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特別連載『梟の咆哮』/福田和代(7)

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「史ちゃん、免許取ったんだ」
 籠神社の近くにある、二十四時間営業のコインパーキングに車を停めると、先に来ていた容子が笑顔を見せた。
「そうなの。丹後で動くなら車があったほうがいいと思って」
 頷く容子が乗ってきたのは、ホットハッチなどとも呼ばれる、コンパクトカーに高性能なエンジンを搭載したタイプの国産車だ。見た目は小型車だが、レースなどの競技用に開発されたベースを使用しているそうだ。容子らしい選択だった。
「容子ちゃんも車を買ったの?」
「うん、結局、アテナとの契約金で私も買っちゃった」
 容子がいたずらっぽく肩をすくめる。「私も」と言ったのは、以前、兄のりょういちが契約金で真っ赤なスポーツカーを購入したのをとがめた経緯があったからだろう。
「諒一はいま、アテナ陸上チームの一員として海外遠征中なんだ。知らせておいたから、帰国したらこっちに来るかもしれないけど」
 ビデオ通話で話したとおり、彼女は朝の八時には丹後に到着していた。論文を提出した教授には、親戚が急病なので関西に行くと連絡したそうだ。朝食は来る途中にすませたらしく、それより話の続きが気になるようだった。
 リゾート計画の関係者が宿泊するコテージは、丹後半島の北東の先にある伊根町にある。海に面した一階が舟のガレージになる、「ふな」という独特の建築が並ぶ、「伊根の舟屋」で有名な地域だ。
 そのほかにも丹後大仏や棚田、浦嶋神社など多くの観光スポットがあり、リゾート計画の関係者がアイデアを練るのにぴったりな場所なのだろう。
「とりあえず、問題のコテージを見に行きましょうか」
「容子ちゃんの車で行っていい? 私の車は、籠神社で榊恭治という人に見られたから、もし彼がコテージにいたりしたら――」
「なるほど、その可能性もあるわけね」
 容子は頷き、さっさと自分の車の運転席に乗り込んだ。彼女も運転が好きだし、新車に乗るのが楽しいに違いない。
 丹後を走るのは初めてだというが、的確な運転で伊根への道を進む。
「諒一や、堂森どうもりあきさんにも聞いてみたけど、榊恭治――史ちゃんのおじいさんは亡くなったはずだと言ってた。明乃さんは希美さんと年齢が近いから、恭治さんが亡くなったころは二歳か三歳くらいだったらしい。だから実際に見たわけじゃないけど、先代の榊の〈ツキ〉が、恭治さんのおはいの前に希美さんを座らせて、毎日挨拶させてたって」
 言われて思い出した。たしかに榊家の古い仏壇には、祖父・恭治の位牌もあった。お墓もあったので、史奈は祖父の死を疑ったことなどなかった。
「どうして亡くなったんだろう。母さんや明乃さんが二、三歳ってことは、恭治さんはまだ若かったはずだよね」
「四十年以上も昔のことだけど、たしかに誰も事情を知らないって変だね」
 祖母の桐子と同年代の一族なら、ある程度まで事情を知っているはずだ。だが、最後まで里に残っていた一族は、今は各地に散り散りになっている。連絡は取れても、高齢で会話が通じにくい者も多い。
「今ごろになって史ちゃんに近づいてくるなんて、怪しすぎる。うちの両親は珍しく海外旅行中だけど、戻ってきたら聞いてみるから」
「うん。――ありがとう、容子ちゃん」
 もともと容子は、史奈がひとりで一族のルーツを探す旅に出ることに反対していた。そこに〈狗〉の森山からの協力依頼だ。きっといい顔をしないと思っていたのに、積極的に協力してくれるのが心強い。
 いいの、と容子が視線を前方に据えたまま言った。
「ずっと、ハイパー・ウラマが気になっていた。あれは変な競技よね。ドーピングを推奨することで、道徳とか規律とか、人間の良い面を壊すようなところがある。日本での今年の開催はあんな形で終わったので、国内ではもうほとんど話題にならないけど、海外では今も派手に競技大会が開催されているみたい。なんだかんだ言って来年また、日本大会があるかもしれないしね。あの大会の後で、史ちゃんの死んだはずのおじいさんを名乗る人が現れるなんて、不自然じゃない?」
「あの人が、ハイパー・ウラマと関係しているかもしれないってこと?」
「わからないけど。あの大会で史ちゃんは顔を隠していたけど、諒一や私と一緒に戦った。一族の人間なら、ルナの正体に気づいたと思う。榊の〈ツキ〉の孫娘が健在だと知った誰かが、下心を抱いて史ちゃんに接触した――そうとも考えられる」
「『榊桐子の孫娘』に、価値をいだす人がいるってこと?」
 言いながら史奈は少し顔をしかめた。
 桐子ばあちゃんの孫として生まれ育ったことは誇らしいが、こんなときは少々荷が重いと感じる。
「榊の〈ツキ〉は一族だけでなく、外の世界にも知られていたのかもね。どういう事情があったのかは、私たちは早くに里を下りたから、よく知らないけど」
 ――自分がばあちゃんの代わりに背負ったものは、何だったのだろう。
 史奈にとって、祖母は物知りで何でもできて、厳しいけれど従っていれば間違いないと思える人だった。そうかんたんに追いつけるとは思わないが、もっといろいろ聞いておけば良かったと後悔している。
 籠神社から伊根のコテージまでは、車で二十分ほどだ。史奈はスマホを確認した。
 ――まだ連絡がない。
 榊教授からもだが――篠田から返信がない。
 連絡が取れなくなって、もうすぐ丸三日になる。さすがに何かあったのではないかと不安だった。
 朝八時半を過ぎているので、もう電話してもかまわないだろう。そう考え、容子に断って篠田に電話してみた。
『――おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるためかかりません』
 人工的な女性の音声でメッセージが流れ、史奈は茫然ぼうぜんとしつつ通話を切った。スマホの充電を忘れるくらい忙しいのだろうか。あるいは、電波が届かないどこかに、この三日ずっといるのだろうか。
 ――そんなこと、ありうる?
 何かおかしい。ぜったい、変だ。知り合ってから四年半ほどになるが、こんなことは今まで一度もなかった。
 急な病気、不慮の事故――悪い想像が頭の中をぐるぐると回り始める。
 最後のメッセージは、今はコメの脱穀をやっているという内容だった。あと一週間もすれば自分が任された作業が終わるので、農作業を手伝いながら仕事を教えてもらっている農家のはしさんの許可をもらって、自分も丹後に行くと言っていた。
 ――どうしたんだろう。
 なんとかして連絡を取りたいが、篠田の連絡先はこのスマホの番号とメッセージの送信先しか知らない。橋田さんの連絡先も聞いていない。
「どうしたの? 史ちゃん」
 様子がおかしいと気づいたのか、容子が尋ねた。事情を話すと容子も顔をしかめた。
「教授に電話してみたら? なんだかんだ言って、東京で起きてることはよく知ってるみたいよ」
「――そうだね」
 篠田のことで榊教授に電話するのは、少々気が重い。だが、背に腹は代えられない。
『どうしたんだね、史奈。珍しいね、電話をかけてくるなんて』
「急にすみません。篠田さんと、ここ三日くらい連絡が取れなくて。心配しているんですが、橋田さんの連絡先とか、聞いていませんか」
 父親が、過去に篠田の身辺調査をしたことは知っている。篠田が元警察官だったこと、警察を退職した理由は不明で、その後、背景の不穏な警備会社に就職したことなど、父が直接、篠田に事情を尋ねていた。
 榊教授は、ちょっと息をんだ。
『――すまない、史奈。実は昨晩、橋田さんから私のところに連絡があってね』
「橋田さんから?」
『うん――。篠田君は、都内で発生したある事件に関与した疑いで、警察で事情を聴取されているそうだ。私たちも心配している』
 青天の霹靂へきれきとは、こういう瞬間を言うのだろう。史奈は唇を嚙んだ。
『君に知らせるべきか迷ったが、篠田君は、君には自分の口から話したいんじゃないかと思ってね』
「どういう事件なんでしょう。まず父さんに連絡が入るなんて、いったいどうして――」
 事件という言葉が出たので、容子が運転しながら耳をそばだてるのが感じ取れた。
『何の事件かは警察が教えてくれないそうだ。篠田君は、自分に何かあったら私に連絡してほしいと伝えていたそうだよ。君はまだ若いし、直接連絡が行くと驚かせると思ったんじゃないかな』
 ――それだけだろうか。
 史奈の前に、教授に連絡しなければならない理由が、何かあったのだろうか。
『史奈、君はしっかりしているから大丈夫だと思うが、冷静に聞いてくれ。篠田君は逮捕されたわけじゃない。任意の事情聴取を受けているだけだ』
「三日もですか? 連絡が取れなくなって、もうすぐ三日になるのに――」
『心配いらない。橋田さんからの連絡を受けて、これから警視庁に問い合わせるところなんだ。知ったのが昨日の夜だったから、動けなくてね。必要なら弁護士もつけるから、史奈は心配しなくていいよ』
 驚くことばかりだが、丹後にいる自分にできることはなかった。何が起きているのか不明だが、教授にすべてを託すしかない。
「何かわかったら教えてください――」
 通話を終えた後で、驚きのあまり、祖父について母の希美がどう言っていたか、教授に確認するのを忘れていたことに気づいた。とはいえ、かけ直す気にはなれなかった。
 篠田には、秘密がある。
 それは以前、教授が篠田に警察を退職した理由を尋ね、篠田が沈黙した時、うすうす気づいていた。問題はそれが、犯罪に類することなのかどうかだ。
「どうだった?」
 容子に会話の内容を説明すると、彼女はしばらく何か考えているようだった。
「篠田さんも、不思議な人ね。村雨むらさめの――西垣にしがき警備保障の警備員だったし、元警察官なわけでしょ。いつの間にか史ちゃんの心を捕まえていたけど」
「捕まえていたって――」
「あのね、史ちゃん。誤解しないでね。私はむしろ、史ちゃんはいい人を見つけたと思ってた。年上すぎるけど、史ちゃんの精神年齢なら、同年代の男性は幼く感じるかもしれない。篠田さんは、出会いは最悪だったけど、史ちゃんを命がけで守ってくれた。農業を勉強し始めたのも、地に足がついた感じで好ましいと思った。だけど、考えてみれば私は篠田さんのことをよく知らない。史ちゃんはどう?」
 史奈は困惑し、黙り込んだ。
 知っている、つもりだった。篠田の現在と、彼が見据えている未来を知っていたから。里の襲撃事件では、容子が言ったとおり、自分を命がけで助けてくれたから。
 だが、たしかに過去は知らない。教授が依頼した篠田の身辺調査も、内容は聞いていない。かろうじて、元警察官だと知ったのみだ。
「過去なんて、関係ないと思っていた。大事なのは、未来だと思ったから」
 でも、その過去が未来に影響を及ぼそうとしているのなら、見過ごせない。
「篠田さんに、今度こそ聞いてみる。何が篠田さんを困らせているのか」
「――そうね」
 伊根のコテージはすぐそこだった。
 周囲は田畑で、近くに店などは見当たらない。民家からも離れている。自然豊かな環境を楽しむコテージだ。
 容子はいったん車で走り過ぎ、目立たない場所に駐車して、ふたりで歩いてコテージが見える場所まで戻った。
 ログハウス風の二階建てだ。二階の窓は、白いレースのカーテンが閉まっている。
 容子がスマホを取り出し、検索を始めた。
「――ねえ。このイチオクの写真、コテージのテラスに似てない?」
 写真投稿サイトに、イチオクというユーザーが三日前に投稿したものだ。史奈も画面を覗き込んだが、たしかにテラスに置かれている丸太を削って作ったベンチや、テーブルなどそっくりだ。何より、テラスの手すりには特徴的なトーテムポールがある。
「イチオクもここにいたってことだね」
 コテージの駐車場には、一台も車がなかった。史奈は容子と顔を見合わせた。
「――どうする?」
 車以外の移動手段がない場所だ。車がないなら、おそらく今コテージには誰もいない。
「容子ちゃん、お願いしたもの、持ってきてくれた?」
「もちろん」
「コテージに近づいて、様子を見てみる」
「外を見張ってるから、気をつけてね」
 史奈は、いったん容子の車に戻った。持ってきてほしいと頼んだのは、栗谷和也が開発した光学迷彩による透明化スーツだ。車の後部座席でスーツを身につけ、容子のそばに戻る。
「くれぐれも無茶しないようにね」
「わかってる」
 スーツを起動し、周囲の色彩に自分を溶け込ませる。情報処理の速度の問題で、あまり速く動くと光学迷彩の処理が追い付かず、空間が揺らいで見える。意識してゆっくり動き、道路を渡ってコテージに近づいていく。
 階段を上がって正面のテラスから、一階の窓を覗き込んだ。居間と食堂の兼用らしい、大きな一枚板のテーブルがある。
 だが、そこに人の姿はない。
 ――やっぱり、誰もいないのかな。
 玄関のドアは鍵がかかっていた。こじ開けてもいいが、いったん表は避けて裏に回ってみた。裏庭には広いドッグランがあるが、犬小屋は空っぽだ。
 コテージの裏側に勝手口があった。キッチンの採光窓から内部を覗き込んでみたが、ここにも人の姿は見えない。
 ――勝手口を開けてみようか。
 持参したピンを使って鍵を開ける。あまり褒められた行為ではないが、忍びには必要なスキルだ。
 重いドアを、音をたてないように少し開けた時、中から話し声が聞こえてきた。
「――ええ、そうです。御師様は昨日、東京に戻られましたよ。こちらにはしばらく見えないと思いますが」
 誰かが階段を下りてくる。相手の声が聞こえないので、電話で話しているようだ。
 ――この声、聞いたことがある。
 勝手口のドアを細く開けたまま、史奈は中の様子に目を凝らし、耳を澄ました。
 ――いま、「御師様」と言った?
 スマホを耳に当てた男が、史奈の前方を足早に通り過ぎた。
 驚きすぎて、危うくドアを慌てて閉めるところだった。あの色白の顔、赤い唇、蛇のようなねっとりした目つき。
 ――奥殿おくどのだい
 ドーピングを可とする新競技、ハイパー・ウラマ日本支部の立ち上げに尽力した男だ。美術関連のオークションサイトを運営する会社の社長でもある。
 なぜ、あの男がこんなところにいるのか。
 ――奥殿が、天蓮リゾートのリゾート開発計画に参加している?
「わかりました。いま誰もいなくて車が出払っているので、迎えに来てもらえますか? 私もそちらに行きますから」
 いったん遠ざかった声が、こちらに近づいてくる。キッチンに入ってくるようだ。史奈はそっとドアを閉め、勝手口の横の壁に張り付いた。
 しばらくすると、キッチンに入った奥殿のスリッパの足音が聞こえ、「ん?」という声まで聞こえた。勝手口のドアが、いきなり開いた。史奈は息を詰めた。心臓の音が奥殿に聞こえそうで、よけいに心拍数が上がる。
 奥殿が周囲を見回し、首をかしげている。
「――不用心だな。誰か閉め忘れたか」
 呟き、ドアを閉めるとすぐ、鍵をかける音が聞こえた。光学迷彩スーツのおかげで、史奈には気づかなかったようだ。
 ドアが閉まると、思わず目を閉じて天を仰ぎ、心の中で感謝した。奥殿が〈狗〉の一族なら、見つかるところだった。
 足音を忍ばせてコテージを離れ、容子が待つ場所に戻る。
「どうだった?」
 奥殿大地がいたと話すと、容子もきょうがくしたようだ。
「なるほどね――奥殿大地か。ねえ、イチオクって、奥殿のアカウントじゃない? ほら、オクドノダイチの前と後ろを取って」
 ハイパー・ウラマでの印象が悪すぎて、奥殿大地とイチオクの投稿する美しい写真とがつながらない。だが、考えてみれば奥殿は美術商で、美しいものへの造詣が深くて当然だ。問題は、天蓮リゾートや「御師様」との関係だった。
 奥殿は、出水という男を使って、ドーピングに反対する〈梟〉のチームにさまざまな妨害を仕掛けてきた。〈狗〉を対抗馬として利用したのも出水だが、その背後にも奥殿がいたのかもしれない。
 ハイパー・ウラマの決勝戦後に、ロビーで短く言葉を交わした奥殿の顔が浮かんだ。赤い唇に、毒汁が滴り落ちそうな気持ちの悪い笑みを浮かべていた。若くて野心家なのは確かだろうが、それ以上に、自分の目的のために他人を陥れることすら楽しんでいるような、感じだった。
 奥殿が電話で話していたことを容子に伝える間に、宮津方面から黒いセダンが到着した。洒落しゃれたレンガ色のジャケットを着た奥殿が、運転手に「すまないね」などと朗らかに言いながら乗り込む隙を見て、容子がスマホで奥殿の写真を撮影した。Uターンした車が見えなくなるまで見送った。
 奥殿は先ほど電話で、「ほかには誰もいない」と言っていた。ならば、史奈たちにはすることがある。

   (第8話に続く)

プロフィール
福田和代(ふくだ・かずよ)
1967年兵庫県生まれ。神戸大学工学部卒業後、システムエンジニアとなる。2007年『ヴィズ・ゼロ』でデビュー。大型新人として一躍脚光を浴びる。著書に『TOKYO BLACKOUT』『オーディンの鴉』『迎撃せよ』『怪物』『緑衣のメトセラ』『堕天使たちの夜会』『黄金の代償』『バベル』『ディープフェイク』など多数。

『梟の咆哮』は2025年2月20日発売予定!
梟シリーズは集英社文庫より好評発売中!

第一巻『梟の一族』

第二巻『梟の胎動』

第三巻『梟の好敵手』

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