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新 戦国太平記 信玄 第七章 新波到来(しんぱとうらい)12(上)/海道龍一朗

 九十一 

 永禄えいろく十二年(一五六九)正月五日、ほうじょう氏政うじまさはこを越えて伊豆いずしまへと出張る。
 なんと、四万五千もの軍勢を率いての出陣だった。
 これほどの大軍になったのには、理由があった。
 たけ勢に駿すん館を攻められ、今川いまがわ氏真うじざねの正室となった愛娘、早川殿はやかわどの輿こしにも乗れず、徒歩かち掛川かけがわ城へ向かったと聞き、北条氏康うじやすが激怒したからである。
 氏康は「総力をもって武田勢を成敗せよ」とそうりょうである息子に命じた。
 三島に着いた北条氏政は、伊豆の水軍を動かして駿する湾を渡らせ、掛川城に海側から援軍を送る手筈を整える。
 そして、自らは陸路で西へ向かい、蒲原かんばら城を経由して由比ゆい西倉澤にしくらさわに布陣した。
 北条勢の進軍を知った信玄しんげんさっ峠に本陣を構え、一万八千余の軍勢で固め、駿府にはばた昌盛まさもりづめ、三千余を残していた。
 そこから、再び両軍の睨み合いが始まる。
 ──氏康は娘婿が駿府から追い出され、相当悔しかったようだな。ずいぶんと大仰な構えで出張ってきたものだ。
 信玄は峠の麓ではためくうろこ旗幟きしを眺める。
 北条氏政はまず麓を大軍で固め、武田勢にとって最短の帰路となるはるみち中道なかみち往還)を封じていた。
 ──されど、尻に火が点いたならば、北条もこのままではいられまい。
 こま政武まさたけに命じ、常陸ひたちたけ義重よししげ下総しもうさやな晴助はるすけに「武蔵むさしにある北条方の城を攻めてほしい」と持ちかけていた。
 背後の武蔵で火の手が上がれば、いつまでも北条勢を駿河にとどめておくことができなくなるだろうという読みだった。
 さらに、信玄は駿河侵攻の前に上杉うえすぎ輝虎てるとらへの新たな働きかけを画策する。
 新たな同盟の相手となった織田おだ信長のぶながを通じ、京の都へ返り咲いたぼう足利あしかが義昭よしあきに対し、甲斐かいえちの双方へ和睦を持ちかけてくれるよう依頼した。
 信長はこれを了承し、足利義昭から上杉輝虎にないしょを送る手筈を整えてくれた。
 一方、北条氏康も手をこまぬいているはずはなく、策を仕掛けようとしていた。
 この時、氏康は越後の上杉輝虎に「しなぜんこうだいらを攻めてくれないか」という打診をしていたのである。
 しかも坂東ばんどうで敵対していた己からではなく、川中島かわなかじまの戦いで仲裁に入ったことのある今川家を通じての周到な要請だった。
 二度目の川中島の戦いにおいて、上杉輝虎は今川家に武田との和睦を進めてもらったという借りがあった。
 そこに目をつけた氏康の巧妙な策略である。
 さらに、武蔵で越後勢と対峙していた北条氏照うじてる氏邦うじくには、上杉方から北条へ寝返った上野こうずけ由良ゆら成繁なりしげに和睦の仲介を依頼する。
 同時に、下総の上杉方だった関宿せきやど城を包囲し、「越後との盟約が結べるならば、北条勢は下総から撤退する」という駆け引きまで行った。
 上杉輝虎にしても、相次ぐ板東勢の離反と武田家の上野侵攻に手を焼いており、北条家からの申し入れを一考せざるを得ない状況にあった。
 こうして、武田家と北条家は互いに老獪ろうかいな外交を行いつつ、このいくさに臨んでいた。
 とはいえ、すぐに激突したわけではなく、両者は相手の出方を慎重に見極めようとしていた。
 そんな中、信玄はあと信秋のぶあきを呼び、諜知の進捗について確認する。
「北条は春田道(中道往還)を塞ぎ、われらの退路を断ったつもりだろう。がのかみじのみやに廻った北条の軍容を調べられるか?」
「造作もありませぬ」
「われらの帰還は遠回りであろうとも河内路かわうちみちのぶ街道)を使えば問題はない。それよりも、大宮おおみや城を囲んでいる信君のぶただと連絡を取りたいのだが、すっに任せられるか?」
「すでに蛇若へびわかを待機させておりまする」
「さようか。ならば、信君に現状を知らせ、大宮城を攻めるよう伝えよ」
「承知いたしました。城攻めの助勢に、らっとっも送っておきまする」
 ものを自在に動かすのが、跡部信秋の役目だった。
 諜知頭の命を受け、透破頭の蛇若は手下を連れ、密かに大宮城へ向かい、途上で敵城を囲んでいる穴山あなやま信君のために富士宮へ移動する北条勢を物見した。
 その蛇若と入れ替わるように、意外な者が現れる。
 武田の本陣に、徳川とくがわの使者として石川いしかわ家成いえなりが訪れ、家康からの親書を渡す。
 それを読んだ信玄は、思わずしかみづらになる。
「なんであるか、これは……」
 書面には、秋山あきやま信友のぶともの別働隊がとおとうみひく城に居座っていることに対する徳川家康の猛烈な抗議が記されている。
 その上で「盟約ではおお川を境とし、武田家が駿河、徳川家が遠江を制すると決めたのではないか」と主張していた。
 ──さか忠次ただつぐと交渉した信君は、おそらく大井川を境とするとは言っていないであろう。駿河と遠江を分け合うというのは、家康の勝手な思い込みに他ならぬ。さりとて、徳川勢が掛川城を攻囲していることを考えると、これ以上、話をこじらせるわけにはいかぬ。当面、眼前の北条に集中するためには、信友を曳馬城から退かせ、徳川に今川氏真への対処をさせるのが得策か……。
 そう考えた信玄は使者の石川家成に「武田は遠江に侵攻しない」という誓紙を渡し、秋山信友の別働隊に「遠江から撤退せよ」と伝言した。
 これにより、いさかいはいったん収まったが、遠江を巡る武田と徳川の確執は残ったままだった。
 二月朔日ついたちになり、信玄の命を受けた穴山信君が大宮城の攻撃を再開する。
 乱破衆や突破衆が焼討などの攪乱かくらんを仕掛け、武田方に寝返ったかつらやま氏元うじともも戦いに協力するが、北条方の富士ふじ信忠のぶただは頑強な籠城を続けた。
 城攻めが難航する中、援軍の北条勢が富士宮へ入り、穴山信君はいったん大宮城の包囲を解き、これに対峙する。
 野戦と城攻めの双方を構えるには兵数が足りず、二度目の攻撃でも大宮城を落とすに至らないまま、暦は三月に入ってしまう。 
 この時、武田勢の本隊と北条氏政の軍勢はまだ動かず、にらみ合いを続けていた。
 薩埵峠の陣で、馬場ばば信春のぶはるが信玄に報告する。 
「御屋形様、京の公方殿より御内書が届きましてござりまする」
「さようか」
 信玄は御内書に眼を通す。
 そこには武田家と上杉家の和睦を促す文言が認められていた。
 越後との和睦は信玄自らが望み、尾張の織田信長に依頼していた事柄である。 
 上杉輝虎にも同様の御内書が届けられていることが記され、これによって武田家と上杉家は和睦を進めることになった。
 こうした水面下での動きを含みながら、信玄と北条氏政の対陣は三ヶ月にも及ぼうとしていた。
 駿府にいた後詰の小幡昌盛が、本陣へやって来る。 
かた様、実はひょうろうの輸送に手間どっておりまする。やはり、河内路(身延街道)だけでは、思うようなちょうができませぬ。このままでは本陣の兵粮切れの恐れまで出てきました。申し訳ござりませぬ」
「さようか」
 信玄は眉をひそめる。
「最短の春田道(中道往還)が使えぬのならば、致し方あるまい。この戦、そろそろ手仕舞いの頃合いか」 
 兵粮切れの心配が出てきた以上、いつまでも動かない北条勢と睨み合っているわけにはいかない。
 四月に入り、信玄は本隊を甲斐へ撤退させることを決める。
 薩埵峠から退陣し始めた武田勢を見て、由比の西倉澤にいた北条勢の先鋒が追撃を開始する。
 当然のことだが、戦においては進軍よりも、敵に背を向ける撤退の方が難しい。
 この戦いで、殿軍しんがりとなったあま信忠のぶただの隊にいた侍大将、米倉よねくら晴継はるつぐが討死する。
 武田勢は迅速に駿河から兵を退き、北条勢との戦いは引き分けに終わった。
 甲斐の府中へ戻った信玄は、浮かない面持ちで馬場信春にぼやく。
「……思うた通り、北条が出張ってくると戦が複雑になる。やはり、春田道を確保するためには、大宮城と蒲原城をそのままにしておくわけにはいかぬな」
「まことにござりまする。富士宮のあの小城がここまで粘るとは……。小骨が喉に刺さっているが如き心境にござりまする」
 先陣として大宮城を落とせなかった馬場信春も顔をしかめる。
「駿府はどうだ?」 
「駿府では今川館の支城である愛宕あたごさん城やはた城を落としておりますが、当家の拠点とするには不足にござりまする。いっそ、のうざん辺りに新城を普請するのがよいかもしれませぬ」
「まあ、すでに駿府の大半は廃墟だ。慌てて、何かをせねばならぬ状況ではあるまい。それよりも当面の問題は、北条の出方だ。いっそ、景虎かげとらのように小田原城でも攻めてみるか?」
 信玄は冗談めかして言った。
 しかし、廃墟となった駿府において、思いもよらなかった事態が起こる。
 なんと、味方だったはずの徳川家康が、突然、駿府に侵攻したのである。
 そのことに驚愕した信玄は、すぐ跡部信秋に諜知を命じた。
 しばらくして、この諜知頭から報告がある。
「御屋形様、徳川の一件には、北条の画策があったとしか考えられませぬ」
「なにゆえか!?」
「遠江での当家と徳川の確執を知った北条氏康が、徳川家康に同盟を持ちかけたとしか思えませぬ。その証左に、掛川城に籠城していた今川氏真が無血開城しておりまする。これは掛川城の開城を条件に、武田家と手を切って徳川が北条と組むことを勧めたとしか考えられませぬ」
 実際、跡部信秋が言ったように、掛川城が無血開城してから今川氏真が北条家を頼って伊豆に落ち延びた後、徳川家康はすぐに駿府を占領している。
 元々、武田家の動きを驚異に感じていた徳川家康が北条氏康の話に乗り、手切れを覚悟で掛川城の開城と駿府侵攻を受け入れたということだった。
 この筋書きには、さすがの信玄も驚きを隠せなかった。
「おのれ、家康! 小物の分際で許さぬぞ!」
 信玄は激怒する。
 すぐに織田信長を通じ、徳川勢が駿府から撤退するように申し入れた。
 しかし、徳川家康は「武田家との手切れも辞さず」と信長に宣言し、北条家との同盟をたてに駿府の支配権を握ろうとする。
 ここにきて、武田家と織田家の同盟は続くが、織田家の配下にあったはずの徳川家が武田家と敵対するという奇妙なねじれが生じた。
 そこには東海道を巡る複雑な思惑が絡み合っていた。
 織田信長が徳川家康の独断を容認した背景には、武田家が東海道へ出張ってくることを警戒する信長の思惑が見え隠れしている。
 常に京へ顔を向けていなければならない織田家にとっては、徳川家康が北条と手を組み、さか茂木もぎの代わりになって信玄を止めることが、かえって好都合だったのである。
 さらに、六月になって北条家と上杉家の間でも同盟が結ばれ、ついに武田家と北条家の全面対決という構図ができ上がった。
 こうした一連の出来事を踏まえ、信玄は本気で北条攻めを決心する。
 ──氏康はもう少し利口かと思うたが、結局は先の見えぬ愚昧者であったか。たかだか越後との和睦がなった程度で舞い上がり、われら武田と構えるとはな……。
 信玄はまずこうから東海道までの春田道(中道往還)を確保するために、大宮城攻めを行った。
 前回の屈辱がある馬場信春のくろぞなえ衆五千と、穴山信君の三千余を加え、一気に力攻めを行う。
 この時、大宮城には北条方の富士信忠が率いる二千ほどの城兵がいた。
 しかし、今回の武田勢は自軍の犠牲を顧みぬ攻めを決めていたため、ほとんどの城兵が討死する。
 この時、北条氏政は援軍を送ることができず、富士信忠に文書を送り、開城を勧めた。そして、七月三日にこの約定が成立した。
 城将の富士信忠は武田勢にくだらず、北条方の蒲原城へ入ろうとする。
 それを追うように、馬場信春の黒備衆五千が蒲原城へ向かい、間髪をれずこの城を囲んだ。
 この一報を受けた信玄は、武田勢本隊の出陣を敢行する。
 狙いは北条の坂東支配を突き崩しながら、本拠地のわらに迫ることにあった。
 すぐに陣触が出され、八月二十四日に甲斐の府中を出立した信玄は、三万余の武田勢本隊を率いて佐久さくからうす峠を越える。
 西上野に入ると、安中あんなかで待ち受けていたさな幸隆ゆきたかの上野先方さきかた衆と合流した。
一徳斎いっとくさい、あまりからだの具合が良くないと聞いたが、大丈夫か?」
 信玄が言ったように、みの城の攻略を終えた後、真田幸隆は体調を崩し、しばらく床にしていた。
「大丈夫にござりまする。ご心配をおかけし、申し訳ござりませぬ。されど、さすがに寄る歳波には勝てませぬ」
 信濃から上野への絶え間ない転戦が、老境に入り始めた幸隆の軆を知らぬ間にむしばんでいたようである。
「そなたには、まだ余の側に居てもらわなければ困る」
 飯富おぶ虎昌とらまさ亡き後、真田幸隆はすでに武田家の重臣筆頭となっており、信濃と上野を睥睨へいげいする要の将として、まだ重責が残っていた。
「御屋形様、有り難き御言葉にござりまするが、当分、隠居するつもりはござりませぬ。粉骨砕身にて、お役目を務めさせていただきまする」
 幸隆が眼を潤ませながら答える。
「くれぐれも無理をせぬよう努めてくれ」
 信玄は老将の身を気遣った。
 そして、永禄十二年(一五六九)九月十日、武田勢は北条氏邦が籠もる鉢形はちがた城を包囲する。
 この城攻めは上野先方衆の真田幸隆が行うことになった。
 武田の上野先方衆は、城方の北条勢と激戦を繰り広げるが、鉢形城を落とすまでには至らなかった。
 信玄はさらに武蔵を南下して北条氏照の本城である滝山たきやま城へ向かう。
 その途上で、武田勝頼かつよりしな正俊まさとしあかぞなえ衆の山縣やまがた昌景まさかげあさ信種のぶたねを呼ぶ。
「勝頼、そなたには滝山城攻めの先陣を担ってもらう」
 信玄は伊那いな衆に先陣を命じる。
かしこまりましてござりまする」
 勝頼は神妙な面持ちで答える。
さぶ兵衛べえ、われらはどこに陣取るのがよいと考えるか?」
 信玄は山縣昌景に訊く。
「まずは滝山城の北側、拝島はいじま大日堂だいにちどう昭島あきしま)の辺りがよいかと」
「さようか。できれば滝山城を落としてしまいたいが、われらの標的はあくまでも小田原城だ。時がかかるようならば、見切りをつけねばならぬ。勝頼、西から信茂のぶしげの援軍が来る手筈になっている。そのことも頭に入れておくがよい」
 信玄が言ったように、やま信茂が一千余の別働隊を率い、ぼとけ峠を越えてはちおうおもてに向かっていた。
 北条氏照は物見によって武田勢が西から迫っていることを知り、城将のよこ監物けんもつ中山なかやま勘解由かげゆらに二千の兵を預け、たかに近い廿とど(戸取)で迎え撃つ策に出た。
 しかし、機先を制して小山田信茂が廿里砦を奪取し、ここで待ち伏せをし、駆けつけた北条勢に奇襲をかける。
 小山田信茂は二百の騎馬隊を四十騎ずつの五つ手に分け、前方、両側面、後方から不規則に攻め寄せてはすぐに退くという「ちょううんの陣」という策を仕掛ける。
 まさに「鳥の如く集まり、雲の如く散る」という戦法で北条勢を混乱させ、足軽隊が敵兵二百五十余を討ち取った。 
 これにより、横地監物の率いる北条勢は、なすすべもなく滝山城へ退却する。
 この一報を受けた武田勝頼はすかさず先陣を押し出し、周辺の村々を焼き払い、滝山城を裸にする。
 この時、北条氏照は城下の宿しゅくさんこうへ兵を出し、野戦で応じようとした。
 しかし、勝頼の率いる伊那衆の反撃を受け、大きな損害を出しながら籠城せざるを得なくなった。
 勝頼は果敢に攻め寄せ、滝山城の二のくるまで攻め寄せる。
 北条氏照は二の曲輪の二階門で自ら采配を振り、必死で防戦を行った。
 それを見た信玄は勝頼に攻撃の手を緩めさせ、滝山城の包囲を続ける。
 その間に自ら本隊を動かし、相模さがみ川のほとりへと進め、九月二十九日に渡河を敢行した。
 信玄は慎重を期し、赤備衆の山縣昌景を殿軍に置いて相模川を渡り、あつに陣取った後、国府津こうづ前川まえかわ酒匂さかわへ先鋒の兵を送る。
 ここまでの武田勢に対し、北条勢が野戦で迎え撃とうとする気配はなかった。
 それぞれの城に籠城し、堅い守りで息を潜めている。
 ──やはり、これが北条の戦い方か。攻める時は将兵をまとめてくるが、守る時は拠点とする城に籠もり、それぞれが堅守に徹することが基本なのだ。景虎が小田原城を攻めた時とまったく同じであろう。
 信玄は北条勢の動きを冷静に読んでいた。 
 その翌日、別働隊として動いていた黒備衆の検使、とう(真田)昌幸が厚木の陣に駆けつける。
 検使とは、総大将と部隊の間を往復し、命令の伝達と動静の報告を行う役目である。
 ただし、部隊の長が討死した時は、検使が代行として指揮を執ることが許されており、使番よりは遥かに格上の役目だった。
「御屋形様、黒備衆は大宮城と蒲原城を落とし、三島一帯に火を放った後、小田原城へ向かっておりまする」
「予定通りであるな。昌幸、小田原城攻めは来たる十月の朔日だ。みんに遅れるなと伝えよ」
 信玄は別働隊と小田原城下で合流せよと伝える。
「承知いたしました」
 武藤昌幸は慌ただしく馬場信春のところへ戻っていった。
 暦は十月朔日となり、信玄の下知で武田勢総軍が酒匂川を渡り、一気に小田原の城下へと侵入する。
 小田原城の四門蓮池はすいけまで攻め寄せ、物見に出ていた北条勢の足軽を十名ほど討ち取った。
 北条氏康と氏政の父子は、籠城の構えを取り、頑なに直接の戦いを避けようとした。
 小田原城は周囲に堅固な城壁を張り巡らせ、城郭に加えて侍屋敷、町屋、田畑などを城内に取り込んでいるため、すべての門を閉ざしても城自体がひとつの町として自活することができる。
 それゆえ、上杉政虎まさとら(輝虎)が率いた十万にも及ぶ坂東勢が囲んでも落ちなかった。
 城に籠もって貝のように門を閉ざす北条勢を挑発するように、武田勢が焼討を行う。
 油壺と松明を片手に武田の足軽たちが走り回るが、辺りからは人影が消えており、建屋はすべてもぬけの殻だった。
 武田勢が攻め寄せるという一報が届けられると、小田原城から触れが出され、里人は城内へ逃げ込んでいた。
 武田勢は北条勢に出てこいといわんばかりに火を放ち、小田原の城下が焔に包まれる。
 その頃、箱根を越えた黒備衆も、西から小田原城に迫っていた。
 城下に火の手が上がるのを見て、馬場信春が検使の武藤昌幸に訊く。
「昌幸。確か、城下の西側にはまつ憲秀のりひでの外屋敷があったのではないか?」
「はい。箱根へ登る手前に、大層な館がひとつありまする。それが松田の外屋敷かと」
 松田憲秀とは初代早雲そううんの頃から北条家に仕える譜代の重臣であり、北条氏康のさいとして小田原衆の筆頭の地位にあった。
「どうせ北条は城から出て来るまい。こちらも辺りに火をかけるか」
 馬場信春が周囲を見回す。
「兵を廻しておきまする」
「ならば、昌幸。松田の外屋敷だけは、最後まで残しておくがよい。辺りを焼野原にし、見晴らしをよくしてから一気に焼いてしまえ。……いや、焼くだけでは足りぬな。焙烙ほうろくだまを仕掛けて屋敷ごとこなじんにしてやるがよい。小田原城のやぐらからは、さぞかし面白き見世物となるであろうて」
 馬場信春は酷薄な笑みを浮かべる。 
「承知いたしました」
 小田原城の西側に焼討を仕掛けた後、いよいよ松田館に火をかけることになった。
 屋敷の至る処にかやのうずたかく積まれ、その中に焙烙玉が仕込まれる。
 そして、屋敷の四方を囲んだ足軽たちが油をいた後、一斉に松明を投げ入れた。
 建屋はすぐに火焔に包まれ、やがて轟音が響き、火柱が立ち上がった。
 焙烙玉が次々と爆発し、屋根が音を立てながら崩れ落ち、建屋は跡形もなく潰れる。
 馬場信春は無表情でその様を見つめていた。
 城下のほとんどを武田勢が焼いたにもかかわらず、小田原城の北条勢は不気味な沈黙を守っている。
 ──ここまでされても、依然として穴熊の計か。
 信玄は小田原へ着陣してから五日間にわたって挑発したが、結局、北条勢が城から打って出ることはなかった。
 ──そろそろ潮時か。穴熊を相手に、これ以上の長居は無用。
 信玄は撤退を考え始める。
 ──われらの撤退を狙うつもりであろうが、そうはさせぬ。
 透破を使い、小田原と相模の各所へ「この後、武田勢はむら大上おおがみに陣取り、鎌倉かまくら鶴岡つるがおか八幡宮に太刀を奉納するつもりらしい」という風聞をばらまいた。
 敵を攪乱し、退却を迅速に行うための前捌まえさばきである。
 そして、永禄十二年(一五六九)十月六日になり、信玄は退陣を命ずる。
「これより甲斐へ帰還いたす! ませ筋へ向かうぞ!」
 武田勢は勝頼と保科正俊を殿軍として小田原を発向し、何事もなく相模原へと到着する。
 翌七日には三増筋にある愛川あいかわの里で軍を止め、怪しい気配の漂う峠に物見を放った。
 ──もしも、待ち伏せがあるとしたならば、落とし損ねた鉢形城の北条氏照と滝山城の北条氏邦の軍勢であろう。
 信玄はそのように読んでいた。
 ──ただし、読みきれぬ事柄も残っている。北条は単に待ち伏せを仕掛けているだけではなく、まことの狙いは挟撃であろう。となれば、厄介なのは地黄じき八幡はちまん、北条綱成つなしげか……。
 地図を広げ、思案を続ける。
 ──北条綱成の一軍が、藤沢ふじさわ玉縄たまなわ城から鎌倉街道のかみつみちを使えば、まちを抜けて当麻たいまの里辺りまで隠密に行軍することができる。つまり、北条綱成がわれらの横腹を狙い、挟撃で足止めした後に、小田原城から北条の本隊が駆けつける手筈になっているとしたら、なかなかに厄介だ。
 信玄は敵の挟撃策を逆手に取り、二重の挟撃策をもって敵を打ち破ることを考える。
 ──この謀撃は、われらのはやさが肝心だ。氏康と氏政の親子が小田原を出た時、すでに戦いが終わっておらねばならぬ。そのために隙なく、各隊の役割を決めねば……。
 何度も想定を繰り返した後、信玄はいくさ評定の場に臨む。
「北条はやっと戦う気になったようだ。おそらく、われらの帰路、三増筋で待ち伏せするつもりであろうが、野戦となるならば望むところだ。そこで、まずは先陣を三つに分けることにした」
 地図を示しながら、敵に備えるための陣容を発表する。
「まず最初の一隊は、峠に潜んでいるであろう敵勢をまっすぐ見据えながら、三増筋を登ってもらいたい。この先陣先遣隊はそれなりに重荷が多いであろうが、最も重要な役割と負うことになる」
「ならば、その役目はわれら黒備にお任せくださりませ」
 馬場信春が短く答える。
「民部、やってくれるか?」
「敵をまっすぐ見据えながら進むのは、われら先陣の常にござりまする。造作もなきことかと」
「頼もしい限りだ。それに続く二番手は勝頼、そなたと保科の隊に頼みたい」
「承知いたしました」
 武田勝頼が引き締まった顔で頷く。
「お任せくださりませ」
 保科正俊も頭を下げた。
「そして、先陣第一隊の殿軍はしき、そなたに頼みたい」
 信玄は浅利信種を指名する。
「有り難き幸せにござりまする」
 浅利信種は微笑みながら頭を下げ、その隣で検使の曽根そねまさが口唇を真一文字に結んで頷く。
「ここまでが三増筋を行く先陣第一隊だとするならば、もうひとつの先陣は志田しだ峠に置きたい」
 信玄は三増筋の西側にある志田峠を指す。
「その先陣第二隊を三郎兵衛、そなたに任せたい。赤備衆は小幡の先導で志田沢まで行軍し、そこからは分かれて小曽根へ進み、三増峠にいる敵の背後へ回り込んでもらいたい」
 信玄が握った扇の先は、三増筋の西側を並行に走る間道を抜け、小曽根という嶺の尾根道を伝って津久井つくい城と三増峠の間に出ていた。
 それを見た山縣県昌景が厳しい表情で頷く。
 その脇で小幡重貞しげさだと嫡男も同じ仕草をしていた。
「三郎兵衛、そなたら赤備衆が敵の背後に回り込む頃、すでに峠では戦いが始まっているやもしれぬ。その背後を突き、迅速に敵を崩してほしい」
「承知いたしました」
 山縣昌景が引き締まった面持ちで答えた。
「さて、小幡。そなたには千二百の兵を預けるゆえ、赤備衆を先導して間道を行き、沼という里まで出よ。そこからは大仰に兵を押し出し、津久井城を囲んでもらいたい。もしも、津久井城にいるはずの内藤ないとう景豊かげとよが峠に出ておるならば、その報を聞きつけ、慌てて戻ってくるであろう。三増峠から城までは一里(四㎞)ほどゆえ、一刻半(三時間)もかかるまい。そなたの役割は津久井城の押さえだが、やれると見たならば内藤景豊を討ち取り、城を落としてもかまわぬ」
「御意!」
 小幡重貞と信貞のぶさだの親子は声を揃えて頷く。
「われらの本隊は後方を警戒しつつ、三増筋を進む。小田原の北条勢本隊に喰い付かれると厄介ゆえ、とにかく疾さが肝心だ。一気に三増峠を突破したい」
 信玄の言葉に、一同は顔を見合わせて頷いた。
「ただし、余にもまだ読めぬ事柄が残っておる」
 それを聞き、座が静まり返る。
「北条のせがれどもは単に待ち伏せを仕掛けているだけではあるまい。まことの狙いは挟撃であろう。藤沢の玉縄城から北条綱成の一軍が鎌倉街道のかみつみちを使えば、町田を抜けて当麻の里辺りまで隠密に行軍することができる。つまり、北条随一の剛の者、地黄八幡の綱成がわれらの本隊の横腹を狙っているとも考えられる。この挟撃でわれらを足止めした後に、小田原城から氏康と氏政の父子が駆けつける手筈になっておるのやもしれぬ。それゆえ、挟撃の策を逆手に取り、二重の挟撃の策をもって敵を打ち破ることにした。この謀撃はわれらのいっせいが肝心であり、そのために隙なく各々の役割を決めた。されど、ひとつだけまぐれが残っておる」
 そう言って腕組みをした信玄に、馬場信春が問いかける。
「御屋形様、その紛れとは?」
「北条綱成がいかなる機で、いかなるところから攻めかかってくるのかだけが読めぬ。あの者は、戦場で理よりも獣の勘で動くらしい。獲物を狙って潜む虎の如く、機を見るに敏なのであろうな。意外な処から意外な機で攻められると、峠を行く本隊が危うくなることもある。それゆえ、余の旗本は夜中に藪の中を登り、五つの備えを置くことにする」
 なんと信玄の旗本が遊撃隊の役目を担うという。
 これには居並ぶ将たちも驚きを隠せなかった。
 その中で一人の将がおもむろに手を挙げる。
「御屋形様、それがしはまだ役目をいただいておりませぬ」
 内藤昌豊まさとよどう祐長すけなが)が顔をしかめてぼやく。
「おお、しゅか。すまぬな、そなたの役目は最初に申しておくべきであったな。こたびは小荷駄奉行を頼む」
 信玄の言葉が呑み込めず、内藤昌豊は眉をひそめる。
「小荷駄……奉行……」
 それから、仏頂面がさらに渋柿にでも当たったようにゆがむ。
「殿軍ならばまだしも、そ、それがしが小荷駄奉行とは、いかなる理由にござりましょうや?」
「大事な役目だから、そなたに頼む」
「ご勘弁くださりませ、御屋形様。小荷駄を引き連れて逃げ回るなど……」
「不足か、修理」
「面目が立ちませぬ」
「ならば、仕方があるまい。余が小荷駄隊を率いるゆえ、そたなは余の代わりに旗本を率いてくれ。それならば、不足はあるまい」
 信玄はこともなげに言い放つ。
 それには一同も息を呑み、主君と内藤昌豊の顔を交互に見る。
「……御屋形様、なにゆえ、そこまで小荷駄にこだわりまするか」
 内藤昌豊は困り果てた顔で訊く。
「以前、小田原へ攻め寄せた景虎が退陣する際、どこからか追ってきた北条の一隊が越後の小荷駄隊に食いついたそうだ。そこから隊列を崩され、あの景虎が一軍を失ったらしい。本来ならば失わなくともよい、無用な痛手を被ったということだ。その北条の一隊というのが、綱成らしい。おそらく、北条の意地を見せたかったのであろうな。今回も同様だ。必ずや、北条綱成が意地を見せつけにくる。それゆえ、今回も本隊に随伴する小荷駄隊の動きが重要なのだ。追ってくる虎の爪から、いかにうまく逃すか。それは並の将にできることではあるまい」
 信玄の答えに、思わず内藤昌豊が口唇をむ。
「……さようなことならば」
「修理、引き受けてくれるのか?」
「もちろんにござりまする。小荷駄隊は勝頼様の後ろを行けば、よろしゅうござりまするか?」
「さようだ。これで、すべての役割は決まった。重ねて申すが、各々の疾風迅雷の働きを見せてくれ!」
「御意!」
 将たちは一様に引き締まった面持ちで頭を垂れる。
 これで、軍評定は散会となった。
 その場を去ろうとした武藤昌幸に誰かが声をかける。
「よう、検使殿……」
 振り返ると、兄の真田信綱のぶつなが立っていた。
「兄上!?」
 昌幸は長兄の黒備姿を見つめる。
「そなたがののかみ殿の検使に任じられるとはな。御屋形様も粋な計らいをしてくださるものだ」
「……たぶん、こたびだけのことで、この後は再び勝頼様の下へ戻ると思う」
「さようか。ともあれ、まずは目先の戦だな」
 兄の信綱が真顔になる。
「こたびの策で最も大変な役割を負うのは、先陣を切るわれら黒備衆であろう。おそらく、この身と昌輝まさてるは先鋒として山を登り、北条の伏兵があれば、真っ先に戦うことになる。昌幸、そなたは美濃守殿の先陣本隊と一緒か?」
「いや、浅利殿の先陣殿軍と一緒に動くことになると思う」
「北条の挟撃は、必ずある。それがしは、さように思うている。もしも、殿軍が襲われることがあったならば、まともには戦わず、敵の力をそらしながら時を稼いだほうがよい。兵をうまくまとめ、陣形を広げずに戦うべきだ。さすれば、必ず赤備衆が救援に来てくれるであろう」
「わかりました。覚えておきまする」
「昌幸、無理はいたすな。利口に立ち回れ」
 信綱は末弟の肩に手を置き、力を込めた。

次回に続く)

【前回 】

プロフィール
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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