メソポタミアのボート三人男 第十回/高野秀行
第五章 川と歴史は遡るべし!
5-1 非常識なほどの紆余曲折
桃源郷デルシムを下りると、下界は暑くて埃っぽかった。レザンの運転するワーゲンは平均時速百キロで高原の道をひた走った。
第一部と第二部はユーフラテス川とその支流を下ったが、第三部はティグリス川本流。基点はトルコ南東部の町ディヤルバクルである。ただ、その前にやりたいことがあった。都合三、四日、車でざっとめぐるだけなので、舟旅の合間の箸休めのようなものだが、テーマ的には箸休めにしてはあまりに壮大で、箸(舟旅)が爪楊枝の削りカスに見えそうなほどだ。なんと「古代メソポタミア文明の源流を訪ねる旅」である。
なぜ急にそんなNHK―BSの番組みたいなツアーを盛り込んだのか。それを説明するためには、今までひた隠しにしていた(?)事実を明らかにせねばならない。プロローグで「常識では考えられないような、トリアーナの私たちならではの紆余曲折を経て(これも後で話そう)、ティグリス=ユーフラテス源流部の川下りが実現した」と書いたのを憶えておられるだろうか?
実はティグリス=ユーフラテス川で舟旅をしようと決めたのは事実であるものの、最初に目指したのはこの源流部ではなく、二つの川が合流するイラク南部だった。通称「アフワール(アラビア語で「湿地帯」の意味)と呼ばれる。
その名の通り、東京都を優に上回る規模の巨大湿地帯で、水牛を飼いボートで移動生活をおくる水の民が住んでいるという。しかも「危険地帯」とされるイラクなだけに行く人も少ない。この三十年は本格的な調査や取材も行われておらず、何がどうなっているかもよくわからない──という情報を得た。
「そんな面白い未知の場所があるのか! しかもティグリス=ユーフラテス川!! こりゃ行くしかない!!」と私は思ってしまったのだ。
で、もっと言いにくいことなのだけど、プロローグでは隊長も私の提案に対し、「おう、ええな」と二つ返事で同意してくれたみたいに書いてしまったが、かなり嘘である。
当時、隊長は心身の調子がまだ万全ではなかったので初めは難色を示した。しかも危険地帯のイラクだから隊長のご家族からも反対された。何度もしつこく通って本人とご家族を説得。隊長曰く「三顧の礼を超えた四顧、五顧の礼で頼まれて、しかたなく受けた」。それが「おう、ええな」の正体である。
隊長はそのためにわざわざ東京に移住。仕事も奥多摩で見つけた。私は一年間、アラビア語イラク方言の勉強をしながら、現地の情報を集めたり文献を漁ったりした。
準備万端整い、イラクへ出かけたのは(この舟旅から約八カ月前の)二〇一八年一月だった。まだイスラム国(IS)との戦争が終わったばかりで、爆弾テロや拉致、暗殺がふつうに起きていた。国内を旅している外国人など皆無。私たちはまるで指名手配犯のように人目をはばかりながら南部の湿地帯へ向かった。
湿地帯へ着いてみて、衝撃を受けた。あまりにも茫漠とした水と泥と葦原の世界。この湿地帯は古来、戦争に敗れた者、国家当局に追われるアウトロー、迫害されたマイノリティの逃げ場所だった。いわば「水滸伝」の世界なのだが、それも当然だと思った。なにしろ、道もない、村もない、葦原の中は迷路のような水路が広がる。そして、そこは武装した氏族(部族)が割拠し、今でも半分、治外法権のような土地である。よそ者が勝手に舟で旅するような環境ではなかった。すぐ拉致されてしまいそうだ。
「これじゃ自由な舟旅なんかできないじゃないか!」私がショックを受けていたら、隊長が驚いた。「そんなこと初めからわかってたやんか。おまえ、イラクの湿地帯だぞ」。
隊長は最初に話を聞いたときから「どうして高野は自由な舟旅がしたいと言ってイラクなんか選ぶんやろう? わけわからん」と思っていたという。
「思ってたなら早く言ってくださいよ」
「何度も言ったやんか。でも、おまえ、全然俺の話を聞かないやんか」
イラクの湿地帯の真ん中で言い争ったものである。
とはいえ、我らはアナクロ(時代錯誤)、アナログ、アナーキーの三拍子揃ったトリアーナの二人だ。水滸伝を彷彿させるようなアナーキーな土地柄、今でも四千年前のシュメール時代と同じ葦の家に住んでいるという、アナクロを通り越して、歴史の生き証人のような湿地帯の民に魅了された。
アナログという意味でもここの人たちは私たちを軽く上回っていた。紀元前四千年頃、人類史上初めて文字が誕生した土地なのに、学校に行っていないため文字の読み書きができないという人々が珍しくないのだ。シュメール人以前だ。でも、そういう人たちも若い世代はビデオチャットかスタンプかボイスメッセージでSNSを楽しんでいたりして、デジタル/アナログ概念を超越していた。全くもって私たち好みなのだった。
さて、私たちはアフワールの下見を終えて、次の春か夏に舟旅を実行しようと考えていた。ところが、イラクで政情が不安定になり、治安が悪化しそうなので渡航を延期した。思いがけず時間があいてしまった私は「ティグリス=ユーフラテス川の源流部で川下りしないですか」と隊長に提案した。「トルコ領ならパックラフトで自由な舟旅ができますよ」
「ええよ」と隊長は言った(これは本当)。
「最初からそっちへ行けばよかったんやけどな……」とぽつりと付け加えた気もするが、私は基本、人の話を聞いていないし、「ついにパックラフトで夢の舟旅だ!」と感無量であった。
かくして今回、我々はトルコ領内のティグリス=ユーフラテス川を下るという旅に出かけた──と言いたいのだが、紆余曲折はまだ続いた。
天下のメソポタミア源流域で川下りするなんて私にとっては大変な挑戦である。練習が必要だと思った。あれこれ悩んだ末、五月に中国の珠江という川で練習しようと思いついた。珠江は中国第三位の大河で長さは二二〇〇キロ(ティグリス川より長い!)。ベトナム国境に近い雲南省から流れ出し、香港で海に注ぐ。
「なんでや? 練習なんて国内の川でやればええやんか」と隊長は首を傾げたのだが、私は「国内の川は情報がありすぎるし、言語状況も交通も便利すぎるからダメですよ。外国の大河へ行かなきゃ」と強引に説き伏せた。
でもなぜ珠江なのか? これまた私のアナーキーというか、間違う力が作動した結果である。
みなさんの周りに、ちょっと由緒のある城とか寺とかパワースポットとかを訪ねたら、それがきっかけで急に歴史好きになってしまった人がいないだろうか。中には訊かれてもいないのに歴史を語りだすと止まらなかったり、「この近くにあまり知られてないけど由緒あるお宮があるから寄ってみよう」とか言い出したりしてまったく面倒くさいことこのうえないが、イラクの湿地帯へ行った私がまさにそうだった。
古代メソポタミア文明すごい! と感動してしまったのだ。なんせ、天体観測を行い初めて暦を作ったのも、それに基づいて本格的な農業を行ったのも、初めて巨大な神殿(ジッグラト)を作ったのも、みんな古代メソポタミアのシュメール人である。学校や病院や役場、パンとビールを作り、家畜や土地の売買や賃貸の契約などなど、現代文明の基盤となる知識・技術・システムの大半はこの文明に由来する。
とりわけ感心したのは農業である。現在、アフワールに住む人々は、水牛飼いの人も町に住んでいる人も、およそ計画性というものを持たない。行き当たりばったりで暮らしているのだが、唯一の例外が農業を行っている人たちだった。大半の人たちが明日か明後日のことぐらいしか考えずに生きているのに、農家の人たちは何カ月も何年も先のことを見越して計画を立てていた。種まきから収穫まで時期は決まっている。いつどのくらい肥料を与えるか、収穫のときはどれくらい人を雇うかもあらかじめ考えねばならない。さらに連作は土地を疲弊させるので、小麦を作った翌年は豆を植えるなんてことも計算しておく。農業は計画性をもたないとできない。逆に言えば、農業が計画的な生活を生む。そして計画性があらゆる文明のもとである。
農業はどこで始まったのかとざっくり調べてみて驚いた。ティグリス=ユーフラテス川の源流部が最も有力な候補らしい。小麦や大麦がその地域で約九千年前に栽培化されたという。ちなみに、その地域は牛、豚、ヤギ、羊などが初めて家畜化された場所としても有力候補のようだ。
考えてみれば、理に適っている。川は上から下に水が流れる。源流域で何かが生まれ、それが下流域に伝わって、より適した環境で大きく育つというのはとても自然だ。川の源流は文明の源流でもある──。
だからこそ、ティグリス=ユーフラテス川源流部での舟旅を提案したのだ。川と歴史は遡るべし、と。
もちろん、農業(野生植物の栽培化)は世界中で(なぜかすごく近い時期に)起きている。アジアでは米(稲)が約八千年前に栽培化されたらしい。場所はどこかというと、かつては長江流域と考えられていたが、今現在は珠江の源流域が定説になっているという。
にわか歴史(というか文明史)ファンの私はここに感銘を受けてしまった。小麦や大麦はティグリス=ユーフラテス川の源流部で生まれたという。ならば、その練習として、米が生まれた珠江源流部に行くべきじゃないか?
隊長は私の論理がさっぱり理解できないようだったが、「高野がそこまで行きたいというなら……」と同意してくれた。
そのようなわけで、五月、中国雲南省の珠江源流部へパックラフトを携えて乗り込んだ私たちだったが、予想もできない展開が待ち受けていた。
珠江の源流は十年くらい前までは人家もろくにない湿地帯で辺境中の辺境だった。さすがに最近では少し開けて来たようだとグーグルマップなどから推測していたが、着いてみれば、大規模開発が進む巨大ニュータウンと化していた。呆然としたまま、予約したホテルにチェックインすると、五分もしないうちにヤクザのような風体の地元警察が五、六人押しかけてきた。こんな辺鄙な町に外国人が来るのは怪しいとホテルの人間が通報したらしい。
私は必死に中国語で「ここの川を舟で旅したい」とか「ここは野生の稲が最初に栽培化された場所です」などと力説したが、彼らは「はあ?」「何言ってんだ?」と眉間にしわを寄せた。
まあ、そりゃそうだろう。こんなところで舟旅をしようなんて思う人間は世界中で私しかいない。相棒の隊長ですら理解できなかったのである。米の栽培化云々に至ってはまるでメン・イン・ブラックだ。
彼らは私たちのパスポートをチェックしはじめ、私は心臓が苦しくなった。なぜなら、パスポートにはイラクのビザと入国スタンプが押されているからだ。ただでさえ怪しいのに、この日本人はつい最近イラクへ渡航している……。
最近、日本人が中国に滞在中、スパイ容疑で捕まり、長期の懲役刑を科せられるというニュースをよく見聞きする。罪状も裁判も非公開であるから、いったい何をもってスパイ行為と見なされたかどうかも不明だ。所属先や滞在目的が明確な研究者や企業の出張者でも逮捕されるのに、私たちと来たら、どこの誰が見ても怪しさMAXである。勤め先はナシ、「川を舟で旅したい」という理解しがたい来訪理由、イスラム過激派が跋扈するイラクに渡航したばかり、しかも私は拙いながらも妙に中国語が話せる。スパイかテロリストだと疑われてもおかしくない。
幸いなことに、彼らはパスポートをパタッと閉じた。この田舎警察の男たちは誰ひとり英語ができないらしい。でも警察署に連行されたら中には一人ぐらいIraqが「イラク」だと理解できる人員もいるだろう。万事が休してしまう。ちなみに、これまでの人生で、私は中国雲南省では二回も警察に拘束されて、取り調べを受けており、その度に寿命が縮まる思いをしている。
危機の真っ只中、隊長が前に言っていた言葉を思い出した。「ヤバいときには逃げるより、かえって相手の懐へ飛び込んだ方がいい」。
私は多摩川で川下りをしたときの写真を見せた。
「こういうのをやりたいんですよ。この辺でどこかできるところないですか?」
「あー、皮划艇(カヌー)か」と彼らは口々に呟いた。
このときほど幼児用ボートに似たわれらが舟に感謝したことはない。誰が見ても能天気なレジャー用だ。こんな目立つ代物でスパイ行為やテロ活動をする奴はいない。
「これを持ってきているのか。でもこの辺じゃできる場所はないな」と一人が言う。別の男が「“珠江源”はどうだ? カヌーはできないけど、見るのはなかなかいいぞ」
意見を求められると気分がよくなるのはどこの国の人間も同じなようだ。懐に飛び込んだことが功を奏したようで、彼らは急速に態度を軟化させ、「怪しい外国人を捕まえる」というミッションを忘れていった。というか、こんな間抜けな連中を捕まえても仕方ないと気づいたのだろう。
「もっと大きなホテルに移れ」と命令して、引き揚げていった。要するに彼らの目の届く高級ホテルに宿泊せよということだった。ハアと全身から力が抜けそうになったが、彼らの気が変わらぬうちにと、急いで指定された宿に向かった。
翌日懲りない私たちは警察官たちに教えてもらった珠江源(珠江の源流)へ出かけた。大河・珠江の源流はコンクリートで固められ、神田川のようだった。最終的な源流部は入場料をとられる公園だった。そこにだけかつての巨大な湿地帯が「見本」のように残されていた。
「中国三大ガッカリやな」と隊長が呟いた。私も頷いた。もちろん、他の二つは知らない。
私は近くの店の女性に「この辺に稲の野生種はないですか?」と訊ねたが、「知らない。だいたい、ふつうの米があるのにどうして野生の米なんて食べなきゃいけないの!?」と笑われた。
全くその通りだ。というか、一般人にこんなことを訊いてわかるわけがない。
結局、この源流域は諦め、私たちは珠江に沿って鉄道やバスで移動しながら川下りができそうな場所を探したが、開発(都市化)が著しい中国では、珠江の支流域さえも護岸工事や堰の建設が進み、川下りに適した場所はまったくなかった。仮に下ろうとしても、舟を組み立てている間に警察が飛んでくるのが目に見えた。
私たちは二週間、珠江流域をパックラフトやキャンプ道具など重い荷物を引きずりながら彷徨い、一度も舟を膨らませることすらなく日本へ帰った。隊長が「また高野に騙された」と溜息をついたことは言うまでもない。これが「ドーハの悲劇」を上回るとも言われる「珠江の悪夢」だ。
帰国の二日後、私たちは栃木県から茨城県へ流れる那珂川へ行き、パックラフトの練習をした。豊かな自然が残り、水量もたっぷり、うるさいことを言う人もおらず、最高だった。「最初から日本でやればよかったんや」と隊長がしみじみ呟いた。
以上が「非常識なほどの紆余曲折」の一部始終だ。
何の話だったかもう忘れそうだが、だから歴史の旅なのである。第三部の川下りへ入る前に、にわか歴史(人類史)ファンとして、源流部の歴史名所をめぐろうと思った。それは珠江の悪夢へのリベンジでもある。改めて言おう。
川と歴史は遡るべし。
5-2 人類の歴史を塗り替える遺跡
さて、「メソポタミアのボート三人男」改め「メソポタミアのワーゲン三人男」は、小麦と大麦の栽培化が最初に行われたと言われる土地へ向かった。
ティグリス川本流の町ディヤルバクルでランチを取った後、さらに南下。車の前部座席には直射日光が容赦なく降り注ぎ、いくら冷房を強めても温度が下がらない。車中にいながら汗が滴る。
私たちが目指すのはカラジャ山という、世界的には無名である山の西側のふもとだ。現在確認されている中でも人類にとって最も古い栽培種であるヒトツブコムギがそこで生まれたという。
もっと具体的に言うと、現在の栽培種であるヒトツブコムギに近そうなコムギ属の野生種をティグリス=ユーフラテス川源流域の数カ所で探してDNAを比較したところ、カラジャ山の西側にあるシヴェレクという町の近くで採集された野生コムギのDNAが最も栽培種に近いという結果が出たのである。DNAでは栽培化の年代まではわからないが、付近にある約九千年前の遺跡からヒトツブコムギが発見されており、それより前の遺跡からは見つかっていないことから、おそらく九千年前頃に栽培化されていたのではないかと考えられているようだ。ちなみに、大麦やエンマー小麦といった重要な作物も同じようにカラジャ山麓の野生種から栽培化されたという報告がある。ただし、こちらは具体的な場所が私にはわからなかった。
カラジャ山は、ユーフラテス川とティグリス川を隔てる分水嶺だ。支流同士で最も近い場所は一キロもないだろう。二つの川が最初に近接した場所で栽培化が行われ、次に近接した(というか合流した)場所で本格的な農業が始まったのは偶然なのだろうか?
カラジャ山は火山で、富士山のような独立峰で、高さは一九一九メートル。ディヤルバクルから三十キロ程度しか離れていないが、町からはもちろん、西へ行く街道を走ってもはっきりと見えない。鋭角に屹立した富士山とちがって、南北にのっぺりと長い山塊であるうえ、あまりにも暑くて陽炎が立ちのぼっているせいだろう。
しかし、カラジャ山はいつの間にか始まっていた。なだらかな起伏のある広い草原あるいは荒れ地に、黒い火山岩がごろごろ転がっている。SF映画に出てくるどこかの別の星みたいな風景だ。
カラジャ山は歴史上に噴火が記録されていないので時代は全く不明であるが、古代に噴火した岩が数十キロ四方にもわたって飛び散っているのだ。ここには集落もなければ、畑もない。放牧されている羊すらいくらも見かけない。
こんな広大な“荒れ地”が栽培植物の(今まで知られる中で)最も古い起源地とは意外だ。
「この辺は少なくとも八千年前までは森林だったはずだから、当時はもっと緑が多い、いい土地だったんじゃないかな」と隊長。「起伏があまりないし、人が入っていきやすかったと思うぞ」
勢いこんでやってきたものの、シヴェレクの町(小さな集落だった)にもその周辺の道路沿いでも「ヒトツブコムギの発祥の地はココ⇒」なんて看板はもちろん出てないし、私たちは何も調査をする手段を持ち合わせていない。地元の人を捕まえて「ここにヒトツブコムギの野生種がありますか?」と訊いても珠江のときと同様、笑われるだけだろう。
結局、「ふーん、この辺なのか……」と淡い感想を抱いただけで通り過ぎるのみ。珠江のリベンジも何もあったものではないが、結局、素人のにわか歴史ファンなのでしかたない。
このとき、科学に造詣の深い隊長はともかく、理系の素養に乏しい私はまだカラジャ山の重要性について認識しておらず、気持ちは早くも次の目的地へ向かっていた。
次の目的地は、私のような文系のボンクラにも大層わかりやすく、かつ衝撃的な遺跡である。その名はギョベクリテペ。シリアとの国境近くにあるシャンルウルファから北東へ十二キロ足らずのところだった。
遺跡は高い丘の上にあった。ツーリストの数は少ない。夏休みの時期だというのに、私たち以外はトルコ人が数人いただけだ。まだまだ世界的にギョベクリテペの知名度が低いことを感じさせる。でもこの遺跡の価値は計り知れない。なにしろ今まで見つかっている中で「人類が作った最古の巨大遺跡」なのだ。
遺跡は十四のサイトに分かれている。駐車場に最も近い遺跡では眺めの良さに心を奪われた。周囲数キロは優に見渡せ、上からは敵が来たらすぐわかるし、逆に下界からはどこからでもこの丘が目に入ったことだろう。
十四のサイトのうち、むき出しのままになっているのは五つのみ。他は保護のためだろう、全てトタンのような金属の屋根に覆われていた。各サイトは直径が数十メートルもある円形の石積みからなり、中に二つ対になったT字型の白い巨石がこれまた円形に配置されている。その美的バランスは現代の我々にも心地いいものだ。
T字型巨石は石灰岩で高さ五メートルあるらしい。とにかくでかい。表面には鳥、狐、サソリといった動物が刻まれている。中にはコンゴの未確認動物モケーレムベンベの想像図のように(あるいはネス湖のネッシーのように)首が長い謎の動物の姿もあった。
「いや、すごいな……」
それ以上に言うべき言葉が見つからない。聞きしに勝るとはこのことだ。
このT字石柱一本だけで十トン以上もあると説明に書かれているが、見た感じでもそのぐらいありそうだ。あんな巨石を誰がどうやって運んだのか。
ギョベクリテペは一九九六年からドイツの考古学者クラウス・シュミット率いるドイツ考古学研究所によって本格的な発掘が始められたという。これまで動物や鳥が描かれた巨大な石柱が円形に並べられたサイトがいくつも発見されており、「宗教施設」と推測されている(ここを「神殿」と紹介するウェブサイトもあるが、考古学上の定義によると「神殿」とは屋根のついた建物でなければならないので、あくまでも「宗教施設」と呼ばれるようだ)。
ユネスコのウェブサイトにはこうある。
「アナトリア南東部のジェルムシュ山脈に位置するこの遺跡には、紀元前9600年から前8200年の先土器新石器時代以前の狩猟採集民によって建てられた、円形、楕円形と長方形の巨石建造物が残っている。これらの建造物は、おそらく儀式に関連して使用されたもので、葬儀の性質を持つものであった可能性が高い。特徴的なT字型の柱には野生動物の像が彫られており、約11500年前の上部メソポタミアに住んでいた人々の生活様式や信仰を知る手がかりとなる」
ギョベクリテペはシュメールの都市遺跡より七千年も古い。巨石文明という文脈ではエジプトのピラミッドより八千年も古い。まさに桁違いの古さだ。
それだけではない。ギョベクリテペの発見はこれまでの考古学と人類史の常識を覆してしまった。
かつては次のようなストーリーが考えられていた(今もそう考えている人はまだ多い)。曰く「人類は定住して農業を始めた。おかげで、一つの場所で多くの人口が養えるようになり、大きな共同体が生まれた。大きな共同体からは強大な宗教が生まれ、共同体の結束により、墳墓や神殿といった大きな宗教施設も作られるようになった……」。
いわゆる「農業革命」仮説である。私が農業の発祥(植物の栽培化)に興味を惹かれたのもこの仮説ゆえだ。ところが、カラジャ山のところで説明したように、植物の栽培化は早くても九千年前からだというのが現在の定説だ。するとギョベクリテペの建設は農業が始まるより約三千年も古いことになる。だいたい、ギョベクリテペには人が定住していた村落の跡が見つかっていない。ゆえに狩猟採集民によって作られたと解釈されている。
また、ここは「巡礼の地」だったのではないかという説もある。入れ替わり立ち替わりやってくる人たちがあんな巨石を運んで、ストーンヘンジのような聖地を作ってしまったというのである。
いずれにしても、ギョベクリテペを見るかぎり、この土地では順序として信仰と共同体的な団結が先にあり、そのあとで農業や定住が始まったようなのだ。クラウス・シュミットは「宗教施設を作るために労働力が必要となり、その結果、大量の食料が必要になって農業が始まったのではないか」という説を唱えているという。たしかに考古学的にはその順序であり、この遺跡とカラジャ山麓は極めて近い。
文化と宗教が誕生した地にして人類文明発祥の地だという意味で、考古学者たちはこの遺跡を「ポイントゼロ」と呼んでいる。
私も「定住→農業→宗教」という順序を刷り込まれていたから、このことは驚きでしかない。特に私はイラク湿地帯の体験から、「農業=計画性=文明」という等式も頭に描いていただけに、「計画性がなくても、こんな巨大で美しい遺跡が作れたのか!」と意外の念に打たれてしまった。
定住者もおらず、計画性もなく、通いの人たちが随時集まり、巨大な宗教施設を作るとはどういうことか。
言ってみれば、阪神タイガースのファンや浦和レッズのサポーターが定期的にその「聖地」へ通い、試合を見るだけでなく、力を合わせて巨大なスタジアムを建設してしまったというようなイメージだろうか。でも阪神ファンやレッズサポの熱狂ぶりを見ると、意外とありそうな気がしてくる。あの人たちはタイガースやレッズのためならどんな苦難も厭わないだろう。ちなみに、甲子園球場も埼玉スタジアムも屋根がないから「神殿」ではなく「宗教施設」だ。
私が阪神ファンやレッズサポの大群がT字型の巨石を運ぶ様子を妄想していたら、もっと現実的でナリュラリストの隊長が言った。
「水はどうしてたんやろな」
「どこからか湧き出てたんじゃないですかね」と適当に私が答える。
「そうやろな。地図で見ると、この谷筋から沢が流れて、シリアのラッカでユーフラテス川に合流しとるもんな」
隊長の答えに驚いた。ラッカ! それはつい最近(二〇一七年)まで、イスラム国(IS)が「首都」としていた町ではないか。でも、たしかに地形と地図を見るとそうなのである。
石灰岩質の岩盤で丘は覆われ、南側はゆるく美しい谷状にひらけていた。
多くの人は政治、軍事、考古学、歴史、国家といった個別の視点だけで見ているから、考古学遺跡とイスラム過激派を結びつけて考えることはない。でも、水の流れを見れば、答えははっきりしている。ギョベクリテペからまっすぐ南に下るとラッカだ。古来、水のあるところに人が集まる。ラッカもユーフラテス川の要所だ。ギョベクリテペとラッカは大昔から水でつながっており、行き来があったのだろう。
ギョベクリテペはユーフラテス川の支流の源流に設けられた聖地という意味ではデルシムのムンズルとも似ている。
川の源流に設けられた聖地。そこに阪神ファンやレッズサポが集い、長年かけて作られた巨大スタジアムがギョベクリテペ──という新仮説を即興で思いついてしまったのだった。