大谷吉継ゆかりの地を訪ねる敦賀旅/前編
序
こうして車のルーフに自転車を載せて遠くまで出かけるのは去年の春以来のことだ。去年から今年にかけてボクたちの生活は大きく変化した。
中学校に就職したドレミの仕事がとにかく忙しい。朝は6時前に起きて出勤して行くのに帰りは21時、22時だ。唯一退勤時刻の早い木曜日にはオーケストラの練習があって帰宅はいつもより遅くなる。土日もどちらかは部活の指導で、残った方にはオケが入ることが多い。夜も休日も仕事を持ち帰ってPCに向かっているかバイオリンの練習をしているか。休めと言っても休まない。これではとうてい契約予定期間の2年間はもたない。
ここは強引に2日の休暇を取らせて物理的に遠くに連れていくしか休ませる方法がない。
ドレミが養老サービスエリアで
「お義母さんのお土産にどうかな。」
…と、信長に扮した柴犬の人形を見つけて買った。会心の笑顔を久々に見せた。これだけでも束の間の転地効果あり。旅の目的は達せられたと言える。
大谷吉継首塚
米原インターで高速を下りるつもりが、助手席のドレミが明日訪問予定の神社に電話しているのに気を取られているうちにうっかり行き過ぎてしまった。国宝の鐘の見学予約をさせていたのである。
おなじみ彦根インターで流出した。急ぐ旅ではない。国道8号で米原に戻ることにして、北に向かうとすぐ真正面に形のよい小山が見えて来る。
佐和山城跡である。
愛犬を連れて関ヶ原西軍の陣地を歩いたのはついこの間だと思っていたら、もう11年も前のことだった。もっともこの年になると去年から20年ほど前までのスパンで「ついこの間」である。
11年前のついこないだのときは石田三成のゆかりの地を追って、佐和山城から石田村へ旅をした。
今回は三成の盟友大谷吉継の史跡を訪ねて敦賀へ向かおうと思う。
ここは関ヶ原山中村の大谷吉継陣跡、正面に聳えるのが金吾中納言こと小早川秀秋軍1万6千が布陣した松尾山。吉継は秀秋の裏切りに備えるため、直属の兵600を率いてこの地に陣替えしたと伝わる。
司馬遼太郎は「関ヶ原」の中で「友情」という概念は「friendship」という英語とともに維新後に日本に入ってきたと書いている。それ以前の中世日本には,「義」「恩」「愛」というそれに近いものはあったが「友情」は存在しなかった。ただ唯一、大谷吉継が三成に寄せた厚情と行為は「友情」という語を持ってしか説明できないと。
吉継は敗戦を悟って自害する際、病に侵された首を晒されることを厭い、介錯した側近の湯浅隆貞(五助)に首を敵に渡さぬよう遺言する。隆貞は主君の首を従者の三浦喜太夫に埋めるよう命じた後、敵陣に吶喊した。だが、果たして藤堂軍が迫る中で喜太夫に穴を掘って埋めるだけのゆとりがあっただろうか。一説に依れば首は喜太夫から従軍僧であった吉継の甥祐玄に託された。祐玄は米原まで駆けたところで敦賀行きを断念して首を地中に埋めた。
それが今も米原に残る首塚である。
この場所はJR米原駅前から直線距離で300mほどしか離れていない。もっと市街地を予想していたが、このロケーションには驚かされた。近江はまこと旅のし甲斐のある土地である。
実はボクの家は高虎の代からの藤堂家臣の家系らしいので、もしかしたら先祖が首の探索隊に加わっていたかもしれない。まさか400年後の子孫が吉継ファンとして首塚を訪ねてくるとは思ってもいなかったことだろう。
友情に殉じた武将として吉継公の人気はとても高い。
袋の中は訪問名簿と筆記用具、白頭巾を被って横になっているのは「おおたににゃんぶ」というネコである。お堂も敷地も誰かの手によって掃除され、とても清潔に保たれている。
再び8号線に戻り北を目指す。
余呉町小谷八幡神社
8号沿線には去年サイクリングした国友村や姉川、小谷城をはじめ、長浜城、虎御前山、石田村、賤ケ岳…と、いずれ劣らぬ戦国史の舞台が集中している。
国道8号は余呉湖で西に折れ、北への道は国道365号線となる。それから間もなく、おそらく小谷城とは関係のない小谷という集落に入る。小谷(おだに)城に対して、こちらは小谷(おおたに)と発音する。
この村が大谷吉継の出生地とされる。生年についてこれまで三成より一つ年長の1559年とされてきたが、最近は1565(永禄8)年とする説が有力のようだ。すると5才も年下ということになる。ドラマや小説などでは三成に対して横柄な口を聞く演出が多かったが、さすがに5才下で相手は奉行となるとこれからはため口も厳しいかもしれない。
母親は東殿。北政所の生母朝日殿の縁者というから、北政所とも縁戚関係にあったと思われる。ウィキペディアの記述を読むと1586年には高台院に仕える上級女官の一人として記録があるようだ。吉継の出世には少なからず母親東殿の影響力もあったと思われる。
若き東殿と夫大谷吉房はなかなか子どもに恵まれず、八幡神社に祈願したところ夢枕に神が立ち、境内の松の実を食べるようにとのお告げがあった。その通りにしたところ吉継に恵まれ、幼名を慶松と名付けた。
その後、東殿が大阪城で北政所に仕えたということは、大谷吉房とは死別したのであろうと想像される。
境内を隈なく歩いて探したが松の木は見当たらなかった。ボクたちも子どもには恵まれなかったが、代わりに慈しんだゴールデンレトリバーとの思い出に満足している。子宝の松はそれを必要としている人にしか見えないのかもしれない。
柳ヶ瀬隧道
国道365号線は尚も真北に進むが、敦賀に向かっては福井、滋賀共用県道140号柳ヶ瀬線が西に分かれている。↓動画参照。
このトンネルが開通したのは1883(明治16)年、新橋からベルリンまで1枚の切符で行ける時代があった。
敦賀の中心街に入って驚いた。これほど豪華なシャッター街を見たことがない。総アーケードの美しく広い歩道には銀河鉄道999や宇宙戦艦ヤマトの少々残念なブロンズ像があちらこちらに建っていた。
松本零士さんはボクの知る限り敦賀と深い縁があるわけではない。単に「欧亜国際連絡列車」と「999」のイメージを重ねたものらしい。日曜の午後ということもあろうが、個人の商店は大部分シャッターが下りていて人通りも極端に少ない。まるで松本作品に出てくる機械人間の住む未来都市を見るようだ。
市の商店街振興策は完全に空振りしている。折からの北陸新幹線開通ブームで、かがやきに乗って訪れ、バスで赤レンガ倉庫と気比神宮にあるお土産屋さんを回るだけの外国人観光客たちはたぶんこの光景を目にすることはないだろう。
潤沢な資金の源は原発マネーである。
ビジネスホテルにチェックインする。
予算の都合で小さめのダブルベッド一台でいっぱいになってしまう部屋であるが旅慣れているボクたちには十分の広さである。
八幡神社
午後から急に降り出した激しい雨がやんだ。梅雨らしい雨ではなく南国のスコールのような天気だが、車を下りるとやんでくれる。今回のボクたちは天気にとても恵まれている。さっそく町に自転車を乗り出した。涼しくてサイクリングには最適な気温である。
市の施設の前に北村西望の大きなブロンズ像があった。
小谷の八幡神社とは関係がない。
ここには吉継が寄進した石灯篭と敦賀城に使われていた石が残っている。
サイクリングの様子は短い動画をどうぞご覧ください。↓
敦賀城跡碑
現在は市立敦賀西小学校。その前は県庁で江戸時代は奉行所だったらしい。
眞願寺
この付近が敦賀城の主要部だったと思われる。
礎石の跡
瓦
移築中門
気比の松原に近い松島町の来迎寺に敦賀城の中門が移築されて残っている。
空模様が俄かに悪くなって来たのでホテルへの道を急いだ。
ぎりぎり濡れずに間に合った。ボクたちはやっぱりついている。
「ととみそ」とか「へしこ」とか
駅前のホテルに宿を取ったのは他でもない。山に移住して以来、居酒屋に行く機会がとんとない。ホテルから徒歩30秒のところに盛況な店があった。
だが昨今のご多分に漏れず注文はタブレット端末をタッチして行う。地酒の辛味やおすすめメニューを店員に聞くのも旅の醍醐味であったが、その旅情もしだいに消えていく。
名物にうまいもの何とやらと言うが、福井名物らしき「ととみそ」と「へしこ」はけっこうイケる味だった。
大谷吉継ゆかりの地を訪ねる敦賀旅/後編に続く