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新 戦国太平記 信玄 第七章 新波到来(しんぱとうらい)7 (上)/海道龍一朗

   八十五 

  よし一派がぼう足利あしかが 義輝よしてる弑逆しいぎゃく
 その耳を疑うような一報は、躑躅つつじさき館にも届いていた。
 ――義輝殿が三好にしょまきされたか……。
 信玄は半眼の相で灯火を見つめながら思案にくれる。
 ――新第しんてい招待の御教書もこちらに届いており、そろそろじょうらくを考える頃合いかと思うていたが、当人の首が落ちてしまったのでは、御披露目どころの騒ぎではあるまい。確か、義輝殿には僧籍にはいった実弟がいたはずだが、無事なのであろうか。ともかく、三好が次に誰を担ぎ上げるつもりかも含め、公方の後継者が明らかになるまでは、京の様子を静観するしかなかろう。
 これまで何度も、信玄は京の公方から上洛の誘いを受けている。
 しかし、「しな一国を完全に制覇するまでは、浮ついた上洛などするまい」と心に決めていた。
 何度も信濃へ出張ってきた上杉うえすぎ輝虎てるとら謙信けんしん)を退け、一国全土を掌中に収めた今、やっと上洛の機が見え始めてきた。
 その矢先に起きた弑逆事変だった。
 ――これから勝頼かつよりの縁談がまとまり、織田おだ美濃みの斎藤さいとう龍興たつおきを片付けてくれるのならば、これまでよりも楽に上洛ができるようになろうて。ついでに、われらが遠江とおとうみを制し、武田家として東海道へ出てしまえばよい。さすれば、塩の心配もなくなり、われらは東山道とうさんどうからでも、東海道からでも、京の都を目指せるようになる。事によると朝廷から幕府の立て直しを願われるかもしれぬしな。
 信玄が上洛を視野に入れはじめたのは、親しい京のぎょうたちからの要請が増えたことに加え、織田家との縁組が持ち上がったことも影響していた。
 ――残る問題は、今川いまがわ家のちょうらくぶりだ。裏切った遠江の国人こくじん衆一人の仕置もままならず、重臣を敗死させたというではないか。
 昨年、今川の家臣であった遠江の国人衆、いの連龍つらたつまつだいら家康いえやすと内通して反旗を翻している。
 今川氏真うじざねは重臣のうら正俊まさとしらに出陣を命じ、遠江敷知ふち郡のひく城(引間城)に攻め寄せた。
 しかし、頑強な抵抗にあって陥落させることができなかった。逆に、攻城戦が長引く中、飯尾連龍に虚をかれ、重臣中の重臣、三浦正俊が討死してしまったのである。
 ――このままでは遠江どころか、駿する一国を持ちこたえるのも難しくなろう。やはり、このあたりが見切り時か……。
 信玄は本気で今川家との関係を見直すつもりでいた。
 今川氏真の力量では、これまでの威勢を保つことができないと見ていたからである。
 ――武門の盟約というものは、互いに対等な力があってこそ維持できるもの。時の長さや上面うわつらの義などで語るべきものではない。どのような関係にも、見切り時というものがあるのだ。その機を誤れば、一門が滅ぶことさえあり得る。義信よしのぶには、まだそれがわかっておらぬ。もっと視野を広く持ち、物事を冷徹に見極めねば。一門のそうりょうたる者は、時として批判を覚悟で冷酷な判断をせねばならぬ。
 嫡男と今川家の関係は、非常に根深いものだった。
 ――それゆえ、義信は縁に縛られ、情に流され、これまでの付き合いを続けていくしかないと考えている。
 しかし、信玄はそれを甘すぎる判断と見なしていた。
 それに加えて、もうひとつ、隠された本音があった。
 山に囲まれた甲斐を本領としてきた武田家にとって、海に面した国へ出ることはひとつの悲願でもあった。
 ――京で起こった椿ちんも含め、今はわれらの一門にとって大きな転機と見るべきである。東海道へ出て行く好機に合わせ、間もなく織田の使者が伊那いなへやって来る。その席で、京の公方と縁があった三郎信長さぶろうのぶなががこたびの政変をいかように捉えているのか、問うてやろう。少なからず面白き答えが聞けるはずだ。
 織田家の折衝役である織田忠寬ただひろ長坂ながさか光堅みつかたとの面談を終え、いよいよ高遠たかとお城を訪れる予定になっている。
 そこで信玄への拝謁があり、大きな問題がなければ、諏訪すわ勝頼の縁談が実現するはずだった。
 つまり、わりの織田家との連衡も成立するということである。
 こうした一連の話は家中に公表されていなかったが、風聞として家臣たちの口の端に上るようになった。
 そんな中、義信はここ数日、屋敷に閉じ籠もり、一人で煩悶はんもんしていた。
 ――来月にも父上と織田家の使者が面会されると聞いた。……それまでに、この身がちょっかんいたさねばならぬ。
 そう考え、父への諫言に及んだ時の問答を何度も想定してみた。
 だが、その度に想像上の父に言い負かされてしまう。のうでの想定問答で完璧に勝たなければならなかったが、ほとんどうまくいかず、時だけがどんどん過ぎていった。
 ――前回、謹慎を言い渡された時と同じ論法では、とうてい父上を喝破できぬ。何か突破口を見つけねば……。
 義信は再び瞑目めいもくし、脳裡で問答を試みる。
『父上、ひとつ、お訊ねしたき事柄がありまする。尾張の織田家からろうの嫁を迎えるという話を耳にしましたが、まことにござりまするか?』
『義信、さような話を、誰の口から聞いた』
『誰の口からと問われましても、だれなにがしということはありませぬ。自然と耳に入ってきた家中の風聞にござりまする』
『その話がまことだとしたならば、何とする』
 父は突き放すような口調で言うだろう。
おそれながら、お訊ね申し上げまする。織田家との縁組の件を、今川家には通達なされたのでありましょうか?』
『……なにゆえ、今川家にことわりを入れねばならぬ?』
 父はぜんとした面持ちで聞き返すかもしれない。
『それがしの口から説明するまでもないと存じますが、少なくとも、この件を先方に伝えることこそが、当家の守り続けてきた筋というものであり、長きにわたる盟友に対する義理だからだと考えまする』
『わかっておらぬな、義信。これはあくまでも諏訪家と織田家の縁組なのだ。諏訪の頭領が織田の姫をめとる。それを今川家にことわっておかねばならぬ道理がどこにあろうか』
『されど、今川家はこの縁組を当家と織田家の盟約も同然であると考えるのではありませぬか。それでは今川家との関係が存続できませぬ。同時に、ほうじょう家との盟友関係にもひびが入りかねませぬ。さような縁組をなにゆえ今、進めねばならぬのでしょうか。少なくとも東海道の情勢が落ち着くまで、それがしはこの件を延期すべきと考えまする』
『義信、以前にも申したはずだぞ。武家同士の盟約が永久とわのものだなどと思うておるならば、そなたは甘すぎる。確かに、有効な盟約ならば長く続くことが互いの利点となろう。されど、周囲の情勢が変われば、おのずと関係も変化してくる。これまでの盟友といえども、自国の足枷あしかせとなるならば、その関係を見直さねばならぬし、新たに利のある相手が見つかったならば、新たな盟約を考えることもある。それだけのことだ。武門同士の関係は、情に流されて続けるものではない』
『それは仰せの通りかと。では、問いを変えさせていただきまする。こたびの縁談相手は、遠山からの養女と聞きましたが、間違いありませぬか?』
『さようだ』
『ならば、織田がさような縁組を申し入れてきたのは、美濃攻略のための時を稼ぎたいからではありませぬか。つまり、当家に横槍を入れられたくないという、ただ、その一点においての縁談と存じまする。さような話にうかうかと乗せられてもよろしいのでありましょうか』
『ふっ。織田が勝手に美濃の斎藤龍興を始末してくれるのならば、当家にとって、これ以上の好都合はあるまい。われらは飛騨ひだからひがしおうに出てゆけばよいのだからな。そう考えるのは当然であろう』
『では、織田家が味方となり、美濃の斎藤を制してくれるとしましょう。それを聞いた今川家は憤慨し、当家との手切を考えるやもしれませぬ。当然、われらよりも前からの盟友である北条家にもその話をし、せっかく築いた三国の同盟が崩れるやもしれませぬ。さように考えるならば、単なるなりものの織田家ひとつを味方にするため、今川家と北条家という二つの勢力を敵にすることとなりまする。それが果たして、父上の申されている利のある盟約という理屈にかなっているのでありましょうか?』
『はっきりと申せば、現状の今川家よりは、織田と組む方が遥かにましだ。それに加え、たとえ当家と今川家が手切となった場合でも、北条がわれらを見限るとは限らぬ。北条との共闘に利があるのは、あくまでも当家が上野こうずけへ出張るためだ。もしも、北条がわれらとの手切を考えたとしても、さしたる問題はない。当家はこれ以上、坂東ばんどうへ出張っていく意思を持っておらぬからだ。それに加え、間もなく一徳斎いっとくさいみの城を落とすであろう。さすれば、上野の仕置は仕舞となり、北条との共闘にも区切りがつく』
『されど、当家と切れた北条家がえちの上杉と和睦した場合、上野が危なくなるのではありませぬか』
『北条と上杉の和睦とは、笑わせてくれる。よいか、北条家は越後にいる関東管領かんれいと坂東全域を争うているのだぞ。上野を当家から奪い返すためだけに、あの景虎がさような話に乗ると思うておるのか?……そなたはまったく敵の本質をわかっておらぬな、義信』
『ならば、織田との縁組を進める前に、当家が裏切り者の松平党を成敗し、かわを奪い返せばよいではありませぬか』
『当家の将兵を損じて、ただで今川のために三河を奪い返してやれと申すか?』
『三河を奪い返したならば、半国を当家のものとすればよろしいのでは』
『その後はくにざかいを接するすべての場所で、織田との戦いか?』
『そうなったとしても、致し方ないのでは』
『さようないくさをするよりも、われらが遠江一国を制する方が簡単で早かろう』
『父上はただ遠江が欲しいだけなのではありませぬか!』
『そうだとして、何が悪い?』
 ――父上は織田と野合し、今川家を滅ぼすことも辞さぬと考えておられるのか!?
 義信は眼を見開き、父の顔を見る。
 そこにはじんの揺らぎもなく、冷酷な判断を下す惣領の面持ちがあるだろう。
 いつも脳裡での問答がそこで途切れてしまう。
 ――やはり、だめだ……。父上をおいさめしきれぬ……。
 義信は眼を開いてうつむく。
 ――他の者に遠江や駿するじゅうりんされるぐらいならば、当家が東海道に介入すべきだ。父上はさようにはらくくっておられる。されど、北条家を含めた三国の同盟はまだ生きており、織田信長と連衡することは、明らかにこれまでの盟約を踏みにじることになる。その決断はてつもなく重いはずだが、父上はそれさえも乗り越えられたということか……。であったとしても、この身はどうしても今川家を見捨てることができぬ。
 それが本音だった。
 つまり、今川家から嫁いできた己の正室や、今川義元よしもとの仲介で甲斐へ輿入れした母親の気持ちを無視することができなかったのである。
 ――さような情は冷酷に振り払え、と父上は一貫して申されている。されど、それが己の弱味になっていることがわかっていても、背負った思いを振り払えない。結局は、父上と同じ冷徹な見切りを持たぬ限り、父上を乗り越えることができぬということか……。
 己の弱さを自覚し、義信は深く落ち込む。
 ――このままでは直接の諫言どころか、父上のお顔を直視することもままならぬ。それでも、わが考えが間違っているとは思えぬのだ。……思えぬが、それを正義であると貫き通す胆力が足りぬ。この身の、なんと不甲斐なきことか……。
 迷いはさらなる迷いを呼び、そこから生じた懊悩おうのうは底知れぬ泥沼に変わっていく。
 その中で一人、もがき苦しみ、義信はひとつの言葉に辿たどりついた。
 ――方法は、ひとつだけある。今はそれしか思い浮かばぬ……。されど、まことに正しい考えなのであろうか?
 疑心が闇鬼を生み、その爪が胃の鷲摑わしづかみにする。
 どうが激しくなり、義信はからえずきに襲われた。
 それでも、やっと辿り着いたひとつの言葉にすがりつくしかない。
 ――もう迷わぬ! 父上を説き伏せるには、この方法しかないのだ。
 妄信にも似た覚悟を決め、義信は懊悩の泥沼から必死になって這い出る。
 翌日、長坂昌国まさくにを呼び、寄合の招集を命じた。
 夜になり、いつもの面々が屋敷に集まるが、義信のやつれた面持ちを見て、誰もが驚く。
 これまでとは違う、何か得体の知れない緊張に包まれながら、話が始められた。
まごろう、例の件について報告を頼む」
 長坂昌国が曽根そね昌世まさただに発言を促す。
「はい。来たる九月九日にかた様が高遠城へお出ましになられ、織田方の使者とお会いになられることが決まったそうにござりまする。これは昌幸まさゆきからの話ゆえ、間違いないかと」
「さようか」
 義信がかすれた声で答えた。
「事態はいよいよ由々しき方向へ進んでおる。それがしは、この面会を決して看過できぬ。それゆえ……」
 まなじりを決し、言葉を続ける。
「……来たる九月九日、われは父上に諫諍かんそうを行う!」
 それを聞いた一同が、小さく息を呑む。
 誰もが息を詰め、義信の言葉を反芻はんすうしていた。
 諫諍。
 それは力ずくの諫言である。
 だが、争いも辞さず、主君を強く諫める行動に出れば、ほんとも取られかねなかった。
 いや、諫諍そのものが、すでに謀叛すれすれの行為である。
「父上が高遠城へ向かう途上で、それがしがその一行を押さえて直諫を行う。さらに別働隊を編制し、織田方の使者が下伊那に入ったところで捕縛する。その別働隊を昌国、そなたに率いてもらいたい」
 義信は長坂昌国に別働隊の将を命じる。
 昌国は話の成り行きに、眼を見開いたまま絶句した。
「父上には何がなんでも、話を聞いていただくしかない。おそらく、織田の使者を捕縛したことをお伝えすれば、わが諫言を受け入れていただけるであろう。されど、受け入れていただけぬ時は……」
 義信は話を続ける。
 来たる永禄えいろく八年(一五六五)九月九日、信玄がお忍びで高遠城へ向かう途中、義信が兵を率いてこの一行を止める。
 同時に、下伊那で長坂昌国の一隊が、織田忠寬の一行を捕縛して高遠城へは行かせないようにする。
 義信はその件を父の信玄に伝え、「織田との縁組を反故ほごにせよ」と迫る。父が話を受け入れてくれれば、それを長坂昌国に伝え、人質とした織田忠寬の一行を尾張に帰す。
「されど、父上が直諫を受け入れてくれない場合、織田の使者を成敗し、力ずくで縁組を反故にいたす! 尾張には織田忠寬の首級しるしだけを送り返せばよい! 加えて、父上にはそのまま駿すんへ行って隠居していただく!」
 義信は鬼面で言い放つ。
 あまりに過激な計画を聞かされ、誰もが言葉を失い、からだを凍りつかせていた。
「この覚悟を、皆に強制するつもりはないのだ。されど、それがし一人だけになろうとも、武田一門の今後のために、この諫諍だけはやり遂げねばならぬ。もしも、賛同してくれる者がいるならば、ここで連署状に血判をしてもらいたい」
 その言葉を最後に、座はしばし奇妙な沈黙に包まれる。
 ただ一人、傅役もりやく飯富おぶ虎昌とらまさだけが、眼をつぶって細い息を吐く。
 ――若は本気だ……。御屋形様が御先代を相手に行った代替わりを、自ら強行することも辞さぬと覚悟しておられる。
 確かに、最悪の場合、この諫諍は信玄が先代の武田信虎のぶとらを力ずくで隠居させ、駿府へ追放したのと同じ結果を招くだろう。
 ――本来ならば、この身が若をお止めせねばならぬのだが、かかる覚悟を聞かされてしまえば、それすらもできぬ……。
 飯富虎昌も人知れず覚悟を決めた。
「……若、連署状をこちらにお願いいたしまする」
 そう答えた傅役の顔を、長坂昌国は食い入るように見つめる。
ひょう、すまぬな。そなたに相談もせず、勝手に計画を決めて」
 義信は神妙な面持ちで飯富虎昌に謝った。
 それを見た長坂昌国が思わず叫んでしまう。
「義信様、別働隊はそれがしにお任せくださりませ!」
「それがしも昌国の別働隊にお加えくだされ!」
 長坂勝繁かつしげも願い出る。
 そうなると、もう歯止めはきかず、他の者も賛同せざるを得なくなった。
 一同は次々に脇差わきざしで自らの左腕を切り、その血で連署状に血判を捺していく。
 ――まことに、これでよいのか?
 そのように思う者が一人もいないわけではなかった。
 しかし、座は異様な熱気に包まれ、自問自答さえできる雰囲気ではなくなっていた。
「……皆の意気に感謝いたす。これで、わが武田一門は救われるはずだ。かたじけなし」
 かすかに瞳を潤ませ、義信が頭を下げる。
「では、来たる日まで、皆、黙して支度を進めよ」
 飯富虎昌が重々しく言った。
 傅役の言葉をもって、この夜の寄合は終わる。
 誰もが口唇を真一文字に結び、厳しい面持ちで帰途についた。
 こうして義信を中心としたきんじゅうたちによる諫諍の計画が動き出した。
 そんな中、寄合の一員である飯富昌景まさかげの様子が急変する。
 ――あの場では言い出せなかったが、まことに、これでよいのだろうか? このまま諫諍に及べば、家中が真っ二つに割れる怖れもある。
 義信の屋敷を出てから、ずっと、その思いにとらわれていた。
 ――それにしても、叔父上はなにゆえ若君をお止めしなかったのであろうか?……いつもの叔父上ならば、間違いなくお諫めしていたはずなのだが。
 昌景は飯富虎昌のおいであり、叔父に誘われるまま義信の寄合に参加していたのである。
 ――皆が血気にはやり、事に及べば、とんでもない事態になりかねぬ。もしも、織田の使者をあやめてしまえば、新たな禍根を生むことにもなる。すぐに新たな戦の火種となりかねぬ。やはり、この件は御屋形様にお伝えし、何かが起きる前に収めた方がよいのであろうか……。
 しかし、それでは己がただの密告者に成り下がってしまうような気もする。
 ――まずは叔父上を説得し、若君を止めていただくか……。それとも、このまま諫諍に加わり、義信様が過激な行動に出ぬよう、側でお止めした方がよかろうか……。
 飯富昌景は迷いに迷った。
 それでも、己が何かしなければならないという思いに駆られていた。
 そして、もう一人、変調をきたしていた者がいる。
 長坂昌国の手先となって動いていた曽根昌世だった。
 あの夜から、どこか気もそぞろの様子で、役目に気が入らない。そのせいで失敗を繰り返し、主君のしっを受けていた。
 一人になると沈み込み、同じことを何度も思案した。
 さな昌幸はそんな曽根昌世の姿を見て、心配そうに声をかける。
「昌世殿、ずいぶんと元気がありませぬが、いかがなされました?」
「……ああ、昌幸か。別に、どうということはない」
「だいぶ、お疲れのように見えまするが」
「……大丈夫だ。このところ、少し眠れぬだけだ」
 曽根昌世は筋骨を抜かれたような声で答える。
「気が向いたならば、わが屋敷をお訪ねくだされ。しばらく府中におりますゆえ、いつでもお付き合いいたしまする」
 真田昌幸は笑いながらさかずきを傾ける真似をした。
「……ああ、その時は頼む」
 昌世は力なくうなずく。
「では、また」
 去って行く真田昌幸の背を、曽根昌世はぼんやりと見ていた。
 ――昌幸、すまぬ。そなたをだますつもりではなかったのだ。それがしはただ、……ただ、義信様と長坂の兄様のお役にたちたかっただけなのだ……。
 それからも、ますます眠れぬ夜が続いた。
 いたずらに胸の裡がざわつき、得体の知れない不安に駆られる。
 ――だめだ。このままでは気がおかしくなりそうだ。やはり、昌幸にだけは伝えておかねばならぬ……。
 曽根昌世は蒼白そうはくな面持ちで亡霊のように立ち上がる。
 その足で真田家の屋敷に向かった。
 夜更け過ぎに、突然訪ねて来た上輩の姿を見て、真田昌幸はすぐさま只事ではないと悟る。
 びんを乱した曽根昌世を、離れの室に招き入れようとするが、中に入ろうともしない。
「どういたしましたか、昌世殿」
 つとめて普段通りの口調で訊く。
「……昌幸、大変なことになってしまった」
 今にもき出しそうな顔で曽根昌世が切り出す。
「お、御屋形様の……」
 そこまで言い、激しく咳き込む。
 いや、咳き込むというよりも、必死でこみ上げる嘔吐えずきを止めようとしているように見える。
「御屋形様がいかがなされました?」
 真田昌幸は上輩の背をさすりながら訊く。
「……御屋形様の……御屋形様の高遠城行きが危ない」
 曽根昌世がやっとのことで声を振り絞る。
「高遠城行きが危ないとは、いかなる意味にござりまするか。昌世殿、それがしにもわかるようにお話しくだされ」
 昌幸は上輩の両肩を摑む。
 その手に小刻みな震えが伝わってくる。
 普通の動揺ではなく、心底からおびえているようだった。
「……わ、わかった。義信様の寄合に集っている者たちが……勝頼様と織田の娘の縁組があるという話に激昂げきこうし……御屋形様をお止めするために、高遠城行きの途上で……諫諍すると申しておる」
「諫諍!?……義信様をお慕いする者たちが!?……まさか」
「まことのことなのだ。そ、それで……」
 言いよどんだ曽根昌世を、真田昌幸が促す。
「昌世殿! しっかりなされ!」
「……それだけではない。下諏訪に入った織田家の使者を捕縛しようとしている。この身も長坂の兄様からその一行に加われと言われている」
「長坂の兄様が、織田家の使者を捕縛……。信じられませぬ。それに義信様の命とはいえ、兵部殿がさように謀叛まがいのことをお許しになるはずがありませぬ」
 真田昌幸も飯富昌景と同じようなことを考えていた。
 曽根昌世は充血した眼でつぶやく。
「……昌幸、その兵部殿が先頭に立たれるおつもりなのだ」
「ま、まさか……」
「長坂の兄様が、はっきりとさように申された。兵部殿は最後まで義信様に付き従うと。御世継であらせられる義信様の思いが、こたびのことでないがしろにされれば、必ず家中が割れ、禍根を残すことになる、と。だから、手を貸せと……。武田一門のためだと……」
「力ずくの諫言とは名ばかりで、その実はほとんど謀叛ではありませぬか。われら奥近習がさようなことに手を貸してはなりませぬ!」
 真田昌幸は上輩の肩を摑んで揺さぶる。
 曽根昌世はなされるがままになり、その軆はまるで海月くらげごとく力がなかった。
「……それゆえ、そなたに伝えようと思うたのだ。高遠城行きの手配りをしていたのは、そなたであろう。おそらく、御屋形様に随行するのであろうと思い、居ても立ってもいられなくなった。義信様は兵を率いて待ち伏せなさるおつもりだ……」
「なんということを……」
 昌幸は苦渋の面持ちで思わず天を仰ぐ。
 それから、意を決したように頭を下げ、両手に力を込める。
「昌世殿、これから長坂の兄様のところへ行き、お止めいたしましょう」
「……無理だ」
「なにゆえ、行きもせずに諦めまする。長坂の兄様ならば、話をわかってくれまする」
「いや、あの方は義信様のお側についてから変わってしまわれた。寄合の幹事は、長坂の兄様なのだ……」
 曽根昌世はすがるように昌幸の腕を摑む。
「……す、すでに、わが身内の者も……しも曽根ぞね虎盛とらもりも別働隊に荷担しておる。それゆえ、長坂の兄様が……」
 言葉に詰まった上輩は両眼からなみだを滴らせる。
「長坂の兄様が昌世殿にも荷担せよと迫ったということにござりまするか?」
 真田昌幸は怒りに満ちた瞳で訊く。
「す、すまぬ、昌幸。そなたから聞いた話を長坂の兄様に伝えていたのは、それがしなのだ。事ここに至るまで……断れなかった。……さ、されど、そなたを騙すつもりではなかったのだ。まことに、すまぬ……」
 そう言い、曽根昌世が泣き崩れる。
 ――己の知らぬ処で、かくも恐るべき話が進んでいたというのか。何ということだ……。しかも、御屋形様の動向を昌世殿に話していたのは、この身に他ならぬ。
 力を込めて上輩を支える真田昌幸の胸に、嵐が吹き荒れていた。
「……昌幸、いずれにしても、この身は甲斐に居られぬ。これから府中を出て、富士吉田の親戚を頼ろうと思う。もう、二度と会うことができぬ」
 曽根昌世は袖で顔を拭いながら言う。
「昌世殿、しっかりなされ。今からでも間に合いまする。二人で義信様の諫諍をお止めいたしましょう」
「許してくれ、昌幸。この身はすでに御屋形様と義信様を二重に裏切っておる。このまま、行かせてくれ!」
 曽根昌世は昌幸を突き放し、駆け去る。
 ――昌世殿……。
 真田昌幸は闇に溶けていく上輩の背中を呆然ぼうぜんと見つめていた。
 同じ頃、飯富昌景が険しい面持ちで躑躅ヶ崎館の中へ入っていく。
「火急にて、御屋形様へお伝えせねばならぬことがあるゆえ、取次を頼む」
 昌景は宿との番の小姓に言う。
「……御屋形様は、先ほどお休みになられましたが」
「ご無礼を承知でまかりこした。寸刻の猶予もならぬ。すぐに、取次を」
 飯富昌景が三白眼の鬼相で言い渡す。
 その全身に怒気とも、殺気ともとれるようなすさまじい気配をまとっている。
 気圧された宿直番の小姓が走り去り、すぐに戻ってきた。
「御屋形様の御寝所へどうぞ」
「かたじけなし」
 飯富昌景が奥の間に入ると、信玄は蒲団の上で半身を起こしていた。
「何があった、げんろう……」
「お休みのところ申し訳ござりませぬ。火急にて、お伝えせねばならぬことがありましたゆえ、ご無礼を承知で罷りこしましてござりまする」
 そう申し述べた家臣を、信玄は黙って見つめる。
「そなたがかような時刻に来るということは、余程のことらしいな。申してみよ」
「はい。おそれながら申し上げまするが、来たる九月九日の高遠城行きを中止していただけませぬか」
「なにゆえか?」
「実は……」
 飯富昌景は義信が立てた諫諍の計画を包み隠さず伝える。
 その話を聞きながら、信玄の面相からみるみるうちに血の気が引いていく。
「……この身も寄合の場におり、連署状に血判まで捺しましたゆえ、ただで済むとは思うておりませぬ。お手討ちを覚悟で、とにかく、お伝えにまいりました」
 飯富昌景は両手をつき、畳に額をこすりつける。
 その姿を、信玄は黙って見つめていた。
「頭を上げよ、源四郎」
 寝間着姿のまま立ち上がり、蒲団から出て、畳の上で胡座を掻く。
「よく伝えてくれた」
「いえ……」
「兵部は、義信を止めなかったのか」
「……はい。残念ながら」
「皆が甘やかしすぎたせいで、義信は目先のことしか見えぬ愚昧おろかものに育ってしまったようだな。たかだかだいの実家を見限るくらいのことで、謀叛紛いの諫諍をたくらむとは」
 信玄は溜息ためいきまじりで呟く。
「われらにとって現状の今川ではさか茂木もぎの代わりにもならず、氏真では今川家の存続が叶わぬのだ。そのことが読めぬようでは、武田の惣領など務まらぬ」
 険しい表情になった信玄の言葉に、昌景が答えるすべはなかった。
「ともあれ、織田家の使者にまで手を出すつもりならば、見過ごすわけにはいかぬ。源四郎、この件に関わっている者の名をすべて挙げられるか?」
「はい。申し上げまする」
 飯富昌景は寄合に参加していた者たちの名と役割を伝えた。
みんに命じて、義信の企みに加わった者を捕らえねばならぬ。ところで源四郎、そなたはこの後、どうしたい?」
「できるならば、叔父上を説得しに行きとうござりまする」
「兵部は人一倍、頑固で愚直なおとこだ。簡単には、説得できぬやもしれぬぞ」
「その時は、覚悟しておりまする」
 思い詰めた表情で昌景が答える。
「さようか。ならば、兵部のことは、そなたに任せる」
「有り難き仕合わせにござりまする。では、すぐに叔父上の処へまいりますゆえ、これにて失礼いたしまする」
 飯富昌景は退室し、館の玄関へ向かう。
 そこで思い詰めた表情の真田昌幸と出くわした。
「……さぶろう兵衛ひょうえのじょう殿」
 昌幸は思わず足を止め、上輩の気配にたじろぐ。
 殺気を身に纏った飯富昌景は、口唇を真一文字に結んだまま、ただ小さく頷いてみせる。
 真田昌幸も無言で頭を下げ、上輩を見送った。
 ――まさか、三郎兵衛尉殿もそれがしと同じ要件であったのか!?
 そう察しながら、宿直番の小姓に取次を願った。
 すぐに小姓が摺足すりあしで戻ってくる。
「真田殿、御屋形様が中へどうぞと」
「わかった」
 昌幸は愛刀を手渡し、奥の寝室へと行き、声をかける。
「昌幸にござりまする」
「入るがよい」
 信玄の声が響いてきた。
 昌幸は音もなく戸を開閉し、室内でかしずく。
「お休みのところ、まことに申し訳ござりませぬ。火急にて、お伝えせねばならぬことがありましたゆえ」
「義信のことか?」
 信玄が抑揚を殺した声で訊く。
「えっ!?」
 昌幸は平伏したまま、主君の返答に驚く。
 ――やはり、御屋形様はご存じであったか……。
「ここへ来る前、源四郎に会うたであろう」
「はい」
「詳細は源四郎より聞き及んでおる。昌幸、そなたは誰から話を聞いた?」
「……曽根昌世殿にござりまする」
「孫次郎か……」
 信玄は溜息を漏らすように呟く。
「……あの者も荷担しようとしていたのか」
「いいえ、御屋形様。長坂の兄様から仲間に加わるよう強く請われていたようにござりますが、それはできぬと考え、それがしの処へ」
 昌幸は先刻の話を包み隠さず主君に伝える。
 信玄は腕組みをし、黙って一部始終を聞いていた。
「……どうやら、昌世殿の身内も関わっているらしく、それがしにこのことを伝え、出奔してしまいました。御屋形様、どうか高遠城行きをお取りめくださりませ。この諫諍には……兵部様も関わっておられまする。お願いいたしまする」
 苦渋の面持ちで声を振り絞った真田昌幸を、信玄はじっと見つめた。
 この近習の話は、先ほどの飯富昌景の話とほぼ一致しており、実際に企みがあったことは間違いなさそうだった。
 信玄はおもむろに口を開く。
「兵部のことも存じておる。源四郎が血判を捺した者たちをすべて明らかにしてくれた。当人もずいぶん悩んだようだが、余のところへ報告に来てくれたのだ。昌幸、源四郎と何か話をしたか?」
「いいえ、三郎兵衛尉殿は怖ろしげな形相で、何も申さずに出てゆかれました」
「さようか。源四郎は諫諍を止めなかった兵部を諫めに行ったのだ。おとなしく従わねば、斬るつもりやもしれぬな。実の叔父であろうともな」
 その言葉で、昌幸は先ほどの無言の会釈の意味を理解する。
 ――三郎兵衛尉殿の殺気は本物だったか……。
「ところで、昌幸。そなたは長坂から誘われておらぬのか?」
「はい。誘われておりませぬ」
「で、あるか」
 そう呟き、信玄は苦笑をこぼす。
「して、昌幸。そなたはこの後、どうしたい?」
「……できれば、長坂の兄様をお止めしとうござりまする」
「ふむ、さようか。ならば、むねろうに同行を願え」
 信玄は同じ奥近習の三枝さいぐさ昌貞まささだの助力を願えと命じた。
「わかりました。夜更け過ぎに失礼をばいたしました。しつけをお許しくださりませ」
 真田昌幸は深く一礼してから、奥の間を退出し、その足で三枝昌貞の屋敷へ向かった。
 信玄は控えていた宿直番に言い渡す。
「すぐに民部を呼べ!」
「はっ!」
 小姓は弾かれたように動き始め、馬場ばば信房のぶふさの屋敷へ向かう。
 信玄はそのまま眼を閉じ、深い思案に沈む。
 ――いずれ、縁組の話を聞きつけた義信が諫めにくるかもしれぬとは思うていたが、少しばかり深刻な状況になってしまったようだ。じかに来ればよいものを、なにゆえ謀叛紛いの諫諍などという大それた企みに走ったのか。しかも、兵部や奥近習たちまで巻き込んで……。
 激しい怒りを覚えるのと同時に、信玄は深い失望の念を禁じえなかった。
 ――せがれとはいえ、この話を不問に付すことはできぬ。荷担した者どもを含め、それなりの罰を与えねばならぬであろう。ただし、これしきのことで家中を分裂させるわけにはいかぬゆえ、最小限の仕置で事を終わらせるしかない。そのためには……。
 そんなことを考えているところに、馬場信房がやって来る。
「御屋形様、失礼いたしまする。火急の件と聞きましたが?」
「民部、夜分に呼び出して、すまぬな。ちょっと厄介なことになった」
 信玄は家中に諫諍の企みがあることを伝えた。
 その全貌を聞き、馬場信房がきょうがくする。
「……なんということを」
「義信は織田の使者を捕らえ、その命を質にして、余に縁談を断らせるつもりだったようだ。余が反故を承諾せねば、織田の使者を殺し、この身を駿府に送って隠居させようとも考えていたらしい。なにゆえ、さように極端な考えに至ったかはわからぬが、幾人かの近習たちまで賛同している。民部、そなたは討伐隊を編制し、義信と荷担した者たちを捕らえてくれ」
「……承知いたしました」
 馬場信房が渋い顔で頷く。
「はっきりとけじめをつけねばならぬ」
「御屋形様、けじめとは?」
「家中を分裂させぬためには、義信の廃嫡も辞さぬ」
 信玄は決然と言った。
 それを聞き、馬場信房は苦しげな面持ちで天を仰ぐ。
「……わかりました」
「頼んだ」
「すぐに、兵をまとめまする」
 馬場信房は討伐隊の編制に走った。

(次回に続く)

【前回】

プロフィール
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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