新 戦国太平記 信玄 第七章 新波到来(しんぱとうらい)9 (下)/海道龍一朗
八十八
織田信長が信玄に書状を送る数ヶ月前のことであった。
美濃では見慣れぬ美装の一行が、岐阜城(稲葉山城)の城下へ入っていく。
それはこの日の早朝、越前の一乗谷を出立した細川藤孝と家臣十数名であった。
この足利義昭の側近には、案内役として朝倉家から公方の家臣に鞍替えした明智光秀が付き添っていた。
岐阜城下に到着した細川藤孝は、思わず辺りの様子に眼を見張る。
往来には人が溢れかえっており、遠路をやって来たと思われる商人の姿も少なくない。
山城から続く道は、大軍を動かすことのできる広さの街道が整備されており、そこには乱世の新しい町の活気が溢れていた。
藤孝は織田信長の新たな本拠地を、驚きの眼で見つめる。
岐阜城下にある織田家下屋敷で、信長の右筆を務めている武井夕庵が一行を出迎えた。
岐阜城へ登るためには、少なくとも一刻半(三時間)の時がかかるため、この日は下屋敷に寄宿し、信長との面会は翌日の予定となっていた。
家臣に荷を解くことを命じ、縁側に出て下屋敷の見事な庭園を眺めていた細川藤孝に、背後から誰かが声を掛ける。
「藤孝殿、であるか?」
その声に振り向き、藤孝は思わず躯を強ばらせた。
視線の先には、肩衣姿の武将が立っている。
頰がそげた細面に、月代を剃った広い額。犀利な光を放つ両眼の間に、すらりと延びた鼻筋。薄い唇の上には、先端を細く尖らせた髭があった。
織田信長、当人に間違いはないであろうと思われた。
それでも、藤孝が躯を強ばらせたのは、九年前に会っているはずの朧げな信長の面影とは、あまりにも印象が違っているような気がしたからである。
二人は、九年前に信長が京へと上った時に面識があった。
先代の足利義輝に謁見するため、信長が上洛したのは永禄二年(一五五九)二月二日のことである。ちょうど、齢二十六の時であり、織田信秀の跡を嗣いで尾張一国を統一し、守護職として認めてもらうために京の都を訪ねた。
それはまさに桶狭間の一戦で今川義元を打ち破る前年のことだった。
その時、細川藤孝も同じ齢二十六になっており、義輝の御供衆として信長謁見のための申次を行ったのである。
同い年の大名が謁見に来たということで、藤孝は信長のことをよく覚えている。
しかし、初めて会った時の印象を脳裏に思い浮かべたが、記憶の中の面影は、眼前の漢の姿と何かが微妙に違っていた。
それが何なのか、はっきりと言葉にできないまま、藤孝は問いかける。
「信長殿……に、ござりまするか?」
「さようにござる」
織田信長は仰々しい供も連れておらず、満面の笑みを浮かべながら近づてくる。
だが、犀利な光を宿した両眼は決して笑っているようには思えない。
それを見てとった藤孝は、今度こそ確信する。
双眸に浮かぶ怜悧な輝き。
最初に会った時の印象と明らかに違っているのは、その眼光の鋭さである。
相手を射抜くように見つめる両眼の印象が、以前とはまったく変わっており、その光の強さに圧倒されて立ち竦んでしまったのかもしれない。
――信長殿はしばらく会っておらぬ間に、その眼で幾度も修羅を見つめてきたということなのか……。
細川藤孝は微かに首を振りながら言う。
「これは、ぼうっとしておりまして失礼をばいたしました。まさか本日、信長殿がここをお訪ねになるとは思ってもおりませんでしたので……」
――下屋敷に、織田信長が下りてきているはずはない。
そんな先入観が藤孝にあったため、咄嗟に混乱してしまったのである。
「実は鷹匠が新しい角鷹を見せたいと申すので、たまさか城から下りておりました。そこに、ご一行が到着なされたという報せを聞いたゆえ、お訪ねしてみた次第にござる。それにしても、お久しい。京でお会いしたのは、確か、九年前の二月でありましたな」
犀利な眼光とは違い、信長の口調は柔和だった。
「さようにござりまする。なにやら、昨日のことのような気もいたしまするが」
「また、こうしてお目にかかれ、まことに喜ばしや。藤孝殿、立話もなんであるから、これより、茶でも一服、いかがであろうか」
信長は下屋敷の奥にある茶室に藤孝を案内する。
室に入ると、風炉にかけた天猫姥口釜から、すでに湯気が立ち上っていた。
「ささ、どうぞ、こちらへ」
信長が藤孝に勧めたのは、客畳ではなく主人の席である。
「されど、こちらは……」
「藤孝殿は、茶のお点前も素晴らしいとお聞きいたしました。それをここで拝見させていただけませぬか。道具は一通り揃えておりまする」
信長は慎重な手つきで油滴天目の唐茶碗と肩衝の茶入れを取り出し、茶道具を並べ始める。
そこに出された茶道具は、どれもただならぬ風格を備えたなかなかの逸品揃いだった。
――信長殿は、これほどの数奇者であったのか?
細川藤孝の茶の湯の腕前は、和歌と同じくらい評判が高く、その師匠は侘茶の祖と謳われる村田珠光の系譜を受け継ぐ武野紹鴎である。
紹鴎は堺の豪商であった武野信久と南都興福寺の中坊家の息女の間に生まれ、齢二十四の時に上洛して歌学の権威であった三条西実隆に師事している。十年間にわたって和歌を学び、その後、齢三十一で剃髪して大徳寺の古岳宗亘の元に出家した。
この時、紹鴎の名を号し、大徳寺で村田珠光の養子となって後を嗣いだ宗珠や、弟子の十四屋宗悟から「下京茶湯」を学んでいる。
ちょうど、この当時、茶の湯は数寄から徹底的に装飾を剥ぎ取った侘茶へと向かっていた。
藤孝は和歌の繋がりから、晩年の武野紹鴎に師事し、侘茶の美学を学んでいる。
そして、紹鴎には他にも三人の弟子がいる。堺の三宗匠と呼ばれる今井宗久、津田宗及、千宗易の面々だった。
――主人の席に座し、点前を断るのは恥だ。ここは心して一服を進ぜよう。
細川藤孝は茶道具の感触を確かめてから、姥口釜の湯加減を見る。
それから、肩の力を抜き、気息を整えた。
その所作を、信長は真剣な眼差しで見つめている。
藤孝は柄杓で釜の湯をすくい、七度に分けてゆっくりと茶碗に注いでから、淀みない所作で素早く茶筅で搔き混ぜる。
そして、泡立った茶が渦を描く様をじっと見つめていた。
茶の面が静まるのを見届けてから、慎重な手付きで差し出す。
信長は一礼してから、滑らかな肌をした茶碗を取り上げ、まずは手中で静かに回して香りを楽しむ。
それから、三度に分けてゆっくりと口に含むと、芳醇な香りと苦みを発する茶が滑らかに喉を通り過ぎていく。
信長は胸元から白布を出して茶碗の飲み口を拭き、高台を確かめてから、優雅な手付きで置いた。
「結構なお点前にござりまする。実に清涼なる一服にござりました」
膝に両手を置き、深々と一礼する。
藤孝は安堵の息をつきながら、礼を返した。
二人の緊張が解け、京の想い出話に花が咲き始めた。
ひとしきり話が済むと、織田信長が本題を切り出す。
「藤孝殿、実は義昭様の御成に関して、是非ともそなたに訊ねたき事柄があったゆえ、こちらへとお誘いいたしたのだ」
信長にそのような意図があることを、すでにこの室に入った時から藤孝は察していた。
「朝倉家の件でござりまするか?」
「それもありまするが……」
信長が言葉を続ける。
「……義昭様の御座を移すために、こうしてそなたが岐阜へと参られたのであるから、朝倉に御上洛供奉の意思がないことは承知しておりまする。それよりも、こたびの件を関東管領殿は、いかように考えられるであろうか?」
それを問うた信長の顔から、先ほどの笑みは消えており、両眼に犀利な光が戻っている。
「上杉輝虎殿の件でありましたか。ふむ……」
藤孝は扇の先を口唇に当て、思案顔になる。
しかし、すでに答えは用意されていた。
御供衆筆頭役が他国の大名といかなる折衝をしているかを確かめるために、信長はここに招いたのであり、藤孝も茶席に誘われた時点でそのことに感づいていた。
今回の話をまとめたいならば、現状を隠し立てなく信長に伝えるべきだった。
ただし、軽々しく足下を見られないように、あえて勿体をつけたのである。
「実は、義昭様を南都からお救いし、まず、入洛の供奉をお願いしたのが、上杉輝虎殿でありました。それ以来、途絶えることなく、密に連絡は取っておりまする。ただし……」
藤孝は関東管領とのやり取りについて話す。
上洛の供奉を再三にわたって願っているが、越後の上杉輝虎は甲斐の武田と上野まで出張った北条を睨み、いっこうに動いてくれなかったことも正直に伝える。
信長は眉ひとつ動かさず、その話に聞き入っていた。
「……それらの状況からして、当方は輝虎殿が動きたくとも動けぬ状態であると推しておりまする。あるいは、その眼が京へは向いておらず、坂東しか見えておらぬのかもしれませぬ。いずれにしても、それがしといたしましては、織田家とのお話がまとまり次第、すぐに関東管領殿にこのことをお伝えしようとは思っておりまする。されど、輝虎殿は己の手が及ばぬ事に対し、反対はなさりますまい」
「なるほど。さようでありましたか。こちらも上杉家とは誼を通じておりますゆえ、書状にて経緯はお伝えしようと思っておりました。ところで、甲斐の方とは、何かお話の進展はありまするか?」
信長は、藤孝の両眼を見据える。
――それこそが信長殿の最も訊きたかった事柄であろう。信長殿は上杉とは仲が良いらしいが、武田信玄殿とは互いに牽制しあっているのか? もしかすると、こちらから信玄殿に矢留を願うことを望んでいるのやもしれぬ……。
藤孝は相手の意を推し量りながら、武田家と折衝した経緯を語り始める。
「確かに野洲郡の矢島に寄寓しておりました頃には、信玄殿にも供奉をお願いいたしました。されど、信玄殿の眼も越後と上野に向いておりますようで、動きが取れるような状況ではないというお返事でありました。大覚寺義俊様がご存命の頃は、上杉、武田、北条の三竦みを解くために甲斐へ下向なさるという話も持ち上がりましたが、今ではさような話も立ち消えになってしまいました。それがしとしてはこたびのことに鑑み、信玄殿へは当方から御上洛に協力していただけるように御内書で働きかけ、この機に近江などへ出張ることなきよう、お願いしておこうと思っておりまする」
「ご安心くだされ。当方は武田信玄殿とは誼を通じ、同盟を結んでいる仲にござりまする。かの御方が義昭様の御入洛を阻むわけがござりませぬ」
信長の顔に笑みが戻った。
「さようにござりましたか。こちらのできることは何でもいたしますゆえ、改めて供奉の件、よろしくお願いいたしまする」
「こちらこそ。そうと決まれば、是非に一献傾けましょうぞ。膳を持たせますゆえ」
信長は立ち上がり、襖を引いて外で待機していた小姓に声を掛ける。
「膳を持て」
その言葉を合図に、小姓たちが次々に膳を運び込み、二人の前に並べていく。実に見事な手際だった。
その席で、藤孝は今回の折衝役を務めた明智光秀の話を持ち出し、それとなく信長の意向を探ってみる。
信長当人は光秀をかなり気に入っている様子で、話の端々に「今の織田家に必要なのは、あのように機転の利く漢だ」というような誉め言葉が現れた。
そこで、藤孝は明智光秀を公方の正式な申次役として織田家に出向かせることを提案した。
光秀が申次役となれば、御供衆筆頭の直属の部下という扱いとなる。
細川藤孝は信長からの申し入れが明智光秀を通じて直接、己の耳に入ってくることを望んでいた。
信長はその申し入れを快く承諾する。
「ところで、藤孝殿。そなたは義昭様を補佐する立場でありながら、なにゆえ、管領職を名乗らぬのでありましょうか?」
「……それがしは、細川京兆家の出自ではありませぬ。管領職は代々、京兆家の惣領が嗣ぐ官職にござりまする」
「これは異なことを申される。その京兆家の惣領が力なきゆえ、義昭様が流寓なされたのではありませぬか。それを見事に御入洛まで導かれたのは、そなたの力量に他なりませぬ。充分に、管領職としての役目を果たされておられるのでは」
「されど、仕来りがありまするゆえ……」
「この下克上の乱世に、なんとも律儀なことだ。それがしはそなた以外に管領職が務まる方はいないと思いまする。そのことは、この身からも朝廷に申し上げたい」
信長は細川藤孝の力量を見抜いていた。
「……そなたの言葉、肝に銘じておきまする」
二人は差しつ差されつ、数刻にわたって盃を傾ける。
それが永禄十一年(一五六八)六月二十三日のことだった。
翌日、細川藤孝は家臣団を率いて登城し、一行は岐阜城の大広間に案内される。
千畳敷はあろうと思われる大広間に、信長以下、織田家の家臣たちが下座の席に勢揃いしており、藤孝の一行は上使として向かい側の上座に通された。
通常ならば信長が座するはずの大上座は、足利義昭のために空けられ、双方が向かい合う形で会談が始まる。
昨日の茶室で、あらかたの話が藤孝と信長の間で交わされており、大きな支障もなく進んでいく。
双方の間で御成の期日が定められ、七月十六日あたりに一乗谷を出立して金ヶ崎城を経由し、まずは北近江にある浅井家の小谷城に入ることになった。
昨年、信長の妹、於市が浅井長政のもとに嫁いでおり、両家は同盟関係にある。
また、浅井家は朝倉家とも縁が深く、浅井長政の祖父である亮政の代から同盟を結んでいる。
こうした状況を踏まえ、浅井家は織田家の与力として供奉に参加することになり、越前から美濃までの道中で敵はいなくなった。
その後、足利義昭一行は、七月二十五日に美濃へ入ることになり、宿所は城下の立政寺と決められる。
話は首尾良くまとめられ、双方とも納得して会談を終えた。
岐阜での滞在は最高の成果を上げ、細川藤孝は一乗谷に戻る。
――これだけの条件が揃えば、今度こそは上様の入洛が実現するはずだ。
藤孝は織田家との折衝を足利義昭に報告し、一乗谷からの出立を七月十三日と定めて支度を始める。
まずは朝倉景鏡と面会し、義昭が岐阜城へ御座を移すことを伝え、朝倉義景との面会を取り次いでもらう。
藤孝は移座を円滑に進めるべく、足利義昭名義の感状を朝倉家のために用意し、一乗谷での厚遇に謝辞を述べる。
感状には朝倉義景の忠義を称え、「向後も身上を見放さざるべし」という誓約が記されていた。
その文面に目を走らせながら、朝倉景鏡はいかにも残念そうに呟く。
「本来ならば、当家が最初に御入洛の供奉をかって出たというのに、最後は手柄を織田家に持っていかれるとは、何とも口惜しや」
これまで朝倉家中でこの件を押し進めてきた景鏡としては、内心忸怩たる思いがあるらしい。
しかし、「いざ、入洛」という段になって腰砕けになったのは、朝倉家の方だった。
藤孝が万事を手早くまとめ、足利義昭の一行は一乗谷を出立し、その日のうちに金ヶ崎城に着き、翌日には敦賀から北近江へと向かう。
北近江の犬上郡多賀では、織田家の迎使となった不破光治、村井貞勝、島田秀順の率いる軍勢がすでに一行を待ち受けていた。
その一団の中には、和田惟政の懐かしい顔が交ざっていた。
それを見た細川藤孝は、思わず下馬して駆け寄り、盟友の両手を握る。
「惟政殿、お久しゅうござる。わざわざのお出迎え、まことに有り難く」
藤孝が矢島御所で和田惟政と別れてから、ほぼ二年の月日が経っている。
「藤孝殿、ついにこの日がやって来ましたな」
惟政は満面の笑顔で手を握り返す。
「ここに辿りつくまで長かった……」
「こたびこそは、われらが願い、必ずや、叶いまする。さすれば、これまでの労苦も報われまする。あと少しの辛抱」
「いかような経緯があったにせよ、そなたが言われた通りに、織田家の供奉で御入洛が実現することになり、何より嬉しい」
藤孝が言ったように、元々、足利義昭のために織田家との折衝に奔走していたのは和田惟政である。
二人はしばし無言で再会の感慨に耽った。
それから、一行は浅井家の小谷城に入り、浅井長政の饗応を受ける。
しばらく小谷城に滞在した後、七月二十五日に美濃へと向かい、岐阜城下で大歓迎を受けながら宿所の立政寺に入った。
足利義昭の当面の御座となる寺の内部を検分し、藤孝は少なからず驚く。
きちんと有職故実に則って威儀が正され、調度品の設えなども完璧だった。
しかも、今の織田信長の勢いを象徴するが如く、贅が尽くされている。
――ここまで都の雅風を会得している人材が、織田家にいるとは思っていなかった……。
藤孝が明智光秀に事情を聞くと、どうやら、この御座の設えを担当したのは、迎使の一人だった村井貞勝らしい。
この漢は信長の名代となって朝廷との折衝も行っていた。
信長の父であった織田信秀も、天文十二年(一五四三)に御今上の父、後奈良天皇に内裏四面の築地塀修繕の名目で銭四千貫を献上している。
当時の皇室の窮状を伝えるべく尾張に下向したのが、藤孝とも旧知の公卿、山科言継である。
織田信秀はすぐに銭と献上品を贈り、これに感激した後奈良天皇は連歌師の宗牧を遣わし、叡感の情を伝えている。
こうした父の衣鉢を受け継ぎ、信長もまた上洛前から皇室の式微を知り、献上品を贈り続けている。
昨年十一月、正親町天皇の皇子である誠仁親王の元服費用を工面するために、禁裏御倉職の立入宗継が信長の元へと派遣され、元服資財の用立てに加えて尾張と美濃にあった宮家御料地の回復を委嘱した。
この一件で織田家の担当となって話を進めたのが、村井貞勝である。
信長は快く申し入れを引き受け、元服費用を献上し、尾張と美濃の御料地を返還した。
――この一面だけをとってみても、織田家はすでに武力だけに勝る鄙大名ではないことが明らかだ。何より、信長殿の人材登用の妙に驚かされる。たかだか二国を制した鄙の大名などと侮っていると、こちらが足下を見られてしまうかもしれぬ。
藤孝はそう思いながら気を引き締め直した。
そして、足利義昭が新御座に落ち着いた二日後に、織田信長が謁見に訪れる。
「五つ木瓜」の透かし紋が入った大紋直垂に身を包み、折烏帽子を被り、威儀を糺した姿だった。
両家の重臣が見守る中、信長が公方の前に進み出て平伏する。
「こたびは、足利義昭様のご尊顔拝謁できまして、まことに恐悦至極にござりまする。当方、不肖の身ながらも御上洛供奉の大役を承りしこと、まさに武臣の面目なりと存じまする。懼れながらも、御賢君の佳運に乗じ、天神地祗も争か加護ありきと信じ、弑逆の徒を滅し候はんことを、ここにお誓い申し上げまする」
信長の堂に入った口上を聞き、足利義昭も驚く。
それが終わると、国綱の太刀一腰、葦毛の駿馬一疋、鎧二両、沈香一箱、縮緬百反、鳥目千貫の献上品が次々と運びこまれる。
それらを見た足利義昭が礼を述べる。
「こたび、さっそくの領掌ありて、遠路の迎え数輩を申し遣わし、しかも皆、礼法正しきの段、まことに感服いたした。加えて、そなたの武略、群抜いたるを聞き及びしゆえ、難敵三好の誅罰のこと、是非に頼みたく候。余はひとえに、そなたを守護なりと信じ、ここ岐阜からの入洛と都における当家の再興を成し遂げたい。重ねて宜しく頼む」
こうして無事に謁見が終わり、酒宴へと席を移る。
それから数日を経て、足利義昭の御前で上洛に関する評定が開かれた。
その席で織田信長は「すみやかに三好を駆逐して義昭様を京へお還しあそばすために、まず近江を平定して要路を確保すべし」と具申する。
つまり、それは六角家の諸城を落とし、岐阜から京までの全域を制覇する策を意味していた。
それに対して、御供衆の一人、上野清信が異議を申し立てる。
「六角家は最も早くに義昭様の御入洛を諸国に呼びかけておりますゆえ、何の前触れもなく攻め入ることは、礼を失することになりませぬか。六角承禎殿に委細をお話しし、与力を願った方が良いのではありませぬか」
その意見に、信長はまるで失笑をこぼすように答える。
「当方では、すでに六角家が三好と通じていると聞き及んでおり、矢島でも追手を差し向けようとしたと記憶しておりまする。それでも与力を願うおつもりでありましょうや?」
「されど、これまでの義理もあるゆえ、せめて話を差し上げるぐらいのことはせねばならぬのでは」
「ならば、そなたに御上使として出向いていただきたく存じまする」
信長はすました顔で言い放ち、上野清信は思わず返答に詰まった。
すかさず、細川藤孝が間に入る。
「ならば、それがしが使者に立ちまする。承禎殿とも知らぬ仲ではありませぬゆえ、後々のことを考えるならば、こたびの御入洛の件は、話しておいた方が良かろうと存じまする。ただし、手ぶらで訪ねるわけにもまいりませぬゆえ、与力を願うかわりに都の所司代をお願いしてみてはいかがでありましょうか」
藤孝は六角承禎に京都所司代の職を提示して、協力を仰ごうと考えていた。
「藤孝殿が使者に立たれるならば、それがしも観音寺城に参りましょう。承禎殿とは旧知の間柄ゆえ、こちらからもご説得申し上げる」
和田惟政が藤孝の意見に賛同する。
「ならば、当方からは副使として武井夕庵を同行させましょう。護衛の者もおつけいたしますゆえ、六角家との交渉は藤孝殿にお任せいたしまする」
信長は細川藤孝の顔を立てるという配慮をした。
この評定を経て、細川藤孝は六角承禎の本拠地、観音寺城へと出向く。
一行が城に着くと、六角の家臣に案内されて会談の間へと入った途端、藤孝は思わず眉をひそめる。
そこに用意されていたのは、大上座を仰ぐ下座だった。
もしも、藤孝らを足利義昭が遣わした上使として扱うならば、その席次が正反対でなければならない。
しかし、胴服姿の六角承禎が嫡男の義治を伴って現れ、大上座に胡座をかく。
それから、鷲鼻の上に光る炯眼で押し黙ったまま上使たちを睥睨した。
藤孝は相手の着座を確認し、表情を変えずに口上を述べ始める。
「……こたびは織田家の供奉により、足利義昭様が御入洛なされることと相成りまして……」
それを遮り、六角承禎が剣呑な声を発する。
「藤孝殿、互いに知らぬ仲ではあるまい。ゆえに、紋切り型の口上などいらぬ。それよりも、よもや、そなたを御上使と仰がねばならぬ、などという戯言を申されるおつもりではなかろうな?」
六角承禎の口から、いきなり棘だらけの問いを投げつけられる。
藤孝は思わず絶句し、その隣で和田惟政が躯を強ばらせた。
承禎は最初から相手の出鼻を挫く肚づもりだったようである。
「……それがしは本日、義昭様の名代として罷りこしましたにすぎませぬ。それをただの使いとみるか、上使とみるかは、貴家におまかせいたしまする」
「当然のことであろうな。京にはすでに左馬頭から征夷大将軍になられた足利義栄様がおわすのだ。その御方を差し置き、義昭殿の遣い如きが御上使を僭称いたすなど、言語道断。して、本日は何用で参られたのか?」
その態度を見た時点で、藤孝は今回の訪問は無駄であり、交渉が決裂すると悟った。
それでも、あえて淡々と協力を願う。
「貴家のご協力によりまして近江の要路が開かれ、御入洛が相成りました暁には、是非に都の所司代をお願いいたしたいと義昭様から言付かっておりまする」
「ほう、京都所司代とな……」
六角承禎は鼻で笑う。
「……ふっ、片腹痛いわ」
不愉快そうに扇で己の膝を乱打しながら、嫡男の六角義治に無言の合図を送る。
「よろしいか、父上はすでに三好家から義栄様の管領職に推任する旨、通知を受けとっておる。たかだか京都所司代如きの餌をちらつかせて、公方様でもない者が当家を懐柔しようなどという浅知恵は笑止千万と存ずる」
六角義治も不遜な態度で言い放ち、承禎が追い打ちをかける。
「藤孝殿、故事に精通している元御供衆のそなたなら、還俗者が室町殿となれば、どれほど不吉なことが起こるかを知らぬはずはあるまい。義教様の例を見よ。武門の理の中で育たぬ者が武家の長者となれば、天下に災いを及ぼすということは歴史の常だ」
六角承禎は、足利義教のことを引き合いに出す。
義教は、足利義満の三男であり、長らく天台宗の青蓮院の座主を務めていながら、還俗して第六代目公方の座に就いた。
この足利義教は父の義満に憧れ、公方の座に就いてから専政を行い、ついには臣下の赤松満祐に嘉吉の乱で暗殺されている。還俗者が室町殿となるのは不吉とは、まさにこのことだった。
しかし、その事柄と、足利義昭は何の関係もない。
己の主君を嘲られた藤孝の肚の裡は煮えくりかえっていたが、そんな怒りを寸分も見せなかった。
「承禎殿の、そのお言葉、一言一句違えず、義昭様にお伝えいたしまする。こちらからのお答えは、いずれ京より御綸旨を添えた書面にて、お返しさせていただくことになりましょう」
藤孝はさりげなく恫喝を含んだ答えを返す。
必ずや主君を上洛させ、公方の座に就いた暁には逆賊討伐の御教書を発し、御主上からの御綸旨も添えて六角家に送りつける。
そんな意思表示だった。
「くだらぬ捨て台詞を吐くと、無事に義昭殿のもとへ戻れなくなりまするぞ!」
六角義治は身を乗り出し、頰を紅潮させて怒鳴る。
この応酬で、にわかに場の雰囲気が緊迫する。
「ご随意に」
細川藤孝は背筋を伸ばし、平然と言い放つ。
「あと半刻(一時間)もたち、われら使者が戻らねば、六万の軍勢がこの城になだれ込むための格好の口実となりますゆえ、お好きなようになされるが良い。使者として立ったからには、その程度の覚悟はしておりますゆえ」
その言葉を聞き、大上座に陣取った六角承禎が炯眼で睨みつける。
両者は互いに一歩も引かない構えで対峙していた。
「……ろ、六万の軍勢だと?」
六角義治が息を漏らすかのように呟く。
「われらは虚勢を張ったりいたしませぬ。それに本日は喧嘩を売りにきたのではなく、あくまでも御入洛の与力をお願いに参りました。ご返答をいただくまでに七日をお待ちいたしますゆえ、この件、是非ともご検討くださいますよう、重ねてお願い申し上げまする」
藤孝は静かな口調で言い、両手をつく。
もう、これ以上、言い争いをする必要はなく、ここが引き上げ時だと考えていた。
帰路の途上で、細川藤孝は六角家との交渉が完全に決裂したと断ずる。
――こうなっては、近江の諸城を落としながら入洛を敢行するしかあるまい。おそらく、信長殿はわれらが出向く前から、かような結果になることを予測していたのであろう。
急ぎ岐阜へと戻り、交渉の顛末を主君に報告してから、すぐに信長との協議に入る。
「おそらく、六角家から返事が来ることはないだろうと思いまする。そうなると、戦支度を整えて進軍することになろうかと……」
藤孝の言葉に、信長は笑みを浮かべ、余裕の躰で答える。
「すでに戦支度は終えておりまする」
かくして永禄十一年(一五六八)九月七日に、織田信長は六万の軍勢を率いて岐阜を進発する。
尾張、美濃の将兵が揃い、それに三河の松平家康と北近江の浅井長政の援軍が加わる。
足利義昭は六角家との戦が終わるまで岐阜で待機することになった。
細川藤孝は入江景秀や松井頼之などの家臣を率い、織田家から二千の兵を借りて義昭の名代として参陣する。
岐阜を出た信長の軍勢は翌日に近江へと入り、彦根の里、高宮で宿営し、三日ほど人馬を休める。
その間、細作を放って周辺の様子を探り、九月十一日には愛知川に陣を築く。
織田方の眼前には敵方の和田山城があり、そこから少し南西に進んだ処に箕作城があった。
陣中で軍評定が開かれ、攻撃の第一目標が箕作城と定められる。
佐久間信盛、木下藤吉郎、丹羽長秀の三名が先鋒となって箕作城に攻めかかり、その間に残りの軍勢が和田山城を囲む。
攻撃の開始を翌日まで延ばさず、九月十二日の申の刻(午後四時)に先鋒がいきなり城攻めを開始する。
通常の戦ではこうした戦法は取らないだけに、城方の六角勢は混乱をきたし、日が沈む頃には箕作城が落ちた。
それを知った和田山城の軍勢は降伏し、すぐに無血で開城する。
箕作城に入った織田信長は、翌日、間髪を容れずに六角の本城である観音寺城に攻めかかる。
しかし、織田勢の軍容を知り、箕作の落城を目の当たりにした六角承禎は、前夜にこの城を捨て、すでに甲賀郡の石部城へと逃げ込んでいた。
難なく六角家の主城を手に入れた信長は、恭順の意を示していた永原家に周辺の国人衆たちを投降させる。
細川藤孝は六角家に反目していた進藤家、後藤家、蒲生家をはじめとする湖南の国人衆をまとめるために奔走し、この上洛への与力と義昭の供奉の約束を取り付ける。
湖南で六角家の勢力を駆逐してしまえば、もう、京への道を遮る者はいなかった。
すぐに早馬が飛ばされ、首を長くして待っていた義昭に朗報が届けられる。
九月十五日には義昭の一行が岐阜を出立し、二十二日には安土の桑実寺へと到着して信長の本隊と合流した。
六角家との戦は、たった十五日間で決着がついていた。
藤孝は戦に慣れた織田の軍勢に驚き、信長の力量を見直していた。
その采配には何の迷いもなく、下された命はすぐさま家臣たちの手で実行される。織田勢は隅々まで統制が行き届いた緊密な軍団だった。
当の信長は行軍の足並みを緩めず、すぐに野洲郡の守山へと移り、大津へと渡る舟を手配し始める。
ここは三年前に、細川藤孝がまだ義秋の名だった主君と連れ立ち、わずかな手勢で若狭の武田家へと逃げた因縁の地だった。
その時は、斎藤龍興に信長の嚮導を邪魔され、三好三人衆に追われたが、ついにその雪辱を晴らす日が訪れたのである。
「上様、いよいよ、御上洛の日がやってきましたな」
藤孝は感慨深げに静かな湖面を眺めている主君に声を掛ける。
「おお、藤孝。感無量であるな。ここから湖を渡って逃げた、あの心細い夜が昨日のことのようにも思える」
「まことに」
「京に入れるということが、何やらまだ、夢のような気もいたすが、この甲冑の重さが現実だと教えてくれる」
義昭は錦襟の鎧直垂に身を包み、五三の桐紋が入った桶側胴を付けている。佩楯を付けたままの袴は括緒を結び、折烏帽子の上に白い鉢巻を締めていた。
「具足がよくお似合いになっておりまする」
「さようか。されど、本当に重いな。着付けぬせいか、思うように躯が動かぬ」
「征夷大将軍となられますれば、戦にての御出陣も増えましょうから、徐々にお慣れくださりませ。御入洛の時には、是非とも輿ではなく、馬上にて京の者たちに鎧姿をお見せいただきたく御願い申しあげまする」
「相わかった」
足利義昭は湖面に反射する光に目を細めた。
琵琶湖を渡るのが六万にも及ぶ大軍勢だったため、丸一日をかけて大わらわで船便の手配がなされる。
それでも、九月二十四日には信長の本隊が琵琶湖を渡り、三井寺光浄院に着陣し、翌日には義昭を護衛する細川藤孝の軍勢が対岸へと着いた。
藤孝が三井寺の陣中に入ると、義昭の元服の後見人となってくれた元関白の二条晴良からの使者が待ち受けていた。
その使者から藤孝に渡された書状によると、織田勢が六万にも達し、六角承禎が一戦も交えずに甲賀へと逃げたことを知り、三好三人衆は恐れをなして京から遁走したという。
そのため、朝廷では足利義昭の入洛を待ち望んでいるが、都人は初めて京に入る信長とその軍勢に恐れをなし、乱妨狼藉があるのではないかと大騒ぎをしているらしい。
「何とか織田の兵が乱妨狼藉を働かないように、藤孝殿から信長殿に因果を含めてもらいたい」
それが二条晴良からの要望だった。
藤孝がその書状を見せながら「何とか兵たちの乱妨狼藉を押さえてもらえないか」と頼むと、信長は苦笑しながら懐から一通の書状を取り出す。
それは山科言継から信長に宛てられた親書で、同じように「御主上が信長殿に禁中の警固を望んでおられる。加えて、軍勢の乱妨狼藉の禁止を望んでおられるので、くれぐれも宜しくお願いしたい」という趣旨のことが書かれていた。
信長は入洛の前日、全軍に対して「乱妨狼藉や掠奪を行った者は、即刻打首とする」と触れを出し、兵たちを戒める。
この総大将が即刻打首と言えば、それは単なる威しではなく、戒めを破れば即座に首が飛ぶ。
そのことを知っている織田勢の兵たちは身を引き締めた。
そして、九月二十六日、ついに織田信長の軍勢に守られた足利義昭の一行が京へと入る。
抜けるような秋晴れの朝だった。
天から降り注ぐ清らかな光を受け、甲冑を付けて馬に跨った足利義昭の顔は晴れ晴れと輝いている。
細川藤孝は胸の裡から溢れ出そうになる感慨を抑えながら、主君の隣でゆっくりと愛駒を進めた。
その光景を恐る恐る見守っていた都人は、厳しく統制され、礼節を重んじる将兵たちを見て、安堵しながら新しい公方を喝采で迎える。
義昭はそのまま東寺に入り、信長は清水寺を宿所とした。
その日の夜は、歓喜の酒宴となる。
しかし、上洛の昂奮も冷めやらぬ翌日から、すぐに織田信長によって畿内の平定が始められた。
細川藤孝は和田惟政、明智光秀、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚などの与力を得て、三好三人衆の一人、岩成友通の手勢が籠もる勝龍寺城へと攻めかかる。
足利義輝が弑逆される前、この城は藤孝の本城であり、まだ南都の一乗院に幽閉されていた義昭を救い出すために断腸の思いで諦めた城だった。
信長はそのことも熟知しており、上洛したならば、まず最初にこの城を奪還するという粋な計らいをしてくれたのである。
織田勢の中でも精鋭中の精鋭を得た藤孝は、二十九日に難なく勝龍寺城を落として勝ち鬨を上げる。
その余勢を駆り、摂津高槻の芥川城へと進軍してこれを落とす。
その状況を見て、恐れ戦いた越水城と滝山城は戦わずして開城した。
信長が足利義昭に供奉して山崎から芥川城へと入った三十日に、思いもよらない朗報が飛び込んでくる。
摂津の普門寺に逃げていた第十四代公方の足利義栄が、腫物の患いをこじらせて病死したという報だった。
これで足利義昭の征夷大将軍就任を遮る障害は何もなくなった。
この後、勢いに乗った織田勢は、伊丹城の伊丹忠親を誘降させ、池田城の池田勝正を攻め破って降伏させる。周辺の要所を攻略し、十月十四日には京へと戻った。
そして、足利義昭は永禄十一年(一五六八)十月十八日に参内し、ついに御今上(正親町天皇)から征夷大将軍任命の宣下を受ける。
細川藤孝はこの規式を担うために同行した。
こうして織田信長は公方の供奉という役目を果たし、一躍、諸国の大名の筆頭に立つことになった。
(次回に続く)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?