特別連載『梟の咆哮』/福田和代(4)
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史奈の目に、丹後はのどかで平和な場所だった。地方の町はどこも似たような雰囲気なのだろうか。歴史のある寺社や城跡があり、歴史上の著名人がいて、地方ならではの名産もある。だが、人口はじわじわ減少しているし、高齢化も進んでいる。
町を歩くと、日本のどこにでもあるスーパーやコンビニ、ドラッグストア、衣料品や家電の量販店、レストランなどの看板が見られる。京丹後を歩いているのに、四年前まで住んでいた滋賀県の多賀を歩いているような錯覚を起こすのもそのせいだ。
史奈が美夏の伯母から借りている部屋は、外に出るとすぐ田んぼが広がっている。生まれ育った里と同じだ。田んぼの中に、住宅が仲良く肩を寄せ合っている。懐かしい気がする。
「榊さんは、いつまでいてくれるの?」
道の駅のアンテナショップで開店前の品出し中に、パートの湯村が尋ねた。四十代の女性で、店のことには店長なみに詳しい。
「決めてないんですけど、一か月か二か月くらいはいられると嬉しいです」
急ぐ旅ではないが、古文書『梟』に登場する地名や神社は他にもある。中でも丹後の籠神社は本命と見て、じっくり調査を進めているのだが、ここでも目的の水が見つからなければ、次の目的地に進まなければならない。
まずは、東京に送った水の分析結果待ちだ。
昨日は帰宅するとすぐに、再び榊教授に連絡を入れた。本命と考えている眞名井神社の水などを送ったことと、祖父を名乗る男が近づいてきたことを報告するためだ。
榊恭治と名乗る男が接近してきたと話すと、教授は絶句していた。
(私も、榊の〈ツキ〉――お義母さんの夫は、早くに亡くなったと聞いたよ。〈梟〉に詳しいから本当に一族の者かもしれないが、恭治さんだというのは騙りじゃないか)
彼を「オシサマ」と呼んだ男たちのことも話すと、教授は苦い表情を浮かべた。
(オシサマ――漢字にすると、御師様だろうか。そういう、取り巻きをぞろぞろ連れて歩くタイプの人は、私はどうも好きになれないね。ともかく、何者か調べてみたほうが良さそうだね)
榊の家つき娘である母、希美にも聞いてみると言っていたが、まだ連絡はない。
(おかしな男がうろついているようだし、史奈も身辺に特に注意してほしい)
できればすぐにも丹後に来たいようなことを言っていたが、仕事の都合で身動きが取れないようだ。
「そっかあ。年末年始はまた忙しくなるから、そのころまで榊さんがいてくれると助かるわ。真面目でしっかり働いてくれるもん」
「ほんとやね。しばらくいてほしいね」
もうひとりの永井というパートも相槌を打つ。まんざらお世辞でもなさそうな言葉に、史奈は照れて微笑した。こういう言葉には弱い。誰かが自分を必要としてくれている、役に立っているという実感がある。
里が襲撃されたり、殺されかけたり、ハイパー・ウラマというドーピングも許される新競技で命がけの戦いをしたり――これまでの過酷な日々が夢のように思えるほど、ここにはゆったりとした時間が流れている。
(史ちゃん、油断は禁物だ。〈梟〉が目指しているのは平和な世の中だけど、それは努力せず手に入るものじゃないんだよ)
桐子の戒めが脳内で再生される。祖母と暮らした十六年は、あまりに濃密だった。今も、事あるごとに桐子の声が聞こえる。
――そうだよね、ばあちゃん。
昔から、〈梟〉の一族は忍びとして為政者に仕え、独自の能力を発揮してきた。特殊な体質ゆえに生きづらさを抱えた一族が、幸せに生きられる世界を構築するためだ。
そのため一族のものは、幼いころから絶えず心身を鍛え、戦いに備える。平和のために戦える身体をつくるというのは矛盾しているようだけれど、戦えない〈梟〉に平和は訪れないのだと祖母は史奈に教えた。
「湯村さんと永井さんは、ずっとこちらにお住まいなんですか?」
土日や祝日、ゴールデンウィークや夏休みなどは客が多く店も賑わうが、平日はそこまで混雑しない。仕事の合間に、史奈は仕事仲間から地域の情報収集に励んでいる。
「あたしは生まれた時からここやわ。永井さんは大阪から嫁いできたんやね」
湯村がレジの小銭を整理しながら話を振る。史奈は、神社と名水の関係について大学で研究していると彼女たちに説明していて、地元の名水情報も教わるが、本当に聞きたいのは〈狗〉の情報だ。養鶏場の場所や本拠地がわかった。十條が閉じ込められている家も見つけた。あとは、どうすれば〈狗〉を説得して十條を解放してもらえるか。それには、彼らについての情報がもっと必要だ。
彼らは、〈梟〉以上に孤立した生活を送っているようだ。〈狗〉の森山疾風は、以前、奇妙な事情を明かしていた。
いわく、〈狗〉の一族には女性がいない。〈狗〉の特徴は男性にしか発現しない。昔は、気に入った外部の女性を拉致してきて、男の子が生まれれば一族の子とし、女の子は養子に出したり、間引いたりした。母親となった女性とは縁を切って追い出すという、おそろしく悪辣なことをしていたと言っていた。
さすがに、現代でそんな真似はしていないと言い添えていたが――。
昔の話とはいえ、もしもそんな犯罪者集団が身近にいたなら、地域で噂になるはずだ。
「そうそう。この前、榊さんが面白い質問をしてたでしょ。このあたりに忍者が住んでいたと言われる場所はないかって」
湯村が目を輝かせて言った。
一瞬、胸をときめかせ、史奈は頷いた。
「はい。そんな伝承があってもおかしくない雰囲気の土地だなと思いまして――」
「面白そうだから、いろいろ知り合いにも聞いてみたんよ」
史奈がひやりとすることを口にし、湯村は嬉しそうに話し続ける。
「忍者に心当たりのある人はいなかったけど、京丹後はほら、有名な鬼がいるでしょ」
思わず心臓の鼓動が大きくなる。
「大江山――ですね」
「そうそう、酒吞童子ね。女をさらっては食い殺したり、乱暴を働いたっていうアレ。鬼と忍者は全然違うけど、隠れ住んでいたという点では似てるなあと思ったから」
――鬼か。
森山が語った過去が本当の話だとすれば、それはまさに酒吞童子の物語にも重なる。
〈狗〉が排他的な集団になったのは、彼らの外見のせいだろう。満月の日だけ、ホルモンバランスが崩れて急に毛深くなり、まるで狼のような顔や身体になるのだ。
現代人ならホルモン異常の説明を理解できるだろうが、科学を知らない時代の人々には、その顔貌が異様に映ったかもしれない。いわれのない差別を受けた可能性もある。結婚できないとか、村八分にされるとか、そういう悲惨な扱いで心に傷を負った可能性は、充分想像できるのだ。
――酒吞童子は、仲間の鬼たちとともに大江山に隠れ住み、時おり都に下りては金銀財宝を盗み、女性をさらった。源頼光らによる討伐隊が結成され、退治された。
史奈が知っているのは、御伽草子などに描かれた、そうした酒吞童子の物語だ。
大江山の所在については諸説あるが、現在の京都府福知山市にある大江山がその地として知られており、麓には「日本の鬼の交流博物館」があるほどだ。史奈のいる京丹後市からは、車なら四十分ほどで行ける場所だった。
――大江山の鬼とは、〈狗〉の一族のことだった?
大江山で討たれた酒吞童子一派の残党が逃走し、〈狗〉になった。それが本当なら、彼らの世をすねたような態度や、ワルぶった言動にもそれなりの原因があったわけだ。
「ありがとうございます。とても興味深いです。大江山のことは詳しくないのですが、勉強してみますね」
史奈が頷くと、湯村が目を瞠り、永井と目を合わせて吹き出した。
「――本当に真面目やね、榊さんは。それに大人っぽいよね。私たちのほうがずっと年上なのに、時々、榊さんのほうが年上みたいな錯覚を起こしちゃう」
ショップの自動ドアが開いて、スーツ姿の男性がふたり、入ってきた。いつの間にか開店時刻になっていたようだ。
「いらっしゃいませ」
客に声をかけて、史奈はレジに向かった。
こんな朝早くから、それになんだかふだんの客層と違う。ふたりのうち、ひとりは知っている。道の駅の運営を任されている企業の社員だ。彼はもうひとりの男を案内して、「食のみやこ」や京丹後の名産について説明している。案内されているのは六十歳前後で、銀縁の眼鏡をかけた痩身の男性だ。
説明を聞いているが、本音はあまり関心がなさそうなのが、史奈には見て取れた。義理で社員の説明に付き合っているようだ。
「なんかね、伊根のほうに大きなリゾート施設を建設する計画があるらしいよ。今のはそこの社長さん。天蓮リゾートって会社、聞いたことあれへん?」
時間をかけて売り場を巡ったふたりが見えなくなると、永井がこっそり教えてくれた。
「聞いたことあります――全国各地の空気のきれいな場所で、ホテルや旅館を運営する会社ですよね」
「星がきれいに見えるラグジュアリーなホテル」をコンセプトにしている。
「それそれ。私の友達のつれあいが、市役所で働いてるんよ。去年くらいから、リゾート施設を誘致するために、府と市が共同でいろいろ動いているみたい。前に一度失敗してるはずやけど、インバウンド需要がよっぽど魅力的なんやろね」
湯村も驚いた様子で話に加わる。
「えっ、あの計画、また動き出したの? そりゃ、インバウンドのおかげで京都市内のほうは、市バスに乗るのがたいへんなくらい人出がすごいっていうしね。天橋立あたりまでは観光客も来るけど、こっちのほうまではなかなか来てくれへんもんね」
「今の人は視察に来たみたいだけど、実現するかどうかはまだわからんよね」
湯村や永井の言葉には、どこか諦めにも似た感情が滲んでいる。
高齢化と少子化による生産年齢人口の減少で、特に地方を中心に人手不足と経済的な衰退が激しい。二〇五〇年までに、全体の四割にあたる自治体で、二十代から三十代までの女性の数が半減し、ますます少子化が進み、やがて自治体そのものが消滅する可能性があると指摘されている。
地方が望みをかけるのは、豊かな自然環境や歴史的・文化的遺産を売りにした観光需要だ。各地がユネスコ文化遺産や自然遺産などの登録に血眼になるのもそのためだ。たとえば丹後の場合、山陰海岸ジオパークが「ユネスコ世界ジオパーク」に認定されている。
親子連れの客が、かごいっぱいにお土産を詰め込んでレジに並んだ。湯村がレジを打ち、永井が商品を袋に詰める間に、史奈は店頭の什器に特売の里芋やシイタケを並べに走る。忙しい時期ではないらしいが、店舗が広いので意外に仕事はあった。
この道の駅は、入り口のアーチ左右に土産物のショップがあり、敷地内には収穫体験のできる農園があったり、ヤギや羊を飼育している小さな動物園があったり、レストランが並ぶ区画や子どもの遊び場があったりと、とにかく広大だ。奥にはホテルもある。
史奈自身は、子どものころにそういう場所に連れて行ってもらった記憶はない。〈梟〉の里では、子どもも毎日鍛錬しなければならなかったし、考えてみれば鍛錬が遊びのようなものだった。
だが、広場で元気に走る子どもらを見ると、こちらも楽しくなってくる。
「――おい、史奈」
手を休め、広場の親子連れに目を奪われていた史奈は、背後からかけられた声に驚いて振り向いた。油断していたつもりはないのに、まったく気配を感じなかった。
「森山さん!」
そこにいたのは、腕組みした森山疾風だった。
今日は胸元に正面を向いた狼のイラストが白抜きで描かれた黒いTシャツに、ブラックジーンズを穿いている。ぼさぼさに崩した髪は、試合に出ていたころよりも伸び、数か月会わないうちに、精悍さを増したようだ。
こちらは〈狗〉の本拠地まで探り当てたのだから言えた義理ではないが、自分がここにいることをなぜ知ったのだろう。
「どうしてここが――」
「杉尾が先月、道の駅で〈梟〉のにおいを嗅いだ気がすると言ってはいたんだが、まさかおまえがこんな場所まで来ているとは、誰も思わなかったんだ」
先夜の侵入事件が起きて、道の駅にいるのは史奈だと彼らも気づいたのだろう。
「おまえ、俺の留守中にずいぶん好き勝手な真似をしてくれたらしいな」
森山は仏頂面を隠そうともせず、不機嫌極まりない顔でこちらを睨んでいる。几帳面な〈梟〉に対し、ずぼらで荒っぽい〈狗〉は性格的にも正反対だ。
史奈は慎重に顎を引いた。
「十條さんを捜してそちらの里に侵入したことなら、たしかに勝手な真似をしたと思う。謝る気はないけど」
口を「へ」の字に曲げたまま、森山が頭をバリバリと搔いた。
「……おまえなあ」
「森山さんは、十條さんがあんなふうに監禁されているのを見て、平気なんですか?」
「はあ? 俺は関係ないやろ。あいつの親父がやってんだから。あれでも長なんやで、あいつの親父は」
「知ってます。だけど、〈狗〉はもっと、自由を尊ぶ人たちなのかと思っていた」
痛いところを突いたようで、森山がさらにむっとした表情になって黙った。
「それより、何か私にご用ですか」
何の用もないのに、会いに来るわけがない。案の定、森山の目が光る。
「そうやな。まず聞くけど、おまえはなんでこんなところにおるんや。彰を捜しに来たわけではないんやろ?」
「十條さんを捜して、連れ帰るために来たんだと言ったら?」
本当の理由はそれだけではないが、史奈が探りを入れるようにそう尋ねると、森山は「ふん」と鼻で笑った。
「違うな。もし、本気で〈梟〉が彰を取り返しに来るなら、もっと大勢で来るやろ。おまえは他に理由があって丹後に来た。彰のことはついでや」
言動が粗暴で態度が軽いので、つい見くびられがちだが、森山は怜悧だ。
「他に理由があるとしても、森山さんには関係ない」
「言うなあ、あいかわらず」
森山が鼻の上に皺を寄せた。
「まあ、そういうところが他の女と違ってて面白いねんけどな。――道の駅でバイトするより、俺らと仕事せえへんか?」
「――え?」
意表をつかれた史奈に、森山は慌てた様子で両手を振った。
「変な仕事と違うで。俺たち、ちょっとした調査をやろうとしてるんやが、おまえがこんな近くにおるんなら、手伝ってもらえると助かると思ってな」
「何の調査ですか」
「そいつは、おまえが協力すると決まってから教える。ただ、ひとつだけ言うとく。この調査に、依頼人はおらん。俺ら〈狗〉の存亡に関わることなんや」
――〈狗〉の存亡。
史奈は眉をひそめた。
東京で尾行されたことも、ハイパー・ウラマで激突したことも、一族の名簿を出水に売られたことも忘れてはいない。ハイパー・ウラマでの彼らの戦法は卑劣だった。〈狗〉に対して、良いイメージを持っていると言えば噓になる。だが――。
「道の駅のバイトは始めたばかりだし、約束もあるからいい加減に辞めたりはできませんよ。私に頼みたいのは、どんな仕事ですか? おかしなことなら――」
「いや、〈梟〉の〈ツキ〉に妙な真似して、全面戦争する気はないで。道の駅のバイトは昼間だけやろ。調べたい場所があるんやが、日中より夜間のほうが都合がよくてな。夜と言えば〈梟〉の独擅場やろ」
思わず顔をしかめた。森山が自分をおだてるとは、とんでもない裏がありそうな気がする。うっかり踏み込んじゃだめ――と、心の中で容子が警報を発している。
だが、史奈にも気になることがあった。
「――もし私が協力したら、見返りは?」
「俺らの里に侵入した件、チャラにしたる」
即答だった。森山が傲然と腕組みした。
「――それから、彰の件、俺から長に口をきいたる。少なくとも、おまえが長とじっくり話せるように、場をセッティングする。どや」
森山はいい加減なイメージがあるが、こういう交渉事では信用していいかもしれない。〈狗〉と名乗っているが、彼らは本来、誇り高い〈狼〉だ。ニホンオオカミの孤独なプライドを彼らも抱えている。約束は守るだろう。
――〈狗〉に協力すること、他の〈ツキ〉たちの了解を取るべきだろうか。
迷うところではあったが、事後承諾をお願いするしかない。史奈は決断を迫られていた。十條をあまり長い間ひとりで放置してはいけないと、直感が言っている。
「わかった。協力する」
「そう言うと思ったで」
森山が鋭い犬歯を見せ、にっと笑った。
「詳しいことは後で話そか。ところで――アイツはこっちに来てないのか?」
「アイツ――?」
「ほれ、もうひとりの」
――容子ちゃんのことだ。
森山の態度が妙だった。さりげないそぶりを装っているが、本当は最初から容子のことを聞きたくてしかたがなかったらしい。
「容子ちゃんなら丹後には来てない。容子ちゃんに会いたかったの?」
「べつに――」
森山はふてくされたように唇を尖らせた。
(どっちか、なんて言える男に興味はない)
容子の言葉を思い出す。初対面の森山は軽いノリで、容子と史奈の容姿を褒め、(どっちか俺とつきあってみん?)などと言ったので、容子がバッサリ斬り捨てたのだ。
「容子ちゃんは、卒業論文を書き終えたら合流すると言ってた。しばらくすれば、こちらに来ると思う」
そうかよ、と気のないそぶりで返した森山の顔に、先ほどと打って変わって隠しきれない喜色が滲んでいる。
――意外と可愛いところがある。
「榊さん、ちょっとレジお願い」
湯村が店内から顔を出し、森山に気づいて「あら」という表情になった。
「すぐ行きます」
史奈が返事すると、森山がニタリと笑いながら後じさった。
「そいじゃな。仕事が終わるころに連絡するわ」
手を振りながら去っていく。
――電話番号も教えてないけど。
不思議だったが、森山がああ言うなら、きっと何らかの方法で連絡してくるのだろう。
〈狗〉の依頼で仕事をするとは、思いがけないことになったものだ。
(第5話に続く)
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