新 戦国太平記 信玄 第七章 新波到来(しんぱとうらい)10/海道龍一朗
八十九
この身は、織田信長という武将の力能を見損じていたようだ……。
信玄は足利義昭の入洛に供奉した信長の大胆な兵略を知らされ、そのように思わざるを得なかった。
これにより織田家は美濃と北伊勢に加えて、近江を制したも同然だった。
詳細を知れば知るほど、信長の手際が秀逸に思えてくる。
この事態に至る前まで、信玄は公方入洛の件に関して織田家から助力の要請があるかもしれないと思っていた。
その時は一軍を送り、入洛の手助けをするのも一興と考えた。
しかし、信長は一切の相談を持ちかけず、独断で新公方の奉戴を進めている。
――信長は余に助けを求めなかったのではない。……助けを請う必要など、なかったのだ。
それが真実だとわかり、信玄は愕然とする。
信長は驚くべき疾さで、天下にあまねく大名の筆頭に躍り出ていた。
そのことに対し、嫉妬に似た感情を覚えている己がいる。
こんな思いを抱くのは初めてだった。
いや、長尾景虎(上杉輝虎)に信濃の奥深くへ攻め寄せられた時、信玄は驚きと同時に、一瞬だけ同じような感情を抱いたことがある。
だが、それも戦いの手合いを重ねるごとに、薄くなっていった。
信長に対する思いは、上杉輝虎に対するそれとも違い、何か大乱世の新しい武将が登場したような衝撃がある。
それを、信玄も認めざるを得なかった。
もう織田信長のことを「尾張の童、三郎」と見下すことはできない。
同時に、それが己に対する内省にも繋がっていく。
――この身はこれまで、少しばかり慎重すぎたのやもしれぬ。今川家のことにしても、もっと大胆に動くべきだった。すでに手切は明らかであり、義信の自害で縁も切れた。何ひとつ遠慮することはない。
実際、今川氏真は塩止めを行い、武田家との国境をすべて封鎖している。
――新しき公方が京の都へ入り、信長が撒き散らした火種が新たな戦として燃え上がり、天下は再び大きく動くであろう。その前に、東海道を完全に制覇せねばならぬ!
信玄は遠江を奪取するだけでなく、今川家の本拠地である駿河への侵攻を敢然と決意した。
すぐに出陣準備の進捗を確かめるため、馬場信春を呼ぶ。
「民部、出陣の支度は調ったか?」
「出師の表はできておりまする。こちらに」
馬場信春が差し出した書面に、信玄が眼を通す。
「良くできている。されど、状況が少し変わった。遠江だけでなく、駿河へも一気に攻め込むぞ!」
「まことにござりまするか!?」
「ああ、決めた。主戦は駿河だが、出陣する兵を増やし、遠江も同時に攻めたい。すぐに布陣を練り直してくれ」
「承知いたしました!」
馬場信春はすぐに再編制に取りかかる。
信玄が望んだのは、甲斐の府中から今川方の主要な支城を落としながら、駿府城まで攻め寄せるための兵略だった。
しかも、それに加え、同時に遠江へも別働隊を送り、今川方の拠点を潰していくという大掛かりな戦である。
――御屋形様は最短で駿府まで攻め入る策をご希望なされておられる。甲斐府中から駿河への侵攻経路は三つある。そのどれを使うのが正解であるか……。
馬場信春が考えたように、甲斐から駿河の国境を越えるには、基本の三筋がある。
富士御嶽の麓に最も近い東の若彦道、そのわずか西にある春田道(中道往還)、そして、さらに西側にある富士川沿いを行く河内路(身延街道)だった。
――府中を発して、山中湖から国境の籠坂峠を抜けた後、今川方の拠点から考えれば、まずは富士宮の大宮城(富士城)が進軍の障害となる。ここの攻略が最優先か……。
信春は地図を睨みながら軍勢の編制を考える。
――おそらく、春田道(中道往還)に軍勢を集約させ、最短で富士宮まで出張るのが最善であろう。……されど、力押しの行軍だけでなく、調略を搦め、今川方の内応を誘った方がよいかもしれぬ。
そう考え、馬場信春はこの辺りに根付く国人衆や土豪に詳しい穴山信君に助力を求めようと思い立った。
「こたびは春田道(中道往還)にて最短の進軍を行おうと考えている。信君、この途上で今川方の者を調略できぬか?」
その問いに、穴山信君が答える。
「これまで今川寄りでありながら、当家の顔色を窺い、態度を決めかねている土豪たちが数多おりまする。幾人かを誘うことができると存じまするが」
「頼めるか、信君」
「お任せくださりませ、美濃守殿」
信君のような若い家臣は、馬場信春をこれまでの「民部」ではなく、新しい受領名で呼ぶようになっていた。
「されど、美濃守殿。小物の土豪だけではなく、今川の重臣を調略してはいかがにござりまするか?」
「宛てがあるのか、信君」
「はい、父を通じて旧知の今川重臣に声をかけてみとうござりまする」
「さようか。任せてよいか?」
「お任せくださりませ、美濃守殿」
「よし、頼んだ。おそらく、出陣は来月になると思う。それまで、密に報告が欲しい」
馬場信春は今川家々臣の調略を、穴山信君に委ねる。
これが永禄十一年(一五六八)十一月初旬のことだった。
信春は中旬までに再編制を終え、出師表を書き上げる。
そこに穴山信君が訪ねてきた。
「美濃守殿、幾人かの今川方を調略いたしました」
「ちょうどよかった。これから御屋形様に出師表をお見せすることになっている。そなたも一緒に来て、直に調略の内容を申し上げてくれ」
「わかりました」
「出師表には、そなたの名も入っている」
馬場信春は穴山信君を伴って主君のもとへ向かった。
信玄の前で地図と出師表を広げ、信春は説明を始める。
それを聞きながら、二つの書面を見較べ、信玄は大きく頷いた。
「これならば、大丈夫であろう。民部、よくやってくれた」
「有り難き仕合わせにござりまする。これに加え、玄蕃頭より調略に関してのご報告がありまする」
馬場信春に促され、穴山信君が話し始める。
「美濃守殿に依頼を受け、当方と今川方の間で態度を曖昧にしていた土豪に内応を持ちかけました。まず応じてきたのは、富士郡上稲子の佐野惣左衛門尉にござりまする。この上稲子には大宮城(富士城)の主であります富士信忠の屋敷もありますゆえ、戦わずに押さえられるのならば上首尾と存じまする」
「春田道(中道往還)を進むならば、富士宮の手前で上稲子が拠り所になるのは有り難い。玄蕃頭、他の調略についてはどうか?」
信春が訊く。
「他は、単なる土豪ではありませぬ。わが父を通して今川義元殿の旧臣であった者に書状を送りましてござりまする。そうしたところ、いくつかの返書があり、それがしがそれぞれに当たりました。そして、今川家々臣である瀬名信輝殿、朝比奈信置殿、葛山氏元殿の御三方から内応の約束を取り付けましてござりまする」
「でかしたぞ、信君!」
信玄が膝を打つ。
「いずれ劣らぬ今川家の重臣ではないか」
「はい。されど、それがしの力ではござりませぬ。あくまでも、わが父の旧縁にござりまする……」
「謙遜いたすな、信君。そなたの働きあっての調略だ。上出来の働きである」
信玄は穴山信君を褒め称える。
「まことにござりまする」
馬場信春も主君に賛同する。
「朝比奈信置は庵原城々代、葛山氏元は葛山城々主。各所でこれらの城を攻めずに済むのは、大きな利となりまする。加えて、これらの者たちが今川方の城攻めに参加すれば、迷わず急所を攻めることができるようになりまする」
「これで、駿河侵攻の手筋は決まったな」
信玄は満足げに言い放つ。
「出陣に向け、支度の最終確認をしてくれ、民部」
「畏まりましてござりまする」
馬場信春が平伏する。
こうして、武田勢の駿河侵攻の兵略が決まった。
暦が変わり、永禄十一年(一五六八)十二月六日、馬場信春が自ら率いる先陣五千余の黒備衆が甲斐の府中を進発し、春田道(中道往還)を南下し始める。
副将は齢二十九の小山田信茂であり、その先鋒には真田信綱と昌輝の兄弟がいた。
この一隊には兵二千を率いる穴山信君が加わっている。
時を同じくして、山縣昌景の赤備衆も府中の笛吹を出立し、一路、春田道の東に位置する若彦道を南下した。
副将は浅利信種であり、赤備衆も五千余に膨れ上がっている。
両先陣は障害となる土豪がいたならば、それを排除しながら、国境を越えた駿河の上井手で合流する手筈になっていた。
もうひとつの筋、西の河内路(身延街道)には、先鋒として小幡昌盛の率いる三千余が向かう。
最後に、信玄の本隊七千余が春田道を南下する予定になっていた。
そして、遠江には、秋山信友の率いる別働隊四千余が、飯田城から侵攻する。
総勢二万四千余の軍勢が、甲斐から一斉に東海道へ南下していた。
黒備衆と赤備衆の両先陣は戦いもなく国境を越え、駿河の上井手で合流する。この地には有名な景勝地、白糸の滝があった。
少し遅れて穴山信君が到着し、馬場信春、山縣昌景と三人で今後の動きを確認する。
「われらの最初の標的は、富士宮の大宮城(富士城)だが、その前に内応を承諾してきた土豪の動きが気になる。信君、どうなっているか?」
馬場信春が穴山信君に訊く。
「われらに内応してくるのは、上稲子の佐野惣左衛門尉にござりまする。上稲子はここから南西に五里(二十㌔)ほど進んだところにあり、佐野は白糸の滝の辺りまで出張って、われらを迎えたいと申しておりまする」
「さようか。ならば、信君。まずは、そなたの隊が白糸の滝へ進み、佐野の誘降を確認してくれ」
「承知いたしました」
「われらはひとまず待機し、信君から連絡が入り次第、両先陣で大宮城へ攻めかかる。それでよいか、三郎兵衛」
馬場信春が山縣昌景に確認する。
「異存ござりませぬ」
「では、各々、迅速に動こう。先は、長い」
「おう!」
翌朝、一足先に上井手を後にした穴山信君が白糸の滝へ進む。
そこで上稲子から来た佐野惣左衛門尉と合流する。
「穴山殿、お約束通りにまいりました」
「ご苦労、佐野殿。後ほど、われらの先陣と合流し、先導していただくつもりだが、上稲子の首尾は?」
「お約束通り、稲子にある富士信忠の屋敷に火をかけ、焼いてしまいました。もうひとつの屋敷は大宮城下にありますゆえ、富士信忠と信通の親子は籠城するしかありませぬ」
佐野惣左衛門尉の答えに、信君は満足そうに頷いた。
内応の成功を確認し、すぐに先陣へ伝令を飛ばす。
二刻(四時間)後、両先陣が合流し、佐野惣左衛門尉の先導で大宮城へと向かった。
この城は甲駿国境の重要な支城として、永禄四年(一五六一)に普請されている。
今川氏真の命により普請奉行となった富士信忠がそのまま城代を務めた。
大宮城には空堀で仕切られた連郭があり、中央の主郭の西側に二ノ郭が置かれ、その前面には蔵屋敷を配置し、周囲には土塁と神田川や池を利用した水堀が巡らされている。
簡素な造りであったが、堅守重視の構えとなっていた。
そして、城の西側には富士御嶽を御神体として祀る富士山本宮浅間大社がある。ここは駿河国の一之宮でもあり、奥宮は富士の頂上に置かれていた。
城外の南側には神田川が流れており、北側にも水堀が巡らされていた。
当然のことながら布陣は制限され、馬場信春は大宮城の北側と東側から兵を寄せようとする。
――思うたよりも、攻めあぐねるかもしれぬな……。箕輪城の時よりも、守りの構えが生きている。
これまで幾多の城攻めを行ってきた先陣大将の直感だった。
攻城戦の配置が済んだところで、佐野惣左衛門尉が穴山信君に耳打ちする。
「実は、少しばかり心配なことがありまして」
「何であろうか?」
「ここから西へ二里(八㌔)ほど行った富士川の向こう側に内房という村落がありまする。そこに北松野城がありまして、荻清誉という今川方の土豪がおりまする。われらが武田家に従う段になりまして、この荻清誉にも声をかけましたが、頑なに内応を拒みましてござりまする。われらが城攻めを始めましたならば、挟撃されぬかと心配になりまして……」
「まことにござるか!?」
「はい……。申し遅れまして、相すみませぬ」
「すぐに美濃守殿にお伝えせねば」
穴山信君は急いで黒備衆の陣に向かい、この件を伝える。
「さような伏兵があったか……。その土豪は、三郎兵衛に任せよう」
馬場信春は山縣昌景を呼び、荻清誉と北松野城のことを伝え、赤備衆を内房へ向かわせる。
――少し城攻めが手薄になってしまうが、致し方あるまい。
信春は息を潜めるような静寂に包まれる大宮城を見上げた。
佐野惣左衛門尉の案内で、山縣昌景が率いる赤備衆は、内房口と呼ばれる富士川東岸に到着する。
ここに野営陣を布き、翌朝からの渡河に備えた。
永禄十一年(一五六八)十二月九日の払暁から、両先陣が動き始める。
馬場信春は大宮城に矢文を打ち込み、富士信忠に開城と降伏を勧告した。
山縣昌景も北松野城に使者を飛ばし、荻清誉に誘降を持ちかける。
その間に富士川の渡河を敢行し、対岸の内房へと進む。
しかし、荻清誉は誘いに応じず、あくまでも戦うと返答してきた。
「話が決裂したのならば、悩むこともあるまい。信種、打ち破るのみだ」
山縣昌景は副将の浅利信種に命じる。
「承知!」
そこへ物見頭が駆けつける。
「ご注進! 敵は北松野城を出て、内房との中間にあります松野山に布陣いたしました!」
「数は?」
「およそ一千かと」
「一千!?……われら赤備衆の五千に対して一千で野戦に打って出るとは、いかなる蛮勇であるか」
山縣昌景が呆れたように呟く。
「ならば、野戦はわれらにお任せくだされ。御大将は城の方へ」
浅利信種が軍勢を二つに分ける策を具申する。
「よかろう、不覚を取るな」
赤備衆は内房から松野山まで東に進み、その麓で二手に分かれる。
浅利信種が率いる二千五百は松野山を睨んで野戦陣を展開し、山縣昌景は残り二千五百を率いて富士川沿いを東に進み、北松野城へと向かう。
荻清誉は一千ほどの軍勢を率いて松野山の頂上に布陣していた。
高所という地の利を生かし、数に勝る武田勢を迎え撃とうという構えである。
「敵は高陵に陣取ったつもりであろうが、何も怖れることはない! この眼に見えているのは、ただの丘だ! 五つ手の構えで、一気に攻め寄せるぞ!」
浅利信種は総攻めを命じる。
五百の兵を一隊とし、五方向から松野山へ攻め上った。
荻勢も果敢に戦おうとするが、数と力に勝る赤備衆の敵ではなかった。
一刻(二時間)ほどで勝負はつき、荻清誉は討死する。
その間、山縣昌景は北松野城を囲む。
すでに城兵はおらず、女と子供だけが残った城は、二千五百の兵に寄せられ、すぐに開城する。
「荻家は元々、武田宗家と縁のある一族だ。女子供の命までは取らぬ。この城から去るがよい」
山縣昌景が言ったように、荻家は武田信義の弟、奈古義行の後裔といわれている。
北松野城を築いた初代の荻氏誉は、足利義満に仕え、松野郷を領していた頃は武田宗家とも誼を通じていた。
しかし、この乱世となってからは、今川家の傘下に鞍替えしたのである。
北松野城に残った女と子供は命を救われ、散り散りになって逃げ去った。
山縣昌景が城を占拠した頃、浅利信種からの伝令が駆けつけ、野戦での勝利を報告する。
これら二つの戦果を、すぐに馬場信春へ伝えた。
一方、城を囲んだ黒備衆は、大宮城の堅固な構えを攻めあぐんでいた。
東側に配置された真田信綱と昌輝も、水堀と高い城壁を眼の前にして顔をしかめる。
「兄者、これは下手に城へ近づこうものなら、弓兵の的になるだけだぞ。どうする?」
真田昌輝がぼやく。
「美濃守殿は犠牲を少なくするため、焦らず、じっくり攻めよと申された。とりあえず土を掘り、水堀を埋めるか」
「さように悠長なことをしていて大丈夫なのか。間もなく、御屋形様の本隊が出立なさるはずだが」
「仕方あるまい。われらが城攻めを任されたのだ」
「……ついておらぬな。侍大将として黒備衆に配属され、張り切っていたのに、緒戦が城攻めとはな……。できれば、赤備衆のように野戦がよかった。城攻めはどうも苦手だ」
「ぼやくな、昌輝。われらは先陣の先鋒として、いかなる戦いもこなせるようにならねばならぬ。選り好みをしている暇はなかろう」
真田信綱は気合を入れるように、弟の背中を叩いた。
馬場信春は城の大手門に大楯を持たせた足軽隊を配置し、何とか衝角で城戸を破ろうとする。
しかし、門扉の上や城壁に上った敵の弓兵たちの集中攻撃を受け、衝角を抱えた足軽が門扉に近づけないでいた。
――思うた以上に、厄介な城だ。ここで力攻めに出て、大きな犠牲を払うわけにもまいらぬ。かといって兵粮攻めの如き時のかかる戦法も使えぬ。何とかせねば……。あと三日もすれば、御屋形様の本隊が到着してしまう……。
信春の苦悩を察し、副将の小山田信茂が進言する。
「美濃守殿。少々、乱暴な一手になりますが、西の浅間大社に火をかけ、城兵を誘い出してみてはいかがにござりまするか」
「……さすがに、御屋形様が願状を捧げた社に火をかけるわけにはまいるまい」
「さようにござりまするか……」
「今は辛抱し、地道に攻めるしかない」
大宮城攻めが膠着する中、信玄の本隊が甲斐の府中を出立したという一報が入ってきた。
これを受け、北松野城にいた山縣昌景が馬場信春の陣へやってくる。
「民部殿、われらもこちらへ戻り、城を総攻めにいたしませぬか」
「三郎兵衛、この後の進軍を考えると、富士川を越えた北松野城は重要になる。そなたら赤備衆は南下する支度をしてくれ」
馬場信春が言ったように、北松野城から大代峠を越えて南下すると、最短で東海道の蒲原と由比の中間に出ることができる。
そして、蒲原宿には富士川以西における唯一の北条方の支城、蒲原城があった。
北条家とはこれまでの関係があるため、信玄は蒲原城への手出しを禁じ、無視したままで駿府まで進軍しようとしている。
「わかりました」
山縣昌景は北松野城へ戻った。
そして、先陣が出立してから六日が経った永禄十一年十二月十一日になり、信玄の本隊が富士宮に到着した。
大宮城攻めが難航していると聞いた信玄は、すぐに馬場信春を呼ぶ。
「どうした、民部。そなたらしくもない」
「……申し訳ござりませぬ」
「かような小城、最低限の兵で囲み、そのまま籠城させておけばよいではないか」
「されど……」
「われらの標的は、あくまでも駿府だ。ここは割り切ろう。信君に三千の兵とたっぷりの兵粮をつけて城を囲ませておけばよい。われらは東海道に出て、そのまま駿府を目指せばよい。この戦は今川氏真を駿府城から追い出せば仕舞だ」
信玄は戦の目的を絞り、簡潔に進める方策を採った。
「承知いたしました。では、北松野城にいる三郎兵衛をただちに南下させまする」
馬場信春が使番の小山田行村を走らせる。
大宮城の攻囲を任されることになった穴山信君は、駿河国駿東郡の葛山城へ使者を出し、内応を約束していた葛山氏元に援軍を願う。
山縣昌景の赤備衆は北松野城を出立し、南側の大代峠へ向かった。
黒備衆もそれに続き、信玄の本隊は内房口でしばらく大宮城の様子を静観する。
この前日、荻清誉の討死と北松野城の落城の一報は、駿府にも届いていた。
今川氏真は知らせに驚き、すぐ重臣の庵原忠胤を呼ぶ。
「武田勢が富士宮まで出張ってきた。そのまま南へ進み、東海道へ出るつもりであろう」
「ならば、敵は必ず薩埵峠を通るはずにござりまする。われらが先着し、峠の上で迎え撃てばよろしいのではありませぬか」
庵原忠胤の具申に、今川氏真が頷く。
「では、そなたに一万五千の兵を預けるゆえ、直ちに薩埵峠へ向かってくれぬか」
「御意!」
庵原忠胤は一万五千の今川勢を率いて駿府城から薩埵峠へ向かった。
今川氏真も五千余の本隊を率い、興津の清見寺に本陣を構え、小田原の北条家へ使者を飛ばして援軍を願う。
ここでついに、武田家と今川家が激突する戦いが始まった。
山縣昌景の赤備衆は大代峠を越え、東海道の由比北田へ出る。馬場信春の黒備衆もすぐに追いつき、武田勢の両先陣が揃い、態勢を整えた。
「三郎兵衛、ひとつ頼みがある」
馬場信春が神妙な面持ちで山縣昌景に語りかける。
「何でありましょう?」
「ここから先は、われら黒備に譲ってもらえぬか。大宮城を落とせなかった面目を、是非に回復したいのだ」
「よくわかりました。ならば、われらは東側の北条方の蒲原城を警戒いたしまする。おそらく、今川は北条に助けを求めているはずにござりまする。北条勢に背中を襲われぬよう、われらが備えておきましょう」
山縣昌景が同意する。
「ではまず、薩埵峠に物見を放ち、敵の動向を探ろう。今川勢の先陣が出張るとするならば、そこであろう」
馬場信春は鋭い読みで敵の動きを予測していた。
半刻(一時間)後、物見が薩埵峠から戻り、注進する。
「峠の上に舞鶴の旗印が翻っておりまする!」
「舞鶴の紋……。今川の先陣は、庵原の一統か」
馬場信春が物見に訊く。
「作陣の様子は?」
「馬防柵や逆茂木の類は、見当たりませなんだ。兵はひしめいておりましたが」
「さようか。敵も陣を作る余裕はなかったようだな。ならば、われらも神速をもって先へ進むぞ」
黒備衆は東海道を西へ進み、薩埵峠の麓にあたる由比の西倉澤へ進む。
赤備衆は東の蒲原城を警戒しながら、由比の北田で信玄の本隊が到着するのを待った。
――峠の上に陣取っているのが、庵原城々主の庵原忠胤ならば、この後、泡を喰うことになるぞ。信君が仕込んだ埋伏の毒が効くはずだ。
馬場信春が思い浮かべた「埋伏の毒」とは、内応を約束している今川家臣、朝比奈信置のことだった。
この漢は、庵原城の城代を務めており、武田勢と今川勢の戦いが始まったならば、すぐに蜂起すると穴山信君に約束していた。
朝比奈信置は薩埵峠のすぐ後方にいることに加え、偶然にも、庵原城は今川氏真が本陣とした清見寺のすぐ西側に位置している。
――たとえ、朝比奈信置が土壇場で臆したとしても、われら先陣には何の欠損にもならぬ。まっすぐに力押しで、峠にいる敵の先陣を打ち破る。もしも、約束通りに寝返れば、戦が早く終わるだけだ。
馬場信春は鋭い眼差しで薩埵峠を見上げる。
それから、副将の小山田信茂と、先鋒の真田信綱と昌輝の兄弟を呼ぶ。
「敵方には大した陣構えがないゆえ、こちらから仕掛けるぞ。波動の計で敵の先鋒を誘き出し、峠の下まで戦いの場を広げよ」
信春が言った波動の計とは、波の如く寄せては引き、引いては寄せるという攻撃を繰り返す戦法のことである。
機動に優れた騎馬を使い、苛烈な突撃と素早い退却を繰り返し、敵の構えを長く引き延ばすのが狙いだった。
「信綱、昌輝、そなたらには期待しておる。黒母衣を敵に見せつけ、神速で蹴散らしてまいれ!」
「承知!」
真田信綱と昌輝が同時に答える。
「信茂、そなたは誘き寄せた敵兵の掃討を頼む」
「お任せくだされ」
小山田信茂が頷いた。
十二月十二日の未の刻(午後二時)頃、薩埵峠で黒備衆の攻撃が始まる。
「兄者、やっと先陣らしい働きができそうだな」
真田昌輝が嬉しそうに言う。
「峠を登る敵攻めは、意外に難しいぞ。浮かれてはおられぬ」
兄の信綱が弟を戒める。
「囮役は残念だが、城攻めよりはましだろう」
「単なる囮ではないぞ。波動の計は何よりも、ひと呼吸早い撤退が明暗を分ける。要は、馬首を返すのが早い者ほど、優れた働きができるということだ」
「馬比べか」
昌輝は笑みを浮かべる。
愛駒と一躰の動きならば、使番で捌きを鍛えた己が有利だと確信していた。
「望むところだ。一番槍は、この身がいただく」
「抜駆けするなよ、昌輝」
兄も薄く笑う。
「よし! 者ども、行くぞ!」
真田信綱は気勢を上げ、愛駒の腹を蹴る。
全身を黒装束の具足で包み、黒母衣を背負った精鋭の騎馬隊三百が、鋒矢の陣形で峠を駆け上がり始めた。
その先頭を切ったのが、胴に六道金百足紋を入れた真田昌輝である。
それを追うように兄の信綱も黒母衣をなびかせて疾走し始めた。
二人は鬼神の如く見える騎馬隊を率い、競うように坂上の敵影を目指す。
その様に気づいた今川勢の先鋒が、すぐに大将へ報告する。
「ご注進! 武田勢と思しき騎馬隊がこちらに向かっておりまする!」
「怯むな! 高所に陣取ったわれらが有利だ! 槍衾で坂下へ追い落とせ!」
今川の先陣大将、庵原忠胤が鬼相で叫ぶ。
「はっ!」
今川勢の先鋒は持場に戻り、槍足軽を横に並べ、迎撃の態勢を取る。
それを見つめ、先頭を走る真田昌輝が叫ぶ。
「どけ! 雑兵ども!」
その言葉とは裏腹に、馬手(右手)で急激に手綱を引く。
合図を受けた愛駒は急制動で止まろうとする。
その余勢を駆り、真田昌輝が二間半槍を今川勢の足軽に向かってぶん回す。
黒備衆が使っている黒柄の槍は、通常のものよりも一尺三寸(約三十三㌢)ほど長い。
昌輝は横に並んだ敵の槍穂を薙ぎ払い、怯んだ足軽の一人に素早く槍を突き入れる。
瞬きほどの刹那で攻撃を終え、素早く馬首を返し、今川勢の先頭に背を見せて遠ざかる。
それを見て、思わず一歩を踏み出した今川勢の足軽に、弟を追ってきた真田信綱が槍を突き入れ、同じように馬首を返して去って行く。
鋒矢の陣形に見えた黒備衆の騎馬は、敵に一撃を加え、左右に分かれて走り去る。
その動きに釣られ、今川勢の足軽は騎馬武者の背を追いかけようとした。当然の如く、横列が乱れ、槍衾の形ではなくなってしまう。
これが波動の計の狙いだった。
真田信綱と昌輝はまるで敵を嘲笑うかの如く、同じ攻撃を繰り返す。
それを見ていた麓の小山田信茂が将兵に命じる。
「鬨を上げよ!」
二千余の黒備衆が一斉に鬨の声を上げた。
それに合わせ、法螺貝が吹き鳴らされ、陣太鼓も連打される。
もちろん、自分の先鋒を鼓舞する意味もあったが、これには別の狙いがある。
激しい音を立てれば、敵も負けじと気勢を上げる。それが峠の反対側に響くことが重要だった。
薩埵峠のすぐ後方にいる庵原城の朝比奈信置に戦いが開始されたことが伝わればよかった。
小山田信茂の隊が上げる鯨波に呼応し、後方で待機している馬場信春の隊も鬨の声を上げる。
薩埵峠の頂上でも負けじと今川勢が声を上げる。
辺りは凄まじい咆吼に包まれた。
それは駿府城にまで届きそうな勢いだった。
真田信綱と昌輝の先鋒三百騎は、敵の兵力を細かく削りながら、今川勢の足軽を麓まで引き寄せる。
そこで麓に鶴翼の陣を布いていた小山田信茂の隊二千余が動く。
「よし! かかったぞ! 一気に包め!」
両翼の足軽衆が細長く延びた今川勢の足軽隊に襲いかかる。
役目を終えた先鋒は、鶴翼の陣の中央で一息つく。
「思いの外、上手くいったな。波動の計」
真田信綱が息を切らしながら言う。
「馬比べは、それがしの勝ちだ、兄者」
弟の昌輝がにんまりと笑いながら、愛駒の首を撫でる。
小山田信茂は今川勢の先鋒を討ち取りながら、峠を登っていく。
この日の戦いは陽が落ちる頃まで続き、先手を取った武田勢の優勢に終わる。
それでも今川勢は薩埵峠の頂上で踏ん張り、東側だけの戦いで済んだ。
翌日、払暁とともに戦闘が再開される。
今度は馬場信春も合流し、一進一退で戦いが進む。
ところが、今川勢に異変が起こる。
昨日、薩埵峠で戦いが起こったことを知った庵原城の朝比奈信置が叛旗を翻したのである。
それに感づいた今川氏真が庵原城の様子を探る。
朝比奈信置に裏切られたことを知り、今川氏真は清見寺に陣取っていることに危険を感じ始めた。
氏真はこの本陣を出て、駿府の今川館に戻ろうとする。
しかし、そこでも信じ難い寝返りに合う。
今川駿府館の留守居役であった従兄の瀬名氏詮(信輝)が武田家に内応し、館を占拠したのである。
これにより、今川氏真は館に戻ることができなくなり、北西にある詰城、賤機山城に向かおうとした。
だが、その行動が薩埵峠の今川勢に思わぬ余波をもたらす。
今川氏真の独断により撤退が先陣に伝わると、今川勢は総崩れとなってしまう。
これを見逃さなかった馬場信春は、黒備衆を率いて一気に薩埵峠の頂上へと攻め上る。
今川勢の先陣大将、庵原忠胤はなすすべもなく、峠の西側へと敗走した。
それを追い、馬場信春の黒備衆は、その日のうちに駿府へと突入する。
副将の小山田信茂を賤機山城に向かわせ、ここを占拠させた。
このため、今川氏真は詰城にも入れず、やむなく重臣の朝比奈泰朝がいる遠江の掛川城へ落ちのびる。
まんまと内応の策を成功させ、馬場信春は今川の駿府館を包囲する。
「館に火をかけよ!」
その命令を聞き、真田信綱が驚く。
「……さ、されど、美濃守殿、御屋形様が」
「構わぬ。燃やしてしまえ!」
信春は信玄から駿府館には今川家代々の貴重な宝物があるため、火をかけないようにと命じられていた。
「……まことに、よろしいので?」
「構わぬ! われらが今川の財宝を目当てに駿府を攻めたと思われては、末代までの名折れである。館ごと、燃やしてしまえ!」
馬場信春は今川の駿府館を焼き払って廃墟にする。
さらに躊躇いもせず、駿府の町にも火をかけた。
その頃、信玄の本隊は東海道の由比北田に到着し、東の蒲原城を警戒していた山縣昌景の赤備衆と合流する。
「三郎兵衛、黒備衆はどうした?」
「薩埵峠の今川先陣を打ち破り、その余勢を駆って駿府まで攻め込んだと報告を受けておりまする」
「さようか。蒲原城の北条は、どうだ?」
「まだ、目立った動きはありませぬ。されど、われらが後詰を務め、蒲原城を牽制いたしますので、御屋形様はこのまま駿府へお向かいくださりませ」
山縣昌景の言葉に、信玄が頷く。
「わかった。よろしく頼む」
武田勢の本隊は薩埵峠へ向かう。
一刻(二時間)後、信玄は峠の頂上から西に駿府を眺めていた。
――民部は駿府館を焼いたのか!?……それとも、今川方が火をかけて逃げたのか?
所々から上がる煙を見て、眉をひそめる。
――いち早く駿府館から今川氏真を追い立てたのはよしとすれども、あまりの乱妨狼藉はこの後の統治に影響を及ぼす。まずは、駿府館へ向かい、状況を確かめるか……。
信玄の率いる武田勢本隊が薩埵峠を西へ下り、代わりに山縣昌景の赤備衆が峠に登った。
駿府に入り、焔の中で崩れていく今川家の館を見ながら、信玄が馬場信春に訊く。
「民部、これはいったいどういう状況であるか?」
「御屋形様、懼れながら申し上げまするが、館にはそれがしの独断で火をかけましてござりまする。それというのも、当家が今川家と戦になったのは、塩止めなどの非道な行為があったからにござりまする。しかれども、口さがない国人衆などに、『武田は今川家の財宝を目当てに駿府を攻めた』などという風聞をばらまかれてはたまりませぬ。さように、盗賊まがいの戦をしたと思われては、末代までの名折れとなりまする。それゆえ、この館に迷わず火をかけました。宝物を得るよりも、後の百年の名声を選ぶ方が尊いと考えました。加えて、すべてが灰燼と帰せば、今川氏真も駿府へ戻る理由がありませぬ」
馬場信春はまっすぐに主君を見つめながら言葉を続ける。
「されど、もしも、御屋形様がこれが出過ぎた真似であるとお思いならば、それがしはいかような罰も受ける所存にござりまする」
「……さようか」
信玄は微かな溜息をつく。
「ならば、よし。民部、そなたに咎は問わぬ。その気概を汲もう」
「恐悦至極にござりまする」
安堵の面持ちで、信春が頭を下げた。
そこに赤備衆の使番、小幡光盛が駆け込んでくる。
「ご注進! 蒲原城から北条の先鋒と思しき軍勢が動きました! 薩埵峠の麓に向かっておりまする!」
「やはり、動いてきたか。民部、ここは余の本隊に任せ、そなたは三郎兵衛の加勢に向かってくれ。北条に峠を越えさせてはならぬ」
信玄が馬場信春に命じる。
「承知いたしました」
黒備衆は再び薩埵峠の頂きを目指す。
今川氏真の舅である北条氏康と、惣領の氏政が今川家への助勢を決めたことで、事態は一気に緊迫する。
この時、蒲原城に入っていたのは北条氏信であった。
氏信は北条幻庵(長綱)の次男であり、氏康にとっては叔父にあたる。
元々は武蔵小机城々主として小机衆を率いる頭領であったが、河東一乱の後、駿河にある唯一の北条方の城を任されていた。
当然のことながら、北条勢の本隊が救援に来られるはずはなく、北条氏信の先鋒隊は城の兵を率い、物見も兼ねて薩埵峠へ向かっていた。
これを知った山縣昌景の赤備衆は峠の東側を固め、迎え撃つ構えを取る。
北条氏信の率いる北条勢の先鋒隊は由比西倉澤で止まり、野戦の陣を構えて峠の様子を窺った。
やがて、駿府にいた馬場信春の黒備衆が薩埵峠に到着し、武田勢先陣一万余が揃い、万全の迎撃態勢を整える。
敵の増援を知った北条氏信は、そのまま由比西倉澤に留まり、両軍の睨み合いが続いた。
ここに至り、北条家の今川に対する助勢が確かになったことで、三国同盟は完全に瓦解する。
――北条とも手切が決まった以上、何か仕掛けを考えておいた方がよいかもしれぬ。
信玄は新たな戦いを想定し、策を練る。
――北条がすぐに越後と和睦できるとは考えられぬ。やはり、坂東で事を動かすしかなかろう。常陸の佐竹義重や下総の簗田晴助に北条領への侵攻を要請するか。われらと戦を構えれば、三方に敵を抱えることになると、北条に思い知らせねばならぬ。
すぐに使番の加藤信昌を呼び、駒井政武への伝言を託す。
「……そなたは甲斐の府中へ戻り、高白にこの件を説明し、交渉は任せると伝えてくれ」
「承知いたしました。すぐに向かいまする」
加藤信昌は一礼し、素早く踵を返した。
薩埵峠では、馬場信春、小山田信茂、山縣昌景、浅利信種が集まり、由比西倉澤に陣取った敵への対処を話し合う。
「ざっと目算したところ、敵の兵数は二千ほどと思われまする。われらだけでも、一気に打ち破ることができるかと」
山縣昌景の具申に、馬場信春が答える。
「おそらく、われらが峠を下り始めた途端、敵は西倉澤から退き、蒲原城へ逃げ込むつもりであろう。それではわれらの動き損となる。ここは兵の消耗を抑え、静観する方がよかろう」
「されど、それでは北条方の増援が来てしまうのではありませぬか?」
赤備衆副将の浅利信種が訊く。
「敵の先鋒は北条の本隊が来るまでの間、われらへの偵察を行うために押し出してきたのであろう。本気で戦うつもりなどなかろう」
馬場信春はあくまでも静観を主張する。
「されど、滞陣が長びけば、われらの兵粮が先に尽きまする。やはり、早めに敵の先鋒を潰した方がよいのではありませぬか」
黒備衆の副将、小山田信茂は交戦を進言する。
「敵が蒲原城へ退けば、われらは城攻めを行わなければならぬ。それでは兵の負担が多くなりすぎる。いかほどの兵数で北条の本隊が駆けつけようとも、野戦になれば、この峠を抑えているわれらが有利だ。兵粮ならば、小幡昌盛が河内路(身延街道)を使って運んでいる最中だ。まだ、余裕はある。ここは焦らず、騒がずとまいろう」
馬場信春は静観の策を押し通した。
先陣が薩埵峠から動かない方針を固めたことは、信玄に伝えられる。
武田勢の本隊も寝返った庵原城を足場とし、越年のための本陣を築く。
戦いが新しい局面を迎える中、永禄十一年(一五六八)が終わろうとしていた。
(次回に続く)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?