特別連載『梟の胎動』/福田和代 (プロローグ)
【作品紹介ページ】
プロローグ
掛けまくも畏き産土大神の大前に慎み敬ひも申さく。この宮殿を、静宮の常宮と鎮まり坐す大神の高き尊き大御恵を仰ぎ奉り称へ奉る──。
何度、この〈讃〉を唱えたことだろう。
初恋の人に出会ったときも。その人に失恋したときも。大学受験の合格発表の日も。結婚の申し込みを受けたときも。父親がまだ早すぎる生涯を閉じたときも──。
人生を左右する出来事に遭遇するたび、思わず知らず〈讃〉が口をついて出た。
私より大きな存在よ。
どうか、私に正しい道を選ばせて。
〈梟〉の子どもたちは、幼くして大人に交じり、笙や鉦に合わせて〈讃〉を詠唱させられる、そうだ。子どもの記憶力は確かだ。この年齢になった今もなお、〈讃〉は一字一句鮮やかに脳裏によみがえる。
もっとも、里で〈讃〉を唱えたことは一度もない。自分が生まれたのは、父親が里を下りた後のことだ。
ただ、自らの意志で里を離れておきながら、どこか里に未練を残していたらしい父親は、ことあるごとにひとりで〈讃〉を唱え、子どもが大きくなると、ともに詠唱できるよう教え込んだ。
──いつかおまえに、話すよ。
父親は小さな娘を膝に乗せ、口癖のように語り続けたものだ。
──おまえは〈梟〉の子や。もうちょっと大きなったら、長い、長い〈梟〉の歴史を、最初からぜんぶ教えたるからな。
それは、愛情と憎しみと、生と死の物語だ。〈梟〉の歴史を語ることは、この国の礎として闇に葬られた人々を語ることだ。
──今日は昨日のつづき。昨日はそのまた昨日のつづき。百年前も、千年前も、ずーっと、ずーっと、〈梟〉は生きていたのやで……。
いつか私は、仲間の〈梟〉に出会うことがあるだろうか。長く豊かな〈梟〉の物語に、加わることができるだろうか──。
*
榊史奈は、「それ」の点灯時間が終わるまで待っていた。
二十四時。
見上げる史奈の前で、日付の変更とともに、メタルハライドランプの白い光が消え、夜目にも涼しい銀色に輝いていた「それ」が、ひっそりと宵闇になじみ、溶け込もうとする。
しばし、あわあわとした残像の余韻に浸る。
やがて史奈は、黒いパーカを脱いで裏返し、腕に巻いたスマートウォッチに話しかけた。
「準備できた。これから始める」
『了解。気をつけて』
通信装置の向こうにいる栗谷和也が、期待と緊張をにじませた声で応答した。
鼻歌まじりの自転車が、すぐ脇の坂道を重力にまかせて転がり落ちるように走り過ぎるのを待つ。ことのほか人口密度の高い東京で、人の気配が完全に消えるタイミングはめったにない。だが、皆無でもない。
誰もいないことを確認すると、史奈はゴーグルを掛け、ベルトのスイッチを入れた。
街路樹で羽根を休めていた鳥が、今まで路上に見えていた若い女の姿が突然消え失せたのを見て、目を瞠った。
鳥には理解できなかったろうが、史奈が身に着けているパーカとスパッツ、手袋など一式は、栗谷和也らが開発した光学迷彩の戦闘服だ。スイッチを入れ、微弱な電流を通すことによって、身に着けている者の姿を透明化してくれる。
「正常に作動している」
『了解した』
「途中でお喋りに気を取られると危険だから、いったん無線を切る」
『──気をつけて』
史奈は再び首をそらして、目の前にそびえるオレンジ色の鉄塔を見上げた。
──やっと来たよ。
心の中で鉄塔に話しかける。
東京タワー。
高さ三百三十三メートルの、トラス構造の電波塔。かつては日本一の高さを誇ったが、今は東京スカイツリーに抜かれている。
だが、エッフェル塔のデザインに触発されたというタワーは、ランドマークとして今も見るべきものがある。
東京に来た時から、いつか登ってみようと考えていた。
軽く助走をつけ、背丈の三倍ほどある台座ブロックを駆け上がる。この程度の高さなら、里の野山を駆け回っていた史奈には、朝飯前だ。
東京タワーには、土日祝日のみ開放される六百段ほどの外階段もある。だが、こんなに美しく、登りがいのある鉄塔を、階段なんかで上ってしまってはもったいない。
鉄骨をどう進めば頂上まで登れるか、これまで何度も、写真を見たり、現地を訪れたりしてルートを読んできた。
そこにこの、光学迷彩服のテスト依頼だ。
ひとつめの展望台まで、百二十五メートル。ここまでは、さほど苦労はない。問題は、鉄骨の部分から大きく張り出した展望台を、どう乗り越えていくかだ。
タワーを空撮した写真を眺めて、これならと思うアイデアはあった。
──とにかく、行ってみればわかる。
彼女は、オレンジ色に塗装された鉄骨をしっかりとつかみ、腕の力と反動を利用して、身軽に登っていった。
命の危険と隣り合わせだ。だから、ある程度の高さまで登ると、腰にカラビナで提げた巻取り式の命綱を引き出し、鉄骨に引っかけて安全を確保した。
自分の限界に挑戦するのは好きだ。
限界に挑戦し続けるから、強くなれる。
一歩ずつ進むから、いつかは遠くまで行けるようになる。
だがそれは、無謀に命を懸けることを意味しない。反対に、過剰に命を惜しむものでもない。史奈は自分の命の重みを知っている。歴史の大河のなかで、今この時を俯瞰して見つめるものがあれば、史奈の存在などミジンコほどの価値もないだろう。
だが、ひとつしかない自分の命には、自分の命なりの重みがある。
だから、無駄に捨てたりはしない。
先を急ぐため、腕をいっぱいに伸ばして鉄骨をつかもうとして、支えていたほうの手が滑りそうになった。背筋に冷たいものが流れる。
(史ちゃん!)
祖母の桐子の𠮟責が脳裏に響く。
(時間は有限。せやけど、急いてはことを仕損じる)
左手だけで鉄骨にぶら下がり、史奈は微笑んだ。祖母は今も、自分のそばで見守っていてくれると感じる。
それからは慎重に進んだ。焦らない。急ぎすぎない。なおかつ自分が出せる最大限のパワーで、東京タワーを登っていく。
──もっと高く。もっと速く。
展望台までの百二十五メートルほどは、さほど困らなかった。だんだん見晴らしがよくなって、街並みが遠くまで見通せるようになってきた。
──さて、ここからだ。
展望台は、タワーの鉄骨から外側に張り出している。それを乗り越えるとまた、展望台上部から、頂上への鉄骨に登ることができるのだ。
地上から見ただけではよくわからなかったが、展望台を支える鉄骨から、展望台の先端に向かって斜めにオレンジ色の鉄骨が延びている。それに沿って先端に近づき、あとは展望台の壁面を登れるかどうか、見てみる。
──東京タワーを作った人たちだって、手作業で鉄骨を組んでいった。
一九五八年ごろの、建設中の写真を見たことがある。命綱もないのに、鉄骨に腰を下ろしてのどかに休憩している鳶職人たちが写っていた。高所にいることなど感じさせないが、鉄骨越しに見える地面の遠さが、彼らのいる高さを物語っている。
雲梯のように斜めの鉄骨にぶら下がって少しずつ先に進み、展望台の端にたどりつく。両足を鉄骨に巻きつけて身体を安定させると、ひょいと頭をもたげて展望台の壁面を見た。
ひとつめの展望台、メインデッキは、二フロアある。
つまり二階分の高さ、壁を這い上がらなければならない。おまけに、その壁が上に行くほどせり出している「逆坂道」状態なので、吸盤でもなければ身体を支えられない。
救いがあるとすれば、展望台の上に柵があって、ロープをかけることさえできれば、そのまま上がっていけるということだ。
ただ、柵までおそらく十メートルほどの距離がある。
──投げても、届かない。
なにしろ足場が悪い。
もう一度、じっくりと展望台の壁面を観察する。地上百二十五メートルの展望フロアは、四面すべて広々とした展望窓だ。強度を得るためか、格子状に桟が組まれている。
現代の科学をもってすれば、この壁面を楽に登っていけるはずだ。たとえば軍事用に、ヤモリのようにガラスや壁面を登っていける手袋が開発されている。
もしこれが「仕事」なら、迷わず科学の力を借りるだろう。失敗したくないから。
だが、それでは自分の挑戦にはならない。
史奈は自分の力でこの壁を登りたかった。ロープや命綱を使うのはいい。人間にはできることと、できないことがある。重力に逆らうことはできない。やみくもにスリルを求めているわけでもない。挑戦にスリルはつきもので、乗り越えなければならない壁だ。
縦に走る窓の桟の間隔を目算する。史奈が両手足を突っ張り、自分の体重を支えることができる距離かどうか。史奈の手足でしっかりホールドできるくらい、ガラス面から桟が飛び出しているかどうか。
──距離はなんとかなる。
問題は、桟がガラス面からほんの数センチほどしか出ていない点だ。
史奈は、手近な鉄骨に、命綱をしっかり巻きつけた。万が一の時には、ここに戻ってこられる。鉄骨に叩きつけられないよう、注意する必要があるけれど。
なるべく両足を鉄骨の先端に巻き付けて、ゆっくり上半身を起こし壁面に身体を沿わせた。展望フロアの内部が見える。もしここに誰かいても、今の史奈は透明で、誰にも見えないはずだ。
左右の窓の桟をつかんで両手を突っ張り、呼吸を整えた。
次の瞬間、鉄骨に巻きつけていた両足を外し、壁面に持ち上げた。いっきに、両腕に体重がかかる。足場を探し、どうにか桟にかけられたところで、ひとまずホッとした。
少しずつ、手足を交互に動かして、上へ上へと登っていく。今ごろ、和也は連絡を待ちながらハラハラしているだろう。
(降りる体力も残しておけよ)
ふいに、篠田俊夫の豊かな声が聞こえた気がした。
そんなことを、篠田に言われたことはない。だが、いかにも慎重な彼が言いそうなことで、史奈は微笑した。
千葉の農家に弟子入りして、農業を学んでいる篠田とは、数か月会っていない。それでも、会えば普通に話せる自信がある。
いったん、両手足四点でのホールド姿勢ができてしまえば、あとはアリのように無心に登るだけだ。
二階分の窓を慎重に登り、張り出した展望フロアの屋根に手がかかった時には、さすがに安堵のため息が漏れた。
柵を乗り越え、ひと息いれながら夜景を見下ろす。
見渡す限りの、光の粒。
深夜一時近いというのに、このまばゆさ。
ずいぶん、里とは違う光景だ。里の夜はどろりと濃かった。新月の日など夜目のきく史奈にも暗く、獣の臭いと野山の木々や草の匂いがむせかえるようだった。
──なんて明るい夜。
夜空がこんな、薄墨を流したような色をしているなんて。
オフィスビルとおぼしい建物にすら、あちこち明かりが灯っている。都会の人間は、〈梟〉と同じで眠らないのだろうか。
それとも、あの光のどこかにも、まだ自分たちが出会えていない〈梟〉の一族が、潜んでいるのだろうか。
「いまメインデッキの上に到着」
通信装置で和也を呼び出す。
『良かった! 心配してたんだ』
飛びつくように和也が返事をする。彼は〈カクレ〉だ。一族の血を引くが、眠る人だ。
「大丈夫。頂上付近まで行って、それから降りるから」
『そこまで登れば、実験としてはもう充分だよ。望遠レンズつきのカメラで、ずっと君を探していたんだけど、どこにも見えない。実験は大成功だから、もう降りていいよ』
「ううん。せっかくここまで来たから、最後まで登りたいだけ。降りたらまた連絡する」
言い出したら聞かない性格だと、和也も承知している。だから、それ以上は引き止めなかった。
通信を切り、登攀を再開するまで、東京の夜景を眺めていた。むしょうに心を惹かれる、眠らない街の風景だった。
(第1話に続く)
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