メソポタミアのボート三人男 第二回/高野秀行
1-2 衝撃の出発
川下りはユーフラテス川源流部最初の町であるディヤディンから始めることにした。ここから下は舟で下れるだけの水量があるし、両側が切り立った渓谷のようになっており、雰囲気もいいからだ。
ディヤディンの外れに車を止め、川下りの装備を川原に広げる。
千頭もの山羊と羊の群れを連れた羊飼いの家族が二組、通り過ぎた。羊の数にも驚いたが、片方の家族にはイスタンブールの繁華街にでもいそうな、派手な絵柄がプリントされたスリムジーンズに白いTシャツを着たお洒落な美少女が羊を白い杖で追っていたのにびっくりした。なんて、かっこいい羊飼いなんだろう。
もっとも彼女の方も、わけのわからない道具を広げて作業している私たちを不思議そうに眺めていた。私たちの舟はカヌーをやっている人たちが見ても「何、これ?」と思うような代物である。
私たちの舟は「パックラフト」と呼ばれる。いちおう、インフレータブルカヌー(内側に空気を入れて膨らませるカヌー)の一種である。ただし、膨らませるとゴムボートみたいに大きくなり、空気を抜くと小さく折りたたむことができる。ふつうのカヌーは十~二十キロぐらいの重量なのに、パックラフトはたった四キロだ。もともと辺境で持ち運んで使うために開発されたという。
私自身、このパックラフトと初めて対面したときの驚きは忘れられない。
まずポンプが常軌を逸している。ただの化学繊維の薄い袋なのだ。ゴミ用の四十五リットルのポリ袋をもう少し丈夫にした程度である。袋の底にバルブがついており、それをボートのバルブに接続する。あとは袋に空気を入れてから入口を手でふさぎ、中の空気を舟の中へ送り込む。
この作業を行うたびにゴミ出しを思い出す。そっくりなのだ。ゴミをポリ袋に入れて縛るとき、どうしても空気が入ってしまうだろう。ゴミ出しのときは口から少しずつ空気を逃がしてやるのだが、パックラフトはそのまま強引に袋を圧迫して底から押し出す。ちがいはそれだけだ。
この「逆ゴミ出し」作業を十回もくり返すとカヌーはパンパンに膨れてしまうのだから恐れ入る。毎回ゴミ出しのとき「どうして空気が入るんだよ〜」と苛ついていた人が開発したにちがいない。まさに「逆転の発想」だ。しかもふつうのポンプはけっこう嵩張るのに、このポンプはただのビニール袋なので畳めばズボンのポケットに入ってしまう。信じられない。
これぞクリエイティブ! と讃えたいが、毎回川下りをする度に、しかも朝、出航する前にゴミ出しを思い出してしまうのはやや残念だ。
レザンは、極太のゲジゲジ眉毛を動かしながら、私たちの作業をじっと見ていた。私たちは彼にとって大事なお客さんであるし、まだこの頃は私たちを冒険家のように扱い、尊敬の念を見せていたこともある。
膨らませると、パックラフトの表面が朝の日を浴びてピカピカと安っぽく光った。
──なんてかっこわるいんだ……。
いつもと同じ感想が頭に浮かぶ。パックラフト最大の欠点、それは見た目がまるで幼児用ボートだということだ。コンパクトに折りたため、軽量で、激流も下れる強度も兼ね備えた理想のインフレータブルカヌーを作ったら、なぜかそれは限りなく幼児用ボートに近くなってしまったのだ。
私は四万十川でこれを初めて膨らませたとき、愕然としたものだ。
片手でひょいと持てるほど軽く、川辺に浮かべるとふわふわと漂う。衝撃的だったのは、私たちからほんの五、六メートルしか離れていないところで、若いお母さんが三歳ぐらいの子供をボートに乗せていたことだ。
そっくりじゃん!
動揺を押し隠すように舟に乗り込むと、浮力は抜群で、ぽっかり川面に浮かんだ。見かけだけでなく乗り心地も幼児用ボートに酷似している。
五、六メートル先の「ライバル」を見ると、お母さんが岸に何かをとりに行こうとして、子供に「岸から離れちゃダメよ」と声をかけていた。
心を落ち着かせるため、少しパドルで水をかいたりしていると、まだ川原で作業をしていた隊長が私に声をかけた。
「高野、岸から離れちゃいかんぞ」
端から誰か見ていたら、私と三歳児は瓜二つに見えたにちがいない。
正直言って川に身投げしたくなったものだ。
私のイメージした川下りはもっと素敵なものだった。カヌーイストの野田知佑さんみたいなやつ。シャープな舟に乗り、巧みにパドルを操ると、スイスイと鋭角に進む。
何が悲しくてこんな幼児型ボートを買ってしまったんだろう。そう思った気持ちは何度、この舟で川を下っても変わらない。いくらボートとして優秀だとしてもだ。
ユーフラテス川の源流部まで来て、同じことを思う。
不幸中の幸いはここに旧知のガイド、エンギンがいなかったことだ。実は、私は十数年前、ワン湖に棲むと言われる「ジャナワール」という謎の怪獣を探すため、本当にオモチャ屋で幼児用ゴムボートを買って漕ぎだしたことがあった。取材予算が底をついて、日本円で三千円程度のそれしか買えなかったのだ。パドルはその辺に落ちていた板きれ。「最大積載重量二十キロ」と記されたおもちゃのボートに六十キロ近い体重の男が乗り込み、板きれを振り回して、死にかけたミズスマシのように、同じ場所をぐるぐるとまわるのを見て、エンギンは窒息死するかと思うほど笑い転げた。
あれから十年以上経ち、今度はもっとでかい幼児型ボートで本格的な川下りに挑むのを見たら、エンギンはまた死ぬほど笑ったことだろう。
ボートを膨らませて、着替えや途中の食料などを防水バッグに詰め、ボートの後ろにカラビナで留めた。ライフジャケットとヘルメットを装着し、さあ、いよいよ出発だと隊長の方を見た私はプッと吹き出した。
真面目な顔をしながら額に日の丸と「闘魂」の二文字が墨で記された鉢巻きを締めている。ライフジャケットの胸にも日本国旗のシール。
「昭和の右翼ですよ‼」
「高野がそうしろって言ったんやないか!」
隊長はムッとした。その顔がおかしくて、申し訳ないが、またひとしきり笑ってしまった。
そう、それは事実だ。正確に言えば私ではなく、トルコ語の先生であるワッカスさんだ。「高野さんたちが行く場所は、トルコ政府の軍隊とクルドのゲリラが戦っている場所もあります。トルコやクルディスタンでは川で舟に乗っている人なんかいないから、間違って銃で撃たれたりするかもしれない。だから、日本人だということが分かるようにした方がいい。トルコの軍隊もクルドのゲリラも日本人とわかったら襲ったりしないから」
そのように言われたので、わざわざ浅草の仲見世まで行って、日の丸グッズを買い集めたのだ。
しかし、ゴツゴツした顔つきで昔の校長先生のような山田隊長が闘魂と日の丸を頭に巻いていると、時代錯誤感が半端ない。神風特攻隊か、我々は。
だいたい、この辺境の誰が日本の国旗を知っているのだろう。試しにレザンに日の丸を指さし「これ、なんだか知ってる?」と訊いたら「ノー」と首を振っていた。大卒のインテリである彼が知らなければ、誰も知る人はいないだろう。私たちの危機管理対策は空振りであった。
隊長は意地でも鉢巻きをしていたが、その上からヘルメットをかぶると日の丸も闘魂も見えなくなった。「意味ねー!」と私はまた笑ってしまい、隊長は口をへの字に曲げた。
「高野、気をつけて行くぞ」と隊長から声がかかる。口調がやや不機嫌なことを除けば、安全第一をモットーとする彼の常である。「最初の三十分と最後の三十分に気をつけろ」。そこで事故が起きやすいという。
昔、学校の教科書に載っていた「高名の木登り」の逸話を思い出す。昔あるところに木登り名人がいた。名人は弟子が木に登る際、高いところにいるときには何も注意せず、地面に近づいたところで初めて「気をつけろ」と声をかける。気が緩むからだ。
隊長によれば、仕事始めのときはまだ心身の準備ができておらずリズムもつかめていないため、やはり事故が起きやすい。「山仕事の事故の八割は最初か最後の三十分で起きている」という。私も笑いで緩んでいた口元を引き締めた。
水深二、三十センチほどの浅瀬で舟を浮かべると、ひらりと飛び乗った。ゴム製の舟底は私の体重を受け止めて少し沈んでからボヨンと跳ね返った。私の目線は水面から一メートルぐらいまで下がる。水面が広がり、両側の崖が高く険しくなったかのような錯覚を受ける。さらさらと水の流れる音に体が包まれる。
視界も変われば聞こえる音も変わる。川の世界に旅立つ準備ができた。
パドルで川底を押すと、舟はスーッと流れの中に辷りだした。
「あー、もっていかれる……」川旅が始まる瞬間。それは別世界に移動する瞬間である。
私が先頭で、隊長は後ろだ。水深は浅くて、流れも急でない。だから今のところ、危険な要素はない。そういう場所では私が先に行くことになっている。パドルでバランスをとりながら、どんどん下っていく。
正直言って川の水はきれいでなかった。泥で濁っているうえ、ゴミだらけだ。現代の日本ではこんな川はないだろう。私が子供の頃、一九七〇年代の多摩川のようだ。ペットボトルやビニール袋が主だが、中には羊の毛の塊というこの土地ならではのゴミもある。
心眼でゴミを視界から外し、風景を楽しむ。
両岸が次第に高くなり、やがて二十メートルぐらいの切り立った岸壁となった。川幅は十メートル程度、でも河川敷は二十〜五十メートルほどあるので、圧迫感はない。岩壁の上にはポプラの木と石造りの箱形の家がポツポツと建ち並び、ヨーロッパの田舎に来たかのような長閑さだ。
岩の壁をえぐったのは水だろう。人類が誕生するより遥か昔からこの川は流れていた。そして、土地を少しずつ削っていったのだ。地球の悠久の歴史を旅する優雅な気分に浸りかけたとき、それは突然始まった。
水滴が顔に当たった。水しぶきかと思ったが、もっと粒が大きい。
あれだけ爽やかに晴れていた空が魔法のようにかき曇っていた。雨粒が散弾銃のように顔にバチバチ当たる。風も強くなる。私たちが向かう川下から細かい水滴を乗せた突風が細い谷を滑るように吹き付けてくる。
「スコール⁉」まさかの展開に頭が真っ白になった。
浮力重視のため軽量で空気抵抗の大きいパックラフトは風に弱い。流れはけっこう強いのに、風で押し戻されてしまう。舟のコントロールも全く効かない。最初の十分ほどはパドルを必死に振り回していたが、そのうち前が見えなくなった。目を開けていられない。稲光が空を引き裂き、雷鳴が轟く。嵐だ。
文字通り、ユーフラテス川の洗礼だった。川がゴミだらけだとか水が汚いとか悪口を言っていた罰が当たったのかもしれない。
すでに全身がびしょ濡れだ。気温がぐっと下がると同時に、雨と風で急速に体温が奪われていく。
「ダメだ!」と叫んで、岸に接岸。そのまま舟を岸辺の高い場所に引き上げると、風上に向けて舟を斜めに立てパドルでつっかえ棒をして、その中にしゃがんだ。まるで小屋がけだ。これで最低限の雨風を防ぐことができる。こんな体験は初めてで、すべて無意識的にそうしていた。
まさか小屋の代わりになるとは。パックラフト、意外に優秀だ……なんて思う余裕はなかった。
歯の根が合わずガクガクしていると、隊長が同じように舟を引っ張って上陸してきた。同じように舟で小屋がけして嵐に耐えながら、険しい顔でこっちを見て「情けねー! 情けねー!」と吐き捨てた。「いい年して何やってんのや……」
嘆きつつも私たちは記録を忘れない。自分たちの惨状もちゃんと撮影したのだが、後で見ると写真では雨風がよく映っておらず、二人のいい大人が巨大な幼児型ボートの陰にうずくまっていて一体何をやっているのか不明であった。でもこのときは寒さで震えが止まらず、指も麻痺していたくらい体が冷えていた。
もっとも私は今現在の冷えもさることながら、もっと怖ろしい予感に心が震えていた。
「高野に騙された!」と隊長が罵った。「雨、降らんて言ってたやろ!」
そうなのだ。私は夏にクルディスタンに来たことが二回ある。両方とも二週間ほど滞在したが毎日晴天だった。ネットの気象情報を見ても、トルコ東部の八月の天気はオール晴れ。ガイドのエンギンに聞いてもそう言っていた。
だから私は自信を持って「雨なんか降らないですよ」と笑い、雨具も用意していなかったし、テントの上に張る雨よけのフライシートも持ってきていなかった。テントはメッシュなので雨が降ったらずぶ濡れだ。
よくよく考えれば、私は驚異的な雨男なのである。「その時期は乾季だから雨は降らない」と聞いて出かけてみたら雨ばかりだったなんてことが何度もある。コンゴでもミャンマーでも。そしてこのトルコ東部(クルディスタン)でも、実は最初に行ったとき、小高い丘を通りかかったら雪が降ってきたことがあった。
私たちの車を運転していた人は本業がジャーナリストであり、その様子を写真に撮ってレポートした。おかげで、いくつものトルコの新聞に「真夏の雪と戯れる日本人旅行者」として私の写真も掲載された。
嵐は三十分ほどして止んだ。厚い雲の隙間から陽光もときおり差す。手は痺れたままだが、とりあえず再出発。雲が晴れると、さっきの地獄じみた時間が嘘のような穏やかな景色だ。
何かの間違いだったのではないか。一年に一回ぐらいのイレギュラーな事態がたまたま起きただけじゃないか。自分に不都合な真実を見て見ない振りをするのが得意な私はそう思った。だが、世の中はそんなに甘くない。
一時間もしないうち、私たちの前にはまた暗雲が垂れこめていた。比喩ではなく文字通り暗雲。雨が降りそうなのだ。
再び、猛烈な暴風雨が襲来し、またしても我々は岸辺にボートを小屋がけした。ずぶ濡れで震えながら、「やっぱり高野に騙された!」と特攻隊長が喚く。
このときも二十分ほどで雨はあがり、何事もなかったかのような晴天に戻った。でももう私も自分を騙すことはできない。今の時期も雨は降る。そして私たちには雨用の装備が一つもない……。
昼過ぎにオムズバシュという村の橋に到着した。ここでレザンと落ち合う約束になっていた。レザンのワーゲンを確認するのとほぼ同時にまた豪雨。舟を橋のたもとに引き上げ、橋の下に避難した。
「今日はもうダメやな」「この村に泊まりますか」と隊長と話し合う。しかし、どうするか。早くも今回の旅で最大の懸案事項「宿泊」と直面することになった。
宿泊場所については、前々から隊長と議論を重ねていた。本来舟旅は自由であるべきだ。どこでもよさそうな場所を見つけたら、そこに泊まりたい。実際に日本国内の旅ではそうしていた。だが外国の川はそう簡単ではない。
「やっぱり人の住むところに泊まった方がええと思うよ」と隊長は言う。治安上の問題だ。
近隣に全く人がいない場所なら、むしろどこに泊まっても問題ない。でも地図を見るかぎり、川は道路に沿って走っている。つまり、テントを張っていたら、車道から見える可能性がある。すると、「あれは、なんだ?」といろんな人が気にする。警察や軍に通報されるかもしれない。面白半分にごろつき連中が寄ってくるかもしれない。そういうことを考えると、やはり村が安心だ。
いっぽう、村に泊まるには村の人の許諾を得なければいけない。もちろん「家に泊めてほしい」と頼むのは論外だ。たとえそれが希望でも。それにたまにならいいが、他人の家に厄介になるのは疲れるものだ。
百戦錬磨の探検家と辺境作家のわれら二人組はあらゆることを徹底的に考慮した結果、村の川縁にテントを張らせてもらうという方針を定めた。しかるに、川下り初日に豪雨を浴び、しかも私たちのテントは雨が全く防げない。
どこか公民館的な場所か誰かの家に泊めてもらうしかないじゃないか。
全く百戦錬磨が聞いて呆れる。よくよく考えれば、隊長はともかく、私の方は百戦連敗だった。
村は川沿いに二、三十軒の白壁の家が点在する小さな集落だった。とりあえず、村長に挨拶せねばと舟を置いて歩き出す。川から歩いて五分のところに村長の家があった。幸い彼は在宅だったので、レザンの通訳で事情を説明した。すると、穏やかそうな初老の村長は「モスクか集会所か好きな方に泊まってよい」と言った。よかった──。
二つの場所を実際に見てみた。モスクも悪くなかったが、集会所には横になれるソファと台所があったのでそちらを使わせてもらうことにした。今晩の寝床を確保できた安堵に包まれ、舟を置いた場所に車で戻ったところ、私たちは目が点になった。
「舟がない‼ 」
あのでかい幼児型ボート二艘が影も形もない。
川が急に増水して流されたのか? それとも誰かに持って行かれたのか?
「まずいぞ!」危機に直面しても冷静沈着な隊長が珍しく血相を変えた。川旅で何が大事って舟ほど大事なものはない。まさか初日の昼でわれらの悲願は強制終了してしまうのか⁉
私たちが大騒ぎし、近くにいた大人や子供たちに「僕らのボートを知りませんか」などと訊きまくっていると、不意に川下の方から突然舟が現れた。
小さな子供たちが十人あまりで、二艘のボートを頭に担いで歩いてくる。パドルを持っている子もいる。幼児型ボートがなおいっそう大きく見える。子供たちは妖精のようだ。その後ろから体重百五十キロぐらいありそうな巨人がのっそり歩いてくる。
おとぎの国に来てしまったかのような錯覚にとらわれた。隊長は「宮崎駿のアニメみたいやったな」と後で述懐した。巨人は腹がぽっこりと出ていて、でも人畜無害な感じなので、まるでトトロのようだ。実は彼が親切にもボートを保管していてくれたのだ。
──それにしても……。
パックラフトはなぜこんなにも幼い子供たちによく似合うのだろう。大きな安堵の吐息をつきながら、この子供たちがこれからこの舟でユーフラテス川の舟旅に出かけるような不思議な空想を思い浮かべた私だった。
1-3妖精一家のマネージャー
心臓が停止するかと思うほど驚いたボート消失事件が解決され、私たちの関心は次の問題に移った。どこに泊まるかである。
集会所は快適そうだが、川岸から歩いて五分以上かかる。舟を失う恐怖を味わってしまうと、二度と川から離れたくなくなったのだ。かといって、ボートをまた畳んだり膨らませたりし、集会所まで他の荷物と一緒に運ぶのは膨大な手間だ。
橋の下にテントをかろうじて張れるスペースがあったものの、雨が吹きぶったらひとたまりもない。そこで私はレザンの通訳で、トトロに似た大男に相談を持ちかけた(彼はタウランという名前だったが、ここでは「トトロさん」と呼ぶことにする)。
「ここにテントを張ってもいいですか。でもトイレがないので貸してもらえますか。それから、もし夜中に雨が降ったら家の中で雨宿りさせてもらってもいいですか?」
レザンは通訳の途中で呆れ声をあげた。「どうして君たちはホテルに泊まらないんだ? 車ならホテルのある町まで一時間かからないぞ」
そりゃそうだが、私たちの旅はそういう趣旨ではない。レザンと車のサポートはあくまで治安対策なので必要最小限にしたい。レザンはこちらの気持ちがてんで理解できないようだったが、そのように通訳してくれた。トトロさんは黙って頷いた。
驚いたのはレザンの素早さだった。必要な荷物を車から降ろすと警察に追われている容疑者であるかのように、慌ててエンジンをかけて、風のように走り去った。彼が別れ際に言っていた言葉が後から思い出された。
「俺は村が好きじゃない。村の人と話すのも苦手だ」
「ほんとに?」と私が驚くと、ゲジゲジ眉毛のおっさんはシリアスな顔で言った。
「俺はシティボーイなんだ……」
「……」思いがけない告白に私は絶句した。
トルコ(特にクルディスタン)では、都市部と農村部で巨大な断絶があるように感じる。例えば、地方都市のワンですら、頭にベールやスカーフをかぶっている女性は少ないが、農村部ではほぼ百パーセントかぶっている。ワンの町では酒を提供するレストランはほとんどないものの、スーパーマーケットに行けば、ふつうに酒のコーナーがあるが、農村部では酒の気配さえなくなる(実は飲んでいるかもしれないが、外部からは見えない)。
私の友人のエンギンはもともとワン周辺の村出身だから農村の人たちと普通に話ができたが、レザンは都市部に生まれ育ち、ワンの大学を卒業したという。インテリなのだ。しかもここトルコ北東部(クルディスタン北部)ではなく、クルディスタン南部(イラク国境に近い町)出身だから、なおさらこの辺の村の人の相手に自信がないようだ。それにしても、このおっさんがシティボーイだったとは……。
まあ、いい。現地ガイドとしては何も役に立たないけれど、私たちはもともと二人だけで旅するつもりだったから、別にかまわない。
トトロさんはクルド人には珍しく、喜怒哀楽を一切顔に出さない人だった。でも、舟を預かってくれたことからも親切で気遣いのある人なのは間違いない。
舟が飛ばないようにシートで覆い、テントを設営していると、しばらく子供たちが取り囲んで見ていた。下は三歳、上は十二歳くらいまで、十人余り。よその家の子も交じっていたが、半分以上はトトロさんの子供だと後でわかった。ほとんど女の子だった。着ている服はくたびれ、髪もぼさぼさでありつつ、顔立ちは整い、金髪や茶髪が風になびくと、びっくりするくらい美しかった。あらためて見ると妖精の一群のようだ。
妖精チームのリーダーらしい十二歳くらいの金髪少女がお茶セットを運んで来て、川辺の草地に置いた。チョレキ(パン)とチーズとチャイという素敵すぎるランチセットだ。荷物の整理を終えると、私たちは折りたたみ椅子を出して川辺に腰掛けて、そのランチをいただいた。冷えた体が温まる。
近所の人たちがやってきて、私は片言のトルコ語で談笑する。
いっぽう、隊長は妖精たちの似顔絵を描いて大人気を博していた。
トトロさんは極端に無口な人だった。しかも腰に手をあて、ふつうに歩くのも苦しげだ。どうやら腰を痛めているらしい。これだけ太っていれば無理もない。彼は私たちの周りにできた人の輪に入ることもなく、突っ立っていた。私も腰痛持ちなので、「たぶん立っているだけでしんどいだろう」と心配になった。でも椅子を勧めようにも、彼が座ったらこんな椅子は瞬時にぺちゃんこになること間違いない。
ともかく、もてなしてくれる主を蚊帳の外においておくわけにはいかないと思い、トルコ語で話しかけた。「この川には魚がいますか?」
トトロさんは一瞬こちらを青みがかった瞳でじっと見つめ、それからなにやら悲しげな顔で「いる」と呟いた。そして、くるりと踵を返すと、家の方に向かって巨体を揺すりながら歩いて行ってしまった。
え、何か悪いことを言ってしまったのか? と私は動揺した。川に魚がいるかって訊いたらダメなのか?
しばらくすると、トトロさんがまたゆっくりと戻ってきた。手には投網を携えている。
いや、そんなつもりはなかったんですよ! と思わず叫びたくなった。ただ、頭に浮かんだことを訊いただけだったのだ。
しかし、実直なトトロさんは、魚がいるかと訊かれたからには見せねばと思ったらしい。綿のズボンにTシャツ、サンダルという普段着のまま、ざばざばと川の中へ入っていった。家族を失ったゴジラがひとり海へ帰っていくなんて見たこともないシーンを思い浮かべてしまった。
巨人は別にポイントを確かめるそぶりもなく、橋の下あたりで適当に投網を水にぶん投げた。網をたぐると、鯉や鮒に似た小魚が二、三匹かかっていた。
それを三回、四回とくり返す。驚いたのは、網が川底に引っかかる度に妖精のリーダー役の子がワンピースのまま川の中に入っていき、水に体を沈めて、網を外すことだった。赤い縁取りのある白いスカートが水の流れをうけてひらひらと舞う。
あがれば当然びしょ濡れだが、気にする様子はない。何度でも水に入る。しかもお父さんに言われる前に。
位置を変えて、今度は岸から網を打つ巨大父さん。小魚が何匹もかかり太陽の光に煌めくのを見ると、これまたエサに群がる小魚のように妖精たちがわーっと網に殺到する。競うように小魚を手で掴んで集める妖精軍団。まるで何かの演し物のようであった。ピンクと白、グレイ、紫のスカートが水中でゆらめく。
長さ十センチほどの魚が山ほど獲れたが、いっこうにやめる気配がない。もしかすると私たちが見ているかぎり続けるのかもと恐ろしくなり、「疲れたのでちょっと休みます」と言って、テントにひっこんだ。すると近所の人や妖精一家も引き上げていった。
まもなくトトロさんが戻ってきて、私のテントを無表情にのぞき込むと「うちで休んでくれ」としゃがれ声で言った。
ありがたい。テントに荷物を置いたまま、家へ向かった。
入口付近には、巨大なクリーム色の犬がいた。首には北斗の拳かマッドマックスに出てきそうなでかいトゲのついた金属の首輪をしている。クルドの遊牧民が飼っている「カンガル犬」という犬だ。以前、車でクルディスタンを旅しているとき、羊飼いが連れた羊の群れに遭遇したら、このでかい犬が猛烈な勢いで車を追いかけてきて、窓に向かって飛びつきながら牙を剝いて激しく吠えた。あまりの迫力に犬が大好きの私もビビったものだ。
今目の前の犬は人なつっこそうで穏やかに尻尾を振っている。私たちが家の客だと理解しているようだ。
「犬の名前は?」と訊くと「シロ」。え、白犬で名前がシロ? 意味はわからなかったが、どうやら偶然そういう名前らしい。
ブロック壁の家が数軒並んでいた。十二人家族というからいくつも家屋を使っているらしい。女性の姿は一人も見えない。「奥さんはいるんですか?」と訊くと「いない」とトトロさんはぼそっと答えるが、今留守なのかそもそもいないのかはわからない。
私たちはそのうちの一軒に案内された。日本と同じように靴(サンダル)を脱いで上がる。天井は丸太を並べて上から板を載せたもので、壁はしっくいというより土を塗っただけに見える。山小屋的だ。でも内装はとてもきれいだった。新品でピカピカ光るカーテン、ハート模様が描かれた枕、新品に見える敷物。ふだん女性が使っている部屋なのだろう。そこに妖精たちが青と赤の布団を二つ並べて敷いてくれた。日本のとそっくりの掛け布団と敷き布団だ。
「まるで新婚カップルの部屋みたいや」と隊長は言い、「いや、勘弁してください」と私は答えた。しかし、ありがたい。
そこでしばしうとうとすると、妖精リーダーの長女(名前はバーフィンという)が「ご飯よ」と呼びに来た。リーダーの指示に従い、妖精の妹たちが丸いちゃぶ台のような食卓と御馳走を運んでくる。テキパキと皿を並べる。バーフィンがだんだんマネージャーに見えてきた。
トトロさんがよっこらしょと腰を下ろし、私たちと卓を囲む。ムスリムなので、女性と子供は一緒に食事をしない。
無口なトトロさんだが、差し渡し五十センチもあるようなナン(薄焼きパン)を指さし、「うちの畑の小麦で作ってうちの窯で焼いた」とか、「(煮込んだチキンも)うちで育てている」などと小声で説明する。そして先ほど妖精一家が総掛かりで獲った小魚のフライとトマト。この卓上のものは炊き込みご飯の米以外はすべて自分たちで作ったものらしい。
どれも素朴な味わいで美味しかった。家庭料理らしく食堂で食べるより味つけがマイルドである。
満腹するとチャイ。トトロさんは煙草をくゆらすが、灰皿は用意しておらず、吸い殻は開け放した戸口の外へ投げ捨てる。二本目の吸い殻は部屋の内側の絨毯に落ちてしまった。彼が大声で呼ぶと、妖精リーダーが金髪をなびかせて走ってきてそれを片付けた。
食事を終え外へ出ると夕暮れが近づいていた。
長女を筆頭に妖精たちがきゃっきゃっと楽しそうに川で食器を洗っていた。なぜか羊の毛の塊も水洗いして、ブロック塀の上に干していた。
トトロ父さんはまた腰をさすりながら投網を打っている。また長女がスカートのまま川に飛び込む。今度は彼らの夕飯用なのだろう。家の前に夕飯のおかずが流れているのは素敵だ。
どうして女の子ばかりで男の子がいないのだろう? そんな疑問は夕暮れに解消された。ユーフラテス川が黄金色に煌めく中、牛や羊の群れがぞろぞろと近くの山から戻ってきた。橋を渡る群れもあれば、川をばしゃばしゃと横切る群れもある。その中にトトロさんの家畜と息子たちもいた。男の子は昼間、放牧に出かけているのだ。
隊長は美しい川の夕暮れを熱心に撮影している……と思ったが、よく見れば、風景や動物ではなく、妖精たちを橋の上に立たせて撮影するのに夢中だった。彼女たちは嬉しさ半分、恥ずかしさ半分といった表情。可愛らしくて美しい。
部屋にいったん戻って記録を整理していると、バーフィンが戸口から手招きする。「犬が……テント……」という言葉はわかるが、あとはよくわからない。テントの中に食料を置きっぱなしだった。犬がそれを狙っているのだろうか?
急いで妖精リーダーと一緒に橋のたもとに行くと、巨大な白犬がテントの脇に鎮座していた。
「シロ?」「そう」「何してるの?」「テントを見張ってるのよ」
シロ! と声をかけると、嬉しそうに尻尾を振っている。よく見たら鎖でつながれていた。
なんと犬も総動員で私たちの面倒をみてくれているのだ。バーフィンは「犬がいるからテントと舟は大丈夫。安心して」と言いたかったようだ。
妖精リーダーの気遣いの細やかさと、全体をくまなく監督する眼差しには驚かされる。
薄暗くなって、彼女は再び部屋にやってきた。今度は笑みを浮かべて二つ折りの紙切れを手渡した。開けてみたら、トルコ語でこう書いてあった。
「犠牲祭で子供たちにあげる服がない。助けてほしい」
もうすぐイスラム最大のお祭り「クルバン祭(犠牲祭)」がやってくる。そのとき子供たちに新しい服を着せるのが慣わしだ。
うーんと唸った。ホストは客の世話をする義務とメンツがある。こんな依頼はトトロさん本人にはできない。マネージャー役の長女にしかできない。
「このぐらいの額でいいのかな?」私が紙幣を手渡すと妖精リーダーはにっこり微笑んで帰っていった。私たちもこの豊かでなさそうな家に厄介になり、気が引けていたのでホッとした。
外へ出ると、トトロ父さんは木の椅子にすわって煙草を吸っていた。私と目が合っても、これまでのように無表情で何も言わなかった。
柔らかい布団でぐっすり眠り、翌朝は四時に起きた。日記をつけ六時頃外に出ると、もう羊や牛は世話係の少年や若者と一緒に丘の上へ向かって「出勤」しているところだった。
川辺でテントを片付け、荷物を整理していると、妖精リーダーが朝食セットを運んで来た。ビニールシートを敷いてその上に食事を並べる。トトロ父さんはそこへ座った。私たちもそれに習った。
アヒルやガチョウがキラキラ光る川面で水浴びをしたり急流を巧みに横切ったりするのを眺めながら取る朝食は最高だった。特に美味だったのはハーブ入りの自家製チーズ。焼きたてのナンにつけて食べると止まらなくなった。チャイのグラスが空になると、トトロ父さんがポットからお代わりを注ぎ、ポットが空になると妖精リーダーがお代わりを持ってくる。
もっと長くこの家にいたくなった。でもそうもいかない。まだ二日目なのだ。
みんなで写真を撮ると、ボートに荷物をくくりつけ、不要なものは一瞬だけ姿を現したレザンに渡す。
出航。岸辺に向かって手を振ると巨大父さんと妖精たちが手を振りかえしていた。
彼らの姿が視界から消えると、おとぎの国から現実に戻った気がした。パドルを漕ぎながら私は隊長に言った。
「十年後に来たら、あの娘たちがみんな年頃の美女になってるんですかね?」
「俺も同じことを考えてた。なんだかもう一度どこかで会いそうな気がするよ」と隊長は答えた。
朝日に光る川をパドルで漕ぐ。
水の中にひらひらと舞う赤や白や紫のスカートが見えたような気がした。