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田舎に暮らすということ
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下手なチェロの弦が横滑りするのを脂の足りないせいにし,庭に出てきゅっきゅっと景気よく松脂(まつやに)をこすりつけた。弦を張ってゆくとボンと鈍い音がして弦がだらりと全部緩んだ。
「え?」
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弦が壊れた。東京に住んでいるときならば,これは「御茶ノ水に寄っていかなくっちゃ。」という案件である。しかしここは信州原村,おいそれと御茶ノ水には行けない。とりあえず下倉バイオリンに電話してみたが,宅配便を使っての弓の修理は受け付けないと言われた。
「部品だけのお取り寄せならいたします。」
あれこれ検索したが諏訪には店がない。
また松本か…
車の移転登録のために松本まで行ったばかりである。しかも修理を受け付ける店が希少だからなのだろう,ずいぶんと強気の値段がホームページに謳われている。これならいっそ御茶ノ水まで行くべきか。
部品だけのお取り寄せ…。それではとネジを外してみた。これまで楽器を分解するなどということは考えたこともなかった。ギターの弦ですら自分で張り替えたことがない。
弓の構造は意外にシンプルだった。弦を束ねてある部分に虫メガネのような形の雌(め)ネジが固定されている。弦のお尻が雄(お)ネジになっていて,虫メガネの雌ネジに差し込む。ネット上のサイトによると,雄ネジが破損しないようにあえて雌ネジは切れやすいように作ってあるらしい。どうやら壊れたのはこの雌ネジのようだ。大事ではない。
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これなら自分で直せるかもしれない。部品を検索すると中華なインターネットショップがヒットした。雄ネジ,雌ネジセットで下倉楽器の修理費の1/3ほどの値段である。
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きっちりと10日で広東省恵陽区から信州原村にネジが届いた。インターネットショッピングに於いては中国のサイトは安価なだけでなく,少なくとも日本の一部サイトよりも律儀でシンプルで安全である。
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若干手がかかったのは雌ネジの差し込み具合であった。いっぱいまで締めこむと雄ネジが通らない。位置を合わせて調整する必要があった。
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修理完了。1,500円で雄ネジまで新品になった。そしてこの途方もない達成感はプライスレスである。少なくとも東京に住んでいるときは弓を自分で直す…否,それ以前にそもそも分解して調べてみるという発想がなかった。
生まれて60有余年暮らした渋谷から八ヶ岳西麓の信州原村に引っ越してわずか2ヵ月半,その間に生活におけるDIYの必然性がひしひしと感じられてきた。
しかも包丁を研ぐとか,パッキンを替えるとか,壊れた戸を取り付け直すとか,ドアクローザーの調整をするとか…そういうありきたりのDIYばかりではない。
例えば陶器の流しの欠けたところを油絵具で目立たなくする。
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あるときは剥げた軽自動車のルーフをペイントする。
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豪雨の後は水路の修復。
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落葉松の葉が大量に詰まって動かなくなった大梯子(はしご)を手入れして収納方法を工夫する。
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妻の菜園には鹿除(よ)けのテープを張る。
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比較的に自分で工夫する必要のあるクリエイティブなDIYが多い。
かつてまだジェンダーフリーではなかった昭和の高度成長期,ヒューズを交換できること,壁や戸を補修できること,それらに必要な道具と車やストーブを整備できること…それらは全(まった)き男の条件であった。電気が消えたり雨漏りがしたとき,それに対処できない者は男として失格であった。「女の家事」に拮抗(きっこう)し得る「男の仕事」が存在した。時には半田鏝(はんだごて)まで操作してヒューズを交換し,家に電気をもたらすことで男は一家でいちばん偉かったのである。
腰痛でものぐさで不器用なボクにも,絶対に必要とされる「男の仕事」が八ヶ岳山麓しらべ荘にはある。冬が来ればその仕事は生死にかかわるような場合があるかもしれない。少なくともヒューズには匹敵する。これは会社を閉じたことで逆転した妻とボクの地位を再逆転するチャンスである。