせいだった。本来は遊牧民の地なのだ。ハッサンパシャで一緒に記念写真を撮った女性がかぶっていた飾り付きの布は「チット」と呼ばれ、それもまたカラジャ山の遊牧民のスタイルなのだという(似たようなかぶりものはクルディスタン全域で見られるようだが)。
 さらに、私に変な悲鳴をあげさせたカブルガにもなんとカラジャ山が関係していた。付け合わせの米はカラジャ山でとれたものだという。カラジャ山は雨や雪が降るので、水が豊か。乾燥したクルディスタンでは極めて珍しく、山の近くではなんと稲作が行われている。ディヤルバクルのカブルガはその「カラジャ山の米」を使うのがしきたりらしい。私たちが食べたカブルガは、肉と米を別々に調理していたが、最も本格的な料理法では、リブロースの中に米を詰めて糸と針で閉じ、それを煮込んだりオーブンで焼いたりするらしい。うわあ……と聞くだけで生唾が湧く。食べてみたらどんな悲鳴が出るかわからない。
 さらに、ディヤルバクルではカラジャ山からの地下水を飲み水にしているという。その水は人々の喉を潤した後、ティグリス川へ流れて行くのだろう。カラジャ山は人類の文明史に大いに貢献したばかりか、今でもクルディスタンの首都を支えている。まさに隊長、いや老子の言う「人は地にのっとり……」である。 

 ……こういうふうに書いていくと、この旅も格調高くなった感じがする。でもそれは錯覚だ。その証拠にディヤルバクル滞在中はこんな珍事があった。
 昼食後、私はちょっと気が向いて、ホテルの向かいにある床屋に出かけ、髪を切ってもらった。意外に丁寧な仕事ぶりには感心したものの、間違って口髭くちひげをそられてしまったのは失敗だった。ただでさえ日本人はクルド人やトルコ人に異常に若く(幼く)見られるのに、口髭がないと童顔の私は子供のように見えてしまう。ホテルに戻って鏡を見て何度も「あーあ」と溜息をついた。
 でも隊長には私がさっぱりした様子に見えたらしい。「お、ええな。俺も行ってくる」と床屋にでかけた。小一時間して帰って来るなり、「いや、ひどい目にあったぞ!」と目を丸くして言う。
「髪を切ったあと、身振り手振りで、耳の毛を処理するかと訊くから、じゃあ、頼むと言ったんやけど、床屋の人がな、ガスバーナーみたいな火を持ってきたんや。ガスバーナーやぞ、その火で耳をあぶりよる。熱くて熱くて。おまえ、ほんまに火やぞ。『あち! あち!』と叫んじまった……」
 それだけではない。
「頭を洗うときはお湯じゃなくて冷たい水で、そっちはなぜか知らんけど、えらい冷たいんや。『うわっ、冷てえ、冷てえ!』と叫んじまった……」
 後から思えば、その冷たい水はカラジャ山から引いてきた地下水なのかもしれない。
 隊長は期せずして、火と水の都を床屋で体感したことになる。店の中でぎゃあぎゃあわめきながら。
「まさに火攻め、水攻めや!」と真顔で訴える隊長は、昼間にこの都市の成り立ちを自然地理的に読み解いた賢者とは別人、というか小学生のようで、私は笑いをこらえるのに苦労したのだった。

岩山に作られた町マルディン
マルディンのホテル
平原が大農業地帯であることを示す巨大トラクター
マルディンからアラビアンプレート(シリアへ向かう平原)を見下ろす
タバ(前菜の盛り合わせ)を堪能する高野
黒石で作られたディヤルバクルのウル・ジャーミー
かつての隊商宿ハッサンパシャ
クルドの伝統的なレース布をかぶる若い女性
ディヤルバクル名物のジゲル・ケバブ
ジゲルケバブを食べる隊長
“ディープグルメ”のレザンお墨付きのレストラン
世界最高峰の肉料理カブルガ(オーブン焼きバージョン)

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プロフィール
高野秀行(たかの・ひでゆき)
1966年東京都生まれ。『幻獣ムベンベを追え』でデビュー。2005年『ワセダ三畳青春記』で第1回酒飲み書店員大賞を、13年『謎の独立国家ソマリランド』で第35回講談社ノンフィクション賞、14年同作で第3回梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。他に『謎のアジア納豆』『アヘン王国潜入記』『巨流アマゾンを遡れ』『語学の天才まで1億光年』『イラク水滸伝』など著書多数。24年、イラクの巨大湿地帯探検の功績で山田高司と共に植村直己冒険賞を受賞。

山田高司(やまだ・たかし)
1958年、高知県生まれ。探検家・環境活動家。1981年、東京農業大学探検部在学中に南米大陸の三大河川をカヌーで縦断し、「青い地球一周河川行」計画をスタート。85年にアフリカに渡り、セネガル川、ニジェール川、べヌエ川、シャリ川、ウバンギ川、コンゴ川の旅を成し遂げる。他に長江、アムール川、黄河、メコン川、セーヌ川、テムズ川、ライン川、ドナウ川、ポー川、なども一部下る。1990年代から環境NGO「緑のサヘル」設立に参加しチャドで植林活動、1997年から四万十川の持続可能な国際モデル森林作りに参加し、2005年まで「四万十・ナイルの会」を主宰しルワンダでの植林活動。24年、イラクの巨大湿地帯探検の功績で高野秀行と共に植村直己冒険賞を受賞。

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