新 戦国太平記 信玄 第七章 新波到来(しんぱとうらい)8 (上)/海道龍一朗
八十六
傅役の保科正俊を伴い、諏訪勝頼が颯爽と躑躅ヶ崎館へ入ってゆく。
申次役の武藤(真田)昌幸が出迎える。
「ご苦労様にござりまする。御屋形様がお待ちになっておられまするゆえ、こちらへどうぞ」
三人は奥の間へ進む。
「御屋形様、勝頼様がお見えになりました」
襖越しに、昌幸が声をかける。
「中へ」
室内から信玄の声が響いてきた。
「失礼いたしまする。勝頼、お呼び立てにより、罷り越しましてござりまする」
諏訪勝頼が一礼してから室内へ入る。
「四郎、これへ」
信玄が招き寄せる。
「息災か?」
「はい、父上。本日はいかなる御用向きにござりましょうや?」
「良い話だ、四郎。上野の箕輪城を攻め落とすぞ。総大将は、そなただ」
父の言葉に、勝頼は驚きを隠せない。
それから、少し不安げな面持ちになる。
――上野の箕輪城といえば、難攻不落と言われる堅城ではないか。その城攻めの総大将など、この身に務まるであろうか……。
そんな思いが脳裡をよぎっていた。
「心配いたすな、四郎。伊賀守の諜知によれば、敵の城兵は三千程度だ。われらは二万の軍勢をもって総攻めにいたす」
「二万の軍勢!?」
「さようだ。西上野攻略の締め括りとして、ふさわしい戦となるであろう」
信玄は自信に満ちた口調で言った。
箕輪城は確かに上野一の堅城として名高かったが、それを守ってきた長野業正が身罷ってからは、箕輪衆の離反が続いた。
業正の跡を嗣いだのは齢二十三の長野業盛だったが、すでに人心が離れ、孤立している。
跡部信秋が放った透破たちの諜知によってそのことを知り、信玄は箕輪城の攻略を決意したのである。
それだけではなく、昨年起こった嫡男の諫諍騒ぎで揺らいだ家中の結束を固めるためでもあった。
同様に、昨年十一月、織田家の姫と縁組した諏訪勝頼に手柄を立てさせる戦でもある。
嫡男の義信は未だに東光寺で幽閉されており、勝頼は事実上の世子と目されていた。
信玄の目論見としては、この箕輪城攻めの総大将を勝頼とし、攻略を終えた後に武田の姓を名乗らせるつもりだった。
また、箕輪城攻略を節目とし、坂東での戦いを切り上げようと考えていた。
そういった意味で、いくつもの狙いが秘められた非常に重要な合戦となるはずだった。
「……父上、それがしに二万の総大将が務まるでありましょうか?」
諏訪勝頼は不安を隠しきれない。
「臆さずともよい。一徳斎は手ぐすねを引いてこの戦を待ち望んでおるし、新たに赤備衆を率いる昌景も張り切っている。皆がそなたを支えてくれるはずだ」
「わかりました。精一杯、務めさせていただきまする」
「その意気だ、四郎」
信玄は満足げに笑う。
箕輪城攻めの陣触が出された頃、暦は永禄九年(一五六六)九月に入っていた。
諏訪勝頼は高遠城に戻り、保科正俊と戦支度を進め、高遠衆をまとめる。それから、再び甲府へ入り、今回の総大将として武田家の家宝である御旗楯無の前で出陣の儀を行った。
己の初陣以来のことであり、自然と身が引き締まる。
――おそらく、今のこの身にとって、総大将の役目は過分だ。されど、逃げるわけにはいかぬ。力量不足を覚悟の上で、突き進むしかない!
勝頼は己に言い聞かせながら、声を張る。
「御旗楯無、ご照覧あれ!」
「曳、曳、応! 曳、曳、応!」
躑躅ヶ崎館に武田勢の鯨波が広がる。
出陣の儀を済ませた諏訪勝頼は、武田勢の本隊を率いて諏訪の高島城へ向かう。
もちろん、この本隊には信玄も随行していたが、あくまでも後見人として勝頼にすべてを委ねていた。
甲府から若神子城を経由し、 諏訪湖畔の高島城に入った諏訪勝頼は、抜きがたい郷愁に囚われる。
――懐かしい……。
ここは信玄が母の諏訪御寮人のために築き、二人で住んでいた城だった。
いわば、勝頼にとっては故郷のような場所である。
――やはり、諏訪はよい。この城には、まだ母上のお白粉の香りが漂っているような気がする。
美しかった母の面影を思い出していた。
この日、久方ぶりに信玄は息子と夕餉を共にする。
「まったく、この城にいると、戦のことなどすっかり忘れてしまいそうになる。それほど、そなたの母の気配が色濃く残っており、心地良いのだ」
信玄は微かに眼を潤ませながら盃を傾けた。
「於麻亜にも、そなたの雄姿をひと目見せてやりたかった」
――父上はこよなく母上を愛でておられたのだな。
勝頼はそう思いながら睫毛を伏せる。
「父上……」
「何であるか、四郎」
「こたびはご期待に沿えるよう、奮起いたしまする」
「楽しみにはしているが、あまり気負いすぎるな。戦は総大将一人でするものではない。武田の将兵たちは皆、優れた力能を持っている。かの者たちから戦のやり方を学ぶつもりでかかればよい」
父の薫陶に、勝頼が深く頷く。
「承知いたしました」
夕餉の後、二人は楼閣に登り、月の浮かぶ諏訪湖を眺めながら穏やかな時を過ごした。
翌日、武田勢の本隊は佐久の追分宿へ向かう。東山道を使い、碓氷峠を越えて上野に入るためである。
ここで各地の軍勢が集結し、総勢は一万五千余に膨れあがった。
この他にも吾妻の岩櫃城で待機している五千の真田勢がおり、西上野にある各城の兵が加われば、総勢はゆうに二万を超える。
総大将の諏訪勝頼を大上座に仰ぎ、上座下座に重臣たちが揃う。
その中央に、上野全体の拠点が描かれた大きな地図が運ばれ、それを囲んで軍議が始められる。
「それでは、評定を始める」
諏訪勝頼は強ばった面持ちで口火を切る。
「まずは、こたびの戦における地勢の確認と進軍の経路について確認したい。伊賀守、説明を頼む」
あらかじめ用意していた口上を述べ、評定の進行を跡部信秋に受け渡す。「皆様、地図をご覧くだされ。こたびの標的、箕輪城の周辺にある敵の拠点を赤印で示しております。箕輪城の最大の支城は、西側二里半(十㌔)に位置する鷹留城であり、箕輪城とは別城一郭の関係にありまする。いわば、孫子が説くところの『常山の蛇勢』かと」
跡部信秋が言った常山の蛇勢とは、孫子の兵法第十一「九地篇」に記された故事である。
その昔、中華の常山という天嶮に「率然」という大蛇が棲んでいたという。
率然は頭を打たれれば尾が動いて助け、尾を打たれれば頭が嚙みついて助けようとし、その胴を打たれた時は、頭と尾の双方が同時に動いて敵を退けたという話だった。
その故事にならい、孫子は「九地篇」で「本城と支城は別城一郭の関係を築き、支城が敵に攻められれば本城の軍勢が援護に駆けつけ、本城が籠城すれば支城が奇襲を狙うというような別城一郭の連携を攻守の基本とすることが理想」としている。
それが常山の蛇勢と呼ばれる喩えである。
つまり、今回は箕輪城と鷹留城がその関係にあるということだった。
それを聞いた馬場信房が手を挙げる。
「ならば、こたびの戦いはまず、箕輪城と鷹留城の連係を断つというのが基本ではありませぬか」
「民部殿の仰せの通りにござりまする」
跡部信秋が答える。
「されど、これまでの戦いから鑑みて、もうひとつ、気になる場所がありまする。それがここ、板鼻の北、若田原にござりまする」
鷹留城から北西側二里(八㌔)に位置する丘陵地帯を指す。
「過去、長野業正が健在であった時は、この若田原で何度も戦っておりまする。もしも、敵が野戦に出てくるとすれば、この場所ではないかと存じまする。もっとも、現状の箕輪衆の兵数から考えますれば、敵が野戦に打って出ることは難しかろうと思いますが、用心しておかねばならぬ場所と存じまする」
跡部信秋が示した若田原は、碓氷川の崖上にある丘陵だった。
先に陣取れば、充分に地の利を活かせる場所であり、箕輪城、鷹留城、若田原はちょうど東、西、南の三角形を成していた。
それを見た諏訪勝頼が言う。
「こたびの戦いの基本は、箕輪城、鷹留城、若田原の分断ということであるな」
「さようにござりまする」
跡部信秋が笑顔で答える。
「では、布陣はどうするか?」
勝頼の問いに、原昌胤が挙手する。
「箕輪城、鷹留城、若田原を睨むならば、われらは安中城を足場とし、松井田城を後詰と考えればよろしいかと」
この陣馬奉行が言った通り、安中城は若田原の西側二里に位置している。
安中城は二年前の永禄七年(一五六四)に、義信と飯富虎昌が攻め落とし、それ以来、東山道筋で武田方の重要な拠点となっている城だった。
上杉方にいた安中景繁は武田に降り、ここの城代は小宮山昌友が務めている。
「こたびの布陣については、若田原での野戦を警戒しつつ、安中城を拠点として敵の城砦を叩くのが常道と考えまする」
原昌胤は陣馬奉行としての提言を行った。
「安中城を足場とするならば、南東にある和田城は若田原の挟撃に使えるのではあるまいか?」
諏訪勝頼が地図を指す。
「仰せの通り、和田業繁にそれなりの将兵を送れば、和田城は若田原の挟撃に使えると存じまする」
原昌胤が頷く。
「では、若田原に敵が出てきた時は和田城にも一軍を廻すことにしよう」
「御大将、もうひとつ注意すべき点がありまする」
跡部信秋が進言する。
「若田原と鷹留城の間には、高浜砦、里見砦、雉郷砦など、煩わしい敵の拠点がありまする。これらの砦に敵兵が入っていると、奇襲など面倒なことがあるやもしれませぬ。すべて雉子ヶ尾峠を越えたところにあり、先遣の遊撃隊を作り、砦を叩いておくべきと考えまする」
「なるほど」
勝頼が頷く。
「進軍に際し、透破と物見の兵を走らせますゆえ、逐次、状況が報告できると存じまする」
跡部信秋が付け加えた。
「御大将、進軍はわれら先陣の両備が露払いをいたしまする」
馬場信房が発言する。
「昌景の赤備衆とそれがしの黒備衆が先導いたしますゆえ、ご安心を」
先陣を担うのは、赤備衆筆頭に抜擢された山県昌景と黒備衆を率いる馬場信房だった。
「御大将、われら真田衆は吾妻の岩櫃城におりますゆえ、別働隊五千とお考えくださりませ」
真田幸隆が発言する。
「われらは岩櫃城から榛名山の西麓を南下し、最短で鷹留城の喉元に出ることができまする。そこでわれらに、鷹留城攻めをお任せいただけませぬか」
「どうであろうか、民部……」
勝頼は馬場信房の表情を窺う。
「よろしかろうと存じまする。われら先陣は若田原を睨みつつ箕輪城に寄せますゆえ、一徳斎殿に鷹留城を落としてもらえると助かりまする」
「さようか。ならば、鷹留城は一徳斎に任せる」
勝頼の言葉に、真田幸隆は笑みを浮かべる。
「有り難き仕合わせにござりまする」
軍評定は思いの外、順調に進んだ。
「では、明朝より安中城を目指し、進軍を開始する。皆、よろしく頼む」
滞りなく評定を締め、諏訪勝頼は安堵の表情を見せる。
室に戻ると、すぐに信玄が訪ねてきた。
「父上、評定はいかがにござりましたか?」
「なかなか良かったのではないか。皆がそれぞれの役目をしっかりと摑んでいることが確認できたであろう」
「さようにござりまするか。安心いたしました」
「ひとつ、面白き話があるのだが、聞いてみるか?」
信玄が意味ありげな笑みを浮かべる。
「是非、お願いいたしまする」
「安中城と松井田城を任せている小宮山昌友の家臣に無理之助という漢がおる」
「無理之助!?」
「さよう。無鉄砲なことを好み、どんな無理難題からも逃げぬ剛の者であるとほざき、自らを無理之助と称している。実の名を名和重行というのだが、その者にさきほどの先遣遊撃隊を任せてみてはどうだ。砦ひとつぐらいならば、寡兵でも落としてくるのではないか」
「名和重行……」
「実はな、小宮山昌友もそれに負けず劣らずの荒くれ者でな。二人にそれなりの兵を与えてやれば、煩わしい敵の砦などすぐに潰してくるであろう。安中城と松井田城を任せているぐらいだから、あの辺りの地勢にも詳しい。夜襲を命じれば、喜んで出張っていくはずだ」
「まことにござりまするか」
「余はそなたの軍師だからな。実際に使える策しか進言せぬ」
信玄は愉快そうに笑う。
「有り難うござりまする、軍師殿」
勝頼も嬉しそうに笑い、親子二人だけで秘策を練った。
翌日の払暁とともに、武田勢一万五千が動き始める。
黒ずくめの甲冑に身を包んだ馬場信房が、赤備の山県昌景の肩を叩く。
「どうだ、山県殿。わが軍の先頭を行く気分は? まるで、初陣の如き心地であろう?」
「……民部殿、おからかいになられまするな」
山県昌景が困ったように頭を掻く。
「からこうてはおらぬよ、源四郎。すべてを吹っ切るためにも、堂々と先頭を行け。それがしは後から見せてもらう」
「先頭を譲っていただき、有り難うござりまする」
昌景が頭を下げる。
「なんの、なんの」
馬場信房は笑いながら後輩の背を叩いた。
すべての支度が調い、総大将の諏訪勝頼が馬上で采配を振る。
「いざ、参る!」
その合図で法螺が吹き鳴らされ、先頭にいた赤備衆が歩き始めた。
追分宿から長倉の牧(中軽井沢)を通り、碓氷峠の麓に着くまでが約一刻半(三時間)の行程である。
そこから急坂を登り、峠で休憩してから、再び急坂を下りて松井田城に至るまで約三刻(六時間)を要した。
先陣は足を止めずに二里半(十㌔)先の安中城をめざし、本隊が松井田城に入った頃、中天から陽が傾き始める。
山県昌景と馬場信房は、安中城から物見を出し、若田原の周辺を探った。
松井田城に入った勝頼と信玄は、到着を待っていた城代の小宮山昌友に命じて名和重行を呼ぶ。
「実は総大将から二人に頼みがあるそうだ」
信玄の言葉に、小宮山昌友と名和重行が緊張する。
「……何なりと、お命じくださりませ」
「二人がこの辺りの地勢に詳しいと聞き、敵方の砦を夜襲できぬかと考えた。忌憚のない意見を聞かせてくれぬか」
勝頼は若田原と鷹留城の間にある高浜砦、里見砦、雉郷砦への攻撃について話す。
「……なるほど、喉にかかった小骨の如き砦を潰しておきたいというお考えにござりまするか」
小宮山昌友は感心したように頷く。
「安中城からならば、一番近い雉郷砦まで一里半(六㌔)ほどにござりまする。雉子ヶ尾峠を越えてしまえば、一刻(二時間)もかかりませぬ。そこから東へ一里(四㌔)ほど進めば、里見砦に着きまする。この二つは里見宗義という敵将が守っている砦にござりまする」
小宮山昌友は淀みなく説明を続ける。
「最後の高浜砦は匂坂長信という敵将が入っているはずにござりますが、里見砦から烏川を挟んで半里(二㌔)のところにありまする。一晩で三つの砦を潰すのならば、三隊を同時に動かすのがよかろうと存じまする」
「どうだ、無理之助。いかほどの兵があれば、そなたならば潰せるか」
信玄は名和重行に訊く。
「砦ひとつに、三百の兵もあれば充分かと存じまする。もしも、お許しいただけますならば、それがしが朝までに高浜砦を潰してご覧にいれまする」
「まことか」
勝頼が名和重行に確認する。
「お任せくださりませ」
「無理之助が高浜砦へ向かっている間に、それがしが二隊を動かし、雉郷砦と里見砦を潰しておきましょう」
小宮山昌友は何の外連もなく言い切った。
「それは頼もしい」
信玄は満足げに鬚をしごく。
「では、それぞれの隊に三百五十の兵をつけるゆえ、二人に夜襲を頼めるか」
勝頼の問いに、二人は頭を下げながら声を揃える。
「お任せくださりませ」
「それぞれに透破と乱破の衆もつけるゆえ、物見に使うがよい」
信玄が言い渡す。
「有り難き仕合わせ」
二人が同時に答えた。
こうして、小宮山昌友と名和重行による夜襲が決まった。
翌日、武田勢の本隊が安中城へ入る。
夜更け過ぎになり、小宮山昌友と名和重行が率いる三隊が闇に紛れて安中城を出立し、密かに雉子ヶ尾峠を越える。
小宮山昌友は雉郷砦の近くに三百五十の一隊を潜ませてから、名和重行と一緒に里見砦へ向かう。昌友の率いる一隊が里見砦へ攻めかかると、名和重行は三百五十の兵を率いてまっすぐに高浜砦へ向かう。
一気に烏川を渡り、名和重行は高浜砦へ攻めかかった。
この時、守将の匂坂長信は箕輪城に詰めており、将のいない砦は難なく落ちる。名和重行は高浜砦に火を放ち、それから里見砦へ向かう。
小宮山昌友の一隊は、里見宗義を討ち取り、砦に火をかけていた。
二人は互いの首尾を確認してから、一緒に雉郷砦へ戻り、総勢で一気に潰した。
夜が明ける前に雉子ヶ尾峠を越え、何食わぬ顔で安中城へ戻る。
まさに電光石火の夜襲だった。
この一報を聞き、諏訪勝頼をはじめとする将兵の気勢が一気に上がる。
砦を落とされたことを知った箕輪城の長野勢は、白川満勝、大道寺信方、岸信保らの将が千五百を率いて若田原へ出張ってきた。
この一報を受け、安中城から先陣の両備が出立し、板鼻に陣を布いた。
同じ頃、岩櫃城を出立した真田勢が鷹留城を囲む。
くしくも箕輪城と鷹留城を分断する形で緒戦が始まる。
これが永禄九年(一五六六)九月二十五日のことだった。
わずか千五百の長野勢に対し、武田勢は先陣の両備だけで四千余の兵力があった。
山県昌景と馬場信房は一気に攻めかかり、長野勢はほとんどの兵を失い、総崩れとなりながら箕輪城へと退却する。
同じ頃、真田幸隆の率いる五千が鷹留城へ攻め寄せて落城させる。この時、城方の長野勢はわずか五百しかいなかった。
まさに電光石火。画に描いたような緒戦の勝利だった。
これらの報告はすぐに総大将の諏訪勝頼に伝えられる。
安中城ではいつまでも勝鬨が止まなかった。
その後、長野業盛は箕輪城に籠城するしかなくなったが、城兵はわずか千五百ほどだった。
九月二十七日になり、総勢二万余が揃った武田勢は北へ進路を取り、箕輪城を囲む。
この城は本丸を中心に、御前曲輪と二の丸が中核となっており、その周りに複雑な堀がめぐらされている。
この堀を隔てた西側に通仲郭、蔵屋敷、三の丸、鍛冶郭が続き、東側に稲荷郭、南側に帯曲輪があり、搦手口となっていた。
城兵が多い時は、この搦手口に敵を誘導して有利に戦えるが、少ない城兵で戦うとなると、この南側が備えの薄い場所となってしまう。
城の西側に本陣を構えた諏訪勝頼のもとへ、跡部信秋がやって来る。
「御大将、ひとつ内々のご報告がありまする」
「何であるか、伊賀守」
「実は、箕輪城に毒を仕込んでおりまする」
「毒?」
「はい、その毒とは、われらに内応する長野業盛の家臣にござりまする。それがしが城内の小暮繁吉という者を調略し、われらの城攻めが始まったならば、内側から門を開ける手筈となっておりまする」
「まことか!?」
「西の大手口虎韜門と東の搦手口が開くはずにござりまする。まずは、この二カ所に先陣を向け、一気に総攻めするのが肝要と存じまする」
「わかった。では、民部と三郎兵衛にその件を伝えてくれ」
「承知いたしました」
跡部信秋は策を伝えに走った。
そして、二十九日の払暁から箕輪城への攻撃が開始される。
鬨の声が上がるとすぐに、内応していた城方の小暮繁吉により、東の搦手口が開け放たれた。
「よし! 手筈通りに門が開けられた。焦ることはない、相手は寡兵だ。落ち着いて進め!」
東側に陣取っていた馬場信房の先陣、黒備衆が搦手口から城内へなだれ込む。
搦手口は城の大手口に対し、裏口に相当するが、実は本丸に近い。
ここには馬出があり、まずはそれを占拠して次の行動に備えた。
「……そ、それがしは、どういたしましょう?」
小暮繁吉が上目遣いで訊く。
「そなたはわれらと一緒に来てくれ。城中の案内を頼む」
馬場信房が簡潔に答える。
「……承知いたしました」
小暮繁吉が案内役として帯同することになった。
それから黒備衆は搦手口から帯曲輪へと進み、ここを難なく制した。
さらに西の大手口で小暮繁吉の叔父、小暮勝吉が虎韜門を開け、山県昌景の赤備衆が侵入する。
「そなたが小暮繁吉の手の者か?」
山県昌景が内応者に訊く。
「はい。叔父の勝吉と申しまする」
「よくやった。この先はどうなっている?」
「東側へ進みますと三の丸へ至りまする。されど、この虎韜門からは、白川河原に出られる秘密の通路がござりまする。白川口埋門と呼ばれ、虎口の両側に石垣を積み、上に木や石を渡して土手を盛り、その下に穴道を掘っておりまする」
「なるほど、隠路か。信種!」
山県昌景は赤備衆副将の浅利信種を呼ぶ。
「はっ!」
「この者の案内で白川口埋門という隠路へ行き、出入りができぬよう制してくれ」
「承知いたしました! では、案内を頼む」
浅利信種は手勢と小暮勝吉を伴って埋門へ向かう。
「われらはこのまま三の丸へ進むぞ!」
山県昌景が残った赤備衆に告げる。
「なるべく犠牲を出さぬよう、三人一組になり、遭遇した敵一人を討ち取れ!」
赤備衆の先陣は、一気に三の丸へ攻め込む。
一方、帯曲輪を制した黒備衆は、本丸の北側にある二の丸へ攻め寄せる。この曲輪は三の丸と背中合わせになっていた。
この二の丸と三の丸のすぐ南側に大堀切と呼ばれる巨大な空堀があり、城の東西に延びて深く掘られている。箕輪城は南北に細長い縄張りとなっていたが、この大堀切が城郭を南北二つに分ける役割をしていた。
南北の曲輪は中央にある土橋ひとつで連絡されており、城兵の数が潤沢な時は南側を失っても、土橋を落として本丸のある北側だけで籠城できる仕組みとなっていた。
ここにも「一城別郭」という思想が貫かれており、これは名将、長野業正が築き上げた戦いの作法だった。
しかし、箕輪城の長野勢はすでに一千五百ほどになっており、南側に城兵を廻す余裕はなかった。
南には真田幸隆が率いる真田衆と足軽中備衆が控えていた。
幸隆の命により、足軽中備衆が二手に分かれ、大手尾根口と観音様口を打ち破る。真田衆も二手から城内に侵入し、慎重に北へと進んだ。
南側には水の手曲輪、椿名尾根曲輪、郭馬出に続く木俣がある。
通路が二手に分かれていることを二俣と呼ぶが、五つの方向に分かれている状態を木俣という。郭馬出から出た道は、まさに木の形をしていた。
しかし、どの場所も蛻の殻だった。
「父上、敵兵の姿がまったくありませぬ」
眉をひそめながら真田信綱が言う。
「やはり、外れを引いたか。まあ、われらは鷹留城をいただいたのだから、それでよしとしよう」
真田幸隆が苦笑しながら息子に答える。
「父上、この後はいかがいたしまするか?」
「南側を虱潰しに調べ、それから本隊と合流する。昌輝!」
幸隆は次男の真田昌輝を呼ぶ。
「お呼びにござりまするか」
昌輝は百足衆に所属する使番である。
「南側の曲輪はすべて制しましたと、本陣の御大将に伝えてくれ。その後、二つの先陣を廻り、同じ報告を頼む」
「わかりました。すぐにまいりまする」
真田昌輝は東側の搦手口にある本陣へ向かった。
各所からの報告は、こうした使番たちにより、迅速に本陣へ届けられている。
諏訪勝頼は幔幕内の床几に腰掛け、次々に現れる使番の報告を聞いていた。
――ここまでは、まさに予定していた通りの戦果だ。さて、この後はどうするか。……自ら城内へ打って出るべきか?
先陣は二の丸、三の丸を制し、別働隊も南側の曲輪群をすべて押さえている。
ひと度、内応者が出始めると、城内は崩れ始めた積木の如く脆い。報告によれば、己の保身だけを計る長野勢の城兵たちが我先に降伏しているという。
先陣の黒備衆と赤備衆は一息入れ、本丸攻めの下知を待っている。
――もしも、城内へ入るならば、父上に一言お断りを入れておいた方がよいな。
そう考え、諏訪勝頼は信玄のところへ向かった。
(次回に続く)
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