メソポタミアのボート三人男 第三回/高野秀行
1-4メン・イン・ブラックの惨劇
現代の川旅は不思議だ。その昔、世界中どこでも川は交通の中心であり、川辺は栄えていたはずだが、今、川は生活の文脈と何も関係がないから、どこに行ってもまるで宇宙人がUFOに乗ってポッと降りたような気持ちになる。なにしろコンビニも自販機も何もない。地方の川の上流部では民家すらめったにない。他の人たちと全く異なった経路で、理由もなくそこに到達するみたいなのだ。
しかるに、この宇宙人は間抜けで自分の位置が地形図でしかわからない。川はいちばん低いところを流れているし、周囲に堤防や木々や岩などがあるので、視界が利かないのだ。今はともかく、以前は携帯の電波が届かないことも珍しくなかった。
北上川を旅していたときには、「ここ、どの辺ですかね?」「上がって見てみようか」などと言って、ときどき舟を降りて土手に上がった。あるときはヨーカドーとかコナカといった看板が間近に見え、「あ、町だ!」と声をあげてしまった。いつの間にか花巻市内のすぐ近くにいたのだ。車や電車で旅していたらこういう反応はありえない。
いざ、歩き出しても全てが手探り。車や鉄道で来たら、まず駅なりショッピングモールなり観光地なりに行く。つまり中心地からスタートする。ところが川の旅人はどこかわからない周縁部から出かけることになる。どんなに小さい町でも「おのぼりさん」の気分になる。地元の人を見つけると、まず訊ねるのは「ここはどこですか?」だ。
びしょびしょのゾウリや地下足袋をはいた、魚のような生臭い匂いのする男二人が突然、川から現れ、聞き慣れない訛りの言葉で「すみません、ここ、どこですか?」と訊くから、地元の人たちはたいていギョッとする。
アメリカでは二人組の黒装束の男たちが何もない田舎に突然姿を現し、トンチンカンなことを言ったりやったりして、また突然立ち去るという怪奇現象(というか都市伝説)がときどき報告されている。「メン・イン・ブラック(黒い服を着た男たち)」と呼ばれ、正体は異星人か未来人か地底人ではないかなどと噂されるが、単に川旅の人じゃないかと私は思う。
ましてや、河童伝説など、完全に川の民のことだろう。食料や生活必需品を仕入れると、その奇妙なびしょ濡れの男たちはまたペタペタと足跡を残して、川へ向かって去って行くのだ。
日本国内でもそうなのである。ましてや、土地勘もないトルコ東部(クルディスタン)の辺境の川にいると、自分がどこにいるのか皆目見当がつかない。そして携帯の電波はとても弱い。
出発して二日目は初日の渓谷や高原の風景が一変し、泥の川にいた。蛇行しているどころか、羊の腸のようにぐねぐねと曲がりくねっている。
「(富山県の)黒部川にちょっと似ている」と川博士の隊長が講釈する。「昨日は渓谷やったやろ? 今は谷から出て水が分流してるんや。扇状地ってやつだな。黒部もそうだ」
黒部か。そう聞くと、雪山を抱いた麗々しい立山連峰を思い浮かべるが、ここではのっぺりした丘しか見えない。川沿いにいるのは牛の群れだけだ。彼らは大量の糞を排出している。それが小さくて浅い川に流れ込んでいるから、この泥の何割かは牛糞なのかもしれない。
水深は深いところでも五十センチ、浅いところは十センチ程度。しばしば、パックラフトが川底に引っかかり、その都度舟から降りて、泥に足をとられながら引っ張らなければならない。
隊長は事前にグーグルマップや航空写真を読み込んでおり、かなり的確に川の状況を把握しているようだ。「この辺には危ないところはなさそうだ」とか「もう少し行くと、右側の岸から少し上がったところに村がある」などと言う。
それでも川旅は油断ができない。山とちがい、一見、とても平和そうな場所で命を落とすことがある。特に危険なのは堰や堤防、工事現場などの人工的な障害物だ。鉄骨に舟が刺さったら一発で壊れてしまうし、堰などに舟がぶつかって転覆し、そのまま人が水流に巻き込まれて死亡するという事故も起きうる。人に被害がなくてもボートが壊れたらアウトだ。
もしカヌーやゴムボートでの川下りがふつうに行われている川ならネットにいくらでも情報が載っている。どこにどんな危険物があるかもすぐわかる。でもティグリス=ユーフラテス川の舟旅情報は皆無だ。というより、情報がない川を私たちはわざわざ選んだのだ。
だから、ちょっとでも見通しが悪かったり流れが少しでも速そうなところは岸辺に上陸し、立ち上がって下流を眺めたり、ときには歩いて下見に行く。
もう一つの手段は地元の人に訊くこと。私は岸辺に人を見かけると、舟を近づけて声をかけるようにしていた。川にいる人は、多くの場合、牛飼いか工事関係の人か釣りをしている人たちだ。
「マルハバ(こんにちは)」
「マルハバ。あんたたち、何してるんだ?」
「旅行してます」
「はあ? 旅行? どこから来た?」
「日本です」
「は? 日本?」
納得するどころか、みなさん疑惑が募るようだ。無理もない。
舟など誰ひとり利用していない浅い泥の川に、突然巨大な幼児用ボートで現れ、「日本人」と名乗る二人組。まさにメン・イン・ブラックもしくはジャパニーズ・カッパである。
でもそんなことを気にしてはいられない。
「この辺に流れが急なところはありますか?」「堰か堤防はないですか?」「他に何か危険な場所はないですか」などと訊ねる。川旅に必要なトルコ語の表現だけは覚えてきているのだ。
このように実用的な会話を行うと地元の人たちの疑念も多少晴れるようで、いろいろアドバイスをくれたあと、「気をつけて」とか「よい旅を」などと笑顔を向けられる。
日中は気温が上がる。四〇度を超えているだろう。こうなると暑くてたまらないので、牛糞入りの泥水を頭からかぶる。最初のうちは匂ったが、不思議に昼も過ぎると臭くなくなる。不思議でも何でもなくて、自分自身がすでに臭いからだろう。
一日に何度か襲来する豪雨も、だんだん楽しみになってきた。突然暴風雨にさらされ、体温が一気に下がって震えが止まらなくなるものの、単調さと酷暑からいっとき解放されるのだ。そして、三十分ぐらいして青空が広がると「美しい」とさえ思える。
旅程は恐ろしく進まない。あまりに川が浅く、あまりに蛇行が多いからだ。川沿いには村が四、五キロに一つくらいあり、車で移動していれば、しょっちゅう出くわすはずだが、今の舟旅では次の村がいつもひじょうに遠い。しかも、どの村でも宿泊できるわけではなかった。
前もって、その日、どこで昼休みをとり、どの村に泊まるかをゲジゲジ眉毛のレザンと打ち合わせするのだが、その際、彼が地図を指さして、「この村はキョイ・コルジュスがいるからよくない」などと言うのだ。
キョイ・コルジュスとは英語の文献ではヴィレッジガードと記され、日本語に訳したら「村の自警団」となろうか。前述したように、トルコ東部ではPKKなどの反政府活動やクルディスタン独立運動が盛んだ。それを抑止するため、トルコ政府は地元のクルド人の一部を味方につけるという政策を行っている。それがキョイ・コルジュスだ。
軍もしくは警察の指揮下に置かれ、武器と報酬を与えられた「民兵」である彼らは、日頃は危険分子の情報などを当局にあげ、もし武装勢力や犯罪者(と当局が見なす者)がいれば、率先して弾圧もしくは逮捕に協力する。あるいは治安当局の道案内をする。彼らは地元民なので土地のことに詳しいからだ。彼らはもちろん、クルディスタン独立支持者から「政府の手先」「裏切り者」として嫌悪されている。
レザンは最初に泊めてもらったトトロさんから、この川沿いにはあの村とあの村には自警団がいるから気をつけろと言われたという。あの無口で政治に関わりのなさそうなトトロさんと村人恐怖症のレザンがそんなセンシティヴな情報交換をしていたとは驚きだ。一般のクルド人にとっても、自警団は相当嫌われているらしい。
私たちは政治的に中立なのだから、自警団がいようといまいと関係ないはずだが、レザンが嫌がるので、そういう村はどんなに居心地がよさそうでも、時間的に都合が良くても(午後三時頃には一日の活動を終了させるのが望ましい)、通り過ぎなければいけない。
かくして、私たちは連日、十時間も猛暑の泥沼で奮闘するはめに陥った。しかもレザンは私たちが休憩したり泊まったりする村を指定しておきながら、何も準備をしてくれない。村人と話ができないからだ。
驚くのはレザンが村の人に「アッサラーム・アライクム」とイスラム式の挨拶をすること。トルコでは、挨拶は基本的に宗教色のない「マルハバ」だ。アッサラーム・アライクムなんてめったに言わない。クルディスタンの村でも同じだ。しかるに、彼の頭には「村=ものすごく保守的でちょっとでも礼儀作法を間違えたら何をされるかわからない」というような刷り込みがあるらしい。ビビっているにもほどがある。村の人からしたらいかにも町の人間っぽいレザンにアッサラーム・アライクムと呼びかけられたら逆に不審に思うはずだ。
彼は日中は近場の大きな町のカフェやレストラン、もしくは自分のワーゲンの中でくつろぎ、昼飯時と夕方になると、待ち合わせ場所の村の近くで待機する。そして私たちが「村に着いた」と電話すると(村ではたいてい携帯がつながる)、ようやくやってくる。そして、慌ただしく宿泊道具やキャンプ道具を置くと、逃げるように去って行く。
二日目の夕方、バイラムヤズという村に着いたとき、珍しく彼は村にいた。電話をすると、たちまち若者が五、六人、川辺にやってきて、私たちの舟や装備を運んでくれた。川の堤防と村の間には緑の眩しい木立があり、お年寄りから子供まで、村の男性が三十人ぐらい、日陰に座ってタバコを吸ったりお茶を飲んだりしていた。その中でもひときわ濃い眉毛のレザンがいつになく上機嫌で「おい、タカノ、俺がもう村の人に話をつけておいたぞ。彼らは君たちにバーベキューを御馳走してくれると言っている」
おお、レザン、たまにはやるじゃないか。そう言うと、ワハハと得意げに笑いつつ、やはりマッハの速さでワーゲンに飛び乗って姿を消した。
私たちもそこに腰を下ろして、しばらく村の人たちと談笑していた。同じクルド人であるレザンが私たちの説明をしてくれているから、メン・イン・ブラック扱いされたりしないで済む。
「今日はここにテントを張ってもいいですか?」と私が訊くと、彼らは「テントは寒い。あの家に泊まりなさい」と上を指さした。見れば、大きな木が二本立つ間に三角屋根の小屋が設えてあった。床の高さが地上から二メートルくらいの高床式の家だ。小屋は木にも支えられているので、話に聞く「ツリーハウス」にも似ている。梯子で登って中をのぞくと、かなり立派な部屋だった。ちゃんとしたベッドが一つあり、床はもう一人が寝られるぐらい広い。二、三人で歩き回っても安定している。雨に降られても問題ないし、家の人がいないから気を遣う必要もない。
「こんないい宿はそうそうないですね」「これでレザンの評価もちょっと上がったな」などと隊長と喜んでいた。
だがしかし。そのうちなんだか様子がおかしいことに気づいた。バーベキューが始まる気配がない。それどころか、一人二人と腰をあげ、家に帰っていき、しまいに大人は誰もいなくなってしまった。それでも私たちは「今頃、誰かの家で豪華な夕食の準備をしてくれてるんですよ」と明るい希望を語り合っていた。
残ったのは子供たちだけ。彼らはうるさく私たちにつきまとい、ボートに乗って取っ組み合いをしたり、パドルで戦ったりする。喧しいし、ボートが壊されそうで心配だ。
一つ気づいたことは、ここの村の人たちはみんな、トルコ語を話しているということだ。ギャーギャーと騒がしい子供たちも、トルコ語で叫んでケンカしたり、暴れ回ったりしている。「よそ者の前ではトルコ語」という習慣が徹底されているんだなと感じた。そして、クルド語でなく、トルコ語を習ってきてしまったことを少し悔いた。もし私がクルド語を話したら彼らもそうしただろうが、こちらがトルコ語を話すから「よそ者扱い」されてしまう。
辺りは暗くなっていく。希望では空腹を満たすことはできない。というか、もう諦めた方がよさそうだ。私たちは日本から用意してきたレトルトの雑炊を引っ張り出し、お湯で温めてすすった。無言だった。
一日中、泥の川と戦い、村の人たちの話し相手で疲れ果て、バーベキューの夢を打ち砕かれた私たちは早々と寝ることにした。人の家でないからその辺は自由気ままだ。ツリーハウスに荷物を運び込み、隊長はベッドで、私は床に寝袋を敷いて寝ようとした。
だが、人の家でないとはつまり誰でも自由に訪ねてくることができることを意味する。ひっきりなしに村の若者たちがギシギシと小屋をゆるがして梯子を登ってきては、「あんたたちは誰だ?」「どこから来た?」「何してる?」と訊く。ベッドに腰掛けて煙草を吸う。「ここにはお茶はないのか?」などと接待を要求する者すらいる。
やっと帰ったと思い、うとうとすると、またギシギシと家が揺れて目が覚める。その繰り返しだ。
なにしろ居候の身分なので、その都度、対応せざるをえない。さすがに九時をまわると、やって来る人も途絶えた。失神するように眠った。
どのくらい眠ったかわからないが、突然家が激しく揺れた。「地震⁉」と夢うつつに思った。すると、今度は男が部屋に上がり込んできて、懐中電灯で私たちを照らし、何やら怒鳴っている。また、訪問者か。時計を見ると、午前三時。え、午前三時?
トルコ語で「私たちは寝ている」「今日は休みたい」「明日会おう」などと言うと、男は怒り狂った口調で何か叫ぶ。酔っ払いのような態度だが酒の匂いはしない。別のドラッグでもやっているのだろうか。仲間らしき男が二人、強引に部屋にあがってきて、小さなツリーハウスはいっぱいになってしまった。
この無礼な連中は一体何なんだ! 私も怒り心頭に発し、寝袋から身を起こして「うるさい」とか「放っておいてくれ」と喚く。男たちが何を言っているのかわからなかったのだが、そのうち「一泊百ドル払え」とか「ここから出て行け」というセリフが交ざっていることに気づいた。
「もしや……」と思い、急いでレザンに電話をかけた。寝ぼけ声のレザンに今の状況を簡単に説明し、男たちとじかに話をしてもらった。すると、真相が判明した。
この「無法者」は実はツリーハウスの持ち主だった。昼間に会った村の人たちは、持ち主が不在なのをいいことに無責任にも「ここを自由に使え」と言ったのだ。そして、真夜中に帰った持ち主は、不審なよそ者が村にやってきているばかりか勝手に自分の小屋を使っていることに激怒した……。
私たちは最初から招かれざる客だった。村の人たちは私たちをもてなすつもりなど最初から一切なかったらしい。不自然な口調でしゃべる上下黒ずくめのゲジゲジ眉毛の男と謎の日本人二人組。メン・イン・ブラック扱いされたのか、政府の回し者と思われたのか。どちらであっても不思議はない。
レザンが電話で必死になだめて、ようやく男たちは渋々引き揚げていった。私たちはろくに眠れず、夜明けとともにこの村を立ち去ることにした。
俺たちは一体ここへ何しに来たのだろう? メン・イン・ブラックもしくはジャパニーズ・カッパの我々は深い溜息をついたのだった。
1-5 トルコし苦労の村
標高が一七〇〇メートルもあるので、朝晩は一〇度前後に冷え込むが、最高気温は三五度ぐらいまで上がる。しかも我々は常に日なたにいる。
三日目は前日にも増して蛇行し、前にも増して泥の川。パックラフトは辺境仕様のため水深が十センチでもあれば浮かぶ優れものだが、それでも頻繁に泥に埋まって止まる。そのつど、泥に足を突っ込んで舟を持ち上げてひきずる。
「田植えみたいや」と隊長がぼやく。「でも、ええ土やな。これを畑にまいたら、そりゃ作物はよく育つやろ」
なるほど。よく言えば養分満点の水、下流の人々にとっては天の恵みだろう。実際にここから流れ出た肥やし汁のおかげでティグリス=ユーフラテス川の下流は潤い、人類が農業を始めることができたのだ。とは言え、肥やし汁を旅するのは難儀である。
しかし私たちをいちばん苦しめていたのは、先があまりに読めないことだ。
川旅自体、水の透明度が低いので、水中に何があるかわからない。万一、危険なものがないかいつも気にかけていないといけない。
ガイドとして雇ったはずのレザンは何の役にも立っていないどころか、旅の大きな邪魔となっていた。彼とは毎日、昼にどこかで落ち合うことにしていた。朝と晩にちょこっと会うだけではそのうち姿をくらましてしまうんじゃないかと、放し飼いの犬の飼い主みたいな心配に駆られるからだ。しかし、昼に落ち合っても、ゲジゲジ眉毛の男は何一つしない。というより、なぜか客のような顔をして昼食が出るのを待っていたり、「お茶が飲みたい」とリクエストしたりする。川から上がってびしょびしょ泥まみれの私や隊長が黙々と昼飯の用意をしたり、お茶を沸かしたりする。それを差し出すと「うん、うん」と鷹揚にうなずくレザン。
この日など、彼は水パイプを用意し始めた。「最近凝ってるんだ」と言い、バーベキュー用の火起こしセットまで持ってきて三十分もかけて用意する。私たちはとっくに昼食を終えていて、早く出発したいのにできない。
準備が整うと、彼は私の折りたたみ椅子に座って悠然と煙を吸う。ポコポコと水が軽快な音を立てる。小ぎれいで恰幅のよい彼はまるで王様のようだ。その横で、汚れた私たちは忠実な僕のように地べたに座り、黙って待つ。
岸辺の木陰から眺める川は意外なほどに美しかった。泥が日光を反射し、黄金色に光っている。岸辺は青々と草が生い茂り、黄色や紺色の控えめながらも鮮やかな花が美しさを隠しきれない村の小さな妖精たちのように短い夏を謳歌している。
泥の川で悪戦苦闘しているときは(少なくとも私には)心の余裕がなく、レザン王に侍っている今、ようやく自然を愛でている。
レザンが正しいのではないか? という恐ろしい直感が頭をよぎる。ホテルに泊まり、日中は町のカフェでのんびり過ごし、昼のひとときは河畔の素敵な場所に車で乗りつけ、召使い(私たちだ)にお茶とお茶請けを用意させ、水パイプをくゆらす。そして、泥の川に入っていく召使いを尻目に、また車で快適な町へ戻っていく。しかもそれでお金がもらえるのだ。
隊長も口数が少ない。レザンにうんざりしているだけではない。泥に嫌気がさしているうえ、持病の腰が痛むらしい。
レザン王が満足され、愛車のワーゲンが土埃を残して立ち去ったあと、私たちは重い心と体を引きずって、泥川に戻った。今日は一体いつ目的地の村に着けるのだろう。
牛がまた五十頭ぐらい岸辺をうろついていた。不思議なことに、川辺にいるのは牛だけだ。羊は山の上に行くらしい。牛飼いの少年に「川はどう? 楽しい?」と訊かれ、「水が汚い」と苦笑いしたら、「雨が降ったから」との答え。最近、豪雨が降るのでそのせいらしい。
「川にはヘビがいる。気をつけてね」と少年は言った。楽しくない要素がまた一つ付け加えられた。
でも、私たちの心を最も重くしているのは村である。一日中、猛暑の肥やし汁と格闘した後で、村の人に気を遣ったり翻弄されたりするのは疲弊する。しかも村にはめったに出くわさない。午後一時に通りかかった村に泊まるには早く、かといって次の村は午後六時着と遅すぎる。
「この辺は村もないし、いっそ川辺で野宿する方がよくないですか」
「そうやな。ここで寝たら星が綺麗やろ」
川が湾曲して乾いた岸辺が広がっている場所に舟を寄せながら隊長と話す。ここなら誰にも邪魔されない。じゃあ、そうしようと決断しかけたまさにそのとき、突然、バスカヴィル家の犬みたいな巨大な犬が現れ、ウオッ、ウオッと超重低音で吠えた。
「うわっ!」と慌てて舟の方向を変える私たち。おそらく牛の番をしている犬なのだろう。あんなライオンのような犬が夜テントの周りをうろついていたら恐ろしくて外に出られない。とりわけ隊長は、幼少のとき何度も野良犬に噛みつかれ、犬恐怖症である。「ヤクザには道を譲らんが仔犬には道を譲る」と豪語するほどだ。
「やっぱり夜は村に泊まろう」という結論になるのも無理はない。
川の水量がやや増えたところで投網を打つ一家に遭遇した。彼らも犬を連れていたが、こちらはいかにも気のよさそうなゴールデンレトリバーっぽい犬だ。
「おーい、こっちへ来いよ。お茶飲もう」とお父さんらしき男性が気さくに声をかけてくれた。こんなケースは初めてで、ぜひとも寄りたかったのだが、ここで休憩していると、村への到着がますます遅くなるので断念するしかなかった。
目的地としていたバリボスタンという村に到着したのは日も暮れかけた六時半だった。この日は十時間も川にいたことになる。
比較的立派な家が建ち並ぶ大きな村で、村の人たちも外をそぞろ歩いているのに、レザンは例によって何もしていなかった。「家に行ってもし女の人だけだったらまずい」などと首を振るばかり。そこまで気にしているのか。
ふと気づいた。もしかすると、レザンの頭には「名誉殺人」があるのかもしれない。名誉殺人とは女性が婚姻外の性交渉を行った場合(結婚前に恋人と寝てしまうとか不倫とか駆け落ちとか)、女性の兄弟がその女性を殺害して一族の名誉を守るという悪名高き習慣だ。イスラム圏の各地にあるが、トルコのクルディスタンの田舎では特に多いと聞く。シティボーイのレザンはいまだに独身で、付き合う女性をとっかえひっかえしていると自慢げに語っていたから、村の人にそれがバレたらヤバいとビクついているのかもしれない。少なくとも、レザンの頭には「田舎の人=とにかく保守的で強情な人たち」というイメージが刷り込まれているようだ。
シティボーイに期待するのはやめて、川辺の手近な農家の軒先にテントを張らせてもらおうと、自分で交渉しに歩き出したとき、「ハロー! どこから来たの?」と英語で声がかかった。知的な顔をした細身の若者が握手を求めてきて、「今日、うちに泊まっていいよ」と言った。疲れていたし、夜の雨が心配だったのでこの申し出は本当に嬉しかった。
若者の名前はエイユップ。なんでもこの近くにあるアールという大きな街の大学で心理学を専攻する学生だという。以前、ハンガリーに一学期だけ留学し、その後、ヨーロッパ各地を旅した。カネがなくて、パリでは道端に野宿していた。
「そのとき、親切な人たちに助けてもらったから、ぼくもあなた方を助けたいんだ」とにこやかに話す。
彼と話しているうちに、似たような年頃の若い男子たちが続々と集まってきて、私たちのボートや荷物などを担いで歩き出した。みんな、エイユップの親戚だという。
このバリボスタン村は二百五十世帯、人口二千人の村だが、そのうち六家族百人がエイユップの一族で、どうやら村の名家らしい。巨大なトラクターを六台も所有していた。
彼の家の近くでは二十歳前後の可愛らしい女子たちがこちらに手を振り、私たちをスマホでパシャパシャとフラッシュを焚いて写真撮影する。
「アイドルになった気分や。びっくりやな」と先ほどまでとは打って変わって上機嫌の隊長が言う。
「また村で苦労すると思ってましたからね」
「そういうのをトルコし苦労って言うんや」とダジャレまで飛び出した。
エイユップの家は白壁の大きな農家だった。
家の入口にある水道のきれいな水でボートを洗い、続いて自分たちもシャワーを浴びる。舟旅を始めてから最初の水浴びは最高に気持ちがいい。と同時に、何かが自分から流れ落ちたような気がした。よいものか悪いものかはわからないのだが。
家の中に入ると、広くて驚いた。絨毯が敷きつめられた十五畳ぐらいありそうな部屋が四つ。私たちはエイユップの部屋を寝室にあてがわれた。
居間で、彼のお父さんや兄弟たちと挨拶し、お茶をいただく。お父さんは木訥な農夫といった雰囲気の人物。
お茶請けにクルミとドングリに似た木の実が出た。他の人たちはクルミを石で叩いて割っていたのに、お父さんだけはなんと素手で握りつぶしていた。いったいどんな握力をしているんだろう。クルドの農夫、おそるべしだ。
ワンの街では女性はベールをかぶっていない人の方が多く、男女が一緒に食事をすることも当たり前だが、村に行くと完全にイスラムの世界。女性はお茶や食事で同席しないし、お客がいるときは家の中でもベールをかぶっている。でも、ここでは女性は家の中を自由に行き来し、私たちにもニコニコと笑いかける。
初めてクルドの村の家庭をリラックスして体験できた。
英語が通じるので、いろいろな話ができる。今は小麦の収穫期なので、一家総出で畑に出ていること、ここは冬にはマイナス二〇度~四〇度まで下がり、雪も一〜二メートル積もって猛烈に寒いこと、冬には家畜を屋内に入れなければならないから羊を何百頭も飼えなくて代わりに牛や馬を飼っていること(羊を飼う人はもっと暖かい土地に暮らし、夏になるとこの辺にやってくる)、彼らの祖先は百年ぐらい前にイランから移住してきたこと……。
気づけば、他の人たちはふつうにクルド語で話をしていた。クルド人の家族だから当然なのだが、今回の旅では初めて見る光景だ。私がトルコ語を話さないのがかえっていいのかもしれない。クルドの人は、誰かひとりでもトルコ語を話すと、他の全員がそれにならってクルド語を自粛する傾向にある。
食事も素晴らしかった。お母さんは焼きたての薄いパンを見せてくれたが、その長さにびっくり。一メートルもあるのだ。この村ではどこもこの巨大ベロのようなパンを自宅で焼くという。さくさくふかふかでなんとも言えない香ばしさ。
今さらながらクルド語を少し教えてもらう。
パンは「ナン」、チーズは「パニール」、お茶は「チャイ」で、インドのヒンディー語とほぼ同じだった。ちなみに1から10までの数字もヒンディー語そっくり。クルド語はインド=ヨーロッパ語族のインド・イラン語派で、ヒンディー語やペルシア語と近い親戚関係にあることを実感する。
面白いことに薄長ナンは皿として用いる。膝の上やテーブルの上にナンを敷き、その上におかずを乗せて食べるのだ。トマトとキュウリとタマネギのサラダは味付けが塩だけなのに野菜の甘みが舌に沁みる。油たっぷりで口を火傷しそうなアツアツのトマトベースのチョルバ(スープ)、柔らかく煮込んだチキンも絶品であった。
デザートはメロン、ブドウ、さらにヨーグルトドリンクのアイラン。アイランはトルコの国民的飲料で、どんな食料品店でもレストランでも置いてあるが、この家のものは搾りたての生乳を使っているので鮮度がちがう。実は私は十年ほど前、ワンの近くの村を訪れたとき手作りアイランをもらって飲んだら、直後にひどい下痢に襲われたことがある(一緒に飲んだガイドのエンギンも同時にトイレで苦しんだ)。だから今回も少々恐れていたのだが、ここのアイランは何も起きなかった。衛生面にも気をつかっているのだろう。
お父さんは「この牛の乳だ」とスマホ画面で生みの親の写真を見せてくれた。
こんなにクルドの農村の家を満喫できるとは思わなかった。先が見えない旅は労力もコストも大きい。でも、それだけに思いがけない幸運に巡りあうこともある。
掃き溜めに鶴、泥の川に豪華宿。それこそが未知の川旅の醍醐味なのだ。
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