33/成瀬城と117クーペ
緊急事態宣言下の9月の連休,ボクと妻のドレミは義母の家に行って庭の草取りを手伝うことにした。
ゆっくり起きて10時半に家を出たところが,中央道も東名も数十キロの大渋滞になっていた。誰もが自粛生活に倦んでいる。だが電車やバスはまだ怖いとなると,快晴の休日の道路がこうなることは致し方ない。高速に接続する甲州街道も246もそれと交差する環七、環八も麻痺している。
交通情報を頼りに世田谷通りを選んだが考えることはみな同じだった。多摩川の橋が遠い。ボクのオーリスはMT車なのでだらだら渋滞はクラッチ操作がまことに辛い。屋根にクロスバイクを二台積んでいるボクたちの車は,たぶん大事な用で西行する車から後ろ指を差されていたことだろう。
結局,町田まで3時間半かかった。平均時速8.5km,自転車の方が速い計算になる。
義母に見送られてサイクリングに出かける。
成瀬城
ソメイヨシノの名所で春にはたいへんな人出となる恩田川沿いを東に進む。
最初の目的地はこの石垣の上。
地元では長く城山と呼ばれていた恩田川の段丘に,かつて成瀬城という城があった。恩田川と鎌倉街道を見下ろす立地から中世には重要軍事拠点であったことが想像される。1988年から地元有志によってなされるまで本格的調査は行われていなかった。
看板の説明にはないが,最近になって城主が中里某氏であったという説が有力となってきた。中里は義母の姓で便宜上だがドレミも仕事で中里を名乗っている。代々町田の豪農だったことはわかっているが,室町時代あたりでこの城の関係者が帰農したという可能性が無きにしも非ずと考えるのもまた愉し。
曲輪跡には井戸が復元されている。
北側の階段を恩田川まで下りてみた。ふだん腰痛のためにほとんど歩けないのに,史跡見物の目的があれば歩く気になる。
地形をうまく利用した石垣は恩田川の川面からみると7,8mはありそうだ。南側には三方に大規模な空堀が確認されているという。これはかなり強固な守備力を持った城だったろう。
そろそろ腰のカラータイマーが点滅を始めた。ウルトラマンの3分ほどではないがボクが直立していられるのは15分が限界である。それが自転車にまたがっていれば1時間でも平気なのは不思議だ。
最近はドレミの腰痛もとみに激しくなってきた。このときも一緒には下らずに城の上で待っていた。このあたり、史跡探訪への興味の差が如実に出ている。
アパート
城跡をあとに南下する。
二つ目の目的地はここ,わさび田公園という風情あるネーミングで親しまれている。町田から成瀬にかけては境川と恩田川の作る三角州にあたる。この地域がいかに清流にめぐまれた土地だったか想像に難くない。
この公園の向かい…
この場所に木造のアパートがあって2階の202号室に若き日のボクたちは住んでいた。
結婚二年目,ドレミはまだ二十歳の大学生だった。
ここから小金井にある大学までこの117クーペで通学していた。
ウルトラ貧乏だったが,ドレミの卒業を待って起業するつもりだったので夢だけはあふれていた。何もこわいものはなかった。
ボクはアルバイトし,休みには二人で117クーペに寝袋を積んで遠く旅をした。
あれから30年近くが経ったがわさび田公園は変わらない。
当時のボクは反核も教育改革も美術も勉強も起業もホントはどうでもよくて,ただただドレミとの暮らしに溺れていた。
今もそれは変わらないのかもしれない。
駅まで行ってみようとドレミが先に立って走り出したが,いかんせん彼女の記憶力では家の周辺と駅の近くしかわからない。おまけに当時はなかった新しい道路が道の途中を横切っている。先頭を交代してボクが駅まで先導した。
駅はすっかりモダンな作りになっていたが,30年前にアパートを探しにいった不動産屋がまだ変わらぬ場所にあった。
ちょうど住んでいた頃に新しくできたスーパーをドレミが見つけた。野菜が安いとかで大学生兼主婦だった彼女の行きつけだった。
高ヶ坂
成瀬から町田に戻る道はずっと上り坂となる。気温はますます高く真夏の暑さとなった。夕飯はフンパツして義母とスキヤキする予定だったがとても鍋を囲む陽気ではない。
「焼肉に変更する」
30年前も今も何かを決めるのはほぼボクの独断である。…が,決めたあとにそれを遂行していくのはドレミの意志の強さと原則性に依存している。その点,欠陥と言っていいほど原則性に欠けるボクは黙々と彼女の指揮下に入ることにしている。叱られることも少なくない。
専門店でキムチを買う。焼肉を思いついたのは住宅街にポツンとあるこの店にかねがね寄ってみたいと思っていたからだ。店主は済州島の出身で,予想通りキムチのクオリティは高かった。
成瀬街道まで戻ってきた。この交差点にはさらに遠い日の思い出がある。ここから北へ上った高ヶ坂団地に母方の伯父が住んでいた。おそらくボクが9才から15才くらいのときのこと。この場所は一面の田んぼだった。父の運転する車で年に二度ほど伯父の家を訪ねるとき,ここに近づくと弟とボクは母から窓外を注視することを命じられた。田んぼの中に唯一横浜銀行の広告の三角板が立っていて,それが当時はT字路だったこの交差点の唯一の目印だったのだ。
交差点からは激しい上り坂である。坂の中腹に高ヶ坂団地の入り口がある。曲がり角の様子は50数年前とほとんど変わっていない。
団地の中に入ってみた。戸建ての借家がこの辺りにあった。ボクと弟はいくらかのお小遣いをもらって,よくこの周りを散歩したものだった。団地の入り口でファンタを買って,それを飲みながらJRの駅まで往復するのが定番のコースだった。特に目的があったわけではない。当時の駅名は「原町田駅」,ボクの記憶が正しければ,駅前は砂利のロータリーでバス停と蕎麦屋があるだけの小さな駅だった。バラックを思わせるようなごみごみした商店街を抜けると小田急線の駅に出た。駅名は「新原町田駅」だった。
この時期はドレミが町田に住んでいた時期と重なる。案外ボクはファンタを飲みながら幼稚園生のドレミとすれ違っていたかもしれない。
坂の途中であっけなくドレミに抜かれた。あえぎあえぎ坂を登りきると顔が真っ赤になったまま引かなくなった。熱中症である。実家に帰ってドレミは草取りを始めたがボクは全く戦力にならなかった。
熱中症の特効薬はこの琥珀色の液体である。渋谷に帰る車の運転はドレミに任せることにして,秋の新物ヤリイカのキムチで琥珀色を飲った。スポーツ仕様のMT車でもドレミに運転の心配ない。ドレミはちょうど成瀬に住んでいる頃に免許を取った。そのとき初めて運転した車が5速DOHCの117クーペXEだったのだから。
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